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調査を依頼する出来事について

調査を依頼する出来事について

                                                                            原田宏樹

 

 

 これまで、僕は〝僕の人生について〟という文章で僕の人生について大まかに語ってきた。

 僕は、自身や自身の一族、それから山口市南部で起きた奇妙な出来事について、その文章の中でいくつも書いた。

 だが実を言えば、僕や僕の一族、それから山口市南部で起きた奇妙な出来事というのは、その文章に書いた以外にもたくさんあったのだ。

 僕は今から、その奇妙な出来事について、羅列書きの形で書き、それを残そうと考えている。

 ちなみに、奇妙な出来事が起きた具体的な日取りというのは、随分過去の出来事に対する記述も多いので流石にわからないこともある。その辺りは勘弁して貰いたい。

 それではこれより、調査を依頼する出来事についての記述を開始しようと思う。

 

 

1、僕が誕生する以前の話

・これは、僕の母方の家である原田家についての話である。

 僕の母方の曾祖父である原田坂一は第二次世界大戦において、部隊を率いて戦ったそうである。しかし、中国の支那山西省太原付近で撃たれて戦死したそうだ。

 それからこの原田坂一の妻である原田ちえは未亡人となり、かなり生活に苦労したようだ。

 僕の祖父である原田昭男は原田ちえと二人で戦後を生きたそうだ。

 そして、僕の祖父は第二次世界大戦後を困窮の中で生きる羽目になったそうだ。

 というのも、戦争で家族を失った者に対する恩赦というのはそれなりに手厚かったようなのだが、何故か僕の母方の家である原田家に対しては恩赦が一時的に打ち切られるという事があり、学校に対して支払う学費が足りなくなってしまうことがあったそうだ。

 そして、その結果として、祖父は結局、満足に学校教育を受けられなかったようである。

 また、この戦後の時期、この辺りの土地分与の話でも、この手の奇妙な話があったようだ。

 戦後にこの辺りの土地で持ち主がいなくなった土地などを、無料でこの辺りの住民に渡すという事があったらしい。

 その際に祖父は何故かその話を聞かされておらず、教師から後になってその話を聞かされて、土地を貰いに行ったらしい。

 そして、土地を貰いに行くのが遅れたせいで、あまり使い物にはならない山の土地を貰った事があるそうだ。

 なぜ僕の母方の家というのは恩赦を一時的に打ち切られたりしてしまったのだろうか。

 また、なぜ僕の祖父は土地分与の話を周囲の大人達から聞かされていなかったのだろうか。

 ちなみにここで、この原田という姓について記述をしておこうと思う。

 まず、この原田という姓を持つ氏族は北九州当たりに住む氏族と他の地域に住む原田とは恐らくは扱いが違うようだ。

 というのも、日本における北九州付近に分布した原田という氏族は、もともとはハルタという呼ばれ方をしていたようであり、この氏族は当時の中国、後漢からやってきた渡来系の氏族であるようだ。

 そして、ここからが重要なのだが、この原田という氏族は嵯峨天皇が編纂を命じた新撰姓氏録という目録に記載が無いのである。

 この新撰姓氏録においては渡来系の氏族についての記載はある。

 原田と同じく、後漢からやってきた渡来系の氏族についてもここには大量の記載がある。

 しかし、この原田という氏族についてはどうやらその当時の皇族にこの新撰姓氏録に記載されるのを認められなかったようなのである。

 つまりはこの原田という氏族はこの国において、皇家に認められなかった渡来系の氏族であると言えるだろう。

 またこの原田という姓の名称についても、一応ここで書いておく。

 まずこの原田という名称のうち原という漢字の末尾は小という漢字で終わっているようである。

 そして、この小という漢字は小さいという事を指し示す漢字である。

 この小さいという概念は、第二次世界大戦後にこの国を統治した体が大きくそのせいか大きな物を好むアメリカ合衆国に住む人間たちがあまり好きではないもののようである。

 次に、この原田という名称の末尾は田という漢字で終わっている。

 そして、この田という漢字は東南アジアや中国から伝来した作物の栽培地の名称を示しているようである。

 

 

・これは、第二次世界大戦時における広島県広島市への原子爆弾の投下についての話である。

 僕の父の一族は山本氏や浅野氏、それに毛利氏や渡辺氏といった、西日本の武家の一族であるようだ。

 そして、父の本来の生家はどうも元々は広島の原爆ドームのすぐ近くに建っていた武家屋敷だったそうだ。父の一族はその武家屋敷から第二次世界大戦時、戦争に積極的に参加し、戦死を9人程度出してしまっていたようだ。

 これはよく知られていることだが、第二次世界大戦の末期、広島県広島市には原子爆弾が投下された。

 そして、僕の父の一族は原子爆弾を撃ち込まれた結果として、家を失い、山口県にやってきたようだった。

 それから、父の一族は山口市を転々と移り住んでいき、最後には貧困状態に陥ったわけである。

 この事実というのは、僕や僕の周囲で起こった奇妙な出来事と何か関係があるのだろうか。

 ちなみにここで、父が子供の頃に名乗っていた山本という姓についての記述をしておこうと思う。

 まず、この山本という姓については皇家が認めた羽林家の家格の家柄が存在しているようである。

 ただし、父の氏族である山本家は現在の愛知県にその起源を持つ武家系統の山本家であるようであり、父の氏族である山本家は武田家の軍師を務めた山本勘助の子孫のようである。

 だから、父の氏族が、この皇家が認めた羽林家の家格の山本となにがしかの関係があるかというのは不明である。

 次にこの山本という姓の名称について書いておこうと思う。

 この山本という名称は山の麓という意味を持っているようである。

 そして、山の麓というのは一般的には標高が低い土地の事を示しているようである。

 

 

・これは、山口県山口市江崎2805-1という土地についての話である。

 僕の実家というのはこの住所に家を構えているのだが、この家の周辺に住んでいた氏族達はいずれもかなり奇妙な事をしていたようだった。

 例えば、僕の家の西側に家を構えている伊藤さんは、自分の家の敷地面積を増やす為に、この辺りの地域の小学生の通学路を潰してしまったそうだ。

 また僕の家の北側に家を構えている小松さんは、公道の上に樹を植えて自分の家の敷地範囲を増やしてしまっているそうだ。

 植えている樹自体はきっちり剪定をしているそうだが、結果として、僕の家に隣接する小道がそれでずいぶん狭くなってしまっているようだ。

 また、僕の実家のすぐ西側に位置する徳永さんは道路を完全に取り込む形で住居を作ってしまっているそうだ。

 それから、僕の家の南側に位置する田中さんも自分の敷地をはみ出す形で塀を建ててしまい、道路の範囲を削ってしまったようだ。

 そして、僕の家の東側には畑がある。この畑を持っていたのは磯山さんというお家である。

 僕の実家の土地というのは、元々はもっと小さいものだったらしい。

 それで、戦後の昭和30年ごろ、土地と道路を買って、土地を増やしたらしいのだが、その際に、この家の東側の磯山さんの畑の脇に電柱が建ったらしい。

 そして、その電柱から延びる電線は祖父の敷地内を通るようになってしまったそうだ。

 ちなみに、この電線の下には昔、農具小屋が設置されていた。

 電線が風などで切れれば、火災などが発生する恐れがあるのにも関わらず、である。

 これらの出来事についてまとめると、僕の家の全ての方向の住民は、わざとではないかもしれないが、結果的に僕の母方の家である原田の家に対して圧迫するようなことをやってしまっていたようである。これは一体、なんなのだろうか。

 ちなみに、この伊藤という姓は、藤原秀郷という天皇に近い位置にある東日本の武家の起源を持っているようだ。

 次に徳永という姓についても、藤原秀郷という天皇に近い位置にある東日本の武家の起源を持っている可能性があるようだ。

 次に田中という姓については新撰姓氏録という嵯峨天皇が編纂を命じた新撰姓氏録に近い姓の記載がある姓であるようだ。

 この田中という姓は皇別氏族にその記載があるのである。

 このことから、どうやら田中という氏族は、天皇に近しい氏族であるようだ。

 では、小松という姓についてはどうかと言えば、どうやら過去に後小松天皇という皇族が存在したようである。

 つまりは、この小松という姓は天皇と同じ名称をしているということになるのだ。

 最後に磯山という姓はどうかと言えば、これは標高の高い地域を指し示す山という漢字が末尾についてしまっているようだ。

 

・これは僕の父である原田克己についての話である。

 僕の父である原田克己が三歳の頃、まるで訓練されたような賢いシェパードが家に迷い込んできて、父の家でその犬を飼ったことがあるらしい。

 父はその異様に賢いシェパードを気に入って、一緒に遊んだりしていたそうだ。

 しかし、その犬は父の目の前で死んでしまったそうだ。

 というのも、父の父、つまり僕の父方の祖父が列車に乗って駅に到着する際に、このシェパードは祖父を迎えに行き、それで線路上で列車にはねられて死んでしまったらしい。

 それ以来、父は犬を飼う気はしなくなったそうだ。

 ちなみにシェパードという犬はドイツ原産の犬種である。

 

 

・父は子供のころ、新聞配達のアルバイトをしていたそうだ。

 ただ、父から聞いた所によれば父の父、つまり僕の祖父はその当時はまだ表具屋をやっており、そこそこはお金を持っていたらしい。

 また、父の親族には関西汽船の取締役をやっていた人や、名古屋大学医学部の教授をやっていた人などもいたらしい。

 つまり、父の家は昔、そこそこお金があった可能性が高いのだ。

 それなのに何故、父は新聞配達のアルバイトをしていたのだろうか。

 ちなみにアルバイトというのは英語の概念である。

 

 

・これは僕の母方の祖母である原田千恵子の生家、青木家についての話である。

 僕の母方の祖母である原田ちえの生家、青木家は阿知須の辺りで不動産事業を展開していたようだ。僕の大叔父は頭が相当に良かったらしくかなりその事業は上手く行っていたようだ。

 しかし、この青木家にはどうも奇妙なところがあった。

 というのも、この青木の大叔父の娘さんは子供の頃に森永製の粉ミルクを飲んだせいでヒ素中毒になり脳性麻痺になってしまっていたのだ。

 この出来事については森永ヒ素粉乳中毒事件という名称で明確に記録に残っているので、ほとんど間違いのない事実であると思う。

 そして、結局のところ、この青木家はこの事案が発生したせいで一族の跡継ぎが出来なかったようだ。

 ちなみにこの青木家はその後、河村という家から養子を迎えたようだ。

 

 

・これは僕の父である原田克己の子供の頃の話である。

 子供のころの小学校では、お昼休みに外でスポーツなどをして運動をすることが多かったらしい。

 そして、ここからが驚くべきことなのだが、その昼休み後に教室で授業が始まると、コックリコックリとして眠ってしまう生徒が出てきていたそうだ。

 僕はこのことを父から聞いて驚いてしまった。というのも僕が小学校のときにも似たようなことがあったのだが、別に授業中に眠ってしまう生徒などいなかったからである。

 僕はこの話を聞いて、この山口市の南部では昔は夜にまともに眠れなかったのだろうかと思ってしまった。

 そもそも、慢性的な睡眠不足にでもなっていない限り、小学生が授業中に眠ってしまうなどという事は起こりえないはずだからだ。

 

 

・これは僕の父である原田克己の子供の頃の話である。

 僕の父は後年、僕に対して「女の子はみんなズルい。女の子はとにかく人を攻撃をする。父さんも子供の頃から女の子に物凄いたくさん攻撃をされていた」と語っていた。

 

・これは僕の母である原田和恵についての話である。

 僕の母はピアノが得意である。これは子供のころからピアノを教室で習っていたからだそうだ。

 僕は母方の祖母に対して、「なぜ、僕の母はピアノをやったの?」と聞いたことがある。

 すると祖母は昔おもちゃのピアノを幼少時に母が弾いていて、それがとても上手かったので「これだ」と思い立ち母にピアノをやらせることにしたということを僕に語ってくれた。

 しかし、今になって考えてみると、そもそも僕の母の生家の周辺状況を顧みた場合、この祖母の選択は誤りだったとしか僕には思えない。

 そもそも、山口県山口市江崎2805-1にあった母の生家は、とてもピアノの習熟に向いた土地だとは思えないからだ。

 というのも、この住所は南側と東側に国道二号線という大きな道路が通っており、そこにはひっきりなしに大型トラックが行きかい、酷い騒音を出してしまっている。

 さらにこの住所の西側には山陽本線が通っており、その上を定期的に列車が通過することになっている。

 僕は、音楽の習熟には静かな環境が必要不可欠だと考える。

 このような騒音が非常に多い土地で音楽を本気で習熟するというのは、まさに最低の選択ともいえると僕は思う。そして、そのことは恐らくは母の両親もすぐにわかったはずだ。

 それなのに、なぜ祖母はピアノを母に勧めようと思ったのだろうか。

 ちなみに、ピアノはヨーロッパ起源の文化である。

 

 

・これは僕の母である原田和恵についての話である。

 僕の母は、宇部市鋳銭司でピアノ教室を開いていた荻野という女流ピアニストの先生に弟子入りしてピアノを教わったらしい。

 しかし、僕はこの弟子入りに関して、祖母から奇妙な話を聞いている。

 祖母曰く、このピアノこの先生に母を弟子入りさせる際、祖父母は何度もこの先生に頭を下げに行ったそうである。

 そもそもこの当時としては、百姓の娘がピアノをやるというのは珍しいことであり、弟子入りを先生に何度か断られたそうなのだ。

 そして後年、2019年5月20日に母はこの弟子入りに関してこう供述していた。

 「高校時代は荻野先生に叱られてばかりだったな。それしか覚えてないくらい」と。

 僕はなんとなくこの辺りの出来事を振り返ってみて、「ピアノの先生に弟子入りをしてピアノをやることに対して、僕の母の一族は酷いストレスをかけられてたんだな」と感じてしまった。

 ちなみにこの荻野という先生は後年、東京の多摩川沿いのマンションに住み始めた。

 ひょっとすると、この先生の一族は元は東京辺りの氏族だったのだろうか。

 

 

・これは僕の父である原田克己についての話である。

 僕の父はとても絵が上手かった。

 そして、父は昔、僕にこう語ったことがある。

 「父さんは中学生くらいの頃、本当に絵が上手かったんだよ。そのときはデッサンを親父にやらされていてさ」と。

 ただその際、僕は父から絵についての話を聞いていて、奇妙な事を聞いたので、それについて書いておく。

 昔、父が中学校のときに描いた絵が内閣総理大臣賞かなにか取るとかそういう話になったらしい。

 それで、父の描いた絵が美術の教科書に載るかもしれないという所まで話が展開したそうだ。

 ただ、最終的にはその話は無くなってしまい、結局、父の絵は美術の教科書には載らなかったそうだ。

 この話は一体なんだったのだろうか。

 

 

・これは僕の父である原田克己についての話である。

 僕の父は山口高校時代、その試験の成績はトップクラスだったそうだ。

 しかし、父は、高校三年生時の受験の際、岡山大学を受験したようだ。

 僕が思うに、山口高校の成績上位者であるならば、東京大学京都大学を受験してもおかしくはないと思うのだが、なぜ父は岡山大学を受験したのだろうか。

 さらに、僕は父が岡山大学を受験した際の話を聞いたことがあるのだが、その話というのが相当に奇妙な話だった。

 父は「最初の何教科か受けて受かったと思ったので、最後の教科を受けなかった。そしたら落ちていた」と語っていたのだ。

 これは一体何だったのだろうか。

 ちなみに僕の父はその後、一浪してから山口大学教育学部に入学したようである。

 

 

・これは僕の父である原田克己についての話である。

 僕の父は山口高校に通っていたらしいのだが、父はどうも奇妙な習慣を持っていたようだ。

 というのも、父の家は山口県山口市江崎にあり、山口高校まで行くには電車に45分程度乗らないといけないわけだが、その電車に乗る時刻というのがどうもおかしかったようだ。

 父は朝は誰も乗客がいないような朝早い時間帯に電車に乗り学校に行き、帰りも同じく誰も乗客がいないような夜遅い時間帯に電車に乗り学校から帰っていたそうだ。

 つまり、父は非常に朝早い時間から通学して非常に夜遅い時間に下校していたようだった。

 僕からすると、それだと睡眠時間が相当に短くなるような気がしたのだが、何故父はそんなことをしていたのだろうか。

 また、父は電車に乗りながら毎日の学校での勉強内容を脳内で反芻するのが癖だったらしい。

 父はその際に電車の中で教科書を広げるのは不味いので、教科書は見もしなかったそうだ。

 僕はその話を聞いて「電車の中にほとんど乗客がいないのなら教科書を広げても問題ないだろう」と思ってしまった。

 なぜ、父はこんなことをしていたのだろうか。

 

 

・これは僕の父である原田克己についての話である。

 僕の父は山口高校に通っていたらしいのだが、父は驚くべきことに山口高校の三年次はまともに学校に行っていなかったらしい。

 そして、そんなことをしていた理由について父が語るには「三年になると、もうほとんど高校側は勉強を教える事柄自体がなくなるんだ」ということだった。

 僕は父がしていた、この〝学校に一定期間あえて行かない〟という所作について、奇妙な印象を抱いてしまった。

 この国ではときおり、学校に通う不良などが学校に通わなくなるという展開がしばしば見受けられていた。

 僕はその展開が何か意図して作られてしまっていたように今では思うのだ。

 何か僕はこの国では、〝家柄に応じた学習しかやらせてもらえない〟ということになっていたようにどうしても思ってしまうのだ。

 そして僕の父は家柄に設定された〝これ以上は学習をしてはいけない〟というラインを守る為に、あえて三年次に学校に通わなかったように僕には思えてしまうのだ。

 

 

・これは僕の父である原田克己の兄である山本潔隆についての話である。

 僕の叔父である清隆さんは高校を卒業してから大学に進学をせず、就職をして働き始めたらしい。

 そして、その働いていた先の工事現場で、ブルドーザーか何かの機械装置の不具合によって、目を負傷する羽目になってしまったそうだ。

 それから、その結果として叔父さんは視力が著しく下がり、まともに働くことも出来なくなってしまったそうだ。

 

 

・これは僕の父である原田克己についての姉の話である。

 僕の父の姉、つまりは叔母はマツダ自動車で事務職をしていたそうだ。

 しかし、叔母の夫は借金を作った挙句に死んでしまい、叔母は相当にその夫が残した借金に苦しんだそうだ。

 そして僕の叔母は最後には障害を負ってしまったそうなのだが、その際にマツダ自動車から障害年金もろくに出しては貰えなかったそうだ。

 そのせいで僕の叔母は、散々に苦しんだ挙句、死んでしまったそうだ。

 

 

 

 

・これは僕の父である原田克己についての話である。

 父はどうも、車に関しては色々と奇妙な出来事に遭遇していたようである。

 例えば父は昔、車に最初に乗り始めた際、中古車に乗っていたらしい。

 しかし、その車というのはちまきやの店員が運転する車から追突事故を受けたそうである。

 ちなみに、その辺りに父が乗っていた車の写真というのが僕の家のアルバムの中に収められているのだが、その写真の中の車の様子は非常に奇妙なものだった。

 というのも、その写真に写っていた父の車の背部は、他の車から追突されたような傷でいっぱいだったのだ。

 これはいったい何だったのだろうか。

 僕の父は、実を言うと大学時代から左翼系の学生運動をしていた時期があったそうだ。

 そのことがこの出来事と何か関係でもしていたのだろうか。

 

 

・これは僕の父である原田克己についての話である。

 僕の父はマツダ社の車を購入したことがあるらしい。

 しかし、そのマツダ社の車は買ったばかりの新車だったのに天井から雨漏りが発生してしまったそうだ。

 これはいったい何だったのだろうか。

 ちなみにマツダ社は広島県に本社がある西日本の会社である。

 

 

・これは僕の父である原田克己についての話である。

 僕の父は、若いころ歯医者に虫歯の治療に行き、そこで麻酔も効かない状態で虫歯の治療をされてしまい、治療のあまりの痛みから失神をしてしまったことがあるそうだ。

 そして、それ以来、父は歯医者に行かなくなり、歯が虫歯だらけになってしまったようである。

 僕は歯医者で治療をされている最中に痛みで失神してしまうという話は、これまでにそんなに聞いた事もない。

 父の若いころの時代というのは、こういった杜撰な治療が普通だったのだろうか。

 

 

・これは僕の父方の山本家と母方の原田家の確執についての話である。

 僕の父の家と母の家は一見物凄く仲が悪かったようである。

 特に父の母は僕の母を「家柄が悪い」と、結構いびっていたようだった。

 僕の母は父の母に対して、とても複雑な感情を持っていたようで、僕からすると何か怯えているようにも懐いているようにも見えた。

 結局のところ、結婚した当初、僕の父と母はほとんど駆け落ちをするようにして、住所を転々としたようなのだが、これは一体なんだったのだろうか。

 後になって考えてみると、このことはどうも〝仲が悪いようにあえて周囲に見せている〟という風にも僕には見えたのだ。

 ちなみに、僕の母の家は先祖代々山口県の氏族であり、僕の父の家も大まかには西日本に拠点を持った氏族であるようだった。

 

 

・これは僕の母である原田和恵の親戚についての話である。

 僕の母方の親戚には金子という家がある。

 その金子の家には金子正己という人がいるらしいのだが、この人に関する話が少し奇妙だったのだ。

 この金子正己という人は大学は山口大学の経済学部に通っていたらしい。

 そして、金子正己さんはその経済学部で一番の成績だったそうである。

 ただ、僕の母が言うにはこの金子正己さんは家のお金がそこまでなかったので、地元である山口大学に通うことになったということであった。

 そして、この人は山口大学卒業後、証券会社に勤め始めたらしい。

 しかし、この金子の家のお母さんが病気になってしまい、そのお母さんの介護の為に金子正己さんは証券会社から生命保険会社に転職したという話である。

 僕はこの話を聞いて、「全然関係ない職種に転職をしたんだな」と少しだけ驚いてしまった。

 

 

・これは僕の母である原田和恵の親戚である金子正己についての話である。

 僕の母の親戚である金子正己さんはShain株式会社という山口県山陽小野田市にある会社に勤めており、僕に対して保険を紹介してくれたことがある。

 その保険の紹介の際に、金子正己さんはipadを使用したのだが、その使用する様子というのは非常に奇妙な感じだった。

 というのも、金子正己さんはipadを操作する手がいつも震えていたのである。

 また、このipadのネット回線が接続不良を連発しているのも非常に奇妙に僕には感じられた。

 これは一体なんだったのだろうか。

 ちなみに、この山口県山陽小野田市は西日本の瀬戸内海沿岸地域にあり、ipadを生産しているapple社はアメリカ西海岸に拠点を持つ会社である。

 さらに言えばapple社の創業者の一人であるスティーブ=ジョブスはイスラム系の人種であるようだ。

 

 

・これは山口県教育機関におけるデスクトップPCの普及に関する話である。

 僕の父によると、山口県教育機関は教育用のPCとして最初はapple社のMacintoshを導入していたそうだ。

 しかし、そのmacintoshはいざ使用をしてみると、なぜか爆発していったらしい。

 そして、その結果として山口県教育機関はウィンドウズマシンを使う羽目になったそうだ。

 ちなみに、この山口県は西日本の瀬戸内海沿岸地域にあり、macintoshを生産していたapple社はアメリカ西海岸に拠点を持つ会社である。

 さらに言えばapple社の創業者の一人であるスティーブ=ジョブスはイスラム系の人種であるようだ。

 

 

 

 

2、保育園時代

・これは僕の母方の祖父である原田昭男についての話である。

 僕の祖父はちょっと変わった所があった。

 僕の祖父は成年向けのポルノ誌が物凄い好きで、そういった本をいつもよく読んでいたのだ。

 しかも、祖父は不味い事にそのポルノ誌を僕や僕の兄に対して読ませてもいた。

 僕がそういった本を初めて読んだのは2歳くらいの頃だったと思う。

 僕はそのポルノ誌の内容がとても気になり、まだ足元もおぼつかないのにトイレで用を足しながら、そのポルノ誌を読んだ記憶があるのだ。

 そして、その異常な事態に気が付いた僕の祖母と母が祖父に対して文句を言ったことがある。

 しかし、祖父はその文句に対して「どうせ将来、こいつらもこういう本を読むことになるんだよ」と鼻で笑って返していた。

 僕はこの祖父の行動というのは、かなりおかしかったのではないかと考えている。

 というのも、祖父はそういった本を酷く幼い子供に読ませることの有害性がわからないほど、頭が悪くはなかったように僕には思えるからだ。

 これはいったい何だったのだろうか。

 何か僕にはこの出来事というのが、この原田の家の家格に設定された行動規範というのを祖父があえて守っていたようにも思えてしまうのだが。

 

 

・これは僕の母方の祖母である原田千恵子についての話である。

 僕の祖母にはとても変わった癖があった。

 僕の祖母は僕の祖父と会話をすると、決まって会話の末尾を「よいよ好かん」という言葉で締めるのである。

 この「よいよ好かん」というのは山口県固有の方言であり、これを標準語に直すと「本当に嫌い」という意味となる。

 なぜ祖母はこんなことを自身の夫にいつも言っていたのだろうか。

 

 

・これは僕の母方の祖母である原田千恵子についての話である。

 僕の祖母にはとても変わった所があった。

 僕の祖母はとにかく、作る料理が不味かったのだ。

 また、祖父母の家の食卓では食器なども常に不潔な状態にあり、僕は祖母の料理を食べることに対して強烈なストレスを感じてしまっていたのである。

 ただ不思議な事に、僕の祖母が料理が下手だったかと言えば、そういうわけでもなかったようだ。

 僕の祖母は正月になると、鯛の潮汁という料理をよく作った。

 これは鯛のぶつ切りが入った澄まし汁のようなものなのだが、祖母はこういった料理は酷く上手く作れたのである。

 これはいったい何だったのだろうか。

 後になってこのことを振り返ってみると、僕には何か〝祖母は普段、不味い料理を作ることでストレス量を守った見返りとして、正月に上手い料理を作ることが出来ていた〟という風に見えるのだ。

 また、その正月に料理を出す際に、祖母は非常に不可解な所作を取ってもいた。

 正月に祖母が料理を出す際には、祖母は家族と一緒に料理を食べないのだ。

 祖母が正月にみんなと一緒に料理を食べるのは宴もたけなわになってからだったのだ。

 これはいったい何だったのだろうか。

 

 

・これは僕の母方の家である原田の生家の周囲の土地に関する話である。

 僕の母方の祖父母の家の周囲には奇妙な所があった。

 というのも、僕の母方の祖父母の家の東側には畑があるのだが、僕の子供のころ、その畑では麦を育てていたのである。

 僕はこのことについてはかなり珍しいことだと考えている。

 というのも、僕はこの辺りの土地で麦が育てられているのを見たことがないからだ。

 僕は子供のころ、この麦畑を見ながら育ったのだが、何かそれが非常に奇妙な体験をしたと感じている。

 

 

・これは僕の父方の家である山本家の祖母についての話である。

 この出来事については僕にはその記憶がない。だからこれは僕の母から聞いた話である。

 僕は物心も付いていないくらい幼い頃、山本家の祖母にお菓子を餌に誘拐された事があるらしい。

 ただし、この事については、そもそもやったのが僕の祖母であるので、誘拐ということになってしまっていること自体が非常に奇妙なのである。

 後になって、母がこの件について語った所によれば、「このときは、了解も無しに子供が連れて行かれたので、誘拐だという騒ぎになってしまった」ということだった。

 結局これは何だったのだろうか。

 

 

・これは僕の母である原田和恵についての話である。

 僕の母は32歳の時に本田のシビックに乗車していたそうなのだが、この車に乗り始めて一年ほど経った際、事故にあったことがあるそうだ。

 母はこの車に乗っているとき、冬の雪が強い日に大型トラックに追突事故をされてしまったらしいのだ。

 その事故では車は大きく破損したものの、幸いにも母に怪我などは無かったらしい。

 しかし、この交通事故に関しては最終的には、冬場にノーマルタイヤを付けていた母の車が悪いということになってしまったそうである。

 僕はこの話を聞いていて、非常に奇妙に感じてしまった。

 僕からすると、そもそも追突をしてきた大型トラックが一方的に悪い気がしたのだが、なぜ母が悪いということになってしまったのだろうか。

 ちなみにここで、母の車による交通事故に関して記述しておくことがある。

 母は車両保険に入っていたのだが、その保険は夫婦共同という形だったらしい。

 だから、母がこのように車で事故を起こすたびに父の車の保険料金も上がっていく羽目になっていっていたそうだ。

 そして、僕が見たところ、そのせいで両親の夫婦関係は悪化していたようでもあった。

 

 

・これは僕が嘉川保育園に通っていた時の話である。

 僕は保育園に入りたての3歳くらいのときに、嵯峨健司という同級生と喧嘩をしたことをよく覚えている。

 確かそのときは、嵯峨が嘘を付いて騙してきたのを僕が怒ったのだと僕は記憶している。

 そして僕たちは嘉川保育園の南西側にあったトンネルで殴り合いの喧嘩をしたのだ。

 その際に、嵯峨はトンネルの中で僕の目に砂を投げ付けてきたのを僕はよく覚えている。

 一応ここで書いておくと、この嵯峨健司の家というのは宝くじか何かに当選し、そのお金で裏岡屋に家を新築していたようだ。

 ちなみに、嵯峨という姓に関して書いておくと、日本の歴史には嵯峨天皇という名称の皇族がいたようだ。

 

 

・これは僕がまだ子供のころの上渡りの家の話である。

 僕の両親が上渡りに建てていた家ではチロという名前の犬を飼っていた。

 この犬は雌犬であったのだが、なぜかその当時は避妊手術もしていなかったらしく、チロは年がら年中、妊娠をしまっていた。

 僕はこの当時、父が「またこの犬、妊娠したのか?」とよく驚いていたのを憶えているのだ。

 父は、このチロが子犬をたくさん産むたびに、その子犬達を引き取ってくれる人を探しに車でそこら中を走り回る羽目になっていたのである。

 最終的にこのチロという犬は夏場に出産が重なってしまい、夏場の高い気温で体力が奪われてしまったせいで出産時に死んでしまった。

 僕がここで気になるのは、なぜチロはあんなにいつも妊娠をしていたのかということである。 というのも、僕達家族が当時住んでいた上渡りの家は典型的な団地であり、その周囲にはそこまで野犬が多くなかったと僕は記憶しているのだ。

 また、僕はなぜこの当時、父がチロの避妊手術をしなかったのか、ということはちょっと気になってしまっている。

 

 

・これは僕の祖母である原田千恵子についての話である。

 僕が保育園の年長組、年齢にして4歳から5歳くらいのとき、母方の原田の家に預けられながら嘉川保育園に通っていた。

 そして、僕がいつも通り、保育園が終わり原田の家に帰ってきて、テレビをコタツに入りながら見ていると、突然家の北側の通路から祖母の「ヒェエエエエェエエ!!」という悲鳴が聞こえてきた。

 僕が「何だ?」と思って、家の北側の通路に行ってみると、祖母が通路に腰を抜かしてへたり込んでいた。

 僕は祖母が通路に腰を抜かしてへたり込んでいるのを初めて見たので、相当にびっくりした。

 「どうしたの! 婆ちゃん!」そう僕が聞いてみると、祖母は「タヌキ、タヌキが天井から落ちてきた!」などと言い出して、北側通路の風呂の方を指さした。

 僕がそちらを見てみると、風呂場の前にちっちゃな黒い犬のようなものが少しだけ見えたかと思うと、その生き物はささっとどこかに走って行った。

 僕は子供だったからだろう。そのタヌキを相当に可愛いと思ってしまったのだ。

 そしてだからこそ、この出来事はかなり奇妙に感じてしまった。

 というのも、僕の母方の祖母というのは、例えばゴキブリを見ても「アブラムシじゃ」と言いながら手で叩き潰していたのである。

 なぜ祖母はタヌキで家に出た程度のことで、こんなにひどく怯えていたのだろうか。

 ちなみに、東日本において江戸幕府を作った徳川家康はたぬきおやじと揶揄されることが多いようである。

 

・これは僕が嘉川保育園に通っていた時の話である。

 僕は子供のころ、運動が結構得意であり、かけっこがまぁまぁ早かった。

 しかし、嘉川保育園に通っているときに、とても奇妙な出来事に遭遇したのだ。

 それは、嘉川保育園の帰りの集会の際の、整列をしているときの話である。

 僕たち幼稚園児が列を作ろうとざわざわしているときに、まったく面識のない一学年か二学年下の男の子が僕に対して突然話しかけてきたのだ。

 その保育園の年少の男の子は「足早いんだって? 僕と競争しようよ」といきなり言ってきたのである。

 結局、僕はその場でその年少の男の子とかけっとで競争するはめになった。

 そして、僕は皆の前で、そのかけっこに僅差で負けてしまった。

 僕は、それ以来、運動するのが嫌いになっていったような気がしているのだ。

 ちなみに、僕はなんとなくだが、その年少の男の子の姓を憶えている。

 その男の子の姓は確か、森というものだったと僕は記憶している。

 

 

・これは僕が嘉川保育園に通っていた時の話である。

 僕が通った嘉川保育園には奇妙な遊具が存在した。

 そこまで記憶は定かではないのだが、この保育園にはそれで遊ぶことで明らかに危険を伴ってしまう遊具が存在したのである。

 その遊具は南側の木造校舎の西側の脇辺りに存在していた。

 それは大きな一本の丸太を横たえて、その両端を上から紐で吊り下げているだけの遊具であった。そして、その丸太の両端の先には、大きな丸太が地面に打ち立てられていたのだ。

 その遊具というものは、その紐で吊り下げられている丸太の両端に保育園児複数人が乗って、紐を持った状態で乗っている皆で腰を振ることで吊り下げられている丸太を動かすのだ。

 すると、その吊り下げられた丸太は動き、その丸太の前に打ち立てられている大きな丸太に対して、まるで鐘を木で打つように打ち付けることになっていた。

 いまにして思うと、この遊具は年端もいかない幼児複数人が遊ぶには危険すぎる遊具である。

 この遊具は丸太同士の接触により下手をすれば死亡事故が発生する可能性がごく普通に存在していたからだ。

 そして、この遊具を使用して遊んだ場合には大きな音と強い衝撃が発生することから、多大なストレスが幼児達に襲いかかるわけだ。

 しかも不味いのが、その遊具で遊んでいる園児達の股間が丸太によっていつも摩擦されているのである。これは非常に問題がある仕様であったと言わざるを得ない。

 言うまでも無いが、年齢によらず、人間という生き物は強いストレスがかかると繁殖欲を刺激されて性欲が強くなってしまうのだ。

 例えば強烈なストレスがかかったときに、股間部分に刺激を与えられると、例えばそれが保育園児という凄まじく性的に未熟な段階でも性について目覚めてしまうという異常事態が発生する可能性があるわけだ。

 僕はこの遊具に関して、女子が使用をするのを嫌がっていたのをよく憶えている。

 そして、僕が憶えている限りでは、このような丸太を使用した遊具がこの嘉川保育園には二つもあった。

 この丸太で作られた遊具は皆で遊ぶようの遊具と、一人で遊ぶようの遊具の二種類のものが用意されていたと僕は記憶しているのだ。

 この遊具については、僕が保育園年長組の時、保育園側が〝さすがに危険だから遊具を撤去しよう〟という話をしだし、実際に撤去されたと僕は記憶している。

 それにしても、なぜここまで危険な遊具がこの嘉川保育園には設置されていたのだろうか。

 実を言えば、この嘉川保育園というのは正法寺という浄土真宗系の寺院の附属施設であり、この保育園には社会福祉法人 百華児童苑という別の名称もあるようであった。

 この事が何かこの危険な遊具が設置されていたことと何か関係でもあったのだろうか。

 

 

・これは僕が通っていた嘉川保育園についての話である。

 僕が通っていた嘉川保育園の西側には大きなクヌギの樹が立っていた。

 そして、そのクヌギの樹はいつも樹液を垂らしており、その樹液にはよく巨大なスズメバチが群れ集っていた。

 僕はよく保育園に置いてある虫取り網を使ってはその巨大なスズメバチを捕まえて殺していた。

 保母さんたちはそのスズメバチを放置しており、僕はそれを危険だと思っていたからだ。

 僕はこのことを振り返って思うのだが、なぜ保母さん達はこのスズメバチについて放置をしていたのだろうか。

 危なくてスズメバチをとても駆除できないということであれば、最初からクヌギの樹を植えなければいいと思うのだが、なぜこの保育園はクヌギの樹を庭に植えていたのだおるか。

 

 

・これは僕が通っていた嘉川保育園についての話である。

 この嘉川保育園にはなかなか豪胆な性格の保母さんが多かったようだ。

 その例の一つとして、田中公貴という僕の幼馴染みが虫歯になってしまったときの事が挙げられるだろう。

 この嘉川保育園の歯磨きの時間において、僕の幼馴染である田中がアリヒサという音の姓をした保母さんに対して、「虫歯が出来た」と告げたことがある。

 すると、そのアリヒサという姓をした保母さんはおもむろに田中公貴の口の中に手を突っ込んで、突然虫歯となった乳歯を引っこ抜いてしまったのだ。

 田中はいきなりそれをやられて絶叫をあげた後、泣いてしまっていた。

 そして、そのアリヒサという音の姓をした保母さんは僕たちにこう宣言したのだ。

 「皆さん、虫歯になったら私がその歯を引き抜きますからね」と。

 

 

・これは僕の兄である原田和樹についての話である。

  その出来事が起きた明確な時期というのを僕は憶えてもいないのだが、僕はこの幼稚園時代、奇妙な事を体験している。

 僕の父と僕の兄が海水浴に行った折、僕の兄が牡蠣の殻で足をズタズタに切られて家に帰って来たことがあるのだ。

 その際に僕の父は「牡蠣の殻で足を切ったのぃや」と山口弁で言っていた。

 そして、奇妙な事に、僕の父はその後も相当な回数、そのことを連呼していたのだ。

 これは一体何だったのだろうか。

 後になって僕はこの事を振り返ってみると、僕は用心深い僕の父が牡蠣の殻が転がっている海に子供を入れているのはちょっとおかしいと思うのだ。

 僕にはなんだか、僕の父が「ほら、海に行ったらストレスがかけられただろ」という事を強調していたようにも思えてしまうのだ。

 

・これは僕についての話である。

 実は僕は本来は受けるべきなのに、受けてない予防接種が二つほどある。

 それは破傷風日本脳炎の予防接種である。

 そのうちの日本脳炎の予防接種について、ここでは語ろうと思う。

 僕の母方の祖父は僕が保育園に通っている時代から畑の西側で椎茸の栽培をやっていた。

 その椎茸の栽培とは腐葉土の上に椎茸の種駒を植えた原木を並べて横たえるというものだった。

 そして、ここからが面白いのだが、この栽培方法をしていると、その原木の下の腐葉土にカブトムシがたくさん卵を植え付けに来るのである。

 僕はその腐葉土で育つカブトムシをよく捕まえに行っていた。

 ただ、ここで問題だったのは、この腐葉土というのは水分も多く含む為か、蚊も大発生してしまうことだった。

 僕はカブトムシを捕まえに行く際に、蚊に大量に血を吸われていたのだ。

 僕はその後、自身の両親から僕が日本脳炎の予防接種を受けていないことを聞かされた。

 また、その際に僕の両親は「蚊に刺されると日本脳炎にかかることがある」と伝えてきたのだ。

 僕はその話を聞いて不安になり「予防接種を受けなくて大丈夫なのか」と両親に何度も聞いた。

 すると、両親は「お前が注射を嫌がるからしなかったんだよ」と僕に言ってきた。 

 僕はその当時、この話をとても奇妙だと思ってしまった。

 なぜなら、僕はその当時、そもそも注射をそこまで怖いとも思っていなかったからである。

 僕はこんなに蚊が多い田舎で育ったのに、なぜ日本脳炎の予防接種をされていないのだろうか。

 そして、僕が子供の頃、注射を嫌がったというのはいつの話なのだろうか。

 何か注射を酷く嫌がるような事が僕の幼少時に起きたことがあるのだろうか。

 これについては、本当によくわからない話である。

 

 

・これは僕の母方の祖父である原田昭男についての話である。

 僕の母方の祖父は僕が保育園に通っている時代から畑の西側で椎茸の栽培をやっていた。

 その椎茸の栽培とは腐葉土の上に椎茸の種駒を植えた原木を並べて横たえるというものだった。

 そして、ここからが面白いのだが、この栽培方法をしていると、その原木の下の腐葉土にカブトムシがたくさん卵を植え付けに来るのである。

 僕の祖父は実は、そこの集まるカブトムシを収集して、それを販売していたのだ。

 カブトムシが成虫になる時期が来ると祖父は大きなスコップとドラム缶を持ち、その腐葉土の場所に向かった。

 そして祖父は、腐葉土の上に置いてある原木を脇にどけ、おもむろにスコップをカブトムシが大量に潜んでいる腐葉土に差し込んで行くわけである。

 それをすると、まだ土中にいるカブトムシの柔らかな蛹や硬い皮を持っている成虫すらもスコップにえぐられて大量に死ぬわけだ。

 僕はそのグロテスクな光景を脇で見ながら、祖父に対して「じいちゃん、もっと優しくやってよ。カブトムシが死んじゃってるよ」と、よく言っていた。

 しかし、祖父はスンッと鼻を鳴らして聞きもしないのが常だったのだ。

 祖父はそうして腐葉土を掘り出して、ドラム缶一杯に大量のカブトムシの成虫をみっちり敷き詰めて、それをどこかに売りにいっていたのだ。

 しかし、その大量のカブトムシというのは、結局売っても全然金にはなっていなかったようである。

 そのときのカブトムシの売値というのは一匹5円から10円前後だと、祖父は僕に語っていた。

 ちなみに僕が、ここで書いておきたいことは、カブトムシというのが空を飛ぶ昆虫であるということである。

 つまり、カブトムシは人間よりも標高の高い所を移動することが出来る生き物なのだ。

 そして、そのような生き物を祖父は繁殖させて、それをろくに金にもならないのに苦労して販売していたのだ。

 これは、祖父が空を飛ぶ昆虫であるカブトムシを繁殖させて肯定していたということになるだろう。

 

 

・これは僕の母である原田和恵についての話である。

 母は昔一度だけ軽自動車に乗ったことがあるそうなのだが、その軽自動車が故障をしてしまったことがあるらしい。

 母が坂道で車を止めて信号待ちしている際、そのままエンジンが止まって動かなくなってしまったことがあるそうなのだ。

 それで母は軽自動車に対して苦手意識を持ってしまったらしく、それからは軽自動車に乗れなくなってしまったそうだ。

 

 

・これは僕の母である原田和恵についての話である。

 これは2019年4月6日に母から聞いた話なのだが、母はおおよそ30年前に、嘉川保育園の駐車場で、事故を起こされたことがあるそうなのだ。

 母は嘉川保育園に僕を迎えに来る際に、嘉川保育園の駐車場に車を停めていたそうだ。

 するとあるとき、その駐車場に停めた車に対して、他の車が車体をぶつけてきたことがあるらしい。

 幸いこの件に関しては、嘉川保育園に勤めている保育士がその事故の瞬間を目撃していた為、相手方が修理費等を支払うことになったらしい。

 僕は、自身の両親が車の事故を多く経験しているようにどうしても感じてしまう。

 ちなみに車というのは日本語をした機械装置のことをさす名称である。

 

 

・これは僕が子供の頃に祖父母に飼って貰ったコナンについての話である。

 僕が子供の頃、この山口県山口市江崎という土地にはなぜか大量に迷い犬がやってきていた。

 僕は幼稚園と小学校で合わせて5~6回くらい、学舎や校舎に迷い犬がやってくるという出来事を体験している。

 そのうち、近所の畑で育てられている野菜を勝手に食べていた四国犬が幼稚園に捕まえられてやってきた。

 僕はその犬を見て「昔、家の廊下に天井から降ってきたタヌキみたいだ」と思い、すっかりその犬が気に入ってしまった。

 僕はその犬にコナンという名前を付けて、祖父母に飼ってもらうことにした。

 ちなみに、このコナンという犬は毎朝5時頃になると、やかましく鳴いて散歩に連れて行くよう催促するようになってしまい、それが少しだけ祖父母の負担になってしまったようだった。

 ここで、僕がちょっと不思議に思うのは「なぜこんなにこの土地には迷い犬がやってきていたのだろうか」という事である。

 この辺りでは、幼稚園や小学校に迷い犬がやって来ると、先生がその犬を捕まえてから、まずこう言い出していたのだ。

 「誰か、お家でこの犬を飼うという人はいないかな」と。

 そして、僕もその流れの中で犬を飼うということになったのだ。

 なにか僕はこの辺りの土地ではペットを飼うということがとにかく奨励されていたように思ってしまうのだ。

 この〝ペットを飼うという〟価値観は多分に西洋から来ていると僕は考えている。

 またペットという単語は英単語である。

 

 

・これは僕についての話である。

 僕が初めて自慰行為を行ったのは保育園年長組の6歳辺りの頃である。

 その当時、僕は嘉川保育園の授業が終わると、嘉川保育園のすぐ近くにあった祖父母の家にいったん帰宅し、両親のどちらかが車で迎えに来るのを待つのが常だった。

 しかし、父と母は迎えに来る時間帯が結構まばらであり、僕はそのことに対して強烈なストレスを感じていた。

 僕は両親を待ちながら祖父と一緒にいつもテレビを見ていた。

 そして、僕が初めて自慰行為をしたのは肌寒い冬の事だったと思う。

 僕はいつものように祖父と一緒にこたつに入り、床に伏せるようにしながらテレビなどを見ていたのだが、その際にそのまま腰を前後に動かすと陰茎が熱くなって気持ちいいことに気がついてしまった。僕はその時、床オナニーをしていたのだ。

 しかも、僕は床オナニーをしていることを祖父に間近で見られたのだ。

 それを見た祖父はなんだかとても衝撃を受けたような顔をしていた。

 僕はそれからというものの、ストレスを感じると床オナニーをすることが癖になり、しばらくの間そうして自慰行為をしていた。

 それは中学校の時、サッカー部の本間がまともなオナニーのやり方を教えてくれるまで続いた。

 そして、その時には僕は恐らくは床オナニーのせいで仮性包茎になってしまっていた。

 ちなみに僕の家系の男というのは風呂場などで見た限りでは性器が包茎ではなかったし、陰茎は巨大であった。

 そのせいで、僕は自身が仮性包茎であるということに対して、物凄いコンプレックスを抱えてしまっていた。

 しかも、僕は仮性包茎のせいで陰茎が小さく育ってしまったのではないかという恐れも常に抱くことになった。

 

 

3、小学校時代

・これは僕の小学校時代の同級生だった原田拓という人物についての話である。

 嘉川保育園のひまわり組のとき、原田拓という男子が東京から転校してきた。

 この生徒はガキ大将気質を持っており、小学校に上がると、クラスの男子を攻撃するようになってしまった。

 僕もご多分に漏れず、この原田拓から何度か妙な攻撃を受けていた。

 例えば僕は当時、コナンという名前の土佐犬を飼っていた。

 そしてその犬をこの原田拓は近所にある今津川の橋の上から川に向かって投げ落としたりしていた。

 ただ、この原田拓は親戚にゲーム会社で働いている人がいるということで、テレビゲームに凄く詳しかった。

 僕はこの原田拓からファイナルファンタジーⅢや、真・女神転生Ⅱといった、面白いゲームを結構教えて貰っていた。

 僕はこの原田拓と仲が悪かったのか良かったのかよくわからない。

 でも、小学校時代にこの原田拓と一番親しかったのは僕だと思う。

 僕はこの原田拓という生徒はどこかおかしいと思っていた。

 というのも、彼の家に遊びに行くと両親がときどきケンカなどをしていたからである。

 ちなみに、これは東日本の東京から来た転校生がガキ大将となり、学校の人間関係を荒らし、生徒達のガキ大将と化したという実例となるだろう。

 

 

・これは僕の小学校時代の同級生だった中藤歩という人物についての話である。

 僕が興進小学校に進学してすぐの頃、僕たちの学年はかなり荒れていた。

 先に述べた原田拓以外にも、中藤歩という人物もまたガキ大将的な気質を持っており、よくクラスの男子を攻撃していたからである。

 よく朝の朝礼前に、この中藤は教室の机を後ろに下げて、教室でプロレスごっこなどを男子に仕掛けていたりした。

 ただし、これは陰湿な虐めとかそういうものではなかった。そこまで悪質な事をやっているわけでもなかったと僕は記憶している。

 何か中藤は〝ガキ大将がちょっと迷惑なことをしている〟とか、そういう事をやる奴だったのだ。ちなみに、中藤の家に行ったことがあるのだが、この家はそこまで荒れている印象でも無かった。

 しかし、僕はいまとなっては、中藤に関してはちょっとだけ不思議な印象を憶えている。

 中藤は興進小学校に在籍している間には結構荒れていたのに、その後進学した川西中学校ではかなり大人しくなり、良い雰囲気の男になっていたのだ。

 これは一体何だったのだろうか。

 ちなみに、この中藤という姓における藤というワードは、天皇と共に大きくなった藤原氏を象徴しているそうである。

 

 

・これは僕の小学校時代の同級生だった榎田真也、榎田修巳という人物についての話である。

 僕が興進小学校に進学してからしばらくすると、榎田真也、榎田修巳という、双子の大きな体格の太った兄弟が転校してきた。

 この二人の兄弟はまたガキ大将的な気質を持っており、すぐに教室で喧嘩ごっこのようなことを始めてしまっていた。

 僕は彼ら兄弟とそこそこ付き合いがあり、家に遊びに行った事がある。

 そこで僕は彼ら兄弟のお母さんと対面したのだが、そのお母さんは片目に傷が出来てしまっていた。

 僕はそれを見て、榎田兄弟にお母さんの傷について聞いてみると、榎田強打は「親父がやったんだ」と答えていた。

 後で知った所によると、どうもこの榎田兄弟の家というのは、お父さんが自衛隊に勤めている人とのことで、ちょっとだけ気性が荒かったようだ。

 ちなみに、この榎田という姓は宮崎県にルーツがある、九州の有名な氏族のモノのようである。

 

 

・これは僕の小学校時代の同級生だった大庭あすなという人物についての話である。

 僕が興進小学校に進学してからしばらくすると、大庭あすなという女生徒が僕の学年に転校してきた。

 この大庭という女生徒は転校してきてちょっとしてから、僕の友人であった河村亘朗が好きだったようで、河村と仲が良かった僕に「手紙を渡して欲しい」と言ってきた。

 僕はこのとき、その渡された手紙の中身の検討は付いていたものの、一応確認の為に大庭の目の前で読んでしまった。

 すると大庭は怒り狂い、僕を散々に爪でひっかいてきた。

 ちなみに、ここで一応書いておくと、この河村という姓の家柄は、現神奈川県である相模国足柄郡河村郷が起源である、中臣鎌足天智天皇より賜ったことに始まる氏。藤原秀郷流が著名とのことだ。

 この大庭という姓の家柄は、現神奈川県である相模国高座郡大庭郷に起源があるようだ。

 つまりは、河村も大庭も、どちらも東日本にその起源がある氏族だったようである。

 

 

・これは僕の小学校時代の同級生だった田中公貴という人物についての話である。

 僕の幼馴染である田中公貴という人物は小学校の頃、不思議な話をしていた。

 彼の家は高見という地域にあったのだが、その彼の家に白蟻駆除業者を名乗る者たちがやって来て、軒下を調べ始めたそうである。

 そして、それから家を調べ回った業者は、「家の柱が白蟻に食べられています」と言ったそうだ。

 しかし、田中の父と祖夫はかなりしっかりとした性格をしていたようで、それを聞くなり「どこに白蟻がいますか?」と言いながら、自分達で家の柱の地下の様子を見に行き、そこに白蟻がいないことを突き止めたということだった。

 つまり、この話は実は田中の家に詐欺業者がやってきていたという話だったのだ。

  ちなみに、一応ここで書いておくと、この田中公貴の父と母はそれぞれ教員と養護教師に就いていた。

 そして、この田中公貴という人物は、最終的には東北大学の大学院に進学してしまったようだった。

・これは僕が通っていた興進小学校という小学校についての話である。

 僕が通っていた興進小学校という小学校には裏山があり、その頂上にはロケット滑り台という滑り台が、それから中腹にはジャンボ滑り台という滑り台が設置されていた。

 この滑り台はどちらもかなり大きな滑り台だった。

 そのうちのジャンボ滑り台は滑り台の中腹辺りが壊れてしまったまま放置されており、それを滑ると足を切り刻まれた。だから、この遊具を使用する際にはかなり注意をしながら滑りおりなければならなかった。

 そして  裏山の頂上に設置されていたロケット滑り台はあまり児童達からは使われておらず、いつも綺麗な状態で維持されていた。

 これは、標高の高い位置にある施設の環境が優遇されているという一例であると僕は感じている。

 

 

・これは僕が通っていた興進小学校という小学校についての話である。

 僕が通っていた興進小学校という小学校には裏山があり、その裏山の森の中にありアスレチックコースには一人で遊ぶロープウェイのような遊具が設置されていた。

 これは縄を木と木の間に結んで、その縄に取っ手を取り付けた、非常に簡単な遊具である。

 この遊具で遊ぶ者はこの取っ手を掴んで縄を滑り降りるわけなのだが、ここで問題が発生していた。

 この遊具、実は速度の計算がなされていなかったのである。

 だから、何も考えずにこの遊具を使用し縄の終着点にたどり着くと、勢いがつきすぎて体が回転してしまうのだ。

 この遊具に慣れている人間は終着点で頑張って足を出して、摩擦によって勢いを殺すのだが、それが出来ない生徒達はしばしば空中に放り出されたり、回転して樹に激突してしまっていた。

 ちなみに、この興進小学校の住所というのは山口県山口市江崎にあった。

 江崎という単語は江の先という意味であり、海を暗喩させるものである。

 そして、海というのは基本的には標高の低い場所にある。

 

 

・これは僕が興進小学校に通っているときに入っていたサッカーチームについての話である。

 この山口市南部の地域には井関小学校、嘉川小学校、興進小学校、佐山小学校という小学校があり、この学校はそれぞれサッカーチームを持っていた。

 僕は興進小学校のサッカーチームに入っていたのだが、興進小学校のサッカーチームはそこまで強くもなく、嘉川小学校と井関小学校のサッカーチームに苦戦を強いられており、佐山小学校のサッカーチームには僅差で勝つ、という状態だった。

 ただ、この佐山小学校が一度だけ興進小学校のサッカーチームに勝利したことがある。

 当時、僕たち興進小学校のサッカーチームは中藤歩がキーパーをしていた。そして中藤は相当に優秀なキーパーだったらしい。

 どうやら、中藤がキーパーをやっているときは佐山小学校もなかなか点が取れなかったようだ。

 しかし、一度だけ、中藤が顔面にボールを食らってしまい、キーパーを交代してしまったことがある。

 その時は僕たち興進小学校のサッカーチームは試合に負けてしまった。

 ここでこの地域のサッカーチームの強さというものについて記しておく。

 僕たちの地域のサッカーチームというものは、井関小学校、嘉川小学校、興進小学校、佐山小学校という順番で強かったようだ。しかもこの強さの序列というものはかなりはっきりしたものであり、ほとんどの試合結果は本当にこの序列の通りになっていた。

 ただし、僕たちのチームから中藤が抜けると、佐山小学校の方が興進小学校よりも強いということになったようだ。

 ちなみに、井関という単語にはしばしば青空を写し込み青色に見える水を感じさせる井戸の井という漢字が使われている。そしてこの青色という色は、しばしば青白い肌という白色人種の肌の色を暗喩する色として扱われる。また井関という単語には関という天という標高の高さを指し示す部首が使われている。

 そして、嘉川という単語には吉という神道のおみくじを感じさせる漢字が使われている。また嘉川という単語にはしばしば青空を写し込み青色に見える水を感じさせる川という漢字が使われている。

 興進という単語には特にそういった要素がないように僕には感じられる。

 佐山という単語には佐という左末尾で終わる漢字が使われている。そして左という漢字は戦後の日本においては左翼を揶揄する言葉であった。つまり、左という字はアメリカ合衆国の仮想敵である中露を感じさせる漢字である。また佐山という単語には山という標高の高さを感じさせる漢字が使われている。

 ちなみに、この中藤という姓における藤というワードは、天皇と共に大きくなった藤原氏を象徴しているそうである。

 このサッカーチームの強さの序列というのは、相当に興味深い。

 いまとなっては、何か僕はこのサッカーチームの強さの序列に、奇妙な階級のようなものを感じてしまうのだ。

 

 

・これは僕が興進小学校に通っているときに入っていたサッカーチームについての話である。

 僕の兄である原田和樹は興進小学校のサッカーチームに昔入っていたのだが、そのチームをすぐに抜けてしまった。

 そして、兄はそのことを藤津という同級生にからかわれていたのだが、兄は「あんな雑魚チーム、どうせ勝てないから抜けたんだよ」と藤津という同級生に返していた。

 その後、この藤津という兄の同級生は「この前の試合、勝ったぞ」と兄に報告をしていた。

 兄はそれを聞いて「あー、はいはい」と適当に相槌をしながら後頭部をガリガリと掻いていた。

 ちなみに、この藤津という姓における藤というワードは、天皇と共に大きくなった藤原氏を象徴しているそうである。

 

 

・これは僕の小学校時代の家についての話である。

 僕は小学校に進学した辺りから、上渡りにあった両親の建てた家で過ごすことが多くなった。

 だから僕は、この小学校の辺りから、家での記憶が多くなってくるのだが、この家はかなり奇妙なところがあった。

 まず、この家は電話がかかってくることが異様に多かったのだ。

 これは両親が教師をやっていたから、というのは当然あるだろう。

 しかし、父が教師を一旦辞めて、社会党に入って活動をした辺りから、さらに家に電話がかかってくることが多くなった。

 僕はときどき、家に来る電話を受け取っていた。そして、その際に奇妙な事があった。

 このとき、何か妙な無言電話が家にかかって来ていたのだ。僕はそういった無言電話を何度か実際に取ったことがあるのだ。

 なぜ、あの上渡りの家にはあんなに無言電話がかかって来ていたのだろうか。

 

 

・これは僕の小学校時代の家についての話である。

 僕は小学校に進学した辺りから、上渡りにあった両親の建てた家で過ごすことが多くなった。

 だから僕は、この小学校の辺りから、家での記憶が多くなってくるのだが、この家はかなり奇妙なところがあった。

 この家ではなぜか父と母がいつも喧嘩をしていたのだ。

 その喧嘩の理由というのは本当に色々あった。

 例えば〝母の仕事が遅くまでかかってしまい夕飯を作るのが遅れた〟というものや、〝父がパチンコに行き金を散財してくることに対して母が怒る〟というものがあった。

 そして、そういった理由で、とにかく家には毎日毎日、父の怒号が響きわたっており、そのせいで、僕と僕の兄は強迫症のようになってしまっていた。

 僕の兄などは〝学校行事の行進をする際に、右手と右足が同時に出てしまい、行進がまともに出来なくなる〟というわけのわからないことになってしまっていたくらいなのだ。

 ただ、今にして思えば、なぜ父はあんなにも家で怒鳴り散らしていたのだろうか。

 いまの僕にはなぜそうなっていたのかがよくわからない。

 

 

・これは僕の小学校時代の家についての話である。

 僕は小学校に進学した辺りから、上渡りにあった両親の建てた家で過ごすことが多くなった。

 そして、この家の玄関のすぐ前には非常に変わった樹が植えられていた。

 その樹が何の樹だったのか、ということは僕はいまいち憶えてもいない。

 そして、その樹には悪いことに、蛍光色をした緑色の毛虫が大量に居ついていたのだ。その蛍光色をした緑色の毛虫というのは毒を持っていたらしく、触ると激痛が走ってしまっていたのである。

 僕は、その毛虫が樹の上から落ちてきはしないかとヒヤヒヤしながら家に出入りをしていたのをよく覚えているのだ。

 今にして思えば、なぜ父は、玄関のすぐ前にある樹にこんなに危険な毛虫が寄り付いているのに、それを駆除しようとはしなかったのだろうか。

 

 

・これは僕の小学校時代の苺摘みについての話である。

 僕は小学校の頃、祖父に連れられて、近所の農家のビニールハウスに苺摘みに行った事がある。

 その際に、僕はこの苺摘みで大失敗をしてしまったのだ。

 僕は苺が栽培されているビニールハウスに入るなり、白い箱を見つけた。

 僕は「なんだこの白い箱?」と思いながら、その白い箱の上に乗ってみた。

 すると、そこから大量のミツバチが出てきた。

 その白い箱は苺の交配をさせるために用意された、ミツバチ達の巣箱だった。

 僕はそれから体中をミツバチに襲われた。

 ミツバチ達は習性的に黒い場所を刺すらしい。これは巣を襲ってきた熊への防衛本能ということだった。

 僕は、そのミツバチの習性のせいで、毛が生え始めていた股間を集中的に刺されてしまった。

 ただし、この出来事に関しては、僕に白い箱についての説明がなされなかった為に起きたのか、それとも僕が白い箱についての説明をよく聞かなかった為に起きたのか、いまいちよくわかっていない。

 しかし、僕がこの件以来、蜂がちょっとだけ苦手になってしまったのは確かである。

 

 

・これは僕の小学校時代の家についての話である。

 僕は小学校に進学した辺りから、上渡りにあった両親の建てた家で過ごすことが多くなった。

 あるとき、この上渡りの家の中に巨大なスズメバチが入ってきてしまった事がある。

 それを父が一生懸命外に追い出していたのが僕には印象的だったのだ。

 というのも、僕の上渡りの家というのは団地のど真ん中に建っていた。

 つまり、近所にはスズメバチの巣など、無かったはずなのである。

 もちろん、このスズメバチが偶然僕の家の辺りを通り、そして偶然僕の家の中に入ってきた、という可能性はあると思う。

 しかし、僕はこのことを念のために記述しておこうと思う。

 というのも、どうも虫というのが僕の人生において、いつも妙な動きをしていたのだ。

 

・これは僕の父である原田克己と、母である原田和恵についての話である。

 僕の父はこの山口県では常に車の速度に気を配っていた。

 というのも、僕の父は家族を載せたドライブ中に、速度違反で警察に何度も捕まった事があるからだ。

 僕は小学校のとき、父が警察に捕まった際の事をよく覚えている。

 父は自身を捕まえてきた警察に対して「前の車だって、俺と同じ速度を出していたじゃないか。それなのになんで俺だけ捕まえるんだ」と激高していた。

 そして、僕が見ている限りでは、それは事実だった。

 父はこの事について後年語っていた。

 結局、この国では車道における法定速度というのが建前になっている。

 この国では法定速度がかなり低めに設定されてしまっているのだ。

 つまりこれは、市民が車で道路を走る際には、現実に即していない、低く設定された法定速度をどうしても超えがちになってしまうということだった。

 そしてその仕組みのせいで、警察はやろうと思えばいつでも好きな市民を捕まえることができるということらしい。

 父はこの仕組みで自分が捕まえられたんだ、と語っていたわけだ。

 また、この山口県においては、過去にさらに異様な出来事が起こっている。

 僕の母が山口県内の道路を法定速度通りに車で走っていると、警察から注意を受けたらしいのだ。

 警察曰く「法定速度を超えて車を走らせないと渋滞が発生するので速度を上げてください」ということらしかった。

 僕はこれを聞いて「あらかじめ速度違反で捕まえておいて、それから迷惑になるから法定速度を超えろと言ってきたのかよ。それってどうすればいいんだよ」と絶句してしまった。

 僕の父と母は、この県でどうやって車を運転すれば良かったのだろうか。

 

・これは僕の家族についての話である。

 僕は両親と兄と一緒に、山口市の商店街内にあったちまきやという百貨店の最上階のレストランに入った事がある。

 そして、その際にそのレストランで奇妙な事が起きたのだ。

 僕たち家族はレストランに入って、そこで料理の注文をしたのだが、その料理がなかなか来なかったのだ。

 それから父は料理がまだ来ないのかという確認を店員に取った。

 すると、そのとき店の中にはお客が多いせいか、作るのが遅くなっているということだった。

 しかし、その後1時間程度待っても料理は僕たち家族の席にはやってこなかった。

 そのとき、父はそのことに怒り、料理が来るのを待たずに家族を連れて店を出てしまった。

 

 

・これは宇部市にあったトミーランドという玩具屋についての話である。

 僕は幼稚園や小学校に通っている間、宇部市の鋳銭司の荻野先生の家に、母に連れられてピアノを習いに行っていた。

 そして、僕はピアノを習い終わった帰り道に、よく母にトミーランドという玩具屋に連れて行って貰っていたのだ。

 僕はそのトミーランドという店で、ウルトラマンのソフトビニール人形をよく母に買って貰っていたのだ。

 しかし、あるとき、そのトミーランドという店で奇妙な出来事が起きてしまったのだ。

 僕がいつもの通り、母に欲しいソフトビニール人形を渡して買って貰おうとすると、レジで問題が発生したのだ。

 母は店員に対して、ソフトビニール人形の代金を2000円程度支払ったのだが、この店の店員は「まだ商品の代金を頂いていません」と言い出したのだ。

 母は「たったいま、お金は渡したじゃないの」と怒ったのだが、その店員は憮然とした顔をして聞く耳を持たなかった。

 結局、このとき、母はソフトビニール人形の代金をもう一度支払う羽目になってしまった。

 つまりこのとき、この玩具屋の店員はごく普通に詐欺という犯罪行為をしかけてきたわけである。僕が憶えている限りでは、この玩具屋の店員はまだ若い青年であり、アルバイトの人のようであった。

 ちなみに、そのトミーランドという名前の玩具屋の住所は山口県宇部市 大字西岐波吉田1136−1であった。

 そして、僕は後から知ったのだが、この住所にある岐波という地域は部落地区ということだった。

 

 

・これは僕が小学生の頃に住んでいた上渡りの家についての話である。

 この山口市の南部には上渡りという土地に団地があったのだが、その隣りの土地には幸の橋という土地があり、そこにも団地があった。そして、その団地には僕の同級生たちが住んでいた。

 あるとき、その同級生の中の清水伸二という男が捨て猫に困っているので、引き取ってくれる人を探しているということを言っていた。

 僕は猫が結構好きだったので、両親に猫を飼ってくれないか、ということを聞いてみた。

 すると、僕の両親はそれを了承してくれた。

 僕はそれから清水から捨て猫を貰ってきた。

 その捨て猫は酷く痩せこけた白色と茶色の毛並みをした猫だった。

 僕の父は、その猫を家に入れて、その猫の体を見て血相を変えた。

 というのも、その猫は体に大量のノミが付いていて、そのノミに血を吸われすぎて、酷く痩せこけてしまっていたのだ。

 父は「ソファーにノミが着くぞ!」と父が焦りながらその猫を風呂場に連れて行き、猫をお湯で洗い、ノミを片っ端から殺していった。すると、どうやらその猫のノミはすっかり取れてしまったようだった。

 その晩、両親はその猫を寝室に連れて行き、一緒に寝た。

 すると、その猫は寝室で下痢をした。

 父は「この猫、ちょっと状態が酷すぎるぞ。もう返してこい」と怒りだした。

 僕はその後、清水に猫を返すことになった。

 それから、その猫は清水の家で飼われることになった。

 清水はその捨て猫からノミがいなくなり、健康になって太っていくのを見て、無邪気に喜んでいた。

 僕は、後になってから、この出来事は何だったんだろうと思う事がある。

 というのも、僕の母は猫アレルギーを持っていたからだ。

 それなのになぜ、僕の両親は猫を家に入れる事をこのとき許したのだろうか。

 僕にはこの出来事というものがなぜか〝両親が家の中にわざとストレスを付与していた〟ように見えてしまうのだ。

 

 

・これは僕が通っていた興進小学校での書道の授業についての話である。

 僕は小学校低学年の時には習字がちょっとだけ上手かった。

 僕は、なぜか『水』とか『氷』という字が極端に上手く書けたりしていたのだ。

 ただし、僕にはこれらの字を上手く書けて満足していると、周囲の生徒から「真似てるだけ」と言われたような記憶が確かにあるのだ。

 その当時の僕には、それが非常に理不尽な指摘であるように思えた。

 というのは、この小学校の授業で行われていた習字というのは、見本を見ながら書くのが一般的だったからだ。

 ちなみにこれは、僕が日本の伝統である書道をやっているときに起きたことである。

 これは、僕が〝和〟という価値観に触れたときに起きたことなのだ。

 

 

・これは僕が小学生の時に使っていたパソコンであるpc-98シリーズについての話である。

 僕は小学生の頃から、よくPC-98でゲームをやっていた。

 僕が特にお気に入りだったのは、日本ファルコムという長野県に本社がある企業の英雄伝説3白き魔女というゲームだった。

 このゲームはとても出来が良く、当時、日本における唯一の一般向けPCゲーム雑誌であるログインにおいて、日本PCゲーム大賞などを受賞していた(とはいうものの、このログインには18禁ゲームの広告やレビューが大量に入ってしまっていたのだが。また、ひょっとすると、この雑誌以外にも別に一般向けPCゲーム雑誌というものがあったのかもしれない)。

 僕と兄はこの白き魔女というゲームをプレイしたのだが、僕は特にこのゲームを気に入り繰り返しプレイをしていた。

 このゲームは赤い髪をした魔法使い見習いのヒロインがとても勝気な性格をしていて、すぐに主人公の青い髪をした狩人の男の子に攻撃をし始めるのが、非常に印象的であった。

 そして、この英雄伝説3白き魔女には続編があった。その作品のタイトルは英雄伝説4朱い雫というものだった。

 僕は兄と共にこのゲームを発売日に購入して、それをプレイしようとした。

 すると、そこで異様な事が起きてしまった。

 この当時、ゲームをするためには小さめのフロッピーディスクをパソコンに差し込み、データをハードディスクにインストールする必要があったのだが、この英雄伝説4朱い雫はインストール段階でブルースクリーンエラーを連発してしまい、まともにプレイが出来なかったのだ。

 僕の兄は結局、この作品を返品してしまい、以後、英雄伝説シリーズはプレイしなくなってしまった。

 しかし、僕が記憶する限りでは、ここまでブルースクリーンを連発したPCゲームというのはこれが初めてだったと思う。

 ちなみに、英雄伝説4朱い雫というゲームのタイトルにおける、4というのは日本の宗教的に言えば忌み数に当たるし、朱という漢字は赤色に近い色である。

 そして、赤色という色はしばしば共産国を象徴する色という文脈でこの国では語られた。

 

 

・これは僕が小学校5年生から6年生時に起きた教師不在についての話である。

 僕が通っていた興進小学校の五年生時の学年の担当の先生は、江頭啓之という先生だった。

 父から後程聞いたところによると、この江頭という先生はどうも共産党系の人だったらしい。

 この先生は普段の立ち振る舞いからして、相当に奇妙な人だった。

 この先生はギターを学校に持ってきては、授業中にも関わらずそれを弾いたりしていたのである。弾いていた曲目は怪獣のバラードである。

 それからこの先生は社会の時間に金印のレプリカを持ってきて、「金印の本物を持ってきた。僕は偉い人と仲が良いから特別にだ」等の嘘を付いていた。僕は純粋だったため、それに騙されたりしたのをよく覚えている。

 それからこの先生は〝パーフェクト〟、という英単語と〝完璧〟、という日本語を組み合わせて〝パーペキ〟などという、よくわからない造語を作った。

 そしてこの先生は「僕が好きだから、みんなこの造語を使っていこう」などと、よくわからないことを言っていた。

 またこの江頭という先生が機嫌が悪くなるとすぐに授業放棄する人で、田中公貴という僕の同級生がよく泣きながら「お願いだから授業をしてください」と言っていたのも憶えている。

 僕はこの先生と仲が良かったような気もするし、仲が悪かったような気もしている。

 僕はこの先生に通信簿の生活面に『歩き方が偉そう』と書かれたりしたのだ。

 僕は小学生のとき、その記述を見た時は「何言ってんだ、この人、歩き方が偉そうって言われてもな」と思ってしまった。

 そして、ここからが、この話の核心部分となるのだが、この先生には2人の娘さんがいたと思う。

 そして、この辺りは記憶が定かではないのだが、僕がこの先生に教えて貰っている間に、この先生の二人の娘さん、どちらも脳腫瘍などの大きな病気にかかってしまったそうなのだ。

 そのせいで、江頭先生は学校を休みがちになった。

 そして、その結果として僕たちの授業の進行も大幅に遅れていったわけだ。

 その後、この江頭先生の代理の先生として、磯崎信子という先生が僕たちのクラスの担当として赴任した時期もあった。

 しかし、この磯崎という先生は問題児が多すぎる僕たちのクラスをまともに受け持つことが出来なかった。

 結果としてはこの先生は学校に来なくなってしまい、僕たちの学年は誰も担当の先生がいないということになってしまっていた。それは期間にして半年程度だっただろうか。

 その間の僕たちの学年の授業は自習になってしまっていた。

 そのことについて、当時の僕の同級生である田中公貴という同級生が「大丈夫なのかな、俺たち、全然勉強してないけど」と、よく不安がっていたのをよく憶えている。

 後々、中学校に上がったあたりで、利重貴浩や田中公貴という、興進小学校時代の友人と一緒に、「あの小学校5年、6年が不味かったよな。あれで俺たちみんな落ちこぼれになった」と話したのをよく憶えている。

 ちなみに、この江頭という先生と磯崎という先生の姓は、強く海を感じさせるものである。

 そして、海というものは基本的には標高の低い場所にある。

 

 

・これは僕の母方の祖父である原田昭男についての話である。

 僕の母曰く、祖父は昔、トラックなどを買っていた久光の店で買っていたそうだ。

 しかし、どうやらその久光の店はそのうち潰れてしまい、その跡地に本田の店が出来てしまったそうである。

 ちなみに、ここでいう久光といのは、おそらくは久光物流の店舗の事であり、その本社は大阪府にあるようだ。

 また、ここでいう本田というのは本田技研工業株式会社の店舗のことであり、その本社は東京都にある。そして、過去には、この会社は静岡県で育っているのだ。

 ちなみに、静岡県関ケ原の戦で西方を破った徳川家康の出生地である。

 

 

・これは僕の父である原田克己についての話である。

 1993年、9月20日から10月5日にかけて、僕の父は山口県の教師達と共にヨーロッパへ研修旅行へ行っている。

 その研修旅行というものは、イギリス、ベルギー、フランス、スペインという順に、ヨーロッパで行われている授業の様子を見るというものだったらしい。

 後年、僕の父はこの研修旅行について、奇妙な事を言っていた。

 なんでも、この研修旅行に行ったのち、旅行に一緒に行っていた山口高校の校長先生が死亡してしまったという話だったのだ。

 僕はちょっとギョッとして、なぜ死んでしまったのかと聞いてみたことがある。

 父曰く、時差ボケで死んでしまったということだった。

 どうやら、この時代、年を取った人間が飛行機に乗って海外に行った際、時差ボケが原因で死を遂げるということはないわけではなかったらしい。

 ちなみに、日本語という言語において、動詞という重要な語句は文章の末尾に来る。

 そして、このヨーロッパ旅行の日程はイギリス、ベルギー、フランス、スペインである。

 ここで一応述べておきたいのは、イギリス、ベルギー、フランスは高緯度地域にあり、古代には白色人種であるゲルマン人やノルマン人などの影響が色濃かったということである。

 そして、スペインという国は有色人種であるラテン人がローマから多く移り住んだところである。

 この古代ローマという国にいたローマ人という人種は、ガリアの森の中への行軍にも魚の瓶詰を持っていくほど魚食を好み、肉食を好まなかった。

 また、このローマ人は黒目黒髪をした背の低い、筋肉の少ない人種であった。

 ちなみに、このローマ人は古代、ゲルマン人ケルト人やガリア人という、白色人種の祖とも言える民族と戦い、彼らを奴隷にしている。

 

 

・これは僕の父である原田克己についての話である。

 僕の父はどうも、僕が小学生の辺りの時期に教師を休職し、社会党員をやっていたそうだ。

 僕がこういう風にちょっと曖昧に表現をするのには一応理由がある。

 なんというか、僕が父にこの辺の所を聞いてみても、どうも話を誤魔化されてしまい、微妙に情報が定かでは無くなってしまうのだ。

 僕が父の感情を察するに、父はどうやらこの辺りの事を語るのが、怖いとか後ろめたいとか、そのように思っているようだった。

 この父の持つ後ろめたさとか恐怖感については僕もなんとなく理由を察してしまう。

 この父が社会党員として働いていた当時は、アメリカが日本の社会党のことをコミュニストの政党が日本の主権を握った、という見方をしていたのだ。

 しかし実際の所、父が目指していたのはただの教育改革であり、日本の教育制度をドイツ型の教育制度に変える、ということであった。

 父は決して共産主義思想を体現しようとしていたわけではなく、政治的には右派社会党を当時は自認していたと思う。

 しかし、父の思想を当時のアメリカ合衆国がどう見ていたのかという点は僕にはわからない。父の恐怖感がその辺りの事情に絡んでいるのではないかと僕はなんとなく推測している。

 アメリカ合衆国は日本が中国やロシアなどの共産国に飲み込まれてしまい、太平洋にこれらの共産国が出てくるのをどんなことをしてでも阻止したかったのだと僕は見ているのだ。

 

 

・これは僕の父である原田克己についての話である。

 父が社会党員として働いていた時代、父には親友がおり、この親友は若くして癌で死んでしまったそうである。

 父は、その親友が癌の治療の為に入院している際に会いにいったことがあるそうだが、驚くべきことに、その親友は脳が癌に冒されているのにも関わらず、正気を保っていたそうだ。

 僕は後になってこの出来事を振り返って思うのだが、なぜこの父の親友は若くして癌になったのだろうか。

 僕はこの話について考えるたびに、僕の小学校高学年時の担当の先生である、江頭先生の娘さん二人に脳腫瘍が出来てしまったという話を思い出してしまうのだ。

 

 

・これは僕の母方の祖父である原田昭男についての話である。

 僕の母方の祖父は50歳くらいのときに鬱病になってしまったらしい。

 僕の母方の祖父である原田昭男は、もともとは農林水産省出先機関の公務員として、この辺の稲の検査等をしていたそうだ。

 だが、僕が小学校高学年の辺りの時期に山口県の中央の方の機関に出向することになったらしい。

 そして、そこで僕の祖父が一緒に仕事をすることになったのが、いわゆる高学歴の公務員ということだったようだ。

 結局、祖父はその新しい職場で、窓際の部署に追いやられたということのようである。

 これは、ひょっとすると祖父の能力不足もあったのかもしれない。

 そして、それから祖父は鬱病になってしまい、家に引きこもって、仕事もしなくなり、しばらく寝たきりになってしまったそうだ。

 僕は、これについては多分、祖父の学歴コンプレックスが刺激されたせいだろうと思っている。

 前述したとおり、実を言えば祖父は昔、戦争の恩赦をなぜか貰えない事があったせいで、学校に通う事が出来なかった。

 つまり祖父はそのせいで、学歴に対してコンプレックスを持っていたのかもしれないのだ。

 もちろん、祖父が本当の所、何故鬱病になってしまったのかは僕にはわからない。

 だが、僕は祖父は学歴へのコンプレックスが原因で、鬱病になってしまったのではないかとどうしても考えてしまうのだ。

 

 

・これは僕の父である原田克己についての話である。

 僕の父は社会党の研修か何かの折に、朝鮮半島にあった38℃線に土井たか子と共に行ったこともあるらしい。

 僕は25歳くらいの時にその事を初めて聞き、兄と共にその件について父を問い詰めた事がある。

 「なんでそんなことをしたんだ。そんなことをしたから俺達が酷い目にあったんじゃないか」と。

 僕の兄などは「土井たか子在日朝鮮人じゃないか」と、そのときちょっとだけ責めてもいた。

 すると、僕の父は「土井さんは可哀想な人なんだよ。朝鮮人の血が流れる自身の事を肯定できないというのは可哀そうだ」と土井たか子のことをその時は擁護していた。

 しかし、僕が35歳の時に改めてこの件に関して聞いてみると、父は過去にした、この自身の言動を否定し始めた。そして最後には「俺は社会党員では無かった」とまで父は言ったのだ。

 僕はこのとき、父のこの言動を受けて「このとき父は、いろいろと酷い目に遭ったせいで、思想の変更を余儀なくされたのではないか」と考えたのだ。

 しかし、実際のところ、父がどういうつもりで、自身の発言や職を否定し始めたのかということはいまいち僕にはよくわかっていない。

 

 

・これは僕が小学生の頃に住んでいた上渡りの家についての話である。

 この山口市の南部には上渡りという土地に団地があったのだが、その団地の南側に猫を飼っている家があった。

 その猫はニッキーという名前であり、白色と黒色の毛並みをした猫だった。

 このニッキーは団地のどこへでも侵入し、糞をしてしまう少し困った猫でもあった。

 そして、僕が小学校高学年の頃、ちょっとだけ奇妙な事が起きてしまった。

 僕の上渡の家には砂場が設置されていたのだが、その砂場の猫の糞まみれになったのだ。

 しかも奇妙な事に、その猫の糞というのはみんな砂場の中に埋められていたのだ。

 このとき、僕はスコップで砂場を掘ってみたのだが、堀った先から糞が出てきまくってしまっていた。

 しかも、その大量の糞が砂場に埋められているということは一回だけというわけでもなかった。確か2~3回、そういうことがあったと僕は記憶している。

 父はそれを見て「この量はニッキーがしたにしてはちょっとな」と苦笑いしていた。

 僕も、何かそれを見て奇妙な気持ちになってしまった。

 それというのも、このニッキーという猫は昔からこの団地にいたのだが、

 

 

・これは僕の母方の祖父である原田昭男についての話である。

 僕の祖父母の家ではコナンという名前の四国犬を飼っていた。

 これは前述したとおり、僕が祖父母に飼って貰った犬である。

 僕が小学校高学年のとき、僕の祖父はこのコナンという犬をしばしばとんでもない方法で散歩してしまっていた。

 祖父はコナンを縄で引き、その縄を軽トラックの後ろにくくりつけた状態で引きずり回していたのである。

 僕は祖父がコナンをそうして散歩するのを見て驚いてしまい、「じいちゃん、これ大丈夫なの? コナンの脚が折れるぞ」などと祖父に言っていた。

 しかし、祖父は「だいじょーぶいやぁ!」と山口弁で言いながら、ひたすらコナンを軽トラックで引きずり回し続けていた。

 僕はこのとき、何か祖父の様子が異様だと感じていた。

 ちなみに、このコナンという犬の名前は、僕が小学校低学年時に読んでいた、シャーロック=ホームズという小説のシリーズの著者、アーサー=コナン=ドイルから取り、僕が名付けたものだ。

 そして、このアーサー=コナン=ドイルという作家はこの地球の高緯度地域であるイギリスの出身である。

 

 

・これは僕が小学校高学年のときの話である。

 僕は興進小学校の授業の課題において、〝家の近所にある川の酸性値を計ることで川の汚染度を調べる〟というものを与えられたことがあった。

 そこで、僕は近所に流れていた今津川の水質を化学キットによって調べてみたのだが、このときの今津川は酷く水質が汚れているようだ。

 僕がそのとき使った化学キットの水準によれば、工場排水が流れている可能性があるくらいの水質が悪い際に出る数値が出てしまっていたのだ。

 僕はそれを見て「なんだこりゃ、これじゃ魚生きてないじゃん」とびっくりしてしまった。

 実際に、僕が小学校高学年くらいのときにはこの川はなまずや鯉などといった、ある程度汚くても生息が可能な魚ばかりが住むようになっていたのである。

 僕はそのことを僕の母方の祖父に告げてみた。

 すると、母方の祖父は「やっぱりか!」と悲しげな顔で言い出してしまった。

 僕の母方の祖父はよく今津川の中にいる魚を見て歩いていたので、何のかんので、この川が好きだったのだろう。

 ただし僕は、この今津川の汚染については、後になって僕の父から奇妙なことを聞いてしまった。

 そもそも、この今津川の上流には運送会社の倉庫があるくらいで工場などは無いということだったのだ。

 僕もその後、父の話の真偽を確かめるために川の上流の方を少しだけ見てみた。すると、確かにそこには運送会社の倉庫くらいしか大きな建物というのは無かった。

 僕はそれを見て思ったのだ。「なぜ、あのとき祖父は〝やっぱりか〟と言ったのだろう」と。

 何が「やっぱりか」だったのだろうか。

 

 

・これは僕の上渡りの家で起きた食中毒についての話である。

 僕達家族は当たり前かもしれないが、毎年大みそかには年越しそばを食べることになっていた。

 そして、実を言えばこの年越しそばで僕の父と兄が食中毒を起こしてしまったことがあるのだ。

 それは確か、兄がちょうど山口高校を受験した年だったと僕は記憶している。

 大晦日、僕の母が生の蕎麦を買ってきてそれを茹でで年越しそばを作った。そしてそれを父と母と兄の三人で食べたそうだ。

 すると僕と兄はその蕎麦に当たってしまい、病院に一時的に入院する羽目になったのだ。

 ちなみに、僕の母はそのとき蕎麦の味がおかしいと思い、下剤を飲み、食中毒の難を逃れていた。

 また、僕はこのとき、正法寺の除夜の鐘を突く為に祖父母の家に宿泊をしていて、この蕎麦を食べていない。だから、この件についてはちょっとだけ記憶が薄いのだ。

 ただし、ここで重要な事は、僕の兄がこの食中毒を経験して1か月か二か月後に山口高校を受験したということである。

 時期についてはうろ覚えではあるのだが、僕は兄の受験の年に食中毒が発生してしまったとなんとなく記憶している。

 

・これは僕の家の近くにあった正法寺という浄土真宗のお寺についての話である。

 僕は昔、家のすぐ近くにある正法寺というお寺にお盆に盆踊りをしに行ったり、大晦日に除夜の鐘を突きに行ったりしていた。

 しかし、ある事が起きてから、すっかり行かなくなってしまった。

  僕は小学校の高学年の辺り、この正法寺で行われていた夏のお祭りに行き、そこで母と一緒に綿菓子を食べていた。

 すると、そこに眼鏡をかけた僕が見たこともない痩身のおじさんがやってきて、僕に対して一方的に長時間難癖をつけ始めたのだ。

 「綿菓子なんて食ってるからぶくぶく太るんだよ」

 この痩身の男はそういった小言を、知り合いでもない小学生の僕に対して、10分から20分くらい延々と言い続けてきたのだ。

 そして、母は、僕がそのよくわからないおじさんに粘着されているのを脇で黙って見ているだけだった。

 僕はそれ以来、正法寺には一切行かなくなった。

 よく知りもしないおじさんに滅茶苦茶な悪口を言われるのが嫌だったのだ。

 

 

・これは僕が小学生の頃に住んでいた上渡りの家についての話である。

 僕が小学校の頃、僕達家族が住んでいた上渡りの家に空き巣が入ったようだった。

 このとき金銭的な被害が出てしまったそうで、両親は一応、警察に被害届を提出したようだった。もっとも、空き巣の犯人は捕まらなかったらしいのだが。

 

 

・これは僕が小学生の頃に住んでいた上渡りの家についての話である。

 これは僕の小学校高学年の頃の話、具体的には1995年辺りの時期の話である。

 この辺りの時期に、僕たち一家は上渡りに建てていた家を売り払い、下高根に新しく家を建てて引っ越しをする事になった。

 これは下高根にあった祖父母の家を取り壊してその上に新築の洋風の家を建てるという事だった。父がそれを希望していたのだ。

 下高根に新築した家は積水ハウスによって建てられた家だった。

 父は積水ハウスの営業である山根という人と一緒に家の設計等をして家を建てていったようだ。

 それは、とても大きくてとても高額な家で、当時の価格として借金の利子込みで五千万円程度の金額がしたそうだ。

 新しい家は洋風の二階建ての大きな家だった。

 僕は、僕と兄にそれぞれ個室が出来たということは喜んでいた。

 だけど、兄はこの引っ越しを全然喜んではいなかった。

 兄は「あの百年続いた和式の家を潰すなんて」というようなことを言っていた。

 下高根にあった祖父母の和式の家は明治時代に建てられた家であり、歴史がある家だったのだ。

 そして、この新築の家に引っ越した辺りで僕の名字は山本から原田になった。

 これは僕たち家族が祖父母の世帯と同居することになるので、原田の家に父が婿入りという形になるから、という事だった。

 

 

・これは僕の母方の祖父母の旧家についての話である。

 僕の母方の祖父母の家は百姓をやっていたのだが、元々は長州藩士の系列の家であったようだ。

 そして、その名残か、僕の祖父母の家には武士の頃に使っていた一振りの刀があったそうである。

 しかし、その刀というのは、祖父曰く、なぜか無くなってしまったそうであり、どこを探しても見つからないということであった。

 この刀については、僕の兄が子供の頃、その刀の刃に指で触れて指を切ったことがあるそうなので、昔、その刀が家にあったということ自体は確かなようだった。

 そして、祖父は祖父母の旧家を潰す際に「多分、家を潰せばどこかから無くしてしまった刀が出てくるだろう。そして、刀が出てきたら宏樹にやろう」と、僕に言っていたのである。

 僕はその刀を見たことがなかったので、貰うのがとても楽しみだった。

 しかし、旧家をいざ工事の業者が潰してみても、結局のところ、刀なんてものは全然出てこなかったのだ。

 結局、この刀というものはどこに行ってしまったのだろうか。

 兄が昔触れたことがあるということなので、その刀というのは間違いなく実在していたはずなのだ。

 それがなぜ、無くなってしまっていたのだろうか。

 ちなみに、これは、僕が〝和〟という価値観に触れたときに起きたことだ。

 そして、刀というものは、古代の日本において使われた伝統的な武器である。

 

 

・これは僕が小学生の頃に住んでいた上渡りの団地についての話である。

 僕は小学校の頃に住んでいた上渡りという団地に住んでいたのだが、その団地の北側にはちょっと奇妙な場所が存在した。

 というのも、この上渡りの団地の北側には潰れてしまった家具工場が存在しており、その横には産業廃棄物が大量に積み上がり、小高い山を作っていたのだ。

 僕は小学生の頃、ときどき友人に誘われて、そこで遊ぶことがあった。

 そこには壊れた工業製品がそこらじゅうに積みあがっていたのである。僕はそれらの壊れた工業製品を手に取っては相当に興味深く眺めていた。

 しかし、前述したとおり、僕は実は破傷風の予防接種を受けていなかった。

 そのことを心配した父は「その産業廃棄物の山の上を歩き回っていると、例えばこけて膝を擦りむくだけで破傷風になって死にかねないぞ」などと、僕に警告してきていた。

 しかし、僕は父の警告も聞かずにときおりその産業廃棄物の山に行ってしまっていた。これは単純にそこに興味があったからだろう。

 そして、僕はそうしてその辺りで遊んでいるうちに、産業廃棄物の山の近くに柴犬を飼っている家があることに気が付いた。

 僕は単純にこの辺りで柴犬を見たのが珍しかったので、その柴犬の頭を思わず撫でに行ってしまった。そして、その柴犬に手を噛まれて怪我をすることになってしまった。

 その後、両親は僕をこっぴどくしかり、僕もその産業廃棄物の山には近づかなくなっていった。

 ちなみに、この上渡りの団地の北側にあった産業廃棄物の山というのは、僕達家族が下高根の家に引っ越す辺りの時期になくなった。そこはそれから住宅地になったのだ。

 これは、僕たち家族が上渡りの団地から引っ越すと上渡りの団地の環境が良くなったという実例ということになるのかもしれない。

 

 

・これは僕の父である原田克己についての話である。

 これは僕が小学校の高学年の頃くらいの話だと思う。

 僕たち家族は正月になると、原田の家に集まって、外で餅つきなどをするのが恒例行事となっていた。

 その際に、牡蠣などを祖父が買ってきて、それを七輪などで焼いて食べたりするわけだが、そこで父が妙なことを言い出したことがあるのだ。

 父は僕に対して名前を変えたいとぼやいていたのだ。

 父は自身の名前を〝かい〟というものにしたかったらしく、僕に対して「良い名前だろ? どうだろうか?」などと聞いてきていた。

 僕はそのとき「よくわからない」と答えていたと思う。

 このとき、僕の父はなぜ、名前を変えたいと言い出していたのだろうか。

 これは父がしていた政治的な活動と何か関係があったのだろうか。

 

 

・これは僕が小学校高学年のときに積水ハウスが下高根に建てた新築の家についての話である。

 僕が小学校高学年くらいの頃、下高根にある原田の祖父母の家を潰し、その土地に洋風の家が建った。

 そして、僕達家族は母方の祖父母と同居することになった。

 ここで問題だったことがある。

 父はこの家の建築時に母方の祖父母に和室を用意していたのだが、祖父母はその和室に住むことを拒み、まだ潰されていなかった和風の長屋に住み始めてしまったのだ。

 僕は後になって振り返ると、少しだけこの展開については思う事があるのだ。

 実を言えば、僕のこの新しい家はちょっと和室辺りの仕組みに妙なところがあったと感じている。

 というのも、この家は二階が僕の両親と子供達の寝室になっていた。

 そして、そのせいでこの家には二階部分にもトイレがあったのだが、そこの水を流すと一階の和室の脇辺りにある排水管が大き目の異音を鳴らす仕様になっていたのだ。

 つまり、例えばここで、父の考え通り母方の祖父母が一階にある和室に住んだとしよう。

 そして、僕の両親と子供達が二階の寝室で睡眠などを取ったとしよう。

 それで、僕の両親や僕や兄が夜中に起きて、二階のトイレを使用して水を流してしまうとする。そうすると、一階の和室に住み、そこで寝ている祖父母を起こすような仕組みに、この家はなってしまっていたのである。

 もちろん、この事を祖父母が分かったうえで同居を断ったのかどうかということは僕にはわからない。

 ちなみに、この積水ハウスという企業は大阪に本社がある企業であるようだ。

 

 

・これは僕が小学校高学年のときに積水ハウスが下高根に建てた新築の家についての話である。

 僕が小学校高学年くらいの頃、下高根にある原田の祖父母の家を潰し、その土地に洋風の家が建った。

 しかし、この下高根に建った家というのは、実は多くの問題を孕んでいた。

 その問題の筆頭が大量に発生したゴキブリと言えるだろう。

 この下高根に新しく建てた家は、大きなゴキブリが大量に出たのだ。

 そして、それにつられてアシダカグモという不気味な巨大クモも大発生した。

 この二匹は動きがとても早く、見ているだけで相当に生理的な嫌悪感を煽られた。

 僕は特にゴキブリの方が苦手だった。僕は高校時代に、朝起きると瞼の上にゴキブリが乗っていたとか、そういった目にあった事があるからだ。

 そのせいで僕は今でもゴキブリに対して生理的嫌悪感があるわけだ。

 ただ、今にして思うと、そもそも、何故あんなに新築の家にゴキブリが出ていたのか、その理由はわからない。

 この家では、夜になると1階のほとんどの部分でゴキブリを見かけるという悲惨な有様になってしまっていた。

 特に台所がもう本当に酷くて、夜行くと、ごく普通に最低でも10匹程度は這いまわっている状態だった。

 しかし、僕は後になって振り返ってみて疑問に思うのだ。「なんでこのとき、母さんはゴキブリを駆除しなかったんだろう」と。

 例えば、バルサンや、毒団子、ブラックキャップなどの道具を使って、ゴキブリをまとめて殺してしまう手段はその当時にはたくさんあったのだ。

 だけど、母はそういうゴキブリ対策をあまりしていなかったように僕は記憶している。

 母はあのゴキブリまみれの台所で、夕食を食べ終わった後の皿などを洗っていたのだろう。

 僕は母がこのとき、何故わざわざそんなことをしていたのか、ときどき不思議に思うのだ。

 ちなみに、2019年3月に僕は父にこの家のゴキブリの大量発生について聞いてみた事がある。

 すると父は、この下高根に建てた家には施工時にゴキブリ対策の溶剤をしっかりと撒いて欲しいと積水ハウスに要望していたらしい。

 しかし、現実にはこの家はいざ建ってみると、ゴキブリまみれになってしまっていたのである。

 僕はもしかして積水ハウスが適当な仕事をしたのかもしれないと、今では思っている。

 実を言うと、僕達家族が住んでいた上渡りの家には建築時にゴキブリ対策の薬を撒いていたらしく、それがちゃんと効果を発揮していたからである。

 僕は上渡りにあった家ではゴキブリを全然見たことがなかったのだ。ちなみにこの上渡りの家を建てたのも積水ハウスである。

 この辺りの事から、僕は積水ハウスが「ゴキブリ対策の薬をしっかり蒔いたけど、それが利きませんでした」という理屈を言っても、それが通らないと考えている。

 確かにこの下高根の家のすぐ近くには古ぼけた長屋が建っていた。そしてそこに少しはゴキブリもいたのだろう。

 だが、積水ハウスがゴキブリ対策の溶剤を本当にこの家に撒いていたのだとするならば、この家でゴキブリが大量発生してしまうのは、やはりおかしなことだと思うのだ。

 

 

・これは僕が小学校高学年のときに積水ハウスが下高根に建てた新築の家についての話である。

 僕が小学校高学年くらいの頃、下高根にある原田の祖父母の家を潰し、その土地に洋風の家が建った。

 しかし、この下高根に建った家というのは、実は多くの問題を孕んでいた。

 例えば、この家のデザインというのは僕の父がやったらしい。というのも、僕の父は家のデザインを自分でしてしまう人だったのだ。

 それで父はデザインをする過程で、家の中の電源の配置や個数については、いろいろと積水ハウス側に注文をしていたそうだ。

 しかし、実際に家が出来上がってみると、その電源の数や位置が提出したデザインとは全然違ってしまっていたそうだ。

 このように、この家は、そもそも最初から、かなりおかしな造りをしていたようだ。

 この家に関しておかしなところはこれだけというわけでもなく、本当に色々とあったと思う。

 まず、この新しく出来た家はとにかく防音性能が極端に低かった。

 先に述べた通り、この下高根の家の辺りは大騒音地帯である。山陽本線の貨物列車、それから国道二号線を通る巨大なトラック、これらが引き起こす騒音というのは常識の範疇を超えていた。

 それなのに、この下高根の家はとにかく防音性能が低かった。異様に低かった。

 そもそも、この家は出来たときからドアの様子がおかしかった。

 この家は、ドアを締めきってみた際にそのドアの上下左右には隙間が大きく空く仕様になっていたのだ。

 そして、そこからは本当によく音が漏れていた。例えば二階で誰かが寝ているときにさせるいびきが一階の和室まで聞こえてしまったりするのである。

 それに、この家のドアはすぐに壊れた。二階のトイレのドア、それから食堂と風呂のドア、この辺りは家を使い始めてから、すぐに下の床部分とドアの下部が接触するようになってしまい、まともにドアが開かなくなってしまっていた。

 さらに二階の洗面所の引き戸は、一見しただけでおかしいのがわかってしまう仕様になっていた。

 この洗面所のドアの引き戸というのは寸法の計算が狂っているのか、引き戸を締めても引き戸と壁の間に1cmも隙間が空いてしまっていたのだ。

 また、この家はドアだけで鳴く、窓の防音性能も極端に低かった。夜、山陽本線の貨物列車がこの家の付近を通過すると、怒号のような騒音が家中に鳴り響いていた。

 しかも、そういった状況なのに、部屋にはやたらと窓が付けられていたのだ。

 その窓はまるで、外の音を取り込むために設置されているようだった。

 さらに言えば、この家の窓というのは特殊な規格のサイズをしているようだった。そのせいで、積水ハウスの業者を呼ばなければまともに窓も拭けない設計になっている部屋もいくつか出来てしまっていた。

 それから部屋のドアノブ方向もおかしかった。ドアノブが右側についているのか左側についているのか、相当に適当に作られているような感じだった。

 またクローゼットの中にある棚などは、その配置が左右対称ではなかったりした。

  それから、特筆すべきはこの家の二階に備え付けられているベランダだろう。このベランダの手すりはもう相当におかしなことになっていた。

 例えば雨が降ったりすると、すぐに雨粒がベランダの手すりにたっぷり溜まってしまうのだ。

 これはもう明らかに欠陥住宅の証明だろう。雨が手すりに溜まるように設計されてしまっているのだ。

 このせいで、この家はベランダで布団を干すことが相当に困難になっていた。

 このように、この下高根に建てられた僕の家族の新築の家というのは、おかしなところがたくさんあったようである。

 これは一体何だったのだろうか。

 

 

4、中学校時代

 

 

・これは僕の川西中学校時代の教師である白根秀治についての話である。

 僕の中学生時代、数学の授業を担当していたのは白根秀治という教師だった。

 この白根先生は数学を教えるのがとても上手かったのだが、一つだけ妙な癖を持っていた。

 この白根先生はごく普通にワイシャツとスラックスという恰好を普段していたのだが、このスラックスが緩かったのか授業をしていくうちにだんだんと落ちていくのだ。

 そして、白根先生は授業中に時折そのスラックスを上にあげなおすという事をやるわけだ。

 僕はそれを見てもなんとも思わなかったのだが、クラスの女子達がちょっとだけそのことを非難していたのを僕は憶えている。

 やはり男性教諭のズボンが下がっていくという光景が女子達はストレスに感じてしまっていたのだろうか。

 ちなみにこの白根という姓については神奈川県である相模国白根庄が起源にあるようだ。ただし、この姓には長州藩広島県東部などにも見られるようだ。

 また、この姓における白という漢字は標高の高い気温が低い土地に降り積もる雪を想起させる白色を表現したものである。

 

 

・これは僕の川西中学校時代の教師である刀襧美智枝についての話である。

 僕の中学時代、国語と英語の授業を担当していたのは刀襧美智枝という教師だった。

 僕はこの刀襧先生に対して「あのー、授業中、ノートを取らなくても良いですか?」と聞いた事がある。

 僕は、国語とか英語はノートを取る意味を特に感じなかったので、思わずそう言ってしまったのだ。

 すると、この先生はそれに対して怒ってしまったのか、一度だけ僕にちょっかいをかけてきたことがある。

 この刀禰先生は僕を授業中名指しして「こいつも男だからな、どうせ常に性的なことを考えているんだぞ」と言ってきた。

 それで、僕はクラスの連中から大笑いされたりしたのをよく憶えている。

 僕はそれで、男子はともかくとして女子からどんどん嫌われていったという感覚を植え付けられたのだ。

 ちなみに、ノートという代物は英語の名称をした文房具である。

 だからこの出来事というのは、〝英語の名称をした文房具を粗末にすると、教師から罰が与えられた〟という風に取ることも出来るわけだ。

 

 

・これは僕の川西中学校時代の教師である岡崎英知についての話である。

 僕の中学時代、英語の授業を担当していたのは岡崎英知という教師だった。

 この先生はディズニーが好きな、まだ年若い男の先生だった。

 この先生は生徒を自分の部屋に連れて行ってディズニーを鑑賞させるということをやる先生だったようだ。

 この人は女子からは人気があったけど男子からものすごい嫌われていた。

 僕はこの教師の気安い雰囲気は好きだった。

 ただし、この先生はフェミニストっぽい雰囲気なんだけど、女癖は悪そうだなとは思っていた。

 ちなみにこの岡崎という姓は徳川幕府を成立した徳川家康駿河の国で持っていた城に同名の城があるようだ。

 その城の名は岡崎城である。

 

 

・これは僕の川西中学校時代の教師である那須正博についての話である。

 僕の中学時代、数学の授業を担当していたのは那須正博という教師だった。

 この那須先生は確か、僕が二年生か三年生のときに川西中学校に赴任してきたと記憶している。

 そして、この教師は赴任してきて早々、最初の数学のテストで滅茶苦茶をやってきていたのだ。

 確かあれば、中間試験か期末試験の問題だったと思うのだが、この那須先生が用意した試験問題にいきなり問題があったのだ。

 問題の量に対して、問題を解く時間が明らかに足りないという試験を作成してきて生徒にやらせてきたのだ。

 僕たちはこの時、全員数学の点数が低かった。

 それで、僕たちはそれに対してかなり文句を言った。流石に無理だ、と。

 するとこの那須先生は何食わぬ顔で「そうかなー。簡単だと思うけどなぁ」などと言って話を終えた。

 ちなみにこの那須先生は結構背が高くスマートな体系をしていて顔が良かった。

 そして、那須先生は奥さんが物凄い美人だと評判だった。

 この教師は女生徒からは人気があった。

 ちなみに、この姓は現在の栃木県である下野国那須郡が起源である氏族が有名なようだ。

 

 

・これは僕の川西中学校時代の同級生である田邉誠についての話である。

 僕は川西中学校に進学した直後、田邉誠という同級生に掃除時間、掃除用具入れの中にふざけて押し込められた事がある。

 僕はそれをやられて流石に怒り、そのことを一応先生に言った。すると、田邉は僕に対して、チクリ魔と言ってきた。

 ただ、その後、高校に進学するときにはそこそこ親しくするようになった。

 しかし、僕はこの件に関してはただ単に理由も無く、突然一方的にやられたと記憶している。

 何があって、こういう展開になったのか、僕は全然覚えていないのだ。

 これはいったいなんだったのだろうか。

 ちなみに、この田邉という姓については新撰姓氏録という嵯峨天皇が編纂を命じた新撰姓氏録に近い姓の記載がある姓である。

 というのも田辺という姓が皇別氏族と神別氏族の両方に入っているのである。

 このことから、どうやら田辺という氏族は、天皇に近しい氏族であるようだった。

 

 

・これは僕の川西中学校時代の同級生である藤井崇正についての話である。

 僕は中学時代、藤井崇正という男に頼まれて、プレイステーションのゲームソフトであるストリートファイターゼロ2というゲームを貸したことがある。

 しかし、この藤井はこのゲームをパッケージを割った状態で返してきた。

 藤井曰く「兄貴が踏んで割ってしまった」という事だった。

 僕はそれに対して「一応パッケージ分の料金払ってくれよ」と言った。

 というのも、このゲームは僕が兄とやるお気に入りのゲームだった。

 僕はこのゲームのパッケージを割られて単純にムカついたのだ。

 すると、藤井は金は払ったものの、その後ずっと、この事に対してしつこくグチグチ言うようになった。

 ちなみに、このストリートファイターゼロ2というゲームはカプコンという大阪の会社が作ったゲームである。

 そして、この藤井という姓は、藤原秀郷という天皇に近い位置にある東日本の武家の起源を持っている可能性があるようだ。

 

 

 

 

・これは僕の川西中学校時代の同級生である藤井朋洋についての話である。

 僕は中学時代、藤井朋洋という同級生に「原田、お前将棋が強いんだって」などと、いきなり絡まれて、昼休みに将棋を対局をする羽目になった。

 だが、当時、将棋盤が学校になく、生徒会室とかそういう所に置いてあるパソコンの中の将棋ソフトを使って対局をした。

 ただ、当時の将棋ソフトというのは、上下の反転機能などはなかった。

 藤井は「お前が上側な」と指定してきた。僕は仕方がなくそれを受けた。

 僕は同級生で自分より強い人を見たことが無かったので「ちょっとやってみたいな」と思っていたのだ。

 それから、僕は藤井と将棋を指したのだが、正直、藤井はあんまり強くなかった。

 僕が上側から将棋を指すせいでミスをしまくっているのに、ほとんど棋力は五分という感じだったからだ。

 僕たちがそうして将棋を指していると、昼休みの終了のチャイムが鳴った。

 僕が「どうする? 明日もやる?」と藤井に聞くと、「いや、いいや。お前、結構強いな」と言ってきた。

 その後、月日が経ち、僕が中学三年生になったとき、藤井はまた僕に絡んできた。

 僕がソフトテニス部で後輩の金子と乱打をしていると、藤井が「原田ー、本気で球を撃ってみろよ!」とテニスコートの外から声をかけてきた。

 僕は本気で球を撃った。球は結構早かった。後輩の金子はその球を追いかけられなかった。そして金子は「宏樹ー、本気で球を撃つなんてズルいぞ!」と言った。僕は金子に謝った。

 それを見て藤井は「やるじゃん!」と言って笑った。

 ちなみにここで一応書いておくと、将棋というものは日本の伝統的な遊戯である。

 そして、ソフトテニスというのはヨーロッパ発祥のスポーツであり、英語圏で盛んだった遊戯である。

 さらに言えば、僕の母の氏族には金子という姓の親戚がいる。

 最後に、この藤井という姓は、藤原秀郷という天皇に近い位置にある東日本の武家の起源を持っている可能性があるようだ。

 

 

 

・これは僕の川西中学校時代の同級生である藤井恵についての話である。

 僕の同級生には藤井恵という女性がいた。この女性は実は僕と同じ幼稚園に通っていたことがある。僕は確か、3際か4歳くらいの頃、この藤井とちょっと仲が良かったと記憶している。

 その後、この藤井は嘉川保育園に転入していき、中学校で再度同じ学年になった。

 僕は中学校時代、藤井の事を結構可愛いと思っていた。

 しかし、この藤井という同級生は近所のコンビニの店長と援助交際しているという噂が広まってしまった。

 ちなみにコンビニとはコンビニエンスとアの略称であり、コンビニエンスストアというのは英語の名称をした施設である。

 そして、この藤井という姓は、藤原秀郷という天皇に近い位置にある東日本の武家の起源を持っている可能性があるようだ。

 

 

・これは僕の川西中学校時代の同級生である岡村智章についての話である。

 僕の中学校時代の同級生に岡村智章という男がいた。

 僕はこの岡村という男と、ゲームや漫画などの話をよくしていた。

 この岡村という男は僕よりも成績が良く、かなり聡明な男だったのだが、実はとても奇妙な癖を持っていた。

 岡村は僕と喋り始める際、僕の首の後ろや頭の後ろに軽くチョップしてくる癖があったのだ。

 僕は別にそれを痛いとは思わなかったのだが、岡村のこの癖はいったい何だったのだろうか。

 

 

・これは僕の川西中学校時代の同級生である村藤好恵についての話である。

 僕は運動会の行事か何かの際に、生徒達を並ばせて整列をさせたりする役目になってしまった。

 そして僕は運動場で「はいはい、並べー」などと適当に整列を促していたのだが、その際に村藤好恵という同級生に文句を言われたことがある。「原田が指図してるよー、うぜー」という感じで。

 僕はそのとき、「おいおい、そういう役割与えられてんだからしょうがないだろ」と思ってしまった。

 

 

・これは僕の川西中学校時代の同級生である村田隆志についての話である。

 僕は中学生の頃、ふとした拍子に雑誌か何かに乗っている新世紀エヴァンゲリオンというアニメの広告を見て、「なんかさー、エヴァンゲリオンってのが流行ってるらしいぜ」と同級生の男子達に聞いてみた事がある。

 その後、再放送によって、この新世紀エヴァンゲリオンというアニメが僕の中学校でも大流行りした。僕は真っ先にそれを見ていた。

 しかし、何故かこのエヴァンゲリオンは村田隆志が見始めて広めたことになってしまっていた。

 

・これは僕の川西中学校時代の同級生である伊藤丈治についての話である。

 僕は中学時代、伊藤丈治という佐山地区の友人の家に通って、よく遊んでいた。

 後で聞いたのだが、この家は、実は僕の母方の親戚の家系だということだった。つまるところ彼は、僕の親戚だったわけだ。

 この伊藤丈治は不思議な男だった。彼は学校の成績こそそこまでふるわないものの、シューディングゲームや卓球や麻雀などに異様な才能を発揮していた。

 特に彼は、麻雀に関しては中学生時点でいきなり盲牌をやっていたり、一緒に打っている奴の手牌を全て読んでいたりしていた。僕はそれを見て、素直に「こりゃやべえわ」と感じていた。

 それから、これは本当に不思議な話なのだが、僕の中学二年辺りで伊藤の名字が重本に変わってしまった。

 そして、彼は苗字が変わってから、急に不良のようになっていった。

 彼は何か姓が伊藤から重本に変わってからは粗暴な雰囲気を身に纏うようになっていったのだ。

 結局のところ、あれはなんだったんだろうか。

 僕はなんとなく「伊藤の苗字が変わってしまったのは、俺が家に通ったせいかな」と思ってしまい、それ以後はなんとなく重本とは疎遠になっていってしまった。

 そして、この伊藤という姓は、藤原秀郷という天皇に近い位置にある東日本の武家の起源を持っており、重本という姓は現在の愛知県である尾張国中島郡重本村が起源であるようだ。

 

・これは僕の川西中学校時代の同級生である中尾光弘についての話である。

 僕の同級生に小学校から一緒だった、中尾光弘という男がいた。

  この男はわりと真面目な性格で成績もそこそこ優秀という優等生であったのだが、中学時代にちょっと妙な事をしたことがある。

 というのも、中尾は中学時代に香水をつけて登校をしてきたことがあったのだ。

 僕はそのとき中尾と同じクラスだったのだが、その中尾が香水をつけてきた日は朝から教室中に香水の匂いが広がっており、ちょっと異様なことになってしまっていた。

 その後、教師が教室に入ってきて異臭を感じると、中尾を保健室へと行くように促した。そしてその異臭騒ぎはなくなった。

 後で教師が中尾から事情を聞いたようなのだが、このときの中尾は朝の登校の準備をしている最中、偶然にも母親の香水を頭から被ってしまい、そのせいで異様な匂いをさせていたということらしい。

 僕はこの話がなんとなく本当なのだとは思っている。

 ただ、ここで一応書いておくと、香水という単語は、香という漢字と水という漢字で出来ている。

 そして、香という漢字は末尾が日で終わっている。この日というのはお日様のことであり、太陽のことである。そして太陽は地球から見ると高い位置あると扱われる天体である。

 さらに、水という漢字について。水というのは一般的には川などを流れているものであり、それはしばしば青空を写し込み青色に見えることがある。

 この青色という色は、例えば青白い肌という白色人種の肌の色を暗喩する色として扱われることもあるようだ。

 

 

・これは僕の川西中学校時代の同級生である松崎紀彦についての話である。

 僕の中学時代の同級生に松崎紀彦という男がいた。

 この松崎は体が大きく、不良っぽい外観をしていた。

 そして、そのせいか、僕たちの学年の数学教師であった白根秀治先生などから、ちょっとだけ目を付けられていたようだった。

 ただ、この松崎が何か実際に悪い事をしていたかというと、僕はしていなかったように記憶している。

 この松崎は実はとあることで、先に書いた中尾光弘と揉め事を起こしている。

 それは、学校の授業の合間の休み時間のことだった。

 中尾が教室のベランダ側から教室の中央に向けて移動をしていた。その際に、机と机の間の狭い通路で中尾と松崎が少しだけ衝突をした。

 松崎は「わりぃ」と言った。

 すると、なぜか中尾が「てめぇ!」などと言いながら松崎に怒りだしたのだ。

 松崎は当たり前だが、酷く戸惑っていた。

 その後、中尾は怒りながら教室の外で出て行った。

 そこへちょうど良く、白根先生がやってきた。白根先生は教室を出ていく中尾を見ながら、松崎の前に立ち「松崎、お前、また何かやったのか?」と言い出した。

 僕は出来事の一部始終を見ていたので、白根先生に対して「あれはどう見ても中尾が悪いですよ」と全てを説明した。白根先生は事情を知り納得していた。

 そして、不思議なことにその後、中尾は不登校になって学校に来なくなってしまった。

 それから中尾はなぜか魚釣りに行くようになったそうだ。

 

 

・これは僕の川西中学校時代の同級生である松崎紀彦についての話である。

 僕の中学時代の同級生に松崎紀彦という男がいた。

 この松崎は体が大きく、不良っぽい外観をしていた。

 この松崎は先に中尾の件で関わって以来、僕に対する印象が良くなったのか、好意的に接して来るようになった。

 しかし、それも長くは続かなかった。

 僕は中学校が終わると、帰り道にセブンイレブンに寄って、よくジャンプとサンデーという漫画雑誌を立ち読みしていた。

 そして、ある時、僕がいつも通り漫画雑誌の立ち読みをしていると松崎が背後から抱きついてきた。僕は漫画を読みたかったので、「ちょっと、辞めろよ」と言って松崎を振りほどき、引き続き漫画を読み始めた。

 すると、自分を粗略に扱われたと感じた松崎はすっかり怒ってしまったらしい。

 松崎はそれから僕に対して喧嘩を売って来るようになってしまった。

 そして、それは高校時代の半ばまで延々と続いた。

 ちなみに、ここで一応書いておくが、漫画というのは日本語の名称をした娯楽である。

 そして、この松崎という姓は藤原秀郷という天皇の系に近い位置にいる東日本の武家に起源を持っている可能性があるようだ。

 

 

・これは僕の川西中学校時代の同級生である中川知恵についての話である。

 僕の中学時代に中川知恵という女がいた。

 僕は実を言えば、この中川の事を結構、可愛いと思っていた。

 すると、この中川はバレンタインデーのときに、僕に対して「中村悠にチョコレートを渡して欲しい」と頼んで来たのだ。

 ちなみに中村悠というのは僕の幼馴染である。

 僕は中村に中川から貰ったチョコレートを渡した。

 すると、中村はそのチョコレートの封を僕の目の前で開けた。確か、そのチョコレートは手作りのものだったと記憶している。

 中村はそのチョコレートを指して「宏樹、一緒に食べようや。というか俺、チョコレート苦手なんだよね。宏樹それ、別に全部食ってもいいよ」などと言ってきた。僕はそのとき、確か悠と一緒にそのチョコレートを食べた。

 ちなみに、この中村悠は父親が北海道の出身であった。

 

 

・これは僕の川西中学校で行われた修学旅行についての話である。

 僕たち川西中学校の学生達は修学旅行で京都に行った。

 そして、その修学旅行先で旅館に宿泊をしたわけだが、その旅館で男子達の中に、女湯を覗きに行った者達がいたそうだ。

 ただし、僕はその覗きに行ったという面子が誰だったのか、という事を朧げにしか憶えていない。

 確か、人づてに聞いた話では、覗きにいった面子というのは、春日や中藤や伊藤や佐藤などであったそうだ。

 それから、少しして、僕達の班が宿泊をしている部屋に「覗きに行ったけど、女子大生がいて、自分たちの学年の女子の裸は見ることが出来なかった」という噂や、「春日が写真を撮った」などという噂が流れてきた。

 そして、この覗きに行ったという話は実際に確かにあったようなのだが、特に問題にもなっていなかった。

 ちなみに、この春日、中藤、伊藤、佐藤、という姓は大まかに言えば天皇に関連する姓のようだ。

 ただし、この面子については、本当にあくまでも伝聞の情報であって、正確かどうかはいまいちわからない。後に友人に聞いてみたところ、どうやら春日と中藤については合っているようなのだが。

 

 

・これは僕が通っていた川西中学校についての話である。

 僕の通っていた川西中学校は正直なところ荒れていた。

 基本的には不良グループが学内で幅を利かせており、風紀の乱れは凄まじかった。

 ここでは、高額の恐喝事件なども起きてしまっていた。

 僕の当時の友人に、春日純一というバスケットボールが得意な男がいた。

 その男は上の学年の不良グループ(この不良グループには野球部部員が多かったように記憶している)に恐喝をされて金銭を巻き上げられていた。

 春日は先輩たちからカツアゲをされていくうちに小遣いがなくなってしまい、最終的に友人である僕に「金を貸してくれ、借金をさせてくれ」と頼んできた。

 僕はその時は「もう額がでかすぎるから教師に言え」と、春日にはっきり言った。

 しかし、春日は最終的に親の金に手を出したりし始めて、結局そのことを教師にも言うことが出来ずズルズルと金をたかられていったようだった。

 春日は最終的には100万円くらい先輩たちに取られたとのことだった。

 そういう話が学内で噂になってしまっていたのだ。

 そして、その恐喝事件自体も有耶無耶のままに放置されてしまっていた。

 

 

・これは僕が通っていた川西中学校についての話である。

 当時、僕の中学校には一学年上に不良グループのようなものがあったのだが、その不良グループに入っている人というのは野球部に入っている人が多かった。

 ちなみに、この中学校の不良グループの先輩達は僕が憶えている限りでは磯部、西島という姓をしているようだった。

 この不良グループの人たちは僕たちの一学年下の教室に突然乗り込んで来て、矢儀卓史という僕の幼馴染を一方的に殴って去っていったりしていた(これをやったのが確か西島という姓をした先輩だったと僕は記憶している)。

 それから僕の友人に梶田裕二という男がいたのだが、この男もこの不良グループに因縁を付けられて絡まれていた。

 どうも思い返してみると、この不良グループは僕の友人によく絡んでいたようだ。

 例えば僕と親しい友人であった飯田聖人、春日純一、岡村智明などにもこの不良グループは絡んできていたのだ。

 しかし奇妙な事に、これらの不良集団の面々は僕には直接絡んでは来ないのである。

 僕は自分の周りの友人がこの不良集団に狙われていたような奇妙な感覚があったのだ。

 これは一体何だったのだろうか。

 

 

・これは僕が通っていた川西中学校についての話である。

 僕の出身校である川西中学校は不良グループが幅を利かせており、相当に荒れてしまっていた。

 そして、僕たちが中学校二年生のときに、驚くべきことが起こってしまった。

 山口高校の推薦入学に、この不良グループに所属していた人が受かってしまったのだ。

 僕の同級生達はそれを知ってこんな風に噂をしていた。

 『あんな酷いことやる不良が山口高校に推薦入学で受かるって、勉強するの馬鹿みたいだよな』と。

 というのも山口高校というのは、この山口市においては一番学力のレベルが高い進学校だったのだ。

 そこに不良グループにいた、とんでもない悪さをした人間が人柄を認められて推薦入学で入ってしまったのだ。

 やはり、真面目に勉強をしている学生からすると、推薦入学であそこまで酷い事をしていた不良グループの人が受かってしまうということは衝撃的な事だったのだろう。

 ちなみに、僕はこのとき山口高校に推薦入学で合格してしまった、不良グループの人というのをなんとなくだが憶えている。

 確か、その人の姓は藤田だったと僕は記憶している。

 ただし、これは僕がそう憶えているだけであって、確証があるわけではない。

 

 

・これは僕が所属していた川西中学校のソフトテニス部についての話である。

 僕は川西中学校ではソフトテニス部に所属をしていたのだが、この部には本永昌史という男がいた。

 本永はソフトテニス部以外に外で硬式テニスをやっていたらしく、かなりソフトテニスが上手かった。そこまで速い球は打てないものの、球のコントロールが抜群に良かったのだ。

 僕はこの本永に好かれたようで、ペアも組もうと言われたり、後ろから抱きつかれたりしていたことがある。

 ただ、彼の僕への接し方、というのはちょっとだけおかしかった。

 例えば僕が練習後にテニスコートでトンボかけをしていると、後ろから突然肩に手を載せて耳のすぐそばで耳打ちをしてきたのだ。「今日もぐっすり眠れる」と。

 僕は、彼が何を言っているのか、よくわからなかった。

 ただ、僕はこういうホモっぽいネタが逆に面白くなってきて、一時期周りの人間にやっていたことすらある。

 しかし、同じソフトテニス部に所属していた河村亘朗、伊藤充昭といった二人の友人は本永の様子を見ていて、ちょっと気持ち悪いと思ったのか、本永をからかうようになっていった。

 そして結局、僕はソフトテニスでは後衛が向いているタイプで、本永も後衛タイプだったので相性が合わず、その後ペアを組むことは結局無かった。

 そして、その後、本永はソフトテニス部を辞めた。これは多分、硬式テニスの方に集中することにしたのだろう。

 ちなみに、この際の本永の「今日もぐっすり眠れる」という発言はどういう意味だったのだろうか。

 後になって、この出来事を振り返ってみると、僕は「本永には何か、これまでぐっすり眠れない事情でもあったのか」と、思ってしまうのだ。

 

 

・これは僕が所属していた川西中学校のソフトテニス部についての話である。

 僕は中学校に入ってから視力が落ち始め、眼鏡をかけはじめた。

 そして、僕がその辺りの時期にソフトテニスをやっていると、そこで奇妙な事が起きたのである。

 僕が練習をしていると、なぜか嵯峨健司という同級生が半笑いしながらソフトテニスのボールを撃ち込んできたのだ。

 嵯峨が撃ったボールは眼鏡をかけ始めた僕の目の視野の外からやってきて、僕の左目に命中した。

 僕はこの事にびっくりしてしまった。というのも、嵯峨がなぜこちらに向けて球を撃ったのかがわからなかったからだ。

 僕は思わず嵯峨に対して「おい、なんで俺の方に向けて球を打ったんだ?」などと聞いてしまった。すると、嵯峨は「球をコートの後ろに持っていく為だ」などと答えた。

 僕はそれを聞いて困惑してしまった。

 そもそも、嵯峨は明らかにコートの真後ろではなく、嵯峨の斜め横方向にいた僕に向けて球を打っていたのである。しかも、嵯峨は普通に球を打ってしまっていたので、普通にそこそこ速い球で打たれたのだ。

 しかも、僕はこのとき、別に嵯峨に対して何かをしたわけでもなかった。というか、僕は自分から嵯峨に何かをしたことというのはそれまでに一度も無かったわけである。

 だから僕には、なぜ嵯峨がそんなことをしたのか、全然意味がわからなかったのだ。

 その後、僕は一応保健室に連れて行かれた。そして保健室で目の傷を見て貰った。

 養護教師からは「大丈夫だとは思うけど、傷がついていると視力が落ちるかもしれない」と言われた。

 それから、僕は嵯峨に対して「おい、これ傷付いてたら、どうすんだよ。視力落ちるらしいぞ」と文句を言った。

 すると、嵯峨はまるで悪びれることも無く「知るかよ、そんなの」などと薄く笑いながら言った。

 僕は嵯峨のその対応を見て「ええ? なんだこいつ。そもそも俺、こいつに嫌われるような事、一切してないぞ?」とかなり疑問に思ってしまった。

 ちなみに、ここで一応書いておくと、コンタクトレンズというのは英語の名称をした視力矯正道具であり、眼鏡というのは日本語の名称をした視力矯正道具である。

 そして、嵯峨という姓に関して書いておくと、日本の歴史には嵯峨天皇という名称の皇族がいたようだ。

 

 

・これは僕が所属していた川西中学校のソフトテニス部についての話である。

 僕達の中学校は、ソフトテニスをするテニスコートが三つあり、それは男女共用であった。

 だから僕達、男子テニス部と女子テニス部は毎日のように練習するコート数が1コートだったり、2コートだったり入れ替わっていた。

 そんな環境の中で僕は放課後、ソフトテニス部で練習をしていたのだが、ある時、藤永友美という同級生の女子に後ろから呼びかけられた。

 そして、僕が振り向くと、いきなりスマッシュを足元に撃ち込まれた。

 僕は「何すんだ、ボケ!」などと言って、藤永目掛けてスマッシュを撃ち返した。

 後になって振り返ってみると、なぜ藤永は突然あんなことをしてきたのだろうか。

 ちなみに、この藤永という姓は、藤原秀郷という天皇の血統に近い位置にある東日本の武家の起源を持っている可能性があるようだ。

 

 

・これは僕が所属していた川西中学校のソフトテニス部についての話である。

 僕は中学校時代にソフトテニス部に所属していたのだが、そのソフトテニス部で先輩達からかなり陰湿な虐めにあったことがある。

 それは僕が中学二年生になった時期のことであり、虐めのきっかけを作ったのは僕の兄だった。

 僕の三歳上の兄は僕と同じくソフトテニス部に所属していたのだが、どうやら兄は、僕の一学年上の先輩達をからかって遊んでいたそうだった。

 だから、このとき、僕に対して行われた虐めというのは、そもそも兄のからかいに対する復讐という意味合いが強かったのだと思う。

 まず、この虐めは兄からの提言がきっかけで始まった。

 兄は僕に対して、ある先輩のラケットを振るフォームを見せて貰え、と指示をしてきたのだ。

 ただし、僕はその先輩の姓を朧げにしか憶えていない。僕が憶えている限りでは、その先輩の姓というのは室井だったと思う。

 どうやら、この室井という先輩は昔はラケットを振るフォームがあまり良くなくて、それを僕の兄にからかわれていたようだった。

 僕は兄にそれを聞いて、「え?」と思ってしまった。

 僕がソフトテニス部に入ったときの室井先輩のラケットを振るフォームは別に普通だったからだ。

 僕は兄にそれを聞いて「それ、どんなフォームなんだろう」と思ってしまい、室井先輩に目の前でやってもらった。

 やってもらった結果としては、それは確かに酷いフォームだった。

 僕はそれを見てもあまり笑いはせずに「こんなに酷いフォームを直したのは結構凄いな」などと冷静に受け止めていた。

 ただ、室井先輩にそれを見せて貰った途端に、僕は一学年上の先輩達から酷い虐めを受けることになってしまった。

 その一学年上の先輩達というのは、山田(部長)、サブちゃん(姓わからず。副部長だったと思う)、室井、河村(この人はあまり虐めに積極的でもなかった)という人達だった。

 このとき、この先輩達からされた虐めというのは、そこそこ酷いものだった。

 例えば僕が部活動の練習中に球出し係をやっていると、一学年上の先輩たちから、僕が出した球を打ち返す形で僕の体を狙い撃たれたりした。

 それから、この川西中学のソフトテニス部ではテニスラケットをテニスコートの横の倉庫に置いておくという習慣があったのだが、僕が倉庫に置いてあった兄のラケットをへし折られたりもした。

 それで、僕はテニスラケットを迂闊に倉庫に置いておくことができなくなり、部活が終わった後にラケットを家まで持ち帰ったりする羽目になった。

 さらに、僕が部活終了後、伊藤浩平という友人と一緒に帰っていると、背後から自転車に乗った一学年上の先輩たちがやってきて、追い越しざまに「豚!」と罵ってきた。

 すると、僕と一緒に帰っていた伊藤は「今のは俺に言ったのさ。俺は豚みたいな顔してるだろ」などと言って庇ってきた。僕も「いや、俺だって、豚みたいな顔さ」と言った。

 先輩達は明らかに僕に対して言っていたと僕は思う。

 この虐めというのはおおよそ一年程度続いた。

  そして、僕はこの虐めを新しく入ってきた一学年下の後輩達に見られていた。

 だから、その後、僕がソフトテニス部の部長になった際には物凄い苦労をすることになってしまった。

 僕は一学年下の後輩達にすっかりなめられてしまい、部をまとめることが難しくなっていたのだ。

 しかし、この虐めというのは一学年上の先輩達が引退をする間際に解消された。

 僕は上渡りの団地で隣りに住んでいた岸山雅彦(名前の漢字は違うかもしれない)というお兄さんと仲が良かったのだが、あるとき、部活帰りにバッタリ出会って、一緒に帰ることになったのである。

 ちなみにこの岸山君という人は、兄と同学年の幼馴染でありソフトテニス部だったらしい。

 実はこの岸山君は兄と一緒になって、先輩達をからかっていたそうなのだ。

 そして、僕が岸山君と一緒に帰っていると、山田部長とバッタリ出会った。

 岸山君は「お前さ、宏樹虐めてねーか? 虐めてたらしょうちしないぞ」などと、山田部長にいきなり凄んだ。山田部長はあいまいにそれに答えて去っていった。

 不思議な事に、それ以後は虐めというのは無くなってしまった。

 特に山田部長が何か僕を庇うようになってしまったのだ。

 ここで、この出来事に出てくる登場人物について、まとめてみようと思う。

 まず、この山田という姓には標高の高さを感じさせ〝山〟という漢字と、東南アジアや中国から伝来した作物の栽培地の名称を示す〝田〟という漢字が使われている。

 次に、サブちゃんというあだ名については北海道出身の演歌歌手である北島三郎の愛称がサブちゃんなのが有名だろう。

 それから、室井という姓については、東日本の現栃木県である下野や会津などにその起源があることがあるようだ。そして、日本における姓の中にある井という漢字は一般的には井戸を指し示しており、その井戸とは水をため込むものである。

 そして、水というのはしばしば青空を反射して写し込み青色に見えることがある。

 さらに言えば、この青色という色は、しばしば青白い肌という白色人種の肌の色を暗喩する色として扱われるようだ。

 では、河村という姓はどうかと言えば、現神奈川県である相模国足柄郡河村郷が起源である、中臣鎌足天智天皇より賜ったことに始まる氏。藤原秀郷流が著名とのことだ。

 さらに、この河村という人は、のちに母方の祖母の生家である青木家に養子として入り、その青木家が所有していた不動産物件などの財産を独占してしまったようである。

 青木家の血を引いた人間というのは、最終的には実は僕の母である原田和恵しかいなくなったのだが、この河村という人は、僕の母には何も与えないまま遺産相続を終えてしまったようだった。

 そして、伊藤という姓については、藤原秀郷という天皇に近い位置にある東日本の武家の起源を持っているようだ。ちなみにこの伊藤浩平の住所は山口県の南部にあり、山口県山口市江崎である。江は海際の土地のことであり、標高の低さを暗喩する。

 そして岸山という姓については静岡県に起源がある可能性があるようだ。また、この岸山という単語は山際の地域が語源のようだ。

 なにか、僕はこの分析をすることで、この出来事に法則性を感じてしまった。

 例えば、山という漢字が姓の末尾にある岸山君には山田部長は逆らえない、といったような。

 ただし、この伊藤浩平という人物の行動については、僕はある一定の法則性から考えてみると「異常だな」と感じている。

 しかし、実を言えばこの伊藤浩平という人物は、この後も大方、僕を庇うように動いていたのだ。

 

 

・これは僕が所属していた川西中学校のソフトテニス部についての話である。

 僕は前述した通り、所属していたソフトテニス部において、一学年上の先輩達から虐めを食らっていた。そして、新しく入ってきた一学年下の後輩達に虐められる姿を見られていた。

 だから、その後、僕がソフトテニス部の部長になった際には物凄い苦労をすることになってしまった。

 僕は一学年下の後輩達にすっかりなめられてしまい、部をまとめることが難しくなっていたのだ。

 しかし、実を言えば、これ以外にも僕が部長としてやっていけなくなってしまった理由というのはある。

 僕のソフトテニス部の先輩には森という姓をした人がいた。

 この人は、僕がソフトテニス部の部長に就任すると、急に部を引っ掻き回すようになり、一年の新入生を練習中に巻き込んで遊ぶようになってしまったのだ。

 僕はこの森先輩に練習を散々に引っ掻き回されてしまい、この森先輩を追いかけまわす羽目になってしまった。

 そして、その過程で森先輩と一緒になって遊んでいた浅川という新入生に対して、攻撃をしてしまったことがあるのだ。

 僕は練習中に遊んでいた浅川に対して、逃げ回っている森先輩の居場所を聞いた。

 浅川はそれに答えなかった。僕は少しだけ怒ってしまい、テニスラケットの縁で浅川の鎖骨を打つことになった。

 それ以来、この浅川は僕を敵対視するようになり、後輩をまとめ上げて僕に陰口をたたくようになってしまった。

 ちなみに、この森という姓について考えてみると、現神奈川県である相模国愛甲郡森庄に起源がある可能性があるようだ。

 さらに森という漢字は木という漢字が三つ連なって出来ている。

 そして、森というものは現代では山にあるのが一般的である。

 ちなみに、浅川という姓は福島県東半、宮城県南部にその起源がある可能性があるようだ。

 そして、川というのは三本の線で構成されており、その川を流れる水というのはしばしば青空を反射して写し込み青色に見えることがある。

 さらに言えば、この青色という色は、しばしば青白い肌という白色人種の肌の色を暗喩する色として扱われる。

 そして、浅い川というのは一般的に言えば山岳地帯を流れているものを指すことが多いようだ。

 

・これは僕が所属していた川西中学校のソフトテニス部についての話である。

  僕はソフトテニス部において、2学年時に部長になった。

 このソフトテニス部には先に述べた浅川という後輩以外にも三人ほど、やけに僕を攻撃してくる後輩がいた。

 それは古谷という姓をした男と吉村という双子の兄弟だった。

 この三人はやたらと僕につっかかってきて、本当に散々悪口を言ってきた。

 僕は「そもそもなんでこいつらは、こんなに俺に悪口を言ってくるんだろう。そもそも何かをしたわけでもないぞ?」と、いつも疑問に思っていた。

 ちなみに、この古谷という姓についてはちょっと面白い指摘を姓の起源について書かれているネット上のコメント欄で見た。

 この古谷という姓は西日本にいる古谷という氏族の姓の読みはフルタニであり、東日本にいる古谷という氏族の姓の読みはフルヤであるということらしい。

 そして、この古谷はフルヤという読みであった。

 さらに言えば、谷というのは山にあるものである。そして、山というのは標高が高い土地を指す言葉である。

 それから、この吉村という姓については、大まかには西日本にその起源があるようだ。

 しかし、吉という漢字については神道のおみくじなどで見ることが出来る。

 どうやらこれは、神道を感じさせる漢字のようだ。

 

 

・これは僕が所属していた川西中学校のソフトテニス部についての話である。

 僕は中学時代、ソフトテニス部に所属していたのだが、不思議な事にこのソフトとテニス部では同級生で僕と同じくらい上手い奴がいなかった。

 そして、このソフトテニスという競技はペアを組んでやるものだった。

 僕はいつもペアの相手に困っていた。

 僕は、同学年に同じくらいの腕前の選手がいないため、顧問の中武美穂子先生の指示で大抵は先輩とペアを組まされていた。

 しかし、そもそも僕は先輩達から虐められていたので、「ミスをすると責められるのではないか」とビクビクしたまま試合に臨むことになってしまっていた。

 そして、そのせいでいつも試合は緊張でガチガチになり、まるで実力は出せていなかった。

 しかし、僕が中学二年生の終わりごろ、ソフトテニス部に佐藤貴裕という同級生が入部してきた。

 確か、僕はこの佐藤にいきなりからかわれてキレてしまい、佐藤のバッグをラケットで殴りまくり佐藤の弁当箱を壊してしまった。

 僕は「悪い事をしたな」と思ったが、そもそも先に酷くからかってきたのは佐藤だったので、謝るタイミングを失ってしまった。

 その後、佐藤は僕に対抗心を持ったのか、ソフトテニスを熱心に練習するようになっていった。佐藤は休日もテニスコートに自主的に練習に行っていたようで、メキメキと腕前をあげて行った。

 正直なところ、練習では佐藤は僕にはまるで敵わなかった。

 というかそもそも、ソフトテニスの練習でする乱打で僕に勝てる選手というのは、そんないっぱい山口市にいないようだった。

 ただし、佐藤は試合になると相当に強かった。

 本番に強いタイプというのだろうか、試合になると佐藤は強くなってしまうのだ。

 そして、僕たちが三年生に上がったとき、ソフトテニス部の顧問が兼村保男に変わった。

 僕は三年生になったことで、ペアを組む先輩が卒業してしまった。そこで下級生と組むのもどうかということになり、佐藤とペアを組むことになった。

 それから、ソフトテニスの最後の大会が開かれた。試合場所は山口市維新公園であった。

 僕は基本的にはこの佐藤に引っ張られながら山口市内ベスト16まで駒を進めた。

 佐藤はノリノリで中武先生に試合の結果を報告しに行った。

 僕たちの世代でベスト16まで上がったのは僕と佐藤のペアが初めてだった。

 中武先生は「あんた、どうせ、原田にそこまで連れて行って貰ったんでしょ」と笑いながら言った。僕は中武先生に「いや、佐藤が強いんですよ」と言った。

 中武先生はなぜかいつも本部にいて色々忙しく仕事をしていたせいか、僕の試合の様子というのを一回も見たことがなかったようだった。

 中武先生は練習を見て、僕が強いと思っていたのだろう。

 そして、いよいよベスト8を決める試合が始めった。そこ僕達のペアが対戦した相手というのは大殿中学校のペアだった。

 大殿中学校のペアは市内でも優勝経験が多い最強格の相手だった。

 僕たちが試合を始めたときは曇り空だったのだが、そのうち小雨が降ってきた。

 僕は「最後の試合くらい思い切ってやってみるか」と何かちょっとやけっぱちになっていたのだ。そもそも相手はもともと強いのだから負けて当たり前であり、勝とうと気負うこともなかった。

 これは僕の傾向なのだが、僕は自分より弱い相手と試合するのは苦手だった。僕は自分より強い相手の方が明らかにやる気が出るタイプだった。

 そして、僕と佐藤と組んでノリノリで試合を進め始めた。

 僕はこの日、練習通りの実力が初めて出せた。これは三年間ソフトテニスをやっていて初めてのことだった。

 大殿中学校のペアは前衛が中央に寄り過ぎていたので、脇を何度か抜いて動けなくして、後衛勝負に持ち込んだ。

 そして、僕は大殿中学校の後衛といい勝負をした。

 しかし、ここで妙な事が起きた。大殿中学校のペアが僕の打つ球に対して「いまの球、アウトだっただろ!」などと審判に文句をつけ始めたのだ。

 すると、不思議な事にその文句が通ってしまい、その後、僕が打つ球は何度かインの球がアウトになっていった。

 しかし、僕たちペアは勢いがあった。スコアは2-3とかで負けていたのだが、このまま逆転するのではないかという感じになっていた。

 佐藤も「これはいける。相手もあせっているし、原田は今日は球が打てている」などと言っていた。

 そうして僕たちが調子付いているタイミングで驚くべきことが起こった。

 小雨が降ったせいで試合が中止になり、スコアを持ち越して翌日に試合をすることになったのだ。

 翌日、僕たちは大殿中学校に連れて行かれた。そして、僕たちペアはそこで試合をすることになった。

 大殿中学校のテニスコートでは、テニスコートを囲むように大殿中学校のソフトテニス部員達が大勢で体育座りをしながら整列しており、大殿中学校のペアに対して声援を送っていた。

 僕は全然調子が出ないままミスをして、そこであっさりとストレート負けした。

 試合に負けた僕は「悪いな佐藤」とただただ思った。

 ちなみに、この佐藤という姓については基本的には東日本にその起源がある氏族のもののようである。

 そして、佐という漢字の末尾は左で終わっており、この左という漢字はこの国においてはしばしば共産主義を暗喩する文字である。藤というワードは、天皇と共に大きくなった藤原氏を象徴しているそうである。

 また、ここで、一応書いておくのだが、この辺りの時期に、僕の父というのは主に山口市内の小学校で教師をやっていた。

 そして、父が言うには、山口市内の小学校というのは不思議なことをやっていたそうだった。

 というのも、山口市の教員というのは学校行事がある際には、自衛隊に対して電話で天気の確認を取るところもあったそうなのである。

 これは、天気予報というのが外れてしまい、学校行事が天候不順で潰れてしまうことを防ぐための措置ということだった。

 テレビなどから流れる天気予報とは違い、自衛隊がする天気予報はほとんど外れることが無かったらしいのだ。

 ここで、僕が不思議に思うのは、「なぜ、山口市の教員達は自衛隊に天気の確認をしていたのだろうか」ということである。

 ひょっとして、この山口市の小学校では〝なぜか学校行事の開催に合わせて偶然雨が降ってしまい、学校の行事が潰れてしまう〟ということが頻発でもしてしまったのだろうか。

 そして、そのせいでしっかりとした天気予報を元にして学校行事の日程を組む必要性が出てきたのだろうか。

 

 

・これは僕の兄である原田和樹についての話である。

 僕が中学生の頃、僕の兄である原田和樹は山口市内にあった山口高校に通っていた。

 そして、兄は毎日のように東天閣という山口市の道場門前の前にある中華料理屋で昼食を取っていたらしい。

 そして、母曰く、あるとき兄が母の勤めている高校に突然やってきて、「東天閣で昼食を摂る金がないから出して欲しい」と言ってきたそうだ。

 なぜだかはわからないが、僕の兄はときどき、このように両親に対して突然金銭を要求することがとても多かったのだ。

 これは一体なんだったのだろうか。

 後から振り返ってみると、兄は突然金銭を要求することで、わざと両親を困らせていたようにも見えるのだが。

 

 

・これは僕が中学生のときに体験した中国人の李という家の人達との交流についての話である。

 僕が中学生の頃、当時大歳小学校で教師をしていた母が受け持っていたクラスに李という姓をした中国人の子供が転校して入ってきたらしい。 

 そして、その李という子供の中国人のご家族は家計が苦しい上に慣れない日本の生活に戸惑っているということだった。

 だから、それを見かねた母がその中国人のご家族をうちの家に招いて歓待したりしていたのだ。

 僕は僕の兄と、その家の子供と一緒にゲームなどをして遊んだことがある。

 その時は確か、プレイステーションのソフト、キングオブファイターズ95を一緒にプレイしたと思う。

 僕はこの李家の子供を見ながら、「中国人って頭が良いんだな」と思っていた。というのも、この子供がキングオブファイターズ95の戦略をすぐに理解していたからだ。

 また、このとき、この李という家のお父さんはうちの家で小麦粉を練って餃子を作ってくれた。

 その餃子というものが、本当に美味しかったのを僕はよく憶えている。

 僕はその後、中華料理屋などでしばしば餃子を頼み食べたのだが、この家のお父さんが作ったものよりも美味しい餃子を食べたことがなかったくらいだ。

 僕は後になって、この家族の事が気になったので、2019年3月付近に父にこの中国人の家族について聞いてみたことがある。

 すると僕の父曰く、この中国人の家庭の父親は中国共産党工作員の可能性があった、とのことだった。

 僕の父が考えるに、「この李という家はその当時は中国の貧困家庭という話であった。それなのに、この李という家のお父さんは下関の大学や新潟の大学に行こうとしていたのが大変怪しい」ということだった。

 僕はそれを聞いて「なんで、それだけで中国共産党工作員という疑いが出てくるんだ?」と、思ってしまった。

 ちなみに、僕は母から「李君は勉強も運動も出来る子なのだけど、それを日本人の子供のように謙遜しないので、日本人の同級生からやっかまれることが多い」という話を聞いてしまった。

 どうやらこの李の家の子供は日本人の同級生からそういう扱いを受けていたようだ。

 

 

・これは僕が中学生の最後に体験した高校受験についての話である。

 僕は中学校三年生の頃は山口市にある山口高校を受験するつもりであった。

 この山口高校というのは山口県における公立の進学校であり、当時の僕の成績から言えば、この高校に入学するのが普通という感じだった。

 また、この時期、僕の三つ上の兄も大学受験を控えていた。

 しかし、受験直前のタイミングで僕の父は奇妙な事をやり始めたのである。

 父はルナティックドーン~開かれた前途~というゲームを突然買ってきて、僕達兄弟にやるように勧めてきたのである。

 僕は「なんで試験前にこんなものを」と思ったのだが、いざそのゲームをプレイしてみると、驚くべきことにこのゲームはかなり面白かった。

 この当時の海外製のPCゲームというものは、つまらないのが普通であり、また父も大抵はつまらないゲームを勧めてくることが多かった。

 しかし、なぜかこのとき父が勧めてきた、このルナティックドーン~開かれた前途~というゲームは酷く面白かった。

 このゲームは普通のファンタジーRPGだったのだが、とにかく自由度が高かったのだ。

 僕がこのゲームでとても印象に残ったのはプレイヤーの死亡時に出てくるメッセージである。

 〝あなたの人生は終了しました〟

 このゲームはこのような文章が挿絵と共に表示されるのだ。

 ちなみに、このルナティックドーン~開かれた前途~というゲームは東京のアートディンクという企業が作ったゲームであった。

 

 

・これは、僕の兄である原田和樹が行った大学受験についての話である。

 僕の兄は僕の三歳上であり、山口高校に通っていた。

 兄は大学受験に向けてそこそこ勉強をしていた為か、。兄はセンター試験に成功していた。センター試験の総得点が650点付近とかなり高かったのだ。

 すると、それまでそこまで進路等にあまり関心が無かった父がわりと熱心に兄にアドバイスをし始めた。

 父は兄に九州大学に行こうだとか、京都大学に行こうだとか、行く大学を推薦し始めたのだ。

 そして、その推薦の結果として兄の進路はコロコロ変わってしまった。

 そのせいで、なぜか兄は九州大学京都大学で迷いながら二次試験の勉強をする羽目になっていたようだ。

 結局、兄は前期日程で京都大学を受験した。

 しかし、兄は京都で二次試験を受験をして家に帰ってくるなり、奇妙な事を言い出したのだ。

 「馬鹿らしいから答えを書かなかった」と。

 僕はそれを聞いて「何を言ってるんだ、これは」と思った。

 僕はなぜ兄が答えを書かなかったんだろうとかなり疑問に思ってしまった。

 僕が見たところでは京都大学受験直後の兄は精神的にかなりまいっているようであり、そのときの声はすっかり震えていた。

 その夜、兄は部屋で塞ぎ込んでいた。

 すると、その部屋の前に母さんが立って、恐ろしい金切り声で叫び始めた。

 「なんで答案書いてこんかったんかね!」と。

 僕はそれを聞いて「おいおい、やめとけよ」と思ってしまった。

 実を言うと、僕の母はちょっとだけ教育ママが入っていた。

 僕の母は僕の父と違って結構僕たち子供に勉強をするようにうるさく言っていたのである。

 というのも、実は僕の母は学歴コンプレックスが強かった。

 僕の母は短大出でいつもそれを学校で校長先生などになじられていたらしいのだ。

 このときはそれが露骨に出てしまったのだろうか。

  その後、兄はすっかり様子がおかしくなった。

 兄はそれから、夜になるともの凄い大音量でMr.Childrenという東京のバンドの音楽をひたすら部屋で流すようになったのだ。

 僕はその音でうるさくて眠れなくなってしまった。

 僕はそれから両親に言った。「おい、兄ちゃんやばいだろ、なんであんな大音量で音楽を聴いているんだ?」と。

 すると、僕の両親はもの凄い素の顔でそれに答えた。「音?そんな音なんてしているかな?」と。

 僕はその両親の反応を見て、家にいるのがもの凄く怖くなった。

 両親が聞こえていないふりをするのがわけがわからなかったのだ。

 その後、僕の兄は後期日程で岡山大学を受験した。受験した学部は法学部だった。

 兄は岡山大学に合格した。

 ここで、一応書いておくと、僕の父が兄に対してやっていた進路指導というのは、何か奇妙であったと思う。

 そもそも、二次試験の傾向というものがある以上、進路というのは一本に絞るべきなのだ。

 そこをコロコロ変えていたようでは、二次試験の対策というものが取れなくなってしまうのである。

 そして、僕は僕の父がそれをわからないほど愚かではないと思っている。

 それなのに、なぜ僕の父はこんな妙な進路指導を僕の兄にやってしまったのだろうか。

 それから、これも一応書いておくと、兄が深夜聞いていたMr.Childrenという東京のバンドのボーカルの姓は桜井である。

 そして、この桜井という姓については新撰姓氏録という嵯峨天皇が編纂を命じた新撰姓氏録に記載がある姓である。

 これによれば、桜井は皇別氏族という扱いのようであり、天皇に近しい氏族であるようだった。

 

 

・これは僕が中学生の最後に体験した高校受験についての話である。

 僕は中学校三年生の頃は山口市にある山口高校を受験するつもりであった。

 この山口高校というのは山口県における公立の進学校であり、当時の僕の成績から言えば、この高校に入学するのが普通という感じだった。

 実を言うと僕は、この高校で絵を学びたい美術の先生がいた。兄と仲が良い美術の先生がここにいて、兄がこの先生から絵を学ぶのを僕に勧めてきていたのだ。

 だから、僕は山口高校に受かったら美術部に入ろうと思っていた。

 肝心の山口高校の入試試験は山口高校の教室で執り行われたと記憶している。 

 僕はその受験の際の光景をまだ憶えている。あれは酷く肌寒い日だった。

 親に早めに車で高校に送ってもらった僕は、手を擦りながら教室に入り席に座った。前から3~4番目の席だったと思う。

 試験が始まると、問題用紙と答案用紙が前の席に配られて、それを上から取って、後ろに回すということになった。

 僕は紙を広げて答案用紙を見てみた。するとそこには受験番号を書く小さな記入欄があった。

 そして驚くべきことにそこには名前を書く名前欄は無かった。

 僕はちょっと驚いて、直ぐに答案用紙の裏側も見た。すると当たり前だが、そこにもやはり名前を書く所は無かった。僕はもう一度紙を裏返して名前欄の確認をした。しかし、やはり名前を書く為の名前欄は存在しなかった。

 僕は「ああ、これ、受験番号だけ書くのかな」と思って、受験番号だけを記入して、それで試験の問題を解いていった。

 ちなみに僕は不自然に思って、最初の教科の後の次の教科の試験でも名前欄の確認をした。しかし結局、名前欄は見当たらなかった。だから僕は、そのまま試験をこなしていった。

 僕が何故、ここで執拗に何度も名前欄の有無を確認したのかというと、それには理由がある。

 というのも、僕はこの受験以前に川西中学校の試験の際にうっかり試験用紙に名前を書き忘れて、0点を取った事があったからである。

 それは、憶えている限りでは社会科のテストの際の事だったと思う。

 確かその時は吉安司という社会科教師が授業を休み、そこで試験形式のプリントを生徒に解かせるという自習授業があったのだ。

 そして僕は完全に適当にそのプリントをこなして、名前欄に名前を書き忘れてしまっていた。そしてその結果として、僕は人生で初めて0点を取っていたのだ。

 僕は、それ以来、名前の書き忘れにはかなり注意していたわけだ。

 さて、山口高校の試験が終わって帰って来て、受験番号を書く欄はあったが、名前を書く欄が無かったということを両親に告げた。

 すると両親は驚いて、「そんなはずはない、友人に確認してみろ」と無理矢理僕に友人に電話をさせた。

 両親が勧めるので僕は中村吉希という同級生に確認を取った。

 すると彼は名前を書く欄が普通にあったという事を告げてきた。僕にはそれが信じられなかった。僕の試験用紙にはどう見ても名前欄が無かったからだ。

 僕はそれから一応、試験の自己採点をした。少しだけ点は低かったけど、合格のボーダーラインはしっかりと超えていた。

 そして迎えた合格発表当日。僕はなんとなく「これ、落ちてるんだろうな」と思ってた。

 それでもう自分で合格発表を見に言う気にもなれなくて、父に発表を見に行って貰った。

 するとやっぱり僕は山口高校に落ちていた。僕は流石に相当に落胆した。意味がわからなかったからだ。

 僕が落ち込んでいると、僕の中学三年生時の担任である白根秀治先生から電話がかかってきた。

 白根先生は「原田が落ちるわけはない。合格の名前を見落としたのでは無いか」と言ってきた。

 白根先生はかなり混乱しており、どうも本気でそう聞いてきているようだった。

 僕は今となっては、白根先生が混乱していたのも無理もないと思ってしまう。

 実は当時の山口高校というのはそこまで難易度の高い高校でも無く、うちの中学からは上から20番くらいまでの人が受かっていたのである。

 僕は、この山口高校の入学試験を振り返ってみていつもおかしいと思うことがある。

 あれだけ僕が執拗に記名欄を探して見つからなかったのに、他の生徒が名前を書き洩らしたという話を一切聞かなかったからだ。

 中村にそれを僕が聞いた時も明らかにびっくりしたような口調で「え!? いや、あっただろ!」と彼は言っていた。

 まぁつまりは本来は相当分かりやすい形で名前欄が試験用紙に存在していたのだろう。

 そして、僕の試験用紙にはその分かりやすい形の名前欄が無かった可能性が極めて高いということになるわけだ。

 結局、僕はそれから、前もって滑り止めで受験して受かっていた私立の高校、野田学園高校の普通科に入学することになった。

 僕は、この高校の特別進学コース(通称、特進科)というのも実は滑り止めで受験していた。だが、そこには落第していた。

 実を言えば、この野田学園高校の特別進学コースには妙な噂があった。

 それは「野田学園の特進科に進むのは山口高校に受かるよりも難しい」というものだった。

 結局のところ、僕もその野田学園高校の特別進学コースは受験をしても受かってはいなかった。だから僕は野田学園高校の普通科に進むことになっていた。

 僕は流石にそのことにちょっと落胆していた。野田学園高校の普通科は僕の本来の学力とはいくらなんでも合ってなかったからである。

 父などは「これは浪人をした方が絶対良い」と言っていたくらいである。

 しかし、僕が山口高校に落ちたのち、しばらくしてから状況が変わった。

 野田学園の特別進学コースに僕が補欠合格したという情報が入ってきたのだ。

 僕はそれで浪人はやめて、野田学園高校の特進科に進むことになった。

 

 

・これは僕が中学生の最後に体験した高校受験についての話である。

 僕は山口高校に落ちた折、川西中学校の職員室にそのことを報告に行った。

 その際に、ソフトテニス部の脇を通ったのだが、一学年下の古谷に何をしに学校に来たのかと呼び止められた。

 僕は「山口高校に落ちたので、それを報告に来た」と言った。

 すると、古谷は大笑いをして「宏樹、山口高校落ちたの? マジで馬鹿じゃん!」と指さしながら吐き捨てた。

 僕は古谷に名前欄が無かったとは言わなかった。それを言っても信じて貰えるとも思わなかったからだ。

 その後、古谷は普通に山口高校に合格していた。

 ちなみに、この古谷という姓についてはちょっと面白い指摘を姓の起源について書かれているネット上のコメント欄で見た。

 この古谷という姓は西日本にいる古谷という氏族の姓の読みはフルタニであり、東日本にいる古谷という氏族の姓の読みはフルヤであるということらしい。

 そして、この古谷はフルヤという読みであった。

 さらに言えば、谷というのは山にあるものである。そして、山というのは標高が高い土地を指す言葉である。

 

 

5、高校時代

・僕は野田学園高校に通学する為に山陽本線山口線を走る電車を利用した。

 僕は朝起きると自転車で20分くらいかけて嘉川駅に行き、そこから電車に一時間程度乗って山口駅に行き、そこから自転車に乗り20分くらいかけて野田学園高校に通っていたわけだ。

 そして、僕はその際、山口駅に自転車を置いていたわけだが、自転車は契約をした有料駐輪場に置いておいた。そして、この有料駐輪場というのは、僕の兄も自転車を契約して置いていた所だった。

 僕たち兄弟が、なぜ有料の駐輪場と契約をして自転車を置いていたのかと言えば、それは単純である。

 山口市の駅辺りはいたずらで自転車のタイヤをパンクさせる愉快犯のような人が多かったらしいのだ。

 ただし、ここで一応書いておくと、別に有料の駐輪場に自転車を置かない人もたくさんいた。

 そして、僕は駅の自転車置き場を利用している人から『置いてある自転車のタイヤがパンクしている』などという話を一度も聞いた事が無かった。

 なぜ、僕たち兄弟は有料の駐輪場に自転車を置いていたのだろうか。

 ちなみに自転車というものは日本語をした乗り物である。

 

 

・僕は野田学園高校に通学する為に山陽本線山口線を走る電車を利用した。

 僕は朝起きると自転車で20分くらいかけて嘉川駅に行き、そこから電車に一時間程度乗って山口駅に行き、そこから自転車に乗り20分くらいかけて野田学園高校に通っていた。

 つまり僕は毎日電車に2時間程度乗っていたわけだが、その電車の中で様々なことを体験した。

 そしてこれはその電車の中で起きた出来事についての話である。

 僕はあるとき電車の中で、中学時代のソフトテニス部の先輩に会い、悪口を言われたりした。

 僕が中学時代に所属していたソフトテニスには二つ上の先輩に早稲田という姓をした人がいた。その早稲田という先輩と、前述した一学年上の室井という先輩が二人で電車に乗っていたのである。

 先輩達は僕の近くに来ると、僕に聞こえるように僕の悪口を言い出した。

 僕が岸山君など年上の先輩に気に入られており手が出せないこと、僕がなまいきな後輩でむかついたことなどを語り始めたわけだ。

 僕は「おいおい、本当に陰湿だな、こいつらは」と思いながら、顔をしかめてそれを聞くことになった。

 ちなみにここで書いておくと、電車というのは日本語の名称をした乗り物である。

 また、この早稲田という姓は東京に同名の大学があるようだ。

 そして、この早稲田という先輩はそのうち僕の家から一番近いコンビニで働くようになった。

 

 

・僕は野田学園高校に通学する為に山陽本線山口線を走る電車を利用した。

 そしてこれはその電車の中で起きた出来事についての話である。

 僕はあるとき、まるで面識のない女生徒達から「こいつさ、昆虫みたいじゃない? ウケるー」と笑いものにされた事がある。

 僕はそのとき、顔の髭を剃るのを忘れたまま電車に乗ってしまっていたのだ。

 そして、そのせいで、そのときの僕の頬にはぴょこんと髭が生えてしまっていた。その見も知らぬ女子達はどうやらその僕の顔貌を笑っていたようだった。

 ちなみに、電車というのは日本語の名称をした乗り物である。

 

・僕は野田学園高校に通学する為に山陽本線山口線を走る電車を利用した。

 そしてこれはその電車の中で起きた出来事についての話である。

 僕は高校二年辺りの時期に電車の中で、小郡の辺り出身の伊藤睦彦という野田学園高校の普通科の生徒にいきなり難癖を付けられてしまった。

 彼は僕と面識もないのに、突然「オタクの癖に生意気だ」ということを僕に言ってきたのだ。

 そして彼は、電車内で突然襟首を掴み締め上げてきた。

 僕は本当にわけがわからないと思ってしまった。

 僕からすると、なぜ彼が急に僕に対してこんなことをしてきたのかも謎だった。

 また、なぜ僕がオタクであるということを彼が知っていたのかというのもやはり謎だった。

 僕は襟首を掴み締めあげられながら、どうしようかなと思ってしまった。

 僕は柔道をやっていたので、普通の素人と喧嘩をやっても、まず負けない自信があった。

 ただし、僕は「自分がここで暴力をふるえば、柔道部全体に責任が行くな」と思い、手は出さなかった。

 だから、僕は何もせずに黙っていた。

 すると、この伊藤は「根性無しが」みたいな事を言ってあざ笑ってから去って行った。

 後からわかったのだが、この男は僕の幼馴染である田中公貴の友人であった。

 そして、田中公貴はこの事について、彼にちょっと怒ったらしい。

 その後、この伊藤という男は僕に対して「柔道やってたんだね」みたいな事を僕に恐る恐るという感じで言ってきた。ちなみに、そのとき彼は謝りはしなかったと思う。

 僕はその彼の様子を見て、「こいつはいったい何がしたかったのだろうか。何故まったく面識がないのにいきなりあそこまで滅茶苦茶やってきたんだろうか」と、相当に疑問に思ってしまった。

 ちなみに、一応ここで書いておくと柔道というのは日本の伝統的な武術を元にした格闘技である。

 そして、この伊藤という姓は、藤原秀郷という天皇に近い位置にある東日本の武家の起源を持っているようだ。

 

・僕は野田学園高校に通学する為に山陽本線山口線を走る電車を利用した。

 そしてこれはその電車の中で起きた出来事についての話である。

 僕は山口駅から電車に乗る際に、異様な光景を見たことがある。

 それは、僕の中学時代の同級生である藤井が電車で女子生徒とキスをしているところであった。

 僕の中学時代の同級生である藤井は山口高校に合格して通っていたのだが、その女子生徒もどうやら山口高校の女子学生であるようだった。

 ちなみにこのとき、藤井は自分たちの世界に入ってしまっており、僕に見られていることには気が付いてはいないようだった。

 僕はその光景を見て本当に絶句してしまった。

 というのも、山口高校には僕の友人もたくさん行っていたのだが、彼ら山口高校の学生というのはこういうことをやらない奴らばかりだったのである。

 また僕の友人達以外の山口高校の学生も、こういう事を公衆の面前でやる奴はいなかった。

 だから、このとき僕は本当に驚いてしまったのだ。

 僕はとにかくそれを見て「うっわー、みんなの目の前で女とキスしちゃってんな、藤井。すげぇわ」と思いながら、そそくさと奥の車両に移動した。

 ちなみに、この藤井という姓は、藤原秀郷という天皇に近い位置にある東日本の武家の起源を持っている可能性があるようだ。

 

・僕は野田学園高校に通学する為に山陽本線山口線を走る電車を利用した。

 そして、その際に嘉川駅という山口市南部にある駅を利用したわけだが、これはその嘉川駅で起きた出来事についての話である。

 僕は野田学園高校から家に帰る際、嘉川駅という山口市南部にある駅を利用していた。

 そして、ある時期そこで、松崎紀彦という中学時代の同級生に、絡まれたことがあるのだ。

 松崎は高校が終わった後の放課後、どうやら嘉川駅の構内のベンチに座りだらだらと時間を潰すという習慣があったらしい。

 そこで、帰宅途中の僕と鉢合わせることがあったのだ。

 その際に松崎は「お前、柔道部入ったんだって? 俺とタイマンしようぜ」と僕に喧嘩をしようと何度も提案してきた。

 僕は柔道をやっていたので、普通の素人と喧嘩をやっても、まず負けない自信があった。

 ただし、僕は「自分がここで暴力をふるえば、柔道部全体に責任が行くな」と思い、提案には乗らなかった。

 松崎は僕が喧嘩を断ると不満そうに舌打ちなどをしていた。

 ちなみに、一応ここで書いておくと柔道というのは日本の伝統的な武術を元にした格闘技である。

 そして、この松崎という姓は藤原秀郷という天皇の系に近い位置にいる東日本の武家に起源を持っている可能性があるようだ。

 

 

・僕は野田学園高校に通学する為に山陽本線山口線を走る電車を利用した。

 そして、その際に嘉川駅という山口市南部にある駅を利用したわけだが、これはその嘉川駅で起きた出来事についての話である。

 僕は野田学園高校への登下校時には偶然一緒になった友人と話をするのが常だったのだが、その友人の中には前述した岡村智章という佐山に住む友人もいた。

 あるとき、僕がこの岡村と電車に乗って話をしていると、嘉川駅辺りで中学時代の不良グループにいた磯部さんと一緒になった。

 そして、電車の中で磯部さんは岡村に対してイチャモンを付け始めてしまい、攻撃をし始めたのだ。

 ただし、岡村は磯部さんの言っている事をひたすら無視していた。

 僕は磯部さんに「まぁまぁ勘弁してあげてくださいよ」などと言い、岡村を一生懸命庇う羽目になった。

 その後、磯部さんは去っていった。

 僕はその後、岡村に「おいおい、あんなのハイハイ適当に話を合わせておけばいいじゃないか」と言った。

 すると岡村は「うん? めんどくさいからいいや」などと適当に答えていた。

 ただ、僕はこのとき「なぜ、磯部さんは俺の友人にはよく絡むのに、肝心の俺には絡んでこないんだろう」と不思議に思っていた。

 ちなみに、一応書いておくのだが、電車というのは日本語の名称をした乗り物である。

 またこの磯部という姓については度会神主流であり、磯部氏というのは度会氏と同じ氏のようである。

 そして、この度会氏については神別氏族であるということらしい。

 このことから、どうやら度会という氏族は、天皇に近しい氏族であるようだ。

 

 

・僕は野田学園高校に通学する為に山陽本線山口線を走る電車を利用した。

 そしてこれはその電車の中で起きた出来事についての話である。

 僕は野田学園高校に通っていたわけだが、その野田学園高校の普通科には矢儀卓史という幼馴染も通っていた。

 そして、この野田学園高校の普通科には中学時代の不良グループの人も一人ほど通っていたわけである。僕はその人はサッカー部に所属していたと記憶しているのだが、名前についてはまるで知らなかった。

 あるとき、このサッカー部の人は電車の中で矢儀に攻撃的な口調で絡み始めた。そして、その後、近くにいた僕にも絡み始めたのである。

 このサッカー部の人はまず僕に対して「携帯電話のアドレス帳を見せてみろよ。どうせお前、友達なんて全然いないんだろ」などと言ってきた。

 僕は「はぁ?」と思いながら、携帯電話のアドレス帳を見せた。

 僕は学生時代、女子からは全然人気が無かったのだが、男子の友人はそこそこ多かったのだ。

 僕の携帯電話のアドレス帳にはこのとき50~60人程度の友人のアドレスが入っていた。

 すると、そのサッカー部の人は「お前、友達、多いじゃねーか!」と驚いたような苛立ったような口調で口走り、舌打ちをした。

 そして、その後、このサッカー部の人は不思議なことを言い始めた。

 この人は僕の高校時代の柔道部の先輩である渡邉さんと仲が良かったようであり、僕が柔道部に所属していることも知っていた。

 そして、このサッカー部の人は、「お前さ、ナベちゃんが普段、お前の事をどう言っているのか知っているのか。あんまり調子に乗らない方がいいぞ」と神妙な口調で言ってきたのである。何かそこには「しょうがないから、教えておいてやるか」という雰囲気も少しだけ入っていた。

 僕はその後、渡邉さんが僕に対してどう言っているのか、ちょっと気にするようになってしまった。

 ちなみに、一応書いておくのだが、電車というのは日本語の名称をした乗り物である。 

 

 

・僕は野田学園高校に通学する為に山陽本線山口線を走る電車を利用した。

 しかし僕は時々、山口市の小学校に勤務している母の車に乗って通学をすることもあった。

 単純に自動車を利用した方が電車を利用するよりも早く野田学園高校に到着することが出来たのだ。

 しかし、僕はそもそも、両親の車に乗るのがあまり好きではなかった。

 というのも、これは僕が子供の頃からずっとそうだったのだが、僕の両親が車を運転していると、危険運転を仕掛けてくる車がかなりの頻度でやってきていたからだ。

 危険運転を他の車に仕掛けられるたびに、父は酷い悪態を付いたりした。また母などは父ほどは運転が上手くなかった為、危険運転を仕掛けてきた車に対して、よく急ブレーキを踏む羽目になっていた。

 そしてそれは高校の通学のときにも一緒だった。

 僕はこの辺りでもう「ああ、これ、なんだかよくわからないけど社会全体から攻撃されまくっているな」と感じていた。

 僕はこの頃にはもう、いっさい社会を信じないようになっていた。

 

 

・これは僕の高校時代の家庭での過ごし方についての話である。

 僕は高校に進学してからというものの、何か完全に人生のやる気を失ってしまっていた。

 そして、僕はそのうち、深夜、ケーブルテレビに入っていたキッズステーションという衛星放送を見るようになっていった。

 そこでは少し前のアニメの再放送などをやっており、僕は朝の1時から4時にかけて深夜アニメを視聴するようになったのだ。

 だから僕は高校時代にかなりアニメを観ることになり、相当にアニメには詳しくなった。

 またこのケーブルテレビにはチャンネルnecoという邦画などを流すチャンネルも入っており、僕はよく物凄いマニアックなVシネマや古い日本映画をときどき観ることになった。

 僕は例えば増村保造監督の卍や田口哲監督の女王蜂などを視聴していた。

 僕はこうして深夜にアニメや映画などを観るようになったせいで、高校時代は授業中に寝ることも多くなった。

 今にして思うと、これは睡眠時間が中学時代に比べて、さらに短くなったからだろう。

 ただし、僕は「案外これは良い事だったのかもしれない」と後から振り返って思うのだ。

 というのも、そもそも僕は山口県山口市江崎の住所では、もともと住居の問題からまともに眠れてはいなかったのである。

 そして、そもそもまともに眠れていなかったのであれば、そこで眠らずにアニメや映画を観ても睡眠時間は変わらなかったはずなのだ。

 

 

・これは僕が高校時代に体験したインターネットについての話である。

 僕は小学校高学年辺りからインターネットを利用していたと思うのだが、高校時代に入った辺りでとあるホームページにある掲示板に通うようになった。

 前述したとおり、僕の幼馴染には伊藤浩平という男がいたのだが、彼は宇部市の高校に通っていた。そして、珍しい事に伊藤浩平の同級生はホームページを持ち運営をしていたのだ。

 僕は伊藤からそのホームページを紹介してもらい、そこの掲示板で宇部市の学生とコミュニケーションを取ることになった。僕はそういうインターネット上でのやり取りが初めてだったので、かなりはしゃいでおり、積極的に書き込みをしていた。

 このホームページを運営している人のハンドルネームはセレネと言い、僕はこの人とは掲示板でまともに会話が出来ていた。

 しかし、僕はこの掲示板にいた、もう一人の人とはまともに会話が出来なかった。

 僕はそのうち、この人に掲示板上で攻撃をされるようになってしまった。

 伊藤もそのやり取りを見て「お前、あの掲示板でのやり取りはなんだ? ちょっと不味いぞ」と言って来るようになった(ただし、伊藤浩平はこの掲示板にはあまり書き込みをしていない)。

 それから、僕はインターネットでのやり取り自体がすっかり苦手になっていってしまった。

 その後、僕は2chという匿名掲示板に入り浸るようになり、そこを経由してアンダーグラウンドというインターネット上の下層にあった違法地帯に行くようになった。

 僕はそのアンダーグラウンドで18禁の同人誌を手に入れたり、偽装gifに埋め込まれたデータを拾うようになっていった。

 また、そのアンダーグラウンドには隠されたリンクなどもしばしば設置されており、僕はそういった場所で色々と遊ぶようにもなっていった。

 

 

・これは僕の幼馴染である伊藤浩平という人物についての話である。

 前述した通り、僕の幼馴染には伊藤浩平という男がいた。

 そして、伊藤は高校は宇部市の方に行くようになり、宇部市でアルバイトをするようになっていた。

 そして、伊藤はこの高校時代に僕に対して奇妙な事を言っていたのだ。

 彼は宇部市の飲食店でアルバイトをしていたそうなのだが、そのアルバイトの最中に相当に酷く仕事の指導をされていたらしい。

 そして終いにはアルバイトの先輩から殴られてしまい、それが原因で失神をして倒れてしまったらしいのだ。

 伊藤はこの事を受けて、僕に対して「働くってのはな、本当に厳しいことなんだぞ」などと語っていた。

 僕はそれを聞いて「いや、そこまでの事って起きなくないか?」とかなり疑問に思ってしまった。

 ちなみに一応書いておくが、宇部市という市の名称には宇という漢字が使われている。

 この宇という漢字には空や宇宙といったニュアンスがある。

 そして、空や宇宙というものは標高の高い位置に見ることが出来るものである。

 それから、山口市という市の名称は山の入り口という意味を表しているようである。

 そして、山の入り口というものは、しばしば標高の低い位置にあるようだ。

 この国の古代において、皇家は民の身分を姓と住所と職業という三つの要素で決定したそうだ。その要素から考えると、市というのは住所名に該当するわけだ。

 そして、この宇部市山口市という二つの市の名称はそれぞれ標高の高さと標高の低さを指し示しているようである。

 

 

・これは僕の幼馴染である中村悠という人物についての話である。

 前述した通り、僕の幼馴染には中村悠という男がいた。

 中村は父が北海道出身のデザイナーだったのだが、この父の仕事というのは、いまいち上手く行かなかったようだ。

 そして、その結果として家の中がゴタゴタしてしまい、中村悠の母親はこの北海道出身の夫と離婚してしまったようだった。

 だから、中村悠は中学校高学年のときには、母方の中村家の所有していた小郡の町にある家に引っ越しをしていたのだ。

 ちなみに、この中村悠の家というのは小郡辺りに不動産をたくさん持つ裕福な家だったようである。

 その後、僕は高校時代にこの中村の家に遊びに行ってみたことがある。

 その際に、僕はリビングでこの中村悠の姉と非常に久しぶりに対面した。

 中村悠の姉はけだるげにソファーの上で眠っており、僕に気が付くと「なんだ、宏樹か」と言って眠そうに笑い、いきなり僕の目の前で着替え始めてしまった。

 ここで一応書いておくと、中村悠の容姿は中性的で非常に美しかった。

 そして、中村悠の姉もまた、中村悠ほどではないが、美しかったと思う。

 僕は、その展開を受けて気まずくなり、即リビングから出ていくことになった。

 また、中村悠は弟を少し虐めたりするようになったということだった。

 僕はこのとき「中村の家が何か変な事になっている」と感じてしまった。

 その後、僕は中村悠の母から「悠の友人が不良ばかりになり、家が不良の溜まり場になってしまって困っている。また原田君が遊びに来てくれないかしら」というよくわからない相談を受けてしまった。

 だが、僕は柔道部で忙しかった為、放課後に小郡の町に寄るのが難しかった。

 だから、そこまで中村悠の家には行けなかった。

 その後、僕は中村悠の姉が葬儀屋に就職したと聞いた。僕は中村悠の姉が頭が良く山口高校を出ていたのを知っていたので、それをちょっと意外に思った。

 そして、中村悠はそれからニートになったようだった。

 僕はこの中村悠の家について、後になって思い返してみて妙な事を考えてしまったのだ。

 「北海道出身の父が家を離れると、中村の家は滅茶苦茶になったな」と。

 特に僕がひっかかったのが、中村悠の姉が満足に眠れていなかったような様子をしていたことである。

 僕は、「恐らくあの人は、中村悠の不良の友人が家に来て夜騒いだせいで眠ることが難しくなったのではないか」と後になって考えたのだ。

 また、僕は後になってこの家の事を振り返ってこうも考えてしまったのだ。

 「また俺が遊びに行っていた家がおかしくなったな」と。

 

 

・これは僕の高校時代の同級生である町田という人物についての話である。

 僕が野田学園高校の一年生の時、町田という男が同級生にいた。

 この町田という男は僕と同じく、相当の遠方から高校に通ってくる男であった。

 しかも、この町田は僕と同じくパソコンが好きな友人であり、自作にまで手を出している男だった。

 ただし、彼は中学時代バスケットボールをやっていたそうであり、顔も相当に良い部類であり、クラスの女子からは人気があった。

 僕は彼とかなりPCソフトの交換をしたのだが、なぜ彼が女子から人気があるのか、かなり謎だった。

 というのも、彼は僕の趣味にかなり付いてくる、かなりレベルが高いオタクだったからだ

 そして、僕はこの男と仲良くしていたのだが、彼には妙なところがあった。

 彼はなぜか、ときどき僕に対して攻撃的な挑発をしてきたのである。

 例えば、彼はゲームセンターでバーチャロンオラトリオタングラムというゲームをよくやっていたらしく上手いということだった。

 そこで彼は僕に対して、ちょっと挑発をしながら「俺と対戦しようぜ」などと提案してきたのである。

 だが、僕はこのゲームをプレイしたことが無かった。しかし、僕は町田の提案を受けた。

 僕はその当時、ゲーメストというゲームセンター専門雑誌を購読しており、その雑誌の内容をほとんど憶えてしまっていた。そして、そのゲーメストの紙面の中に、バーチャロンオラトリオタングラムの操作方法が乗っていたのである。

 僕はこのゲームがとにかく両レバーを外から内に動かして出すジャンプキャンセルで相手の方向を向くという行動が強いことをあらかじめ知っていた。

 だから、僕は町田との対戦が始まるや選択したライデンでジャンプキャンセルレーザーを連発した。すると町田はそれだけであっさりと落とされてしまった。

 ここで、とても意外な事が起きた。町田はこの事にひどく衝撃を憶えていたのである。

 僕はその町田の反応に逆にびっくりしてしまった。「なんでそんなに衝撃を受けているんだ? たかがゲームじゃないか」と。

 その後も、町田は僕と基本的には仲良くするのだが、ときおり、攻撃のようなことをしてきた。

 例えば、僕は野田学園高校の最初の期末テストの際、テスト前に珍しく、頑張って一夜漬けをしていた。

 しかし、僕はゲームのし過ぎでグラマーの一夜漬けが間に合わず、テスト当日の朝の教室でグラマーの暗記をすることになった。

 すると、この町田が僕のグラマーの暗記をふざけながら邪魔してきたのである。

 僕はその結果として、テストの点数がグラマーだけ低いということになった。

 僕はグラマーの点数が低かったせいで、このとき学年一位を逃してしまい、学年二位になってしまった。

 ちなみに、このときの学年一位は田中政旭という男であった。

 僕はそれを受けて「中学のときも岡村が一位で俺が二位とかだったよな」と少しだけ既視感をおぼえた。

 その後、町田は僕の試験の結果を見て唖然としていた。

 町田は「嘘だろ、お前、成績良いのかよ」などとぼやいていたのだ。

 僕は学年一位が取れなかったのはどうでも良かったが、町田のその反応は変に思った。「何がそんなに意外なんだ?」と不思議に感じたのだ。

 その後、町田は不登校になってしまった。

 それから、彼は学校を辞めて山口市パソコン工房で働き始めた。

 だから僕は、彼の名前はわからない。卒業アルバムに載っていなかったからだ。

 ちなみに、この町田という姓については、東日本の東京都に町田市という市の名称があるようだ。ただし、この町田という名称は町という漢字の中に田という漢字が入っており、、田も末尾に付いている。

 そして、田という漢字は東南アジアや中国から伝来した作物の栽培地の名称を示すものであるようだ。

 

 

・これは僕の高校時代の同級生である田中政旭という人物についての話である。

 僕が通っていた野田学園高校の同級生に田中政旭という男がいた。

 この男は勉強熱心であり、とても頭が良かったのになぜか野田学園高校の特進科に在籍していた。僕は「この田中って、なんで山口高校に受からなかったんだろう」とかなり不思議に思ってしまった。

 彼は学校の成績が良いだけではなく、全国で開催される実力テストの成績もとても良かったからである。

 後になって聞いたところによると、彼はテストを受ける際になぜか腹痛になるらしく、それで良い成績が取れないことがあるらしかった。

 そして、彼はセンター試験の本番もちょっと失敗をしたようで、そこまで点数は高くなかった。

 ちなみに、僕のクラスで大学受験時に、センター試験の点数が一番高かったのは、確か横山周太であった。

 この横山という姓については元東京都、埼玉県広域、神奈川県北部の辺りに起源を持っている可能性があるようだ。

 また、この横山という姓の末尾は山という標高の高い地域の名称を指し示す漢字で終わっている。

 

 

・これは僕の高校時代の同級生である林広樹という人物についての話である。

 僕が通っていた野田学園高校の同級生に林広樹という男がいた。

 僕は野田学園高校に一年生のとき入学した際、身体検査か何かの学校行事で五十音順に整列をして、保健室かどこかの前で行列を作ることがあった。

 そして、僕の前に並んでいたのがこの林広樹であった。

 林広樹は僕に対して「やっぱり、君も山口高校に落ちて野田学園に来たのか?」と世間話を振ってきた。

 僕は「まぁね」などと答えた後に話の流れ的に思わず普通にこう続けてしまったのだ。

 「実はさぁ、山口高校の試験を受けたときに、試験の解答用紙に名前欄が無かったんだよね。それで名前を書き忘れちゃってさ」と。

 林広樹は「ええ? 名前書き忘れて落ちたの? それって原田君、凄い頭いいんじゃない?」などと返してきた。

 僕は「やっぱり、試験の解答用紙に名前欄が無かったという所は流されるんだな」と感じながら適当に相槌を打っておいた。

 ただし、この件については、記憶がちょっとだけあいまいである。僕は試験の解答用紙に名前欄が無かったと語った憶えはあるのだが、ひょっとすると、名前を書き忘れたとだけ言ったのかもしれない。

 

 

・これは僕の高校時代の同級生である林広樹という人物についての話である。

 僕が通っていた野田学園高校の同級生に林広樹という男がいた。

 この男はときおり、僕と物事を張り合う癖があったのだが、彼はあるとき美術の時間に僕と「どっちが絵が上手いか学食のジュースでもかけようぜ」と言ってきた。

 僕はそのことを了解した。

 野田学園高校の美術の授業では油絵を使うことがあった。

 僕たちはとりあえず、この油絵の内容でどちらの絵が上手いのか競うことになった。

 それから、僕たちは学校の外に出て、小さなボードに油絵を描いた。僕はふざけて赤系色のみで道路を描いた。

 林はそれを見て「終わっている」などと言ってゲラゲラ笑っていた。僕もゲラゲラ笑っていた。

 しかし、その後、思いもよらないことが起きてしまった。

 美術の岸田源太郎先生はその後、生徒達が描いた油絵を黒板に並べ始めて寸評をし始めてしまったのだ。

 僕は「やっべえな。明らかにふざけて描いてるのが先生にはバレバレかな」と内心冷や汗をかいてしまった。

 それから美術の岸田先生は「みんな全然駄目。遠近法が出来ていない。だから遠近感が出ていない、出来ているのはこの絵と~」と上野太嗣の絵を指して、その後、僕の描いた絵の前で足を止めた。

 それから岸田先生は「この絵を描いたのは誰だ?」と言い出した。僕は恐る恐る手を挙げた。

 すると岸田先生は「お前、面白いな。美術部に入らないのか?」と言ってきた。僕は「いえ、柔道部に入っているので」と答えた。

 岸田先生は「この絵も遠近法がちゃんと出来ている。出来ているのはこの二枚だけだな」と言い授業を終えた。

 僕はそれから林に対して「おい。勝っただろ、これ」と笑いかけた。

 しかし林は「ズルだろ、あんなの」と言い、賭けの約束を反故にしてしまった。

 僕は学食のジュースを奢って貰えなかった。

 ここで、興味深いのが、油絵というのはヨーロッパで生まれた画材であり、ジュースというのが英語の名称をした飲み物であることだ。

 ちなみに、この林という姓については、嵯峨天皇が編纂を命じた新撰姓氏録という目録に記載がある。

 ただし、林という姓については皇別氏族に林朝臣、神別氏族に林宿祢、諸蕃・未定雑姓に林連(百済系移民)という三種の記載があるようだ。

 また、この林広樹については名前の末尾の音がロキで終わってしまっている。

 このロキという名称については、北欧神話に同じ名称があるようである。

 ロキは北欧神話においてはアース神族を滅ぼす為に戦う邪神であり、キリスト教においてはサタンと同一視される存在であるようだ。

 そして、僕の原田宏樹という名前の末尾もロキで終わってしまっているようだ。

 

・これは僕の高校時代の同級生である林広樹という人物についての話である。

 僕が通っていた野田学園高校の同級生に林広樹という男がいた。

 そして、この男は中学時代にサッカー部に所属していたようであり、サッカーが上手かったようだ。 

 野田学園高校では体育の授業のときにサッカーの試合をすることが多かった。

 そして、そのサッカーの試合の際に、林はディフェンスをしている僕に対して、真正面から肘で顔面を殴ってきて、ひるんだ隙にドリブルで抜き去るという事をやってきたことがあるのだ。

 僕は授業の後に「お前さぁ、口の中切れたじゃねーかよ」と林に愚痴を言った。

 しかし林は「あれは、審判に見られてなかっただろ? だからファウルにならなかった。サッカーってのはああいうことが出来ないとダメなんだよ」などと笑いながら言った。

 僕は「まぁ、それはそうかもな」と納得をした。

 ちなみに、ここで書いておくと、サッカーというのはヨーロッパで生まれた競技であり、それをスポーツとして規定したのはイギリスという、この地球において高緯度の地域にある国のようである。

 また、この林広樹は山口市の湯田の辺りの学校に通っていたと僕は話に聞いた事がある。

 この湯田という名称の音はユダであり、ユダはキリスト教においてはキリストを売った男という扱いを受けているようだ。

 

 

・これは僕の高校時代の同級生の女子達についての話である。

 僕は一年生のときクラスにいた竹内由衣という女子に、「原田君ってさ、ガンダムとか好きなの?」と聞かれて「うっせーな」などと言う粗雑な返し方をしてしまったことがあった。

 僕は竹内の事が少しだけ気になっていた為、いきなりガンダムの話を振られて、嫌になってしまったのだ。

 その後、竹内は学力が足りずに特進科から普通科編入してしまったのだが、どうやらこの辺りの事が、クラスの女子達には気に入らなかったらしい。

 それから、クラスの女子達は僕に対して、ひたすら陰口を叩くようになってしまった。

 冨金原徳子、福島佳子、安光紀子、松永恵美、この辺りの面子が僕に対して陰口を叩くようになったのだが、特にひどかったのが冨金原徳子、福島佳子の二人だったと僕は記憶している。

 ちなみに、この冨金原徳子という名称について考えてみると、まずこの冨金原という姓については島根県西半部の石見起源と言われているそうだ。

 まず、島根県という土地は古代において出雲族が生息した地域であり、東北地方とも積極的に交易をしていた所である。

 ではこの、冨金原という姓の語はどうかと言えば、まず富という漢字が田末尾で終わっており、金という漢字は黄色に光る暖系色であり、原という漢字は小という大きさを指し示す概念で終わっている。

 そして、この冨金原という姓は三文字姓である。

 ちなみに、三種の神器、御三家、三井、三菱などなど、この国においてはしばしば三という数字は縁起の良い数字として重宝された。

 ロシアの昔話の研究家であるプロップが魔法物語の構造において言及するところによれば、三というのはファンタジー世界において魔法の成立する数字であるようだ。

 それから、この冨金原徳子という姓名の名前である徳子というものについて考えてみよう。

 まず、徳という漢字は古代の日本において、推古天皇が冠位十二階という制度の中で一番位が上と定めた漢字であるようだ。

 次に子という漢字がどうかと言えば、子というのは一般的には背が低く小さいものであるようだ。

 では福島佳子という名称について考えてみると、まずこの福島という姓については東西どちらにもその起源となる土地があるようだが、福島県という東日本の都道府県が著名であるようだ。

 また、この福島という名称について考えてみると、福という漢字は神道における福の神を想起させるものであり、呪術的な要素を含んでいると言えるだろう。

 それから、島という地形について考えてみると、地球の歴史において奴隷の活用によって産業革命を実現し資本主義を創造したイギリスという国は島国であった。

 さらに言えば島という漢字は山という漢字がその末尾に来ている。

 ここで面白い事は、資本主義という社会制度が最後は山と島という地形に収束した所である。

 これは良く知られていることかもしれないが、世界の資金というのは、スイスという高緯度高標高地域の国家にある銀行と、カリブ海の英領バージン諸島、ケイマン諸島などの島にある銀行に最後には集まってしまったのだ。

 つまるところ、島と山という漢字は資本主義という社会制度においては強い土地であるという意識付けがされてしまっているようである。

 

 

 そして、この福島の名前である佳子というものにもまた、子という漢字が付いているようだ。

 ちなみに、最後に書いておくと、この竹内由衣という同級生は野田学園卒業後に同じく僕の同級生である鈴木景太と付き合ったらしい。

 そして、この鈴木という氏族は東日本の代表的氏族であるようだ。

 

 

・これは僕の高校時代の同級生である前田新太郎という人物についての話である。

 僕が通っていた野田学園高校の同級生に前田新太郎という男がいた。

 この男はかなりおちゃらけたふざけた性格をしており、僕はときどき、この男にからかわれた。

 僕は高校時代に携帯電話を入手した。そして、それを制服のポケットに入れて高校に行っていたわけだが、この携帯電話を利用して妙ないたずらをされた事があった。

 それは数学の授業の時間のことである。

 僕が数学の時間、教師に言われて黒板の前で数学の問題を解いていると、この前田が何度もワンコールを僕のポケットに仕掛けてきた。

 ただし、僕は携帯電話をマナーモードに設定していた為、携帯電話は震えるだけで終わっていた。僕はポケットの中で携帯電話が震えるのを受けて、少し体を震わせてしまった。

 前田はそれを見て「バイブで体ビクビクさせてじゃねーか」などと笑っていた。

 僕は「お前、ふざけんのもいい加減にしろよ」などと少し怒った。

 ちなみに、携帯電話というものは日本語の名称をした機械装置であり、電話というのも日本の名称をした行為である。

 そして、この前田という男は実を言えば東京に本社がある前田建設の一族の一人であったようだ。

 また、戦国大名の前田家は徳川将軍家との姻戚関係が強く、松平を名乗っていたことがあるそうだ。

 しかし、前田という姓については、田という漢字が末尾に付いている。

 そして、この田という漢字は東南アジアや中国から伝来した作物の栽培地の名称を示すものであるようだ。

 

 

・これは僕の高校時代の同級生である前田新太郎という人物についての話である。

 僕が通っていた野田学園高校の同級生に前田新太郎という男がいた。

 彼は珍しいことに学外で音楽バンドを組んでいた。ちなみに担当はボーカルだったそうだ。

 彼はそのせいか、僕や鈴木景太、竹重義之、田中健也などといった山口市在住の友人を誘い、ときどきカラオケに行くようになったのである。

 前田は音楽バンドのボーカルの練習をしたかったらしい。

 彼のこのカラオケの誘いは本当にしつこくて、僕は高校時代は年がら年中カラオケに行っていたと思う。

 ただ、僕は彼と一緒にカラオケをやっていて不思議にも思ったのだ。

 というのも、この前田という男が正直そこまでボーカルが上手くはなかったからである。

 正直なところを言えば、僕の方が前田よりもカラオケは上手かったと思う。

 そのせいで、僕には彼がなぜバンドのボーカルをやれていたのか、というのがちょっとだけ疑問であった。前田はビジュアル系の音楽バンドに参加をしているとのことだった。

 それから一応ここで書いておくと、僕の同級生には佐々木大地という男がおり、この男はイエローモンキーのコピーバンドをやっていた。

 彼はすさまじい歌唱力を持っている上に、楽器もきちんと弾けていた。

 僕は彼の歌を聞いて「佐々木は歌が上手いな」と思っていた。だから、この話については、僕がそこまで歌が上手いというわけではなかったのだ。

 ちなみに、音楽バンドというのは西洋の音楽様式の一つである。

 そして、この前田という男は実を言えば東京に本社がある前田建設の一族の一人であったようだ。

 また、戦国大名の前田家は徳川将軍家との姻戚関係が強く、松平を名乗っていたことがあるそうだ。

 しかし、前田という姓については、田という漢字が末尾に付いている。

 そして、この田という漢字は東南アジアや中国から伝来した作物の栽培地の名称を示すものであるようだ。

 

 

・これは僕の高校時代の同級生である前田新太郎という人物についての話である。

 僕が通っていた野田学園高校の同級生に前田新太郎という男がいた。

 この前田という男は背が高く、スラっとしており、女にモテたようである。

 前田は僕に対して女とのセックスの話をときどきしてくれた。

 前田が言うには「セックスというのはなかなかに難しい」ということで、彼の話は大変興味深かったのをよく覚えている。

 そして、この前田という男は実を言えば東京に本社がある前田建設の一族の一人であったようだ。

 また、戦国大名の前田家は徳川将軍家との姻戚関係が強く、松平を名乗っていたことがあるそうだ。

 しかし、前田という姓については、田という漢字が末尾に付いている。

 そして、この田という漢字は東南アジアや中国から伝来した作物の栽培地の名称を示すものであるようだ。

 

 

・これは僕の高校時代の同級生である前田新太郎という人物についての話である。

 僕が通っていた野田学園高校の同級生に前田新太郎という男がいた。

 この前田という男は実はあまり頭が良くなく、大学受験についてはほとんど投げやりという態度を取ってしまっていた。

 ときどき、前田は僕に対して「一緒に勉強さぼろーぜ」という雰囲気を醸し出すくらいだったのだ。

 僕は高校三年時、それなりに一生懸命勉強をし始めており、授業中、真面目に問題を解いていた。

 すると、この前田は前に座っている僕に対して、シャープペンを突き刺してきたのである。

 僕はこのときは流石にキレてしまい、後ろを振り返って前田を睨みつけた。

 すると、前田はつまらなそうに拗ねてしまった。

 そして、この前田という男は実を言えば東京に本社がある前田建設の一族の一人であったようだ。

 また、戦国大名の前田家は徳川将軍家との姻戚関係が強く、松平を名乗っていたことがあるそうだ。

 しかし、前田という姓については、田という漢字が末尾に付いている。

 そして、この田という漢字は東南アジアや中国から伝来した作物の栽培地の名称を示すものであるようだ。

 

 

・これは僕の高校時代の同級生である太田保徳という人物についての話である。

 僕が通っていた野田学園高校の同級生に太田保徳という男がいた。

 この太田はどうも僕が柔道をやっているのが気に食わないようであり、ときどき僕に対してからかうような言動をしてちょっかいを出してきていた。

 しかし、彼には奇妙な所があったのだ。

 僕たちは三年生のときに体育の授業でサッカーの試合をやった。

 そして、僕はその際にボールをゴールポストに入れて得点を取ったのだ。

 すると、太田は僕の元に走り寄り、僕の体をがっしりと抱き上げて称えてきたのだ。

 僕は普段の太田の言動や態度を考えて、その動作に酷い違和感を覚えてしまったのだ。

 ちなみに、柔道というのは日本の伝統的な武術を元にした武道である。

 そして、サッカーというのはヨーロッパで生まれた競技であり、それをスポーツとして規定したのはイギリスという、この地球において高緯度の地域にある国のようである。

 最後にこの太田保徳という氏名についても書いておく。

 まず、この太田という姓は、藤原秀郷という天皇に近い位置にある東日本の武家の起源を持っているようだ。

 しかし、太田という姓については、田という漢字が末尾に付いている。

 そして、この田という漢字は東南アジアや中国から伝来した作物の栽培地の名称を示すものであるようだ。

 最後に、この氏名の末尾についている徳という漢字は古代の日本において、推古天皇が冠位十二階という制度の中で一番位が上と定めた漢字であるようだ。

 

 

・これは僕の高校時代の同級生である太田保徳という人物についての話である。

 僕が通っていた野田学園高校の同級生に太田保徳という男がいた。

 僕はこの太田に高校時代の間、からかわれたりちょっかいを出されたりしていた。

 そして、僕が高校三年生のころ、この太田は特に理由もなしに、僕をはたいてきたのである。

 僕は流石に怒ってしまい、太田に殴りかかっていった。

 しかし、僕がそうしようとすると、僕の友人である村中元が僕を後ろから羽交い絞めにして止めてしまった。

 僕はそれで興が削がれてしまい、太田をそれからシカトしてやり過ごすようになった。

 最後にこの太田保徳という氏名についても書いておく。

 まず、この太田という姓は、藤原秀郷という天皇に近い位置にある東日本の武家の起源を持っているようだ。

 しかし、太田という姓については、田という漢字が末尾に付いている。

 そして、この田という漢字は東南アジアや中国から伝来した作物の栽培地の名称を示すものであるようだ。

 最後に、この氏名の末尾についている徳という漢字は古代の日本において、推古天皇が冠位十二階という制度の中で一番位が上と定めた漢字であるようだ。

 

 

・これは僕の高校時代の同級生である太田保徳という人物についての話である。

 僕が通っていた野田学園高校の同級生に太田保徳という男がいた。

 僕はこの話について、よく知らないのだが、どうも、この太田は高校時代の最後の方に、林広樹と喧嘩をしたらしいのだ。

 そして、その後、この太田はいくらなんでも滅茶苦茶過ぎるという事で、クラスの男子からちょっとだけ嫌厭されてしまっていた。

 僕は後になって振り返って思うのだが、なぜ、太田は僕に対してそんなに突っかかってきていたのだろうか。

 僕はそもそも、この太田とはほとんど話をしたことが無かったのだ。

 そして、このとき、林と太田が揉めたという話も唐突過ぎて僕には意味がわからなかったのだ。

 いったいなぜ太田はあんなに人に突っかかっていっていたのだろうか。

 ちなみに、ここで書いておくと、原田宏樹、そして林広樹という氏名はいずれも末尾の音がロキで終わっているようだ。

 そして、このロキという名称については、北欧神話に同じ名称があるようである。

 ロキは北欧神話においてはアース神族を滅ぼす為に戦う邪神であり、キリスト教においてはサタンと同一視される存在であるようだ。

 

 

・これは僕の高校時代の同級生である上野太嗣という人物についての話である。

 僕が通っていた野田学園高校の同級生に上野太嗣という男がいた。

 この男は僕と同じ柔道部に入っており、僕はこの男と仲が良かった。

 この上野という男は父が山口県警察の機動隊の隊長をしているということであり、なかなか厳しく育てられたようだった。

 しかし、後年、この上野という男は奇妙な事を言っていたのだ。

 というのも、この上野は何か「虫の知らせ」という現象に多く遭遇していたようなのだ。

 どうも、何か不自然な流れで都合が良い出来事というのがしばしば起こることがあったそうなのだ。

 例えば、上野は「東京にいる親戚がらみの行事があったとき、とても都合の良いタイミングでその行事に参加が出来たりしたことが、これまでにあった」と僕に語っていた。

 上野はそれを「心霊現象のたぐいかもしれない」と語っていた。

 ちなみに、この上野という姓について語ると、まず上野という姓の名称は東京辺りにある地名が元になっているようである。また、上という単語は標高の高さを指し示すものであり、野という単語は地面を指し示すものである。

 次に太嗣という名について考えてみると、太という漢字は大きいことや、幅が広いことを指し示すものであるようだ。そして、戦後、この日本を統治したアメリカ人は体が大きいせいか、とにかく大きなものが好きな民族だったようである。

 そして、嗣という漢字は末尾が司という漢字で終わっている。

 この司という漢字には司祭等、少しだけ宗教的な意味合いがあるようだ。

 

 

・これは僕の高校時代の同級生である上野太嗣という人物についての話である。

 僕が通っていた野田学園高校の同級生に上野太嗣という男がいた。

 この男は高校二年生の頃、突然奇妙な事を言い出した。

 上野は「中学時代の友人が親を殺してしまい捕まってしまった」という話を僕にしてきたのだ。

 僕は真剣な面持ちでそれを聞いていたのだが、どうもその友人というのは家庭環境に問題がある人であったそうだ。

 これについては、どういうことなのかよくわからないのだが、僕はこの事を念のため記述しておこうと思う。

 

 

・これは僕の高校時代の同級生である清水大樹という人物についての話である。

 僕が通っていた野田学園高校の同級生に清水大樹という男がいた。

 僕は高校三年生のとき席替えで、この清水の前の席になったことがある。

 この清水という男はバンドをやっていたり、髪を整髪料を固めていたりと、不良のような外観をしていた。

 しかし、反面、清水は性格は穏やかであったようだ。

 僕はこの清水と田島昭宇の漫画について少しだけ会話をしたのを憶えている。

 ただし、僕はここで、学校という施設において考えたことがあるので、それを書いておこうと思う。

 まず、学校の教室の机には引き出しが付いている。そしてその中には教科書やノートを入れるのが常である。

 そして、教室に机が並んでいたとして、そこに生徒が座るとする。そこで生徒が普通に教科書やノートを引き出しから出し入れすると、そこに騒音が発生する。

 ここで、一般論を展開するが、動物というのは背後から予期できない音を出されるとそれを酷く不快に思ってしまうようだ。これは犬などに顕著な特性である。恐らくこれは動物が原始の狩猟時代に獲得をした生物学的な特性なのだろう。

 そして、ここで大切なことは〝人間はストレスを与えられた際、そのストレスを与えてきた人間にストレスを与え返さなければ、そこに身分が発生しているように強く錯覚する生き物である〟ということである。

 また、一般論で言えば、夜によく眠れる人間というのは心身ともによく成長するようになっているようだ。

 だから、よく眠って育った人間というのは一般的に言えば背が高くなるようである。

 そして、この国の学校施設ではしばしば背の高すぎる人間というのは、座るだけで他の人の視界をさえぎってしまうので、後ろの席に配置されがちであった。

 つまり、人間の特性から言えば、この国の教育施設において、背が高い人間というのはそれだけで授業中に集中して勉強が出来る環境を得られるようになっていた可能性が高いのである。

 

 

・これは僕の高校時代の同級生である山本俊輔という人物についての話である。

 僕が通っていた野田学園高校の同級生に山本俊輔という男がいた

 この山本という男は僕のオタク的な部分に対してひたすら攻撃を仕掛けてくるという癖があった。

 どうも、この山本は音楽や漫画などに造詣が深いようで、僕のアニメやパソコンなどの趣味が気に入らない節があったようなのだ。

 ただ、僕は彼がなぜそこまで僕のことをけなしたのかということについて、その理由はよくわかっていない。

 ちなみに、アニメやパソコンは、英語の名称をした娯楽や機械装置である。

 また、彼は僕の山本の家の遠い親戚の人間であるということだった。

 この、山本という姓について考えてみると、この山本という名称が山の麓を表している事がすぐにわかる。

 よって、この山本という名称は標高の低さを表している。

 そして、実は、日本という名称についてもこれは同じである。

 日本という名称は日の本にあるという意味であり、この名称もまた、標高の低さを表している。

 

・これは僕の通っていた野田学園特別進学コースにおける、男子生徒と女子生徒の関り合い方についての話である。

 僕の通っていた野田学園高校の特別進学コースというのは私立の進学校における進学コースという特殊な環境のせいもあってか、男女比が明確におかしかった。

 この野田学園高校の特別進学コースにおいては文系コースが18人中4人、理系コースが19人中2人しか女子がいなかったのである。

 そして、女子の数が極端に少なかっただけに、〝女子達がどの男子達と会話をするのか〟というのは傍目には物凄いハッキリとわかってしまっていた。

 驚くべきことに、この野田学園高校の特別進学コースに所属する女子達が会話をするのは基本的には特定の男子達に限られていたのだ。

 この女子達からよく会話を振られていた男子達というのは以下の五人である。

 佐々木大地清水大樹、太田保徳、中川雅博、津田智史。

 まず、この五人の中の佐々木大地について考えてみよう。

 この佐々木大地の姓である佐々木というのは、どうも天皇の系に近しい氏族のようであり、日本の氏族の樹形図において、佐々木氏流という太い系を形成してしまっているようだ。

 また、この氏族自体、東日本に人口分布が広がっており氏族間で全国佐々木会という会を開いてもいるらしい。

 そもそも、この佐々木という名称は地名にもなっているようなのだが、この佐々木という名称は地名からすると古代にはミソサザイと書いてもいたそうだ。

 そして、このミソサザイという鳥は西洋では鳥の王様と呼ばれていたようだ。

 また、この佐々木氏は嵯峨天皇が編纂を命じた新撰姓氏録の中の皇別氏族の分類の中にその関連性を見ることが出来る。

 どうやら、佐々木氏は皇別氏族の中にある佐々貴山公という天皇系の氏族との関りもしばしば指摘されているのだ。

 つまり、この佐々木という姓の氏族は限りなく天皇の系に近いという扱いを受ける、公家に近い氏族のようであり、東日本の代表的な氏族でもあるわけだ。

 ただし、ここで断っておくが、この佐々木大地があたかも公家のようだったかと言えば全然そんなことはなかった。彼はどちらかと言えば朴訥な性格をしていたと思う。

 ちなみにこの佐々木は将来は農家になると言っていた。だから、ひょっとすると、実家が農家を営んでいたのかもしれない。

 そして、清水、太田という姓については前述した通り、藤原秀郷という天皇に近い位置にある東日本の武家の起源を持っているようだ。

 では中川についてはどうかと言えば、まずこの中川という姓において中という漢字は〝真ん中〟などを指し示しており、かなり優れたものを暗示しているようである。

 そして、この中川という姓においては川という漢字が末尾に来ている。まず、この川という漢字は三本線で書かれている。前述した通り、〝三〟という数字はこの国においてはしばしば縁起の良い数字として重宝されたようだ。

 また、川という自然の地形には水が流れており、そして、この川の中に流れている水は青空を反射して青く見えることが多い。青色という色は、しばしば青白い肌という白色人種の肌の色を暗喩する色として扱われるようだ。

 最後の津田という姓に関してはどうかと言えば、この姓は戦国大名である織田信長などと関係がある家という説もあるようではある。

 ただ僕はそれは今回の出来事にはいまいち関係がないように思えてしまう。

 津田という姓における津は海の津波を感じさせるものであり、海は標高の低い場所にあるものである。

 また津田という姓のうちの田という漢字について言えば、東南アジアや中国から伝来した作物の栽培地の名称を示すものであるようだ。

 僕にはこの津田という男がなぜ女子から人気があったのかいまいちわかっていない。

 彼は別に容姿が優れているわけでも勉強が出来たわけでも運動が出来たわけでもないのだ。

 なんにしても、僕は後になってこのときクラスで女子から人気があった男子達を振り返ってみて、不思議に思う事がある。

 僕には実を言えば野田学園の特別進学コースにおいて、他に人気がありそうな男子というのを何人か見ていたのだ。

 それは、林広樹と羽野雄太と上野太嗣である。

 しかし、不思議な事にこの三人はそこまで女子と話をしていなかったようだ。

 僕は特に上野太嗣という男は、本来であれば女子に人気があってしかるべきだと思ってしまうのだ。

 だから、僕は「なぜこの男が女子に人気が無かったのか」ということをのちのちに考えてみた。

 そして、僕は上野が柔道部に所属していたということが不味かったのではないかという結論を出した。

 ちなみにこれは「柔道が汗臭くてダサくて女子から人気が無い」とか、そういう話をしているのではない。僕が思うにこれは〝逆〟なのだ。

 何か僕はこの上野という男が日本の伝統的な武術を元にした競技に参加したことで、彼が持っていたであろう〝持ち点〟が消費されてしまい、彼がそのせいで女子からは好意的には扱われなかったという風にどうしても感じてしまうのだ。

 

 

・これは野田学園高校にいた平田みどりという教師についての話である。

 野田学園高校には昔、平田みどりという教師がいた。

 この教師は僕の高校一年次の担当の先生であり、この平田みどり先生は若い美人の英語の先生であったと記憶している。

 この教師はわりとまだ教師としては新米だった為か、クラスで担当している生徒の学習に対しては熱心な所があった。

 この野田学園高校の特別進学コースは進学コースと謳っているだけあって、学習指導が熱心だった。

 例えば、この特別進学コースでは学習時間に関するアンケートというものが設けられており、それに毎日の学習時間を記入させて提出させたりしていた。

 僕はそのアンケートに対して家での学習時間が0分だという風に記入して提出した。

 結局、僕は高校に入ってしばらくすると、試験の前の一夜漬けすらしなくなったからだ。

 また、僕は最初の方の試験こそ頑張ったものの、それであっさり学年上位の順位が取れてしまった為、「もういいだろ、勉強なんてさ。どうせやっても何にもならないんだし」と思い、それからは真面目にやらなくなっていた。

 すると、そこで奇妙な事が起こった。

 なぜか僕が所属していた柔道部の顧問である宮原健太郎先生が僕に説教をしてきたのだ。

 宮原先生は僕に「原田、お前、頭が良いのに家で全然勉強していないらしいじゃないか。この所、成績が落ちているとお前の担任の先生が言ってきたぞ。柔道をやっているから成績が落ちたのではないか、と。俺としてはお前は柔道よりも勉強を専念するべきだと思っている。人にはそれぞれ向き不向きがある。勉強が向いている奴は勉強をすれば良いんだ」などと言ってきた。

 僕は宮原先生の言っていることはもっともだと思った。だけど「試験に名前欄無かったら勉強なんてしても意味無いんじゃないですかね。また無いかもしれないしさ」とも思った。だから笑ってそれを受け流しておいた。

 ただ、僕はちょっとだけ不思議だった。何故平田先生は僕に直接言って来ずに宮原先生経由で言ってきたのだろうと。

 ただ今にして思うと、この平田先生の指導自体は至極当然のものだったと思う。学校は勉強する為の場所である。

 またこの平田みどり先生はクラスの女子達と、物凄い仲が良かった。そしてクラスの女子達は僕の事を虐めてた。

 だからだろうか、僕にはこの平田みどり先生はどうもそのいじめに加担しているようにも見えていた。ただし、これは単なる僕の被害妄想である可能性がある、と付け加えておきたい。

 それから、この平田みどりという教師はその後、産休で学校に来なくなってしまった。

 そしてそのせいで、英語の授業の進行が僕たちの学年は少し遅れてしまったと僕は記憶している。

 そのせいかはわからないが、結局、僕は高校に入ってから、なぜか英語がちょっとずつ苦手になっていった。

 

 

・これは野田学園高校で現代国語を教えていた常見雅男という教師についての話である。

 野田学園高校には常見雅男という教師がいた。この常見先生が担当していたのは現代国語の授業であり、またこの常見先生はクラスの担当の先生もしていた。

 この常見先生は一度、僕の親に対して奇妙な事をしてきた事があった。

 というのも、この常見先生は親と教師を交えた二者面談において、僕の母親に対して「原田宏樹君は成績が下がっていて問題だ」などとという事を言ってきたのである。

 それを聞いて僕の父は腹を立ててしまった。

 というのも、僕は学校の試験のやる気は無くて点数が低かったのだが、全国共通の実力テストの結果に関しては相変わらず学年でもそこそこ上の方に位置していたからである。

 それで、今度は父が二者面談に行く事になった。

 すると、不思議な事にこの常見先生は「前回は原田宏樹君の成績が下がっていて問題だ、と言ってしまったが、彼は実力テストの成績は良いんでしたね。すいませんでした」などと父には謝ったらしいのだ。

 ちなみにこの、常見先生は特別進学コースの女子達からなぜか人気があった。

 僕たち男子は「なんで常見先生って女子から人気あるんだろうな。藤重先生の方が面白いけどな」などとちょっとだけ不思議に思っていた。

 後になって、僕はこの常見先生の常見という姓について調べてみた。

 すると、この姓は現兵庫県である摂津国、現栃木県である下野国が起源のようであり、栃木県、群馬県など関東に多い姓のようであった。

 つまり、この常見という姓は、東日本に起源がある可能性が高い姓だったのだ。

 そして、現代国語というものは、日本の伝統的な言語である日本語について教える授業科目である。

 

 

・これは野田学園高校で柔道を教えていた宮原健太郎という教師についての話である。

 野田学園高校には宮原健太郎という教師がいた。

 この宮原先生が担当していたのは柔道の授業であり、またこの宮原先生は柔道部の顧問を担当していた。

 この宮原先生は国士舘大学出身であり、柔道八段を所有しており紅白帯を締めていた。

 しかし、この宮原先生についてはちょっと奇妙な話があったのだ。

 というのも、この宮原先生は昔、事故をしてしまい、その事故から来た腰の怪我のせいでオリンピック代表選手の選考を逃してしまったことがあるそうなのだ。

  また、この先生は生活指導を担当していたのだが、女子からはちょっと嫌われてしまっていた。しかし、その女子から嫌われている理由というのが「柔道着を着ていてキモイから」というものだったのだ。僕はそういう陰口を聞いたことがあるのである。

 ちなみに、この宮原という姓については嵯峨天皇が編纂を命じた新撰姓氏録にその記載がある。

 どうやらこの宮原という姓は諸藩の項目の百済渡来系の氏族に宮原宿祢という似通った名称の氏族がいたようだ。

 そして、柔道というものは日本の伝統的な武道を元にして作られた競技である。

 また、この宮原という姓について考えてみると、宮というのは神道の宗教施設を示したものであり、原というのは漢字の末尾が小という漢字で終わっているようだ。

 

 

・これは野田学園高校の柔道部についての話である。

 僕は高校に入ってから柔道部に入部したのだが、この柔道部というのは非常に変わっていた。

 まず、この柔道部は男女混成の部であり、男子の先輩と女子の先輩が両方いた。

 しかし、驚くべきことに男子部員はほぼ全員が金髪や茶髪をした不良のような人たちだったのだ。

 ただし、それで柔道が弱いか、と言えば全然そんなことは無かった。

 僕が入部したときにいた先輩たちは皆、柔道の中学校の選手権においてベスト8に入った猛者揃いであった。

 しかも、驚くべきことにこの先輩達は重量級の選手がほとんどいないのにも関わらず、団体戦でベスト8を取っていたのだ。これは本当に強者揃いだったと言えるだろう。

 しかし、どうやらその先輩たちは高校に入ると不良化してしまったのか、なぜか髪の色が茶髪や金髪になってしまっていたのである。

 僕はこの柔道部に入りこの金髪茶髪の先輩達と一緒に練習をすることになった。

 柔道部の先輩たちはいずれもこの山口市では最強格の人たちばかりだった。

 皆、個人戦では優勝するのが当たり前という感じで、相当に強かったようである。

 ただ僕は、「そもそも、宮原先生は生徒指導の先生なのにこの金髪茶髪はアリなんだろうか」とかなり疑問に思っていた。

 一応、宮原先生は先輩達に説教をしてはいたのだが、部員たちは「あー、はいはい」という感じでそれを流していた。

 ちなみにここで書いておくが、金髪や茶髪という髪の色は、一般的には高緯度、高標高地域に住む白色人種が持っているものである。

 また、野田学園高校という名称の中の野田という語句は、野という地べたを表す漢字と田という東南アジアや中国から伝来した作物の栽培地の名称を示す漢字で構成されているようだ。

 そして、柔道というものは日本の伝統的な武道を元にして作られた競技である。

 ここで重要なのが、この先輩達が中学生のときは皆黒髪をしていたということである。

 つまり、この柔道部の先輩たちは〝中学生の時は普通に柔道に触れることが出来ていたのに、高校生になると普通に柔道に触れることが出来なくなった〟という風にも見ることができるわけだ。

 僕は後になってこの事を考えて「高よりも中の方が強いもんな」と感じてしまった。

 

 

・これは野田学園高校の柔道部についての話である。

 この野田学園の柔道部には茶髪をした三年生の部長がいたのだが、僕はこの三年生の部長の姓をいまいちよく憶えていない。

 というのも、この先輩は部活に来なくなることが結構あったからだ。

 僕はこの部長の姓がなんとなく藤村というものだったという気はしている。なんにしてもこの部長には〝藤〟という感じが付いていたと記憶しているのだ。

 僕はこの部長について妙な事を憶えている。

 僕は柔道部に入部してすぐに大会に出場することになった。

 僕は大会の団体戦に出ることになったのだ。相手は下関市の高校の柔道部であった。

 僕はその際、先鋒として出場したのだが、その試合で相手選手にちょっと怪我をさせられてしまった。

 すると、部長がそれを見て怒ったような感じになったのだ。

 その後、部長は次鋒として出て戦い始め、僕に怪我をさせた下関市の柔道部員を投げた際にわざとかどうかはわからないものの、頭突きをかましてしまい、その柔道部員を病院送りにしてしまったのだ。

 確か、その後はそこから部長が連勝をしまくって団体戦は勝利したと記憶している。

 宮原先生はそれから柔道場でこのことについて「柔道というのはああいう事故がある。ああいうことは起こりえることなんだ」などと語り、愉快そうに笑った。

 しかし、不思議なことにその部長はしばらく練習に来なくなってしまった。

 その後、僕は妙な事にこの部長と道場門前商店街の中にあるデパート最上階のゲームセンターで再開した。

 部長は僕を見るなり「なんだ、お前。なんでゲームセンターにいるんだ?」と言ってきた。

 僕は「部長こそなんで? イケメンなのにな」と思いながら「僕は格闘ゲームやるんですよ」と言った。

 すると、この部長は「お前、格闘ゲームやるのか。じゃあストリートファイター対戦しようぜ」などとなぜか怒りながら言ってきた。

 僕は「僕はkof派なのでストリートファイターは出来ないですよ」と言ったのだが、部長は聞く耳を持たなかった。

 それから僕と部長はストリートファイターⅢ3rdstrikeで対戦することになった。

 部長の選択したキャラクターはケンだった。僕はその部長の選択したキャラクターを見て「うっわー、部長に顔も体付きもそっくりだわ、このイラスト」とびっくりした。

 僕はこのとき適当にリュウを選択した。

 ちなみに、このときのケンとリュウのキャラダイヤは6:4でケン有利という感じである。

 そして、部長は対戦が始まるなり、コア二連からヒット確認の疾風迅雷脚という下段択と、リープアタックの中段択の二拓を執拗に仕掛けてきた。

 僕はこのゲームをやったことが無かったため、リープアタックの速度が案外早くて戸惑ってしまい、そのせいで部長に普通に負けてしまった。

 このとき、部長はこのゲームの特色であるブロッキングを使わなかった。

 というか、驚くべきことに、山口市でこのゲームをプレイしていた格闘ゲームプレイヤーはブロッキングを使用していなかったのだ。

 しかし、このときの部長は、奇妙なことにブロッキング以外は非常に洗練された3rdのケンの動きをしていたのだ。

 僕はそれを見て相当にびっくりした。

 部長は明らかに格闘ゲームを「やっている」人だったからだ。

 そして、僕の経験上、格闘ゲームが強い人というのは何かろくでもない人生を歩んでいる人が多かったのだ。

 部長はそれから「お前、全然ダメじゃねーか。オタクっぽいんだから、ゲームくらい強くないとダメだろ」と怒りながら言ってきた。

 僕はそれからちょっと悔しくなり、ストリートファイターⅢ3rdstrikeをプレイするようになった。僕は執拗にブロッキングの勉強をした。

 しかし、いくら僕が強くなってもこのゲームでは最後まで部長より強い対戦相手が現れなかった。山口市にはこのゲームを真面目にする人がいなかったのだ。

 その後、僕はこの部長がカラオケのし過ぎでのどを壊して手術をしたなどという良くわからない話をポツポツと聞いた。

 部長は相川先輩とデスメタルバンドを組んでいたので、その練習でのどを痛めたのかもしれない。

 そして、そのせいか、この部長が部活に来ることはやはりあまりなかった。

 この部長は最後に大会で会った際、僕に対して「まぁ、お前も諦めるときは諦めろよ。駄目な奴は何やっても駄目だからな」などとしみじみと言った。

 この部長は創価大学に進学するとのことだった。

 僕は「創価大学? つまり創価学会か。ひょっとして部長は在日コリア系なのかな?」とちょっと思った。ただし、その推測が本当かどうかはわからなかった。

 

 

・これは野田学園高校の柔道部についての話である。

 僕は野田学園高校では柔道部に所属していた。そして、これは高校一年の夏休みの柔道部の練習のときに起きた出来事である。

 野田学園高校の柔道部は夏休みにも練習があった。

 しかし、僕が一年生のとき、先輩たちはなぜか皆練習に来なくなり、僕は相川という黒髪をした二年生の重量級の先輩とつきっきりで練習をすることになった。

 そして、僕と相川先輩は二人で練習をしていたのだが、相川先輩の大外刈りを受け続けるという練習の際に僕のあばら骨にヒビが入ってしまった。

 相川先輩はそれを知ったとき、とても気まずそうな顔をしていた。

 それから僕は、学校の授業にもいまいち集中が出来なくなってしまった。

 というのも、あばら骨にヒビが入ると呼吸をするだけであばら骨が動いてしまい、結構な痛みが走ってしまうのだ。

 また、僕はそれから柔道の授業を見学するようになってしまった。

 しかし、ここで奇妙な事が起こった。

 宮原先生がなぜか僕の肋骨が治っていないにも関わらず稽古に参加するように度々促してきたのだ。

 その結果、僕は高校一年の半分程度をあばら骨にヒビが入っているまま過ごしていた。

 念のため言っておくが、宮原先生はおかしな先生ではない。

 また、宮原先生はこういうことを僕にだけしていたわけでもない。

 そもそも、宮原先生には「柔道家というのは練習をしながら怪我を直すものだ」という哲学があったようだ。

 だから、宮原先生は怪我している部員に練習をさせてしまう癖があったのだ。

 ちなみに、ここで相川という姓について記述をすると、この姓には藤原秀郷という天皇に近い位置にある東日本の武家の起源を持っているようだった。また、この姓は関東甲信越地方に多くみられるようだった。

 ちなみに、この相川という先輩は黒髪で柔道がとても強かった。

 

 

・これは野田学園高校の柔道部についての話である。

 僕が高校時代に所属していた柔道部には村井という姓をした先輩がいた。

 この村井先輩は柔道があまり強くなく、高校から柔道を始めたという人だった。

 しかし、この村井先輩にはおかしな所があった。この人は学校において、ふざけて同人誌の個人販売をやっていたのである。

 僕はこの人から「同人誌を買わないか?」と聞かれたが、「買いません」と軽く流した。流石に高校の廊下でエロ同人誌の話をするのがはばかられたのである。

 興味深いことに、結局この村井という先輩は柔道の練習にはあまり来なくなってしまった。

 また、この先輩は髪の色が黒かった。

 

 

・これは野田学園高校の柔道部についての話である。

 僕が高校時代に所属していた柔道部には坂口という姓をした先輩がいた。

 この坂口先輩は金髪をしており、バイクに乗って暴走族をやっていたようだった。

 坂口先輩はときおりバイクに乗って、学校で皆が授業をしている最中、グラウンドをバイクでぐるぐる走り回っていた。この人はかなり面白い人だったと記憶している。

 あるとき、山口市にある維新公園のアリーナで柔道の大会が行われたのだが、その際、この人は彼女を連れてきたのである。

 坂口先輩の彼女はとてもスタイルの良いギャルであり美人だったのだが、坂口先輩はこの彼女の肩に手を回しながら柔道の試合を観覧したりしていた。

 僕はその光景を見てかなり衝撃を受けていた。

 柔道場に金髪の選手がおり、そして、その金髪の選手が本格的なギャルを連れているのが相当に不自然だったからだ。

 しかも、坂口先輩はそれで大会で優勝とか準優勝とかしていたのだ。僕はそのことに、かなり違和感を覚えていた。

 ただ、坂口先輩はその後、柔道の練習には来なくなってしまった。

 そして、坂口先輩は三年生に上がったくらいのときに、柔道部にふらりとやってきた。

 僕はそのとき、坂口先輩と軽く乱取りをした。

 坂口先輩は相変わらず物凄い強かったが、流石に勘が鈍っているのか、僕をなかなか投げることが出来なかった。

 坂口先輩はそれを受けて「もう投げられなくなってやがる」と独り言を言って、自嘲気味に笑った。

 その後、坂口先輩は柔道の練習には来なかった。

 ちなみにこの坂口という姓は、坂の入り口という意味があるようだ。

 そして、坂の入り口というのは一般的に言えば標高が低い土地にあるようだ。

 

 

・これは野田学園高校の柔道部についての話である。

 僕が高校時代に所属していた柔道部には田金幸子という氏名をした先輩がいた。

 この田金先輩という人はわりと練習熱心な女子部員であり、僕はこの人とたびたび練習をすることがあった。

 田金先輩は身長180cm程度ある背の高い痩せた選手であり、足が長く内股が得意だった。

 田金先輩は大会に出れば、まず優勝するという相当に強い選手だった。

 だが、この田金先輩は不思議な事になぜかいつも怪我をかかえてしまっていた。

 というのも、柔道部の顧問である宮原先生が怪我をしていても田金先輩に練習をさせてしまうのだ。

 ただし、この田金先輩は、怪我をしていても試合に勝ってしまう上、怪我をしている状態というのにすっかり慣れ切ってしまっていた。どうやら、この人は怪我をしているのに騙し騙し練習をしていたような状態だったようだ。

 僕はあるとき、田金先輩に対して「練習して怪我は大丈夫なんですか?」と心配になって聞いてみたことがある。

 田金先輩は「もう体中ボロボロなの」とはにかみ笑いでそれに応えるだけであった。

 この田金先輩は三年生になった辺りで、野田学園高校では練習をしなくなっていった。

 というのも、田金先輩はそのうち山口市にある刑務所で警察官の人たちと一緒に練習をするようになったのだ。

 この田金先輩はそもそも警察官の娘さんということだったので、警察署の柔道部とコネがあったのかもしれない。

 ちなみに、この田金先輩はのちに日本選手権ベスト8に入っていた。

 どうやら、この柔道部で一番強い選手というのは、この先輩だったようだ。

 それから、僕はこの田金先輩からちょっとだけ「面白い子だ」と気に入られていたようである。

 そして、この田金という姓については、大分県中南部である豊後が起源でほぼ確定のようである。

 僕は後になって振り返ってみて、ちょっと思ったのだ。

「あれ? 田金先輩も怪我をしながら柔道と付き合っていたのか。俺と同じように。そして姓には田が付いているし、姓の起源が西日本であることが確定している」と。

 

・これは野田学園高校の柔道部についての話である。

 僕が高校時代に所属していた柔道部には森下という姓をした女子部員がいた。

 ただし、この人はいつも本当に酷い怪我をしてしまっており、練習に参加が出来ないことが多かった。

 この森下先輩は渡邉先輩が好きなようでちょっとだけアタックを仕掛けているようだった。

 しかし、僕は渡邉先輩に物凄く可愛い茶髪の彼女がいるのを知っていたので「あれ? 森下先輩は渡邉先輩の彼女の事知らないのかな」と、ちょっと不思議に思っていた。

 ちなみに、この森下という姓については、まず森という漢字は標高の高い山にある森林を想起させるものである。また下という漢字は標高の低さを感じさせるものであるようだ。

 それから、この森下という姓は、藤原秀郷という天皇に近い位置にある東日本の武家の起源を持っている可能性があるようだ。

 また、この森下という先輩は部活動の後半にはほとんど練習に参加が出来なくなっていた。

 

・これは野田学園高校の柔道部についての話である。

 僕が高校時代に所属していた柔道部には渡邉という先輩がいた。

 この渡邉という先輩は容姿が物凄く端麗であったのだが、茶髪をしており煙草を吸っていた。

 しかし、驚くべきことにこの先輩は煙草を吸って肺を縮めながらも、大会では好成績を残しまくっていたのだ。

 渡邉先輩は僕と同じ66kg級であり、得意技は払い腰と払い巻き込みであった。

 僕はときどき、渡邉先輩と乱取りをしたのだが、渡邉先輩はとにかく袖の取り合いが巧みであり、僕はまるで相手にはならなかった。

 僕はこの人にとにかく「キモイ」と言われた。

 ただし、その「キモイ」という言葉には物凄いたくさんのバリエーションがあり、また、渡邉先輩が笑いながらギャグのように言うので、不快感は一切ないのが不思議であった。

 渡邉先輩は本当によく笑う人だった。僕はこの人にいつもからかわれていた。

 僕は理由はわからないのだが、いつもこの人に対しては好印象を持っていた。

 この渡邉先輩は、普段は僕をからかっているのだが、ときおり僕にかなり有用なアドバイスをしてくれたのである。

 また非常に不思議な事に、実を言えば、柔道部の先輩たちの中で一番練習に参加していたのはこの人だった。

 男子の先輩の中で最後まで部活動に参加したのは結局この渡邉先輩だけである。

 また、柔道二段を高校時代に取得したのもこの人だけである。

 渡邉先輩は柔道による推薦入学という進路があったため、少しだけ長めに部活に参加をしていたのだ。

 ちなみに、この渡邉という姓については嵯峨天皇の皇子である源綱が名乗り始めたもののようである。

 つまり、この渡邉という氏族は天皇に近い系にあると言えるのだろう。

 

 

・これは野田学園高校の剣道部についての話である。

 僕は高校時代、柔道部に所属していたのだが、この柔道部の部室というのは剣道部の部室と一緒であった。だから僕は剣道部の人達とも普通に会話をしていた。

 そして、これは剣道部の面々と会話をしていてわかったのだが、どうやらそもそも柔道部や剣道部などといった武道をやっている人の親というのは警察官が多いようであった。

 この剣道部は羽鳥という姓の一学年上の部長がおり、僕と同級生の部員は小関や橋本といった姓をしていた。

 また、非常に奇妙な事に、この野田学園高校は剣道部の女子が僕に対して全然攻撃をしてこず、笑顔で挨拶などを積極的にしてくるのが印象的だった。

 この剣道部は団体戦は振るわないものの、個人戦が強かったようであり、特に羽鳥部長が強かったようである。

 羽鳥部長は天性の運動神経があったのか、僕と遊びで柔道をして、僕をこかすことに成功したりしていたのだ。僕は柔道の授業でも同級生には流石に全然負けなかったので、このことに相当に衝撃を受けてしまった。

 しかし、この剣道部は僕が高校二年生のときに妙な問題が起きてしまった。

 羽鳥部長と橋本が酷い喧嘩をし始めてしまったのだ。

 はたから見ていて、僕はなぜ二人が喧嘩をしているかがわからなかった。

 僕が見たところでは、どうやら橋本が羽鳥部長に絡んで行っているようだった。

 しかし、僕が見たところでは、羽鳥部長は剣道も強いし、性格も面白いしで、なにか問題があるようにも思えなかった。

 これは一体なんだったのだろうか。

 ちなみに、羽鳥という姓は東日本起源である可能性が高い姓であるようだ。

 また、橋本という姓については、羽林家の家格を有する公家であり、藤原北家閑院流の公家の氏族があるようだ。ただし、その氏族と、この剣道部の橋本が何か関係があるかは僕にはわからない。

 

 

・これは野田学園高校の柔道部についての話である。

 僕が高校時代に所属していた柔道部には上野太嗣という同級生がいた。

 この上野という男は僕と同級生であり、僕と同じ66kg級であった。

 上野は柔道家としてはちょっとだけ変わった所があり、柔道は小学校でやっていたくらいで、高校までそこまで本格的にやってはいないようだった。

 しかし、上野は柔道の才能があったのか高校で柔道をはじめるなり、大会で相当に勝っていた。

 上野には得意技が無かったのだが、足払いや裏投げなどを駆使して強引に勝ってしまうのだ。

 上野は最終的には西日本選手権に出場するくらい柔道が強くなっていた。

 この上野は僕と乱取りをしていてときどき妙な事を口にした。

 上野は「原田はさ、俺とそこそこやれているんだから、結構強いはずなんだよな。だけど、試合になるとなぜかあんまりな……」などと、本当に不思議そうに言っていたのだ。

 ちなみに、この上野という姓の名称は、東京辺りにある地名が元になっているようである。

 また、上という単語は標高の高さを指し示すものであり、野という単語は地面を指し示すものである。

 次に太嗣という名について考えてみると、太という漢字は大きいことや、幅が広いことを指し示すものであるようだ。そして、戦後、この日本を統治したアメリカ人は体が大きいせいか、とにかく大きなものが好きな民族だったようである。

 そして、嗣という漢字は末尾が司という漢字で終わっている。

 この司という漢字には司祭等、少しだけ宗教的な意味合いがあるようだ。

 僕は後になって振り返って思うのだ。「この上野は何もしてこなかったな。何か条件が合ったのかな。〝東日本の氏族が優れている〟という事がちゃんと示せていれば大丈夫とか」と。

  

・これは野田学園高校の柔道部についての話である。

 僕は野田学園高校の三年生になったとき、柔道部の副部長になっていた。

 そのとき、柔道部には後輩が続々入ってきていたのだが、後輩達はあまり強くもなかった。

 つまり、先輩達の代が終わってから僕たち柔道部はかなり弱体化してしまった。

 僕の後輩には徳久、中川、谷口、安光、中川という姓をした者達がいたのだが、この中で強いのは中川のみであった。

 ちなみに、この中川には本当に不思議な所があった。

 中川は大内刈りが得意な選手で昔から柔道をやっていたらしいのだが、なぜか練習では弱かったのだ。中川は練習では僕と同じくらいの強さしかなかったと記憶している。

 しかし、中川は大会の試合となると、大内刈りをバンバン決めて何のかんので上位の成績を収めることが多かった。

 僕は中川の試合を見ながら「あれ? なんで対戦相手はみんな大内刈りを返さないんだろうな。あれ、すぐ返されるから、あんまり強い技じゃないけどな」と思っていた。

 僕はそのことが不思議になり、何度か中川に「中川って練習中、手加減してる?」と聞いた事がある。

 しかし、中川は「してないっすよ、そんなの。試合では偶然技が決まるんっすよ」などと笑いながら答えていた。

 これは一体なんだったのだろうか。

 ここで、後輩たちの姓について、一応記述しておく。

 まず、徳久という姓については、福岡県南部や高知県佐賀県などに見られる姓のようである。

 次に、安光という姓については、京都府北西部、兵庫県東部にその起源があるようである。

 それから、谷口という姓については、色々な起源があるようだが、大まかには西日本にその氏族の人口分布が集中しているようである。

 また、谷口という姓の名称は谷の入り口という意味があるようであり、一般的に言えば谷の入り口は山の中にあり標高は低めであるようだ。

 では中川についてはどうかと言えば、まずこの中川という姓において中という漢字は〝真ん中〟などを指し示しており、かなり優れたものを暗示しているようである。

 そして、この中川という姓においては川という漢字が末尾に来ている。まず、この川という漢字は三本線で書かれている。前述した通り、〝三〟という数字はこの国においてはしばしば縁起の良い数字として重宝されたようだ。

 また、川という自然の地形には水が流れており、そして、この川の中に流れている水は青空を反射して青く見えることが多い。青色という色は、しばしば青白い肌という白色人種の肌の色を暗喩する色として扱われるようだ。

 ちなみに、僕が後輩の中で特に印象的だった者は徳久である。

 この徳久という男は非常に珍しい事に僕と同じくPCゲームをやっていたのだ。

 彼は非常に変わった男で、高校卒業後は水族館で動物の飼育員をやりながらサーカスをやりたいと言っていた。僕は「なんでサーカスなんだ?」と不思議に思っていた。

 ちなみに、サーカスというものは英語の名称をした娯楽である。

 

 

・これは野田学園高校の柔道部についての話である。

 僕が三年生になった辺りで加藤という姓をした同級生が柔道部に入部をしてきた。

 この加藤という同級生は酷く太った男であり、運動神経が全然なく、柔道は酷く弱かった。

 僕は一生懸命この加藤に技などを教えていたのだが、そもそも筋力が無いのでモノにはならなかった。

 ちなみに、この加藤は野田学園高校の普通科に所属していたのだが、学校でちょっとだけ虐められていたようだった。

 そして、その虐めの最中に、奇妙な出来事が起きてしまったらしい。

 加藤は同級生に虐められている際に、同級生に顔面を殴られた事があるのらしいだが、その際、加藤を殴った同級生の拳の骨が損傷をしてしまったらしい。

 僕はそれを聞いて「殴った方の拳の骨が砕けたのか」と非常に不思議に思ってしまった。

 ちなみに、この加藤という姓についてはその起源が石川県南部、三重県の伊勢である可能性が高いようである。

 これらの地域はいずれも西日本であるようだ。

 

・これは野田学園高校の柔道部についての話である。

 僕が所属していた野田学園高校の柔道部には中学生も練習に参加していた。

 その中学生の中には神田という茶髪の男の子がいた。

 僕はこの神田という中学生と仲良くやっていたのだが、神田はかなり勝気な性格をしており、練習嫌いでもあった。しかし、神田は柔道はかなり強くよく大会では優勝をしていた。

 そして困った事に、この神田という中学生はよく加藤を練習中にバカにしてしまっていたのである。

 僕はそれを見て「まぁ、わからなくもないかな」と思ってしまった。

 というのも、加藤は相当にデカい図体をしている高校生なのに、小さな体をした中学生である神田に練習中ポンポン投げられてしまっていたのだ。

 しかし、僕は「神田、あんまり加藤を虐めるなよ。神田は強いんだから弱い奴を虐めちゃダメだぞ」などと神田に注意をした。

 加藤はプライドを傷つけられてブツブツと憎しみの独り言を吐き出していた。

 僕はそれを見て「これは限界だな」と感じたのだ。

 幸いなことに、神田は僕の注意を素直に聞いてくれて、それからはあまり加藤を虐めなくなった。

 ちなみに、この神田という生徒の母親は教職員であり、母と同じ小学校に勤めていたことがあった。

 そして、この神田の母親の教職員は母を少しだけいびってもいたようである。

 ちなみに、この神田はそこそこ頭が良かったのか、山口高校に入学していた。

 ただ、神田が高校受験をした辺りは、山口市の子供の数が減ってしまっており、山口高校の難易度がさらに下がってしまっていたとのことだった。

 この神田という姓について記述をしておく。どうやらこの神田というのは東京の神田に地名姓があるようだ。ただし、この神田の読みは〝こうだ〟であった。

 

 

・これは僕の下高根にある家の近くにあった正法寺という浄土真宗のお寺についての話である。

 この件については僕が高校の時に起きたのか、大学の時に起きたのか、正確な時期はよく覚えていない。

 実を言うと、僕の家の近所にある正法寺というお寺は、大規模な火災に見舞われたことがあるのだ。

 正法寺というお寺はときおり近隣の檀家から人を集めて勤労奉仕をして貰い、集会などを開くことがあったのだが、その際に料理関係の火から火事が発生してしまったのだ。

 当時、僕の祖母はそのお寺の催し物に参加しており、その火事に巻き込まれてしまった。

 祖母は一歩間違えれば焼死する、という所まで追い詰められてしまい、命からがら火に巻かれた寺から脱出したそうだ。

 その後、その火事自体はなんとか鎮火したらしい。

 しかし、正法寺は燃えてしまったお寺の修繕費をこの辺りの地域の人達に寄付という形で要求した記憶が僕にはあった。

 この正法寺というお寺は三階建て程度の高さをある納骨堂や、巨大な親鸞聖人の像を立てたりしており、なかなかに儲かってはいたようだ。

 

 

・これは僕の従姉妹である山本りえという人についての話である。

 僕の家のすぐ近くにある父の実家には山本りえや山本大輔や山本彩という従姉弟達がいた。

 僕はこの親戚の人達とあまり深くかかわったことはないのだが、この父の実家である山本家は運動が特に得意な家だったようだ。例えば山本りえさんや山本大輔君は子供の頃は剣道がとても強かったようで、大会などでしばしば好成績を収めていたようだ。

 そして、それは成長してからも変わらなかったようだ。

 山本りえさんは中学時代、ソフトテニス部において全国一位を取った事があるらしい。

 その後、山本りえさんは大学に進学したのだが、そこで山本りえさんはかなり早めの結婚をした。

 山本りえさんは、徳山市の社長の息子と出来ちゃった結婚をしてしまったのだ。

 僕は大学在籍時に出来ちゃった結婚をするというのはあまり聞いたことも無かったので、結構戸惑ってしまった。

 

 

・これは僕が当時住んでいた下高根の家についての話である。

 僕は高校時代、下高根にある家から高校に通っていたのだが、あるとき、その家に妙な男が来た事がある。

 僕の家ではコナンという四国犬を飼っており、その犬を軒先に鎖で繋いでおいたのだが、その犬が吠えてうるさいと抗議する男が現れたのである。

 その男は40歳くらいのオジサンであり、この辺りの人間ではなかったようだ。

 僕の父と僕の祖父は、家の前でそのイチャモンを付けて来る男の対応をしていた。

 僕がそれを見て、出ていくと、そのオジサンは悪態をつきながら去っていった。

 僕達は「見たことない人だな。そりゃあ犬も吠えるよな」とそのときは呆れていたと思う。

 ただ、ここから妙な話が続くのだが、父が言うには僕が他県の大学に行き家を空けている間に、犬に対してまた文句を言ってきた男が現れてしまったらしい。

 これは一体なんだったのだろうか。

 ちなみに、僕の家で飼っていたコナンは日本犬である。コナンは雑種ではあったと思うのだが、日本の伝統的な犬種であったのだ。

 

 

・これは僕の母である原田和恵という人物についての話である。

 前述した通り、僕の母は昔ピアノを習っていた。

 母はその音楽の技術を生かして小学校で合唱団を結成し、放課後に生徒達に合唱を教えていたのだ。

 そして、この合唱団というモノは、どうやら小学校単位で存在するらしかった。

 ときおりその小学校ごとにある合唱団は集まってコンサートを開いていたようだった。

 母が指導する合唱団はいつもそこそこの実力はあったようだった。

 しかし、不思議な事に母の指導する合唱団はコンサートではいつも二位の銀賞を取っていたのだ。

 母はその教員生活の中でかなり長いこと合唱団をやっていたようなのだが、結局最後まで一位を取ることが出来なかった。

 母はいつもそのことを悔しがっていた。

 ちなみに、この合唱というものは日本語をした行為であるようだ。

 また日本では二位や銀賞ばかり取る人の事をシルバーコレクターと呼ぶらしい。

 そして、シルバー、銀というのは白く輝くものである。

 白色というものは、この地球において高標高ないしは高緯度で繁殖した白色人種の肌の色である。

 

 

・これは僕の父である原田克己という人物についての話である。

 僕の父は僕が高校生のとき、自作のPCに凝っていたようだった。

 特に僕の父はwindowsマシンのCPUのクロックアップが好きなようであり、たびたびCPUを買ってきてはそれをはんだ付けなどしてPC内部のマザーボードに取り付けて動かしていた。

 しかし、このクロックアップは大抵は失敗に終わり、CPUは焼き切れて動かなくなったようである。

 不思議な事にそれでも父はたびたび追加でCPUを買ってきてはまたそれをクロックアップしていたようだった。

 父はそのようにPCを弄っている際、とてもイライラしていたと僕は記憶している。

 いったい父は、なぜそんなに無理矢理マシンスペックをあげることにこだわっていたのだろうか。

 ちなみに、僕は後年このことを知って驚いたのだが、僕の父はwindowsよりもmacintoshが好きだったようだ。

 

 

・これは僕の父である原田克己という人物についての話である。

 僕の父である原田克己は僕が子供の頃から熱狂的なパチンコファンであり、よくパチンコに行っていた。

 しかし、父は僕が高校生辺りの頃にはそのパチンコ熱が相当に高まったようで、月に10万円程度パチンコに使うようになっていった。

 父はときおりパチンコに勝ってくるようだったが、母は父がパチンコに行くこと自体を責めていた。二人はパチンコを巡ってよくケンカをしていた。

 父はよく「父さんはパチンコをやってもトータルの収益を見ると勝っている」などと僕に言っていた。

 僕はそれが本当かどうかは最後までわからなかった。

 

 

・これは僕の母である原田和恵という人物についての話である。

 僕の母である原田和恵は僕が高校生になったころ辺りから、ときどきエステに通いだした。

 しかし、そのエステが本当に問題だったらしい。

 あるとき、僕の母が父に内緒で100万円ほどエステにつぎ込んでいることが僕の父にバレてしまったのだ。僕の父はそれを聞いて激怒をした。

 両親はそのことでまた酷い喧嘩をし始めてしまった。

 しかし、僕は母がエステ通いをしているということ自体に酷い違和感を覚えていた。

 というのも、僕は僕の母が酷く太ってしまっていたので、エステなんて行ってもしょうがないだろうと思ったのだ。

 僕は単純に「エステに行くくらいなら適当に運動して痩せればいいのに」と思ってしまった。

 ここで疑問なのが、なぜ僕の母はエステに行く前に運動などをして痩せなかったのか、ということである。

 ちなみに、エステという施設は英語の名称をした施設であるようだ。

 

 

・これは僕の兄である原田和樹という人物についての話である。

 僕の兄は前述した通り、岡山大学の法学部に進学した。

 そして、僕の兄はその岡山大学法学部でいくつかの奇妙な目に遭ったらしい。

 例えば、僕の兄は大学に入学したての時に、女性関係で失敗してしまったようだった。

 というのも僕の兄曰く「俺をハメてきた女がいた」ということだったのだ。

 これはいったい何だったのだろうか。

 

 

・これは僕の兄である原田和樹という人物についての話である。

 僕の兄は前述した通り、岡山大学の法学部に進学した。

 そして、僕の兄はその岡山大学法学部でいくつかの奇妙な目に遭ったらしい。

 例えば、僕の兄は岡山大学に通い始めたころ、携帯電話や財布をよく無くしてしまっていたようだ。

 そのせいか、ときおり、僕の兄は僕の父に対して「携帯電話を貸してくれ」などとよくわからない要求もしていたようだった。

 これは、いったい何だったのだろうか。

 ちなみに、携帯電話も財布というのは、日本語の名称をした小道具のようだ。

 

 

・これは僕の兄である原田和樹という人物についての話である。

 僕の兄は前述した通り、岡山大学の法学部に進学した。

 しかし、僕の兄は大学へ行くとそこまで地元には帰らなくなってしまった。

 すると、それを心配した僕の両親は兄の住んでいるアパートへ予告も無しに行こうと言い出した。

 僕は「え? それ前もって兄貴にアパートに行くって言った方がいいでしょ?」と何度か言ったのだが、僕の両親は聞く耳を持たなかった。

 結局、僕は僕の両親と一緒に兄の住んでいたアパートを突然訪問した。

 すると、これは当然なのだが、そのことに兄は酷く怒ってしまった。

 そして、そのせいか僕の兄は自身の住んでいる住所を両親には教えなくなっていった。

 

・これは僕の大学受験についての話である。

 僕は高校三年の柔道部を引退した夏休みが終わってから、大学受験の勉強を開始した。

 僕の学習課題は英語だけだった。僕は試験成績の中で特別点数が悪いのがこの英語という科目だったのだ。

 僕は英語という科目に関しては単語を2000個程度覚えたりもしていたが、何故か点数がどうしても上がらないといった感じで、ほとんどお手上げの状態だった。

 そこで僕は予備校というものに行ってみることにした。

 山口市南部に小郡駅(現在の新山口駅)という駅があるのだが、その駅前に北九州予備校という予備校があった。

 僕はその予備校の英語の授業を受けにいってみた。

 この英語の授業は英語の成績がある程度良くないと入れないということで、僕の英語の成績ではとても授業に入れなそうだった。

 しかし、何故かこの際は予備校側が特例として僕を授業に入れてくれることになった。

 この予備校の英語の授業は講師の教え方がとても上手かった。

 けれど、やっぱり僕は英語が苦手になっており、さっぱり頭に入らなかった。

 僕は受験勉強についてはひたすら英語だけやっていた。ほかの教科は全然やっていなかった。

 本当に英語だけいつまで経っても点数が酷かったのだ。

 ただし、僕は最終的にはセンター試験の直前にやった模試で630点くらいの点数を取ることが出来ていた。

 父も母もそれを見て「ああ、勉強、間に合ったね」みたいなことを言ってくれた。

 僕もこれは少し期待出来るかもなと思っていた。

 しかし、その年のセンター試験は僕のやっていた過去問題とは範囲が上手く重ならなくて、全然いい点が出なかった。

 確か試験後にやってみた自己採点では536点くらいだったと思う。

 まぁ、この点数に関しては、ただ単に運が悪かった可能性というのが当然ある。

 ただし、僕の両親はこの異様に低い点数に対して、もう何もコメントをしなかった。僕はそのことに少しだけ違和感を覚えてしまった。

 僕はセンター試験の点数を見て、山梨県にある都留文科大学という大学を志望することにした。

 この大学はセンター試験の結果のうち三教科を選択して、その点数の合計点で合否の判定が出るというのが良かった。僕は三教科だけなら数学、社会、生物辺りで、偏差値が57くらいは行っていたのだ。

 また、僕はこの大学については二次試験を受けなくてもいいのが良いなと思った。

 僕は以前に兄が国立大学の二次試験の勉強をする姿を見ていて、「絶対に二次試験がある大学には行かない」と思っていたのだ。

 それから、この大学は山梨県にあり、山口県から離れられるというのも大変魅力的だった。

 僕はもう、この酷い目にしか合わない山口県という場所が大嫌いになっていた。

 僕の友人たちは結構東京に行くという奴らが多かった。それで、僕も東の方に行こうとなんとなく思っていた。

 僕は担任の藤重浩一先生に「この山梨の大学から、東京に行けます?」と聞いてみた。

 先生は「行ける!」と力強く答えた。

 僕は大学なんてもうどうでも良いと考えていたので、何も下調べもせずにこの大学に行くことに決めた。僕はもう、学歴とか将来とか完全にどうでも良くなっていたのだ。

 都留文科大学にはあっさりと合格した。

 僕はこの合格に対して「ああ? これにはあっさり、何にもなく受かるんだな? 何にもなかったな? いつも滅茶苦茶なことが起きるのにな?」と物凄い違和感を憶えていた。

 ちなみにこの都留文科大学という大学について、僕の父がのちにこう供述してくれた。

 本来この大学というのは戦前は東京の教師を育成する為の、第二師範学校という扱いの大学であったらしい。

 つまり、この大学というのは、もともとは東京の学校の為に作られた大学であったそうである。

 

 

6、大学時代

・これは僕が大学時代に住んだアパートについての話である。

 僕は山梨県都留市にある都留文科大学に合格し、そこへ通う事になった。

 山梨県都留市は富士山近くの山梨県側にある都市であり、標高がそこそこ高いようだった。

 この都留市は冬は気温が著しく低く雪がよく降っていた。

 僕がその都留市に大学時代に住んだわけだが、僕は安いアパートの一室を下宿にした。

 そのアパートは大学の坂道を降りてすぐの所にあった。

 僕はこれまでに中学、高校と、家からかなり移動時間がかかる学校に通っていた。だから大学は近い所から通おうと思ったのだ。

 そして、このアパートの家賃は3万6千円くらいだったと思う。

 僕がこのアパートを選んだのは、家賃が安いというのがかなり大きかった。

 僕は大学生活において下宿に使うお金というのは出来るだけ抑えたかった。

 そもそも、僕は県立の山口高校を落第して、私立の野田学園高校に通ってしまった。

 そして、そのせいで両親は私立高校特有の高い学費を支払ってしまっていた。

 しかも、この都留文科大学というのは、公立の大学なのに、妙に学費が高い大学であったようだ。

 僕はそのことを気にしており、親からしてもらう仕送りの金額をなるべく減らしたかったのだ。

 このアパートは六畳一間でトイレと浴槽が一緒のタイプの部屋だった。僕はそのアパートの一階に住んだ。

 僕は、このアパートを利用する際に、おばあさんの大家さんに部屋の案内をされた。

 僕はその際に風呂を見て「へーここで風呂に入るんですね」と言った。

 そうすると大家さんは「ああ、ここでシャワーとか浴びるの。風呂は使えないかな」などと言った。

 僕はそれについて素直に「はい」と答えた。

 僕は「これはそうなるかもしれないな」と、なんとなく思ったのだ。

 このアパートの部屋の浴室というのはそもそも綺麗に使えるようには見えなかった。

 まず、この浴室はタイル床の上に大きなバスが置かれていた。そして、そのバスの下には5cm程度の隙間が開いていた。

 そして、見たところ、そこに髪の毛などが万が一流れ込めばまともに掃除は出来なそうだったのだ。

 このアパートの部屋の浴室というのは、なんと言っても、バスを動かすスペースが浴室になかったのである。だから、この浴室はそもそも掃除が出来なそうだった。

 だから、このアパートの部屋の浴室は風呂に入って大量の湯を使用するという事が難しいつくりをしていたということが言えるだろう。

 ちなみに、僕はこのアパートで4年間過ごした。このアパートは家の前の道路を車が激しく往来するものの、近隣住民はかなり静かで快適であった。

 ただし、僕がこのアパートの部屋で夜にちゃんと眠れていたかどうかはちょっとよくわからない。このアパートは夜も何か近くの道路を運送用のトラックが通過していた気はしている。

 また、一応このことは書いておくが、このアパートを管理していた大家さんは確か僕が大学3年生の時に死んでしまった。ちなみに、こういう事はこれ以後も何度かあった。

 

 

・これは僕が大学時代に住んだアパートについての話である。

 僕は都留文科大学に通う為に、大学前の坂道の下にあったアパートを下宿にして、そこに移り住んだ。

 しかし、僕がここに住んですぐに、このアパートでは奇妙な事が起きてしまった。

 それは、僕がこのアパートに住み初めてから3ヶ月くらいたった頃だろうか。

 僕がこのアパートの朝方に部屋のベッドで眠っていると、奇妙なお経のような声によって起こされる羽目になってしまった。

 僕は目を覚ますなり、「なんだ、この声は。どこから聞こえてくるんだ?」と思ったのだが、驚くべきことにその声は徐々に僕の部屋の方に近づいてきていた。

 そのうち、僕はそのお経のような声は複数人の集団で唱えていることに気が付いた。そして、そのお経を唱えている集団は僕の部屋の目の前を通過しているようだった。

 僕は驚いて部屋のドアの覗き穴から部屋の外を覗いてみた。

 すると、その覗き穴から顔の前に白い布をかけた山伏のような集団がお経のようなものを唱えながら歩いているのが見えたのだ。

 その集団は行列をなしながら、僕の家のドアの目の前を次々と横切っていったのだ。

 それ以来、僕はちょっと部屋にいるのが不安になってしまった。

 

 

 

 

・これは僕が高校時代から付き合っていた友人である古谷一幸という人物についての話である。

 僕は高校時代、古谷一幸という男と結構仲が良かった。

 古谷は東京の映画関係の大学に進んでいたので、僕は何度か古谷が住んでいる部屋に遊びにいった。

 古谷は高校時代は、相当に背が低い男だったのだが、非常に不思議なことに東京で会ったときは背が相当伸びており、僕と同じくらいになっていた。 

 僕は今考えると酷いなと思うのだが、この古谷が住んでいる部屋に一週間程度滞在したことがある。

 古谷が東京で住んでいた部屋はマンスリーレオパレスの一室だった。

 マンスリーレオパレスは部屋の中に備え付けの家具が最初から取り付けられているのが印象的だった。

 そして、その古谷が住んでいたマンスリーレオパレスの部屋はとても静かであり、僕はその部屋でまともに眠ることが出来て、相当に快適だったのをよく憶えている。

 僕はそこで古谷と少し話をしたのだが、古谷はどうやら、大学に入るなり東京芸術大学日本画科の彼女が出来たという事だった。

 僕は「すげー、こいつ東京に出て、いきなり彼女が出来たのかよ」と絶句をしてしまった。

 僕は一週間ほど古谷の部屋に泊まったわけだが、その際に古谷は「マンスリーレオパレス、結構いいでしょ。おススメだよ」などと僕に言ってきた。

 僕はそう言われて「家具が最初から付いてるのはちょっと嫌だな」と思ってしまい、結局マンスリーレオパレスを借りたことはなかった。

 僕はこの出来事について、後から振り返ってみてちょっと妙な印象を受けるのだ。

 そもそも、マンスリーレオパレスは建物の壁の薄さが後年大問題になり、相当に社会から槍玉に上げられた。

 しかし、この古谷が住んでいた部屋は相当に静かであり、夜に眠りやすかったのである。

 これは一体何だったのだろうか。

 一応ここで書いておくと、マンスリーレオパレスというのは東京中野区に本社がある株式会社レオパレス21が経営する短期賃貸マンションの名称である。そして、マンスリーレオパレスという名称は英語で構成されているようだ。

 また、この古谷は映画という日本語をした娯楽を愛好し、創作をしていたということを一応書いておく。古谷は好みの方もハリウッド映画よりは日本映画が好きだったようだ。

 ちなみに、この古谷という姓についてはちょっと面白い指摘を姓の起源について書かれているネット上のコメント欄で見た。

 この古谷という姓は西日本にいる古谷という氏族の姓の読みはフルタニであり、東日本にいる古谷という氏族の姓の読みはフルヤであるということらしい。

 そして、この古谷はフルヤという読みであった。

 さらに言えば、谷というのは山にあるものである。そして、山というのは標高が高い土地を指す言葉である。

 

 

・これは僕が山梨県都留文科大学に通っていた時に出来た友人についての話である。

 僕が大学に通い始めて、最初に出来た友人というのは井手康平という長崎県出身の男であった。

 この井手という男は非常に頭が良かったようだが、裕福ではない家庭で育ったらしく、奨学金を借りて大学に来ており、親から仕送りをもらっていなかった。

 だから井手はいつもキツイ深夜のコンビニバイトなどをする羽目になっていた。

 井手はかなりの漫画オタクであり、僕はこの男とかなり漫画について話をしたのを憶えている。

 この井手は不思議な事に大学に入った当初はかなり恋愛に関して積極的だった。

 僕はこの井手にすっかり煽られてしまい、相当に女に対して積極的に行ってしまい、一度長野県出身の女性相手に失敗してしまったことがある。

 ただし、僕は後になって振り返って思うのだ。

 「なぜ、井手はあんなにも恋愛に積極的だったのだろう」と。

 そもそも井手の生活を振り返ってみると、コンビニバイトなどが非常に忙しく、女と付き合ういうこと自体はなかなか難しそうだったのだ。

 ちなみに、この井手という姓については京都南部辺りが起源であり、その氏族の人口分布は九州に偏ってしまっているようである。

 そして、井手という姓のうちの井という漢字については、一般的には井戸を指し示しているようであり、その井戸とは水をため込むものである。

 そして、水というのはしばしば青空を反射して写し込み青色に見えることがある。

 さらに言えば、この青色という色は、しばしば青白い肌という白色人種の肌の色を暗喩する色として扱われるようだ。

 また、恋愛というものは、戦後に日本に流通した価値観であり、それは白色人種が崇拝するキリスト教が根底にある文化であるようだ。

 

 

・これは僕が山梨県都留文科大学に通っていた時に出来た先輩についての話である。

 僕は都留文科大学に入学した際に、「大学では絵を真面目にやってみよう」と考えていた。

 そこで僕は美術部に入部した。

 そこには東北地方出身の女性の先輩が大勢おり、男性の先輩はとても少数だった。

 その男性の先輩の中に、水邊匡志という人がいた。

 この人は岐阜県神岡町という山育ちの人で、浅黒い肌をした凄まじく容姿が整っている背が高い人だった。また、アトピーが酷いようで肌をときおりボリボリと掻く癖があった。

 僕はこの水邊さんに部屋に自作の巨大なデスクトップPCがあるのを見られてしまい、即、オタクであることがバレてしまった。

 どうやらこの人もパソコンをするようであり、学生時代の友人にオタクの人がいたらしく、僕がオタクであることが一発でわかってしまったらしい。

 それから、水邊さんは僕に対して「綽名決めよーぜ」と言い出し、サイコロを持ち出してサイコロの出た目で綽名を決めようとした。ただ、結局は僕がそれを嫌がって辞めさせた。すると、その後は普通に原田と呼ぶようになった。

 ちなみに、そのときは、その場に三島慶太という先輩もいたのだが、この人は僕のことを「将太」というあだ名で呼ぶようになった。これは僕が将太の寿司という漫画に出て来る主人公そっくりだからということらしかった。

 水邊さんは個人的に小説を書いており、それはとてもセンスが良かった。しかし、この人はなぜか小説を描き切る事が出来なかった。

 最終的に、この水邊さんはwebデザインの方面で活躍するようになった。この人はデザインについてもとてもセンスが良かった。

 ここで、この水邊匡志という氏名について考えてみようと思う。

 まず水邊という姓については岐阜県の少数氏族特有のもののようである。この姓には水という漢字が使われており、そして、水というのはしばしば青空を反射して写し込み青色に見えることがある。

 さらに言えば、この青色という色は、しばしば青白い肌という白色人種の肌の色を暗喩する色として扱われるようだ。

 また、水邊というのは場所を指し示す単語であり、これは水辺とも置き換えられるだろう。

 そして、水辺というのは基本的には標高の土地に存在するようである。

 次に、匡志という名についてであるが、匡という漢字には王が入っているようだ。王というのは階級制度に置ける最上位存在を示唆する感じである。しかし、この名の末尾は志で終わっている。

 さらに、ここはかなり重要なのだが、岐阜県神岡町は標高500m程度の高さにあるようだ。

 また神岡という住所も神という宗教的な要素と岡という高さを指し示す要素で構成されているようだ。

 ちなみに、小説というのは日本語の娯楽のことである。

 webデザインというのは英語の名称をした行為や装飾の事を言うようだ。

 

 

・これは僕が山梨県都留文科大学に通っていた時に出来た先輩についての話である。

 僕は大学時代に美術部に入部したわけだが、そこには水邊匡志という物凄い容姿が整った、背の高い男の先輩がいた。

 水邊さんは不思議な事に、物凄い容姿が整っているのにも関わらず一切女性と関わらなかった。

 僕は水邊さんがテレビに出ているアイドルよりもかっこよかったので、そのことが物凄い不思議だった。

 僕は一度、水邊さんに「なんで、女と付き合わないんですか?」と聞いてみたことがある。

 すると、水邊さんは「もういいかなと感じている」と答えた。

 どうも、水邊さんは高校時代に下級生から軽いストーカーに遭った事があるらしく、実家の窓の外から女生徒に覗かれた事があるらしかった。

 また、水邊さんは電車でおばさんに痴漢をされた経験もあるらしかった。

 どうやら水邊さんはその辺りのことから女性に対して何か諦観のようなものを抱いてしまったようだった。

 

・これは僕が山梨県都留文科大学に通っていた時に出来た先輩についての話である。

 僕は大学時代に美術部に入部したわけだが、そこには水邊匡志という物凄い容姿が整った、背の高い茶髪の男の先輩がいた。

 水邊さんによると、水邊さんの父親は岐阜県飛騨市の校長先生をやっていたらしい。

 僕はそれを聞いて「あー、それで水邊さんはPCが使えるんだな」となんとなく思った。

 僕は経験上、教師の息子がPCを使うというパターンが結構多いと感じていた。多分、それは教師という職業が授業の為にプリントなどを作成する必要があるからだろう。 

 あるとき、僕は水邊さんに「正月などに実家に帰った際に、両親と上手くいかなくて、実家が嫌になる」という話をした。

 すると水邊さんもそれに同意して「まぁ三日が限界かな」とぼそりと言った。

 僕は「あれ? 水邊さんもか」となんとなく思った。

 

・これは僕が山梨県都留文科大学に通っていた時に出来た先輩についての話である。

 僕は大学時代に美術部に入部したわけだが、そこには水邊匡志という物凄い容姿が整った、背の高い男の先輩がいた。

 水邊さんは美術部のほかにシネマファクトリーという映画製作サークルに所属していた。

 そして、水邊さんは実は天皇崇拝者を自認しており、シネマファクトリーにもそのノリを持ち込んでいた。

 水邊さんは確か、神道的なアイテムなどを部室の上部に飾ったりしていたのである。

 ちょうどこのころは、日本の若者の間で右翼的思想が盛んになりつつあったのだ。

 だから、僕は水邊さんの行動をそこまで変にも思わなかった。

 それに、実はこの頃、僕の兄もこの手の思想にハマるようになり、僕にその手の本をたくさん送りつけても来ていたのだ。

 

 

・これは僕が山梨県都留文科大学に通っていた時に出来た先輩についての話である。

 僕は大学時代に美術部に入部したわけだが、そこには水邊匡志という物凄い容姿が整った、背の高い男の先輩がいた。

 水邊さんは一時期僕に文章を書くように勧めてきていたことがあった。

 どうやら水邊さんが見たところ、僕は絵を描くよりも文章を書く方が向いているということだったのだ。

 水邊さんは「原田はさ、もし絵が駄目だったらライトノベルを書くと良いと思う。まず成功すると思うよ」などと僕に言ってきた。ここで一応書いておくと、水邊さんは僕が絵を描くのを邪魔はしなかった。

 ちなみに、絵というのは日本語の名称をした娯楽である。

 また、ライトノベルというのは英語の名称をした娯楽であるようだ。

 

 

・これは僕が山梨県都留文科大学に通っていた時に出来た先輩についての話である。

 僕は大学時代に美術部に入部したわけだが、そこには三島慶太という金髪をした男の先輩がいた。

 三島さんは島根県松江市出身の人であり、漫画家を目指している人だった。三島さんはお笑い芸人がかなり好きなようであり、相当に芸能人に精通をしていた。

 三島さんは学生時代、柔道部を親にやらされていたということで部長をやっていたらしかった。三島さんは実家が呉服屋さんらしく、親御さんが日本の伝統的なものに関心があったというのが大きかったのかもしれない。

 ちなみに、三島さんの家は裕福なようだった。

 三島さんはかなり値段の高いアパートの広い部屋に住んでおり、家具などもかなり高級感があった。

 そして、三島さんのアパートの郵便受けには時折、三島さんのお母さんから何故か現金が入った封筒が送られて来ていたらしい。

 三島さんは苦笑いをしながら「びっくりするよ、郵便受け開けると札束入っているんだ」などと冗談めかしてそれを語っていた。

 僕も「それはびっくりするな。なんで銀行口座に振込をしないんだろう」とかなり不思議に思ってしまった。

 ここで、この三島慶太という氏名について考えてみようと思う。

 まず、この三島という姓については、嵯峨天皇が編纂を命じた新撰姓氏録という目録の中の皇別氏族にその記載があるようだ。

 しかも、三島は真人という扱いであり、これはこの新撰姓氏録の中の最上級の格に位置している。

 三島という姓自体を見てみると、まずこの姓には三という漢字が使われているようだ。

 ちなみに、三種の神器、御三家、三井、三菱などなど、この国においてはしばしば三という数字は縁起の良い数字として重宝された。

 ロシアの昔話の研究家であるプロップが魔法物語の構造において言及するところによれば、三というのはファンタジー世界において魔法の成立する数字であるようだ。

 次に三島という姓の中の島という漢字はどうだろうか。

 まず島という地形について考えてみると、地球の歴史において奴隷の活用によって産業革命を実現し資本主義を創造したイギリスという国は島国であった。

 さらに言えば島という漢字は山という漢字がその末尾に来ている。

 ここで面白い事は、資本主義という社会制度が最後は山と島という地形に収束した所である。

 これは良く知られていることかもしれないが、世界の資金というのは、スイスという高緯度高標高地域の国家にある銀行と、カリブ海の英領バージン諸島、ケイマン諸島などの島にある銀行に最後には集まってしまったのだ。

 つまるところ、島と山という漢字は資本主義という社会制度においては強い土地であるという意識付けがされてしまっているようである。

 では、慶太という名前についてはどうだろうか。

 まず、慶という漢字にはめでたいという意味があるようだ。これは少しだけ神道的な意味合いが含まれているのかもしれない。

 そして、太という漢字についてはどうだろうか。

 まず、太という漢字は大きいことや、幅が広いことを指し示すものであるようだ。そして、戦後、この日本を統治したアメリカ人は体が大きいせいか、とにかく大きなものが好きな民族だったようである。

 ちなみに、三島さんの実家は呉服屋であるという事であり、三島さん自体も柔道部に所属していたようだ。これらは日本の伝統的な商店や格闘技と言う事が出来るだろう。

 そして、三島さんは大学時代に美術部に所属をして漫画を描いていた。美術部という部活動と漫画という娯楽は日本語の名称をしているようだ。

 ちなみに、三島さんはあまり女性にはモテなかったようである。

 僕は後年、この辺りの事を振り返り、なんとなく「なるほどな。振り分けられた持ち点を和という価値観に使い過ぎたせいで女性からはモテなかったのかな」と思ってしまった。

 

 

・これは僕が山梨県都留文科大学に通っていた時に出来た先輩についての話である。

 僕は大学時代に美術部に入部したわけだが、そこには三島慶太という金髪をした男の先輩がいた。

 三島さんは前述した通り、漫画家を目指していたのだが、驚くべきことに三島さんは高校時代にサンデーで漫画の賞を受賞しており、大学在籍時にはすでに漫画編集が付いていた。

 僕は三島さんから手塚治や藤子・F・不二雄江口寿史などの漫画家を教えて貰いながら、ときどき原稿のアシスタントをさせて貰っていた。

 三島さんは大学時代、相当の焦燥感に駆られながら編集とやり取りをしていた。

 三島さんはかなり頑張って、ハイペースでサンデーに漫画原稿を送っていたと僕は記憶している。

 しかし、三島さんは結局は大学在籍中に紙面デビューをすることは叶わず、大学卒業後にデビューをすることになった。

 後年聞いた所によると、実は大学時代に三島さんの漫画を見ていたサンデーの編集というのは、焼きたてジャパンという作品の担当をした冠編集という人だったそうだ。

 この人は世間的にもあまり良い評判を聞かない編集であり、三島さんも後年「あの編集にちょっと潰されたようなところはあるわな」などと語ってもいた。

 ちなみに、この冠という姓は大阪北部と兵庫県をその起源とする氏族特有のものであり、近年は大阪府に多数見られるもののようだ。

 つまりは冠編集は大阪辺りを拠点とする、西日本特有の氏族であったようだ。

 

 

・これは僕が山梨県都留文科大学に通っていた時に出来た先輩についての話である。

 僕は大学時代に美術部に入部したわけだが、そこには三島慶太という金髪をした男の先輩がいた。

 僕は三島さんに結構懐いており、初期の頃は色々と漫画についての質問のメールなどを送っていた。

 しかし、三島さんは何度かやり取りをするうちに「メールをそんなに送るなんて暇なんだね」なとど言うメールを送り返してきた。

 僕は「まぁ確かにあんまり送り過ぎるのは良くなかったか。三島さんは原稿で忙しいもんな」と普通に反省し、その後はあまりメールを送らなくなり電話をして会うようになった。

 僕は高校時代は友人などとメールでやり取りをすることが多かったのだが、このことから大学に入るとメールはだんだんと使わなくなっていった。

 また、三島さんはアルバイトというものを好まなかった。三島さんは「何かを真面目にやるというときに、バイトをする奴はいない」などと言っていた。

 ここで一応書いておくと、メールもアルバイトも英語の名称をした連絡手段や働き方の事であるようだ。

 

 

・これは僕が山梨県都留文科大学に通っていた時に出来た友人についての話である。

 僕の大学時代の同級生に中村伸也という男がいた。

 中村はどうやら山梨県の高校から推薦入学で都留文科大学に入学したらしく、同じく推薦入学で入学した山梨県出身の面々からはジャイアンと呼ばれていた。

 しかし、性格は温厚で明るく、僕は中村と最初は仲良くやっていた。

 あるとき僕は中村の実家の農園でぶどう刈りのアルバイトをやらせてもらう事になった。

 そこで僕は中村の家で短期のアルバイトをさせてもらい報酬をもらい、相当に助かった憶えがある。

 しかし、その後、妙な事が起きてしまった。

 それは山梨県出身の面々と共に、もつ鍋をつつく飲み会をしたときの事である。

 僕はもつ鍋を作る過程で「キャベツは入れなくていいでしょ」と言いながら、ニラと人参と唐辛子とニンニクとモツ肉のみでもつ鍋を作ってしまった。

 このとき、もつ鍋を作るにはちょっとだけ鍋が小さめだったので、キャベツを入れると肉が少なくなるなと僕は判断をしたのだ。

 そして、飲み会が始まった。

 すると、驚くべきことに、この中村は酒に酔った勢いか、なぜかこのモツ鍋をぶちまけてしまった。

 それ以来、僕は中村をちょっと避けるようになってしまった。

 ちなみに、キャベツという野菜はイベリア人が利用していた原種がケルト人に伝わり、ヨーロッパで生育されるようになり、それがアメリカなどに伝わったようだ。

 そして、キャベツは幕末に日本に入ってきたようである。

 つまりは、キャベツという野菜は白色人種が愛好した野菜という事になるのだろう。

 それから、僕はどうもこの都留文科大学では山梨県出身の学生達と付き合う事が多く、そして、なぜか山梨県出身の学生達に微妙に好かれてもいたようだ。

 そして、僕の父の一族はこの山梨県の代表的な戦国大名である武田信玄に仕えた山本勘助の子孫のようである。

 この事はなにか、この辺りのことに関係でもしているのだろうか。

 僕は後になって大学時代の学友たちを振り返って、何か奇妙な印象を受けてしまうのだ。

 

 

・これは僕が山梨県都留文科大学に通っていた時に出来た友人についての話である。

 この都留文科大学では大学の入学式の前にちょっとしたレクリエーションがあり、バスで移動をしながら合宿をすることがあった。

 僕はそのバスに搭乗した際に、杉山という姓をした男と隣り合わせになった。

 杉山はかなり整った顔立ちをした男であったが、少しだけ緊張で硬くなっていた。

 僕は暇だったので杉山と会話をしながら合宿場に付くまでの時間を潰した。

 その後、僕は、井手という友人がこの杉山という男に対しての愚痴を言っているのを聞いた。

 井手曰く、この杉山は結構性格が悪いという話だったのだ。

 どうやら杉山はサッカーゲームをやっていて愚痴を凄い言ったりするとのことだった。

 僕はそれを聞いて、「そうかな。話をしていてもそういう感じは全然しなかったけど」と結構違和感を覚えてしまった。

 ちなみに、この杉山という姓は徳川家などを輩出した現愛知県東部である三河国渥美郡杉山村に起源がある可能性があるようだ。

 また、この杉山という姓の中の、杉という漢字は三本線で終わっており、山という漢字は標高の高い土地を示すもののようである。

 

 

・これは僕が山梨県都留文科大学に通っていた時に出来た友人についての話である。

 僕の大学時代の同級生に町田真一という男がいた。

 この町田は地元、山梨県から来ている学生であり、かなり真面目に大学に通っていた。

 また、町田はノートを相当にしっかりと付けていた為、僕はたびたび町田からノートを借りては写させて貰っていた。

 僕は絵やシナリオなどの漫画の勉強をしていた為、大学にはまるで行っていなかった。だから、町田のノートには相当に助けられてしまった。

 ただし、僕は「これは流石に問題だな」と思っていたので、町田にはかなり必死こいて頭を下げて、ときどき飲み会の代金などを奢ることにしていた。

 ちなみに、ノートというのは英語の名称をした筆記用具である。

 また、僕が奢っていたのは酒とそのつまみ代である。

 そして、この酒というのは、主には東日本の遺伝形質を持つ人達が愛好する文化であると僕は感じている。

 この国では縄文時代には果実酒が多く作られたらしいのだが、その縄文時代の文化がしっかりと成熟をしていたのは東日本であった。

 そして、そのせいで東日本の氏族というのは酒に強い遺伝形質を持っている人達が統計的には多いということである。

 

 

・これは僕が山梨県都留文科大学に通っていた時に出来た友人についての話である。

 僕の大学時代の同級生に田中直矢という男がいた。

 この田中は地元、山梨県から来ている学生であり、かなりファッションを頑張っている男だった。田中はヤンキーが入っており、ピアスなどをしていた。

 田中はテニスサークルVIPに所属しており、なかなかに行動的な男であった。

 また、田中はかなりモテる男であり、大学に入ってすぐに彼女が出来ていた。

 彼は服を買う為にセブンイレブンでアルバイトをしていたりしていたのだが、僕はこの田中と同じセブンイレブンでアルバイトをしたりしていたのだ。

 そして、この田中はなぜか僕を庇うような動きをいつもしており、そのことに僕は少しだけ違和感を覚えていた。

 この田中にはちょっと妙な話があった。この男は後述する藤田美里に対して何かダメ出しをしていたようなのである。

 田中が仲間内で飲み会をした際に、藤田がその飲み会に参加していたそうだった。藤田はそのとき、ミニスカートを履いていたそうだった。

 田中はその藤田に対して目のやり場に困り「足見せんじゃねーよ」と突っ込みを入れたそうなのだ。

 田中はそのことを僕にちょっと笑いながら話していた。

 僕は「あー、田中は彼女いるもんな。それはちょっと嫌かもしれないな」と思った。

 

 

・これは僕が山梨県都留文科大学に通っていた時に出来た友人についての話である。

 僕の大学時代の同級生に宮下善太という男がいた。

 この宮下は長野県出身の男であり、大学ではDJをやっていた。

 宮下は小太りの男ではあったがB系ファッションをしており、なかなかそれがキマっていた。

 この宮下は酒がかなり好きなようであり、僕も大学に入って最初の頃は、この男と良く酒を飲んでいた。

 宮下は珍しく一軒家を下宿にしており、そこはかなり大きな家であった。

 僕は宮下とときおり部屋で酒を飲んだのだが、この宮下は突然かなりギョッとすることを言い出した。

 宮下は「高校の頃、妹みたいな子をレイプしてしまった」などと言い出したのだ。

 宮下曰く、「その女の子はやってる間泣いていた」ということであり、僕は「それは本当にレイプっぽいな」と愕然としてしまった。

 ただし、宮下はそのことを悔いているようであり、何か懺悔をしているような雰囲気があった。

 しかし、僕はその後、あまりの深刻な告白にショックを受けてしまい、水邊さん以下、何人かの友人に「これって大丈夫なんですかね」と相談をしてしまった。

 すると水邊さんは「原田はさ、面白いよな。言っちゃうもんな。そういうこと」などと言って笑った。

 僕は「いや、でもこれって普通に犯罪なのでは?」とかなり真面目に悩んでいたのだ。

 なぜ、水邊さんは言外に「それは言うと不味いだろ」というニュアンスを漂わせてきたのだろうか。

 ちなみにこの宮氏善太という氏名について、少し考えてみよう。

 まず、この宮下という姓については、長野県に諏訪神社の神主一族の氏族がいるようである。

 また、この宮という漢字は神道の宗教施設を表しており、それはこの国の皇族と深い関りがあるようである。

 そして下という漢字は低いことを指し示す意味があるようだ。ただし、僕はこの下という漢字はこの国においては部落民を暗喩することがあるのではないかと感じている。

 というのも、戦国期における太閤、木下藤吉郎部落民であるという話がたびたびこの国では出てきていたからである。

 僕は姓の後ろ側に下が付く場合は部落民を暗喩するのではないかと踏んでいるわけだ。

 もちろん、これは違うかもしれない。ただし、ここで書いておくが、神社というのは古代よりその周囲に部落民を囲っており、その生活を支える代わりに奉仕活動などをさせていたようだ。この国においては部落と神社仏閣というのは密接な関係にあったようだ。

 そして、この国の部落民は一般的には革製品を作る境遇に置かれていた。

 ちなみに、この皮製品というものは、過去の日本人は忌み嫌ったようなのだが、西洋諸国の人々はごく一般的に使うものだったようである。

 次に善太という名前について記述すると、まず善という漢字は恐らくはアメリカ合衆国が愛好する価値観を指し示したものである。これは英語に翻訳をするとジャスティスである。

 それから、太という漢字は大きいことや、幅が広いことを指し示すものであるようだ。そして、戦後、この日本を統治したアメリカ人は体が大きいせいか、とにかく大きなものが好きな民族だったようである。

 最後に、この宮下の出身地である長野県という県は一般的に言えば、よく白い雪が降る高標高地域であるということを付け加えておく。

 

 

・これは僕が山梨県都留文科大学に通っていた時に出来た友人についての話である。

 僕の大学時代の同級生に宮下善太という男がいた。。

 僕は大学の同期である長野県出身の宮下善太という友人と、この部屋で怪談話をして盛り上がっていた。

 すると、唐突に僕の部屋の窓の外から手拍子が聞こえた。そしてその手拍子はだんだん僕の部屋まで近づいてきたのだ。僕はそれをおかしいなと思った。

 というのも、部屋の外の道路には砂利が敷き詰められており、砂利を踏み鳴らす音もなしに、僕の部屋に近づいてくるのは相当に難しかったからだ。

 そして、そのまま手拍子は僕の住むアパートの僕のドアの前まで来て、そこでピタリと止まった。

 すると宮下は「やべぇ、帰るわ」と言い、僕の部屋のドアから出た。しかし、そこには誰もいなかった。

 これは、宮下が僕に「レイプをしたことがある」と告白をした後に起きた出来事である。

 僕は後になってこの事を振り返り「これは人がやったんだろうな」と踏んでいる。

 宮下はこの怪談話を僕としている際、携帯電話で誰かとメールなどはしていたのだ。

 僕はひょっとして宮下が友人と組むなりしてこのようなことをやったのかもしれないと後になって思ってしまった。

 ただし「このときに本当に奇妙な手拍子が聞こえてきていた可能性もあるにはある」と僕は考えてもいるのだ。

 

 

・これは僕が山梨県都留文科大学に通っていた時に出来た友人についての話である。

 僕は大学でバドミントンサークルに所属していた。

 このバドミントンサークルには町田真一や須藤司など、様々な男女が所属していたのだが、その中に九州から来た茶髪のかっこいい男がいた。

 ただし、この人はあまり、バドミントンサークルに来ず、来たとしても何か苛立ったようにやけくそにバドミントンをプレイしており、周囲の人たちはそれを怖がっていた。

 しかし、彼は同級生の中では一番バドミントンが上手かったと記憶している。

 あるとき、僕は彼に対して「ちょっとさ、みんな怖がってるから、少し抑えた方が良いんじゃないか?」などと提案をしたことがある。

 すると、この彼は笑顔で不思議な事を言ったのだ。

 「原田がそう言うんなら聞くわ」と。

 僕はそう聞いて「え?」と思ってしまった。僕は彼とそこまで面識があったわけでもなかったからだ。

 僕はこの九州の男の名前を本当に残念ながら憶えてはいない。

 しかし、どうも僕は九州地方の人達からは妙に好感を持って接して貰った記憶ばかりがあるのだ。これは一体なんなのだろうか。

 ちなみに、このバドミントンというものは、イギリス発祥のスポーツ競技のようである。

 

 

・これは僕が山梨県都留文科大学に通っていた時に出来た友人についての話である。

 僕は都留文科大学において、バドミントンサークルに所属をしていた。

 そのバドミントンサークルには町田真一や常盤など、色々な男が所属していたのだが、その中に須藤司という男がいた。

 この男は大人しい性格をした温厚な男であり、わりと熱心にバドミントンサークルに参加もしていた。僕はこの男とよく他愛もない世間話をしながら一緒に帰ることがあった。

 須藤は東北地方出身の男だと言っていた。

 後年、この須藤は奇妙な事に、僕に対してワンコール切りの電話をしている。

 僕はそのときは間違い電話かなと思い、それを放置し、のちに須藤に一応確認の電話をしてみたことがある。

 そのとき、須藤は自身が福島県出身であることを告げて、最近、山口県に出張することがあったという話をした。

 僕はこのワンコール切りの電話に関しては、その起きたタイミングが奇妙だったとちょっと感じている。

 ちなみに、この須藤という姓については藤原秀郷流の那須氏の一族が称したものという説があり、その氏族の人口分布も東日本に大幅に偏っているようである。

 ただし、この須藤という姓のうちの須という感じは大貝という海を感じさせる部首で終わっているようだ。

 また、この須藤司の司という名前に使われている司という漢字には司祭等、少しだけ宗教的な意味合いがあるようだ。

 

 

・これは僕が大学時代に所属していた美術部についての話である。

 僕は大学時代、美術部に所属をしていた。

 この美術部は僕が入部をした当時、女性の先輩がとても多かった。しかも、奇妙な事にこの美術部は東北地方出身の女性ばかりだったようである。

 そして、この東北地方出身の先輩達は部活動の最中に、いつも恋愛の話をしていた。

 僕はそのことに非常に奇妙な印象を受けていた。

 例えば、この美術部には前橋美奈子という女性の先輩がいたのだが、この人は地元に彼氏がいて遠距離恋愛をしていたようだった。

 そして、そのことを他の先輩に酷く弄られたりして、ときどきへこんでしまったりしていたのだ。

 とにかく、この美術部は、女性の先輩達がその手の恋愛についての話にいつも花を咲かせていたのである。

 先輩たちは僕に彼女が出来るとすぐに察知して、そのことにも突っ込んできたくらいである。

 僕は「なんで、この人達、こんなに他人の恋愛にまで興味深々なんだろう」と少しだけ疑問に思ってしまった。

 しかし、この美術部の面々は非常に絵は上手かった。

 皆、非常に小さな紙にとてもセンスの良い絵をサラっと描いていて、それを適当に展示会で飾るのだ。これが端から見ていると相当にかっこよかった。

 ただし、僕はこの展示会の中で梶原という姓をした先輩だけが、結構大きめのボードに絵を描いていたのをよく覚えている。

 僕はなんとなく後になって思うのだ。

 姓の強さなどによって、描くことが許される絵のサイズや画材の種類が決まっていたようだ、と。

 

 

・これは僕が大学時代に所属していた美術部についての話である。

 僕は大学時代、美術部に所属をしていた。

 そして、この美術部は僕の学年は僕以外部員がいなかった為、僕はそのうち部長を任されることになってしまった。

 僕はこれまでに部活動で部長をやらされて酷い目に遭ったことがあったので、絶対にやりたくなかったのだが、結局は部長をやる羽目になってしまったのだ。

 しかし、僕はこの美術部の部長になってみると、奇妙な所に気が付いてしまった。

 僕の先輩たちはかなり絵が上手く、しっかりと展示会などを開いてもいたのに、部費で一切画材を購入していなかったのだ。

 僕はとりあえず学生部に画材を部費で購入するために部費を上げて貰うように掛け合ってみた。すると、あっさり部費は下りた。

 僕はその後、東京の世界堂などに画材を仕入れに行き、美術部の先輩たちの画材を大量に買い込んで、美術部の先輩達に渡した。

 しかし、その後、妙な事が起きてしまった。

 僕が三年生に上がった際、この美術部に一年生が入ってきた。

 そしてその一年生の中に日本画を描きたいという女の子がいた。

 この美術部は部費で画材を買えるようになっていた為、この女の子も部費で日本画の画材を買う事になった。しかし、その日本画の画材代が異様に高く、6万円程度いってしまっていたのだ。確か、そのとき部費の半額程度をその女の子が使い込んでしまったのだ。

 僕はそのことに「まぁ、しょうがないか。画材をちゃんと買っているわけだしな」と納得をしていたのだが、その女の子が描いた日本画の絵というのは、もう相当に下手くそだった。

 僕はそのことに流石に少しキレてしまい、後輩の女子達に不満を漏らしてしまった。

 ちなみに、後になってこの事を振り返ってみると、妙な事がわかってくる。

 僕は美術部の画材を部費で買えるような仕組みを作った。僕は美術部の環境を良くするために仕事をしたのだ。

 すると、後輩がその仕組みで日本画の画材を買い、相当に部費を使い込み、物凄い下手な絵を描くことになってしまった。

 つまり、僕が仕事をすることで、美術部の展示会のレベルが最終的には落ち込んでしまったわけだ。

 もちろん、美術部というのは下手な絵を描く人がいても良いとは僕は今では思う。

 それに実は日本画というのは西洋画とは勝手が違い過ぎて、慣れないうちに上手く描くのが相当に困難な画材ではある。ひょっとすると、この部員もそのことに戸惑っていたという可能性はある。

 ただし、僕は当時、この事に何か理不尽なものを感じていたのだ。

 ちなみに、この日本画という画材は中国に起源をもつものであり、日本の伝統的な文化を描く芸術に使う画材のようである。

 

 

・これは僕が山梨県都留文科大学に通っていた時に出来た先輩についての話である。

 僕の美術部の先輩に水邊匡志という人がいたのだが、この人は国文学科に通っていた。

 そして、水邊さんは僕が大学に通いだしてから少しして「お前に引き合わせたい人物がいる」と言って、とある人を紹介してくれた。

 それが愛知県名古屋市出身の松本光平という人だった。この松本さんも国文科に通っているということだった。

 この人はかなり重度のPCオタクであり、僕と同じくインターネットのアングラに潜っていた経験がある人だった。

 また、この人は相当にゲームやアニメなどに造詣が深く、僕は相当にこの人からオタク絡みの事を教えて貰うことになった。

 ちなみに、この人のお母さんは名古屋大学で研究職をやっていたようであった。

 僕は「あー、また教師絡みの息子がPCやってら」とそれを聞いて思った。

 この松本さんはアトピーを持っているようであり、白い手袋をしているのが印象的な人だった。

 僕はよくこの人の家に遊びに行っていた。

 松本さんは非常に変わっていて、部屋の電気をつけるという習慣が無く、ぼんやりとした薄暗い照明を好んでいた。

 僕はときおり「これ、部屋の電気付けないんですか?」などと松本さんに聞いた。しかし松本さんはなぜか、かたくなに部屋の電気は付けなかった。

 部屋の中にはパソコンのディスプレイの光が煌々と照っており一種異様な雰囲気を醸し出していた。

 この人はwebデザインなどを勉強しており、水邊さんとよくweb上の構文について話し合いをしていた。

 松本さんはときどき昼食にスパゲティなどを茹でて食べていたのが印象的であった。

 ちなみに、ゲーム、アニメ、デザイン、スパゲティ、PC、これらは全て英語の名称をした娯楽や食べ物や機械装置であるようだ。

 

 

・これは僕の山梨県都留文科大学における先輩達についての話である。

 僕は松本さんの家に通うようになり、そこで水邊さんと一緒に良く遊ぶようになった。

 すると、水邊さんが妙な事を言い出した。「三人でRPGを作ろうぜ」と。

 実を言えば、僕は小学校の高学年くらいのときにpc98-01で発売されたdante98というRPG制作ゲームにはまっていたのだが、驚くべきことに水邊さんもそのゲームをやっていたのだ。

 そして、会話の流れで「経験者が二人いるのだから、RPGツクールを使用すれば、RPGの一本くらい作れるのではないか」ということになったのだ。

 それから僕たち三人はRPGを作ることになった。僕の担当はキャラクターグラフィックであった。

 しかし、いざRPGを作り始めるといきなり壁にぶち当たってしまった。なぜか水邊さんはマップチップを使ってマップを作るという事が苦手であったのだ。

 だから、そのうちこの企画では僕がマップチップを使って一生懸命マップを作ることになっていった。

 そして、水邊さんは凄く面白いアイデアを出すのだが、そのアイデアはなかなか実現が難しそうなものばかりであった。

 そのうち、この企画は自然と立ち消えしていくことになっていった。

 多分、この企画はビジュアル面を全て僕がやるという事自体に無理があったのだと思う。

 それから、僕たち三人はうだうだと三人揃って遊ぶようになっていった。

 しかし、僕は後からこの出来事を振り返ってみて、なんとなく「この三人だと、集まっても持ち点が全員足りなかったんだ」と思ってしまうのだ。

 

 

・これは僕の地元である山口県の友人についての話である。

 僕は大学時代、夏休みになると山口県に帰省していたのだが、その際に山口大学に進学をした田中健也という男と遊ぶ機会があった。

 その際、田中は車を出して僕を運んでくれたので、僕は田中に「ありがとう」と言った。

 すると、田中が「ああ、やっぱりありがとうって言うよね」などと奇妙な事を言い出した。

 どうやら田中は宮崎県の大学に行った津田智史という男が帰省してきた際に、津田を車に乗せたことがあるらしい。しかし、その際に田中は、津田に完全に便利なアッシー君扱いをされてしまったとのことだったのだ。

 田中は「高校のときは津田はあんな態度を取ってこなかったのにな」と随分としょぼくれてしまっていた。

 果てには田中は「俺、山口大学ミドリムシの研究とかしてるんだけど、それが地味過ぎてダメなのかな」などと愚痴をこぼし始めた。

 僕は「別にいいでしょ。それって研究職だろ」などと言った。

 しかし、僕は「やっぱり山口大学は色々不味かったんだな」となんとなく思った。

 ちなみに、この津田という男が通っていたのは宮崎県の大学である。そして田中という男が通っていたのは山口県の大学である。

 そして、宮崎県という県名は宮の前という意味があるようである。宮というのは神道の宗教的な施設の名称であり、皇族との関連性も強いようだ。

 さらに言えば、この宮崎県という県は天皇の起源の土地であるようだ。

 

 

・これは山口県山口市で僕が車の免許証を取得したときの話である。

 僕は大学一年生のとき、夏休みに山口市の小郡にあった小郡自動車学校に通って自動車免許を取得しようとしていた。

 小郡自動車学校で僕は壮年の男性教官に指導されながら、楽しく車の運転を学んでいた。

 そして、そのうち〝人を乗せて高速道路などを走ってみる〟という講習が始まった。

 僕はそれで、人とペアを組んで車を運転することになったのだが、その際に若い茶髪のかなり可愛い女性と一緒になった。

 その若い茶髪の女性は活動的な雰囲気であり、東京の早稲田大学に通っているという話だった。

 僕は「早稲田行ってるって、かなり頭が良いんだね」などと適当に世間話をしながら運転などをしていた。

 すると、僕はその若い茶髪の女性と少しだけ良い雰囲気になった。

 しかし、僕はそれ以上はこの女性とはあまり話をしなかった。

 何のかんので東京というのが僕の通っている都留文科大学から遠い所だというのがわかっていたから、親しくなっても意味がないと思ったのだ。

 すると、なぜかわからないのだが、僕に車の運転を教えていた教官がおかしくなった。

「なんで、君、あの子とあんまり喋らなかったんだ」などと教官が言い出したのである。

 その後、僕と教官の仲はどんどん悪くなっていった。

 僕は教官が例の若い茶髪の女性を狙ってでもいたのかなとも思った。

 僕は、それで教官は、僕と若い茶髪の女性が喋るのが面白くないのでやっかんで来たのかとも思った。

 ただ、結局のところ、なぜこのとき教官がおかしくなってしまったのかは僕にはわからなかった。

 そんなこんなで、運転免許証をもらうための最終試験が始まった。

 最終試験は小郡の町の中をグルっと運転して回るというものだった。

 しかし、この試験の日はちょうど道路を走る車の量が酷く少なかった。

 僕は教官に「君は運転が下手なんだから、今日は運良く車が少なかったから試験に受かったようなものだ」などと言われながら、小郡自動車学校を卒業することになった。

 僕は結局この最終試験のおかげで運転にはあまり自信が無くなってしまった。

 ちなみに、早稲田大学というのは東京都新宿区にある大学である。つまりは東日本にある大学である。

 また、自動車というのは日本語の名称をした乗り物であるようだ。

 

・これは僕が大学時代の夏休みに山口県山口市で車を運転したときの話である。

 僕は免許証を取得した後、父の車を借りて山口市内を練習がてらドライブするようになった。

 そして僕は、実を言うとそのドライブの最中に事故をしかけたことがあった。

 僕が大学一年生の頃、小郡の小郡駅前には県道335号線と国道9号線が交差する交差点があったのだが、僕はこの交差点の侵入の際に正面から来る車と正面衝突の事故を起こしかけたことがあったのだ。

 僕はその後「もう車を運転するのを辞めよう」と思ってしまった。

 それだけ、この対向車と正面衝突しそうになったことは、僕には衝撃的だったのだ。

 しかし、その後、しばらく後に僕の父から聞いた所によると、どうも僕が事故を起こしかけた交差点は元から事故が多発していた地域だという事だった。

 ちなみに、この小郡の駅というのはその後、新山口駅という名称に変わってしまった。

 そして、この新山口駅前の道路はどこも本当に交差点の入り組み方が滅茶苦茶になってしまっていた。

 ここで一応記述しておくと、自動車というのは日本語の名称をした乗り物であるようだ。

 また小郡という地名には小という漢字が入っている。

 この小という漢字は小さいことを表している。

 そして、小さいということは、第二次世界大戦後にこの国を統治した体が大きく大きな物を好むアメリカ合衆国に住む人間たちがあまり好きではない価値観のようだ。

 

 

・これは僕が大学時代に始めたアルバイトの話である。

 僕は大学時代に都留文科大学という大学のすぐ近くにあった、セブンイレブン都留田原二丁目店でアルバイトをしたことがある。

 このセブンイレブンはご家族で経営しているコンビニであり、店長は北海道出身の吉田という姓をしている人だった。

 この店長は茶髪をしており女に対して少しだらしがない感じの人ではあったが、家族を大切にしている印象もある不思議な人だった。この吉田店長はテニスが上手かったそうであり、全国大会に出場したこともあったそうだ。

 僕はこのセブンイレブンで働き始めたわけなのだが、この吉田店長は僕に対して、まともに仕事を教えてはくれなかった。

 僕が特に酷いなと思ったのは発注業務の指導についてである。

 吉田店長は「これまで見た経験でやってみろ」と言って、僕にいきなり発注をやらせてきたのだ。

 しかし、僕は商品の仕入れをする数というものがいまいちわからなかった。だから、僕は最初の発注作業の際に、適当に仕入れる数を決めてしまった。

 すると、店長は僕に対して「駄目だな」という扱いをされてしまい、その後、しばらく僕は発注作業をさせて貰えなかった。

 ただし、この吉田店長はどうもアルバイトにかなり優秀さを求める人だったようであり、僕以外のあまり仕事が得意でない男の先輩などにも似たような指導をしていた。

 ちなみに、この吉田という姓に関しては嵯峨天皇が編纂を命じた新撰姓氏録の中にその記載があるようだ。どうやら吉田は皇別氏族という扱いらしい。

 そして、この吉田という姓の名称について考えてみると、まず吉という漢字については神道のおみくじなどに関連があるように、神道絡みの漢字のようである。

 またこの姓には、東南アジアや中国から伝来した作物の栽培地の名称を示す〝田〟という漢字が使われているようだ。

 

 

・これは僕が大学時代に始めたアルバイトの話である。

 僕は大学時代に都留文科大学という大学のすぐ近くにあった、セブンイレブン都留田原二丁目店でアルバイトをしたことがある。

 このコンビニには色々な出身地の大学生が働いていたのだが、そこに沖縄県出身の伊波という姓をした茶髪の女性の先輩がいた。

 この伊波という先輩は美人ではあったのだが、頬に出来物などが出来ており、ストレスが多い生活をしているようだった。

 伊波先輩は僕がこのコンビニでアルバイトを始めた際に入れ替わりでコンビニのアルバイトを辞めて行った。

 僕はこの先輩に「原田君、もっと胸を張って自信を持たないとダメだよ。女の子にはそれじゃモテないよ」などと説教をされたことがあった。

 この伊波先輩は僕に対しては怒りながら接する癖があったのが不思議であった。

 この伊波先輩はその後、学祭の出し物で沖縄県産のジュースか何かを出していた。

 僕はこの伊波先輩になぜか怒りながら、その出し物を振舞ってもらったことがある。

 ちなみに、この伊波という姓に関しては沖縄県特有の姓である可能性が高いようだ。

 そして、波という漢字は一般的には海にあるものであり、海というものは標高が低い場所にあるものである。

 

 

・これは僕が大学時代に始めたアルバイトの話である。

 僕は大学時代に都留文科大学という大学のすぐ近くにあった、セブンイレブン都留田原二丁目店でアルバイトをしたことがある。

 このコンビニは妙な話ではあるのだが、優秀な人ほど辞めることが難しいコンビニだったらしい。

 僕の一つ上の先輩に坂口という姓をした女性がいた。この坂口さんはかなり優秀なスタッフだったようであり、発注業務などを店長からしっかりと任されていた。

 この人は何度も吉田店長に対してアルバイトを辞めたいと申し出ていたのだが、吉田店長にかなりしつこく引き留められていたようだった。

 しかし、坂口さんは結局、このコンビニを辞めることになったのだが、その辞める辺りに妙な事になっていたのだ。

 坂口さんはアルバイトを辞めた辺りの日、店の棚の所にうずくまって腹を抑えていた。

 そのときの坂口さんは酷く葛藤に苛まれ、苦しんでいるようだった。

 僕はそれを見てギョッとしてしまい、坂口さんに対して「坂口さん、別にコンビニバイト辞めるだけでしょ? 代わりは一杯いますよ。僕とか。そんなに気に病まなくてもいいじゃないですか。たかがバイトですよ」などと声をかけてしまった。

 また、僕の同級生である田中直矢という男もこのコンビニで働いていたのだが、田中は高校時代にコンビニバイトの経験があったらしく、かなり吉田店長から重宝されていた。田中は生来、仕事を器用にこなせるような性格をしていたというのも大きいかもしれない。

 ただ、この田中は僕に対して「おい、店長がさぁ、バイト辞めさせてくれねーじゃん」といつも愚痴を吐いていた。

 僕はそれに対して「いや、もうそれさ、辞めりゃよくね?」などと返していたのだが、結局田中はバイトを辞められなかったらしい。田中はこのコンビニで相当長い事働くことになっていた。

 ちなみに、このコンビニの店長である吉田店長は北海道出身の人らしい。

 そして、北海道という場所は日本で一番緯度が高く、そのせいで寒さが酷く、白い雪が降り積もる地域のようだ。そして、この北海道という地域は、アメリカと同じく開拓された土地である。

 それからこの北海道という土地は第二次世界大戦後に牛肉や小麦粉などといった白色人種が愛好する食材が栽培、育成された土地であるようだ。

 特にパンなどに使われる小麦粉などは第二次世界大戦後の日本において北海道産が8割というシェアを持っていたらしい。

 

 

・これは僕が通っていた都留文科大学の同級生である佐々木寛章という人物についての話である。

 僕は大学一年生のときに東北地方の山形県出身である藤田美里という同級生に一目惚れをしたのだが、この藤田はすぐに男と付き合ってしまった。

 その付き合った男というのが佐々木寛章という北海道出身の男だった。

 ただ、僕としては「まぁ、佐々木は顔は良いし、悪い奴でもないよな」と普通に思い、ごく普通に友人として付き合っていた。

 しかし、その後、佐々木は同じ学年の女性に浮気をした上で藤田を捨ててしまったということだった。

 しかも、その後、佐々木はその浮気をした女性と結局別れてしまい、しかもその浮気した女性の事を「あの女は下げマンだった」などと口外していたらしくのだ。

 僕はそのせいで、佐々木に対してかなり異様な印象を得るようになっていった。

 その後、僕は藤田がいま誰とも付き合ってないなら当たってみようかなと思い、佐々木に言って考古学研究部に仮入部させてもらった。

 すると佐々木は「美術部に興味があるので、見てみても良いか?」と聞いてきた。僕はそれを了承した。

 佐々木はその後、美術部に在籍していた女性陣を見て、「西村先輩が美人で良いな。付き合いたいかも」などと笑いながら言い出した。

 僕は「ちょっと待て、無理だよ。西村先輩は彼氏がいるぞ」などと言った。すると、佐々木は「でも、美人じゃん」などと言って西村さんを狙っているようだった。

 僕はこの辺りから、「何か、この佐々木は変だな。女に対する価値観がおかしいぞ」と思うようになってしまった。

 また佐々木はこのとき妙な事を言っていた。「北海道はおかしいやつが多い」と。

 彼が言うには北海道には、精白じみた頭が悪い人間が多いということらしかった。

 僕は「そうなのかな」とその発言に相当に戸惑ってしまった。

 ちなみにここで、この佐々木寛章という氏名の中の佐々木という姓について考えてみよう。

 まず、佐々木というのは、どうも天皇の系に近しい氏族のようであり、日本の氏族の樹形図において、佐々木氏流という太い系を形成してしまっているようだ。

 また、この氏族自体、東日本に人口分布が広がっており氏族間で全国佐々木会という会を開いてもいるらしい。

 そもそも、この佐々木という名称は地名にもなっているようなのだが、この佐々木という名称は地名からすると古代にはミソサザイと書いてもいたそうだ。

 そして、このミソサザイという鳥は西洋では鳥の王様と呼ばれていたようだ。

 また、この佐々木氏は嵯峨天皇が編纂を命じた新撰姓氏録の中の皇別氏族の分類の中にその関連性を見ることが出来る。

 どうやら、佐々木氏は皇別氏族の中にある佐々貴山公という天皇系の氏族との関りもしばしば指摘されているのだ。

 つまり、この佐々木という姓の氏族は限りなく天皇の系に近いという扱いを受ける、公家に近い氏族のようであり、東日本の代表的な氏族でもあるわけだ。

 では、この寛章という名がどうかと言えば、この名称は〝ひろあき〟と呼ぶようである。

 これは僕の名前である宏樹の読みである〝ひろき〟とよく似通っているようだ。

 またこの〝ひろあき〟という読みの末尾である〝あき〟という音は一般的には秋という季節を連想するのではないだろうか。

 この秋という季節は日本においては紅葉が色づく季節である。そして紅葉は赤系色をしており、共産主義の象徴色である赤色を感じさせる色をしているようだ。

 次に、佐々木の出身地である北海道という場所は、日本で一番緯度が高く、そのせいで寒さが酷く、白い雪が降り積もる地域のようだ。

 それから、この北海道という地域は、アメリカと同じく開拓された土地である。

 だから、この北海道という土地は牛肉や小麦粉など、白色人種が愛好する食材が栽培、育成された土地であるようだ。

 特にパンなどに使われる小麦粉などは第二次世界大戦後の日本において北海道産が8割というシェアを持っていたらしい。

 それからこの話に出て来る西村という姓についても一応記述をしておこうと思う。

 この姓は日本のどの地域にもあるよくある姓のようなので起源についてははっきりとしたところはないようだ。

 しかし、この国においては、この姓の中の西という漢字については明確に弱い印象を得るようになっているようだ。

 というのも、この国では第二次世界大戦後、なぜかデパートの駐車場や、駅などで、西側という場所にストレスが設定されていたからである。

 そして、これは実を言えば南という方角についても同じであるようだ。

 

 

・これは僕が付き合った都留文科大学の同級生である藤田美里という人物についての話である。

 僕は大学一年の最後の方で藤田美里という女性を家に呼び飲み会をするようになった。

 僕たちは二人で夜遅くまでよく酒を飲んでいたのだが、藤田は物凄く酒に強い女性であり、大抵は僕の方が先に酔っぱらってしまっていた。

 僕は藤田に対して、遠回しにアプローチをしていったのだが、その際に藤田が奇妙な事を言い出したのである。

 藤田は「私の友人の山梨県の女の子が原田君のこと気になってるらしいけど、付き合ってみる気はないのかな?」などと僕に聞いてきたのだ。

 僕は「ああ、これは藤田はあまり俺のこと好きでもないのかな」と、それを聞いて思ってしまった。

 ちなみにここで、この藤田美里という氏名について考えてみようと思う。

 まず、この藤田という姓については、東日本にその起源があるのがほぼ確定しているようである。

 そして、この姓は藤原秀郷という天皇に近い位置にある東日本の武家の起源を持っている可能性が高いようだ。

 ただし、この姓は〝田んぼのそばに咲く藤〟といったような地名が元になった姓であるという可能性もあるにはあるようである。

 またこの姓には、東南アジアや中国から伝来した作物の栽培地の名称を示す〝田〟という漢字が使われているようだ。

 では、次に美里という名について考えてみると、まずこの美里という名の読みは〝みさと〟であり、この読みの中にはミサという英単語が入っているようだ。

 このミサという英単語は、白色人種が愛好する宗教であるカトリック教会の中心的な祭礼、聖体を受け神に感謝する祈願などを行うものを表したもののようである。

 次に、この美里という名の中の美という漢字は大という漢字が末尾になっているようだ。

 そして、この大という漢字は大きなことを指し示すものであり、戦後、この日本を統治したアメリカ人は体が大きいせいか、とにかく大きなものが好きな民族だったようである。

 

 

・これは僕が付き合った都留文科大学の同級生である藤田美里という人物についての話である。 僕はその後、藤田美里に告白をして、藤田美里と付き合うようになった。

 しかし、この藤田は僕からすると相当に変わった所が多かったと思う。

 まず、この藤田は彼氏である僕の名前を呼ばなかったのだ。また、藤田は僕に対して好きと言ってきたこともなかった。

 また、この藤田は僕と付き合いだしてからすぐに、女子寮を出てアパートの一階に住み始めた。

 そして、この藤田が住んでいたアパートの部屋というのはちょっと奇妙な印象を受ける部屋だったのだ。

 藤田の部屋は置いてある家具が全て極めて小さかったのだ。

 僕は、本棚や机などが小さいのはなんとなく利便性の上から理解できたのだが、藤田の部屋はテレビまで小さかったのが不思議だった。

 藤田はその小さなテレビを台の上に置いており、その位置は異様に高かった。

 藤田は部屋に椅子などを置いていなかったため、そのテレビを見るときは床に座り込んでテレビを見上げる形になり、僕はこの部屋のテレビを見ていると首が痛くなりちょっとしたストレスを感じていた。

 藤田は典型的な活動的な女子大生といった感じで、その趣味もまたそんな感じだった。

 藤田は「家具をフランフランで揃えたい」などと時折言ったりしていた。

 僕はよく藤田の部屋に通っていたのだが、藤田の部屋は非常に不思議な事に、朝も夜も異様に静かだったのが印象的であった。

 ただし、藤田が言うには僕がいないときはこの部屋は周囲から声がしてうるさいこともあったとのことだった。

 

 

・これは僕が付き合った都留文科大学の同級生である藤田美里という人物についての話である。

 僕が大学時代に付き合った藤田という女性は携帯電話でするメールが好きであり、僕と良くメールをしていた。

 しかし、実を言えば僕はこの辺りで、僕の兄である原田和樹と長電話をすることが多くなっていた。

 兄はメールをとにかく嫌い、よく僕と電話で話をしていたのだ。

 それから僕は、藤田とも電話で話をしたり、部屋に直接行くようになっていった。

 藤田はそのことが少しだけ不満のようだった。

 ちなみに、ここで書いておくと、電話というのは日本語の名称をした行為のことであり、メールというのは英語の名称をした行為のことのようである。

 

 

・これは僕が付き合った都留文科大学の同級生である藤田美里という人物についての話である。 僕は藤田と付き合っている際に、藤田が以前付き合っていた佐々木寛章という男の異様な女癖について話したことがある。

 すると、藤田は一生懸命佐々木の事を庇い始めた。

 しまいには藤田は「東北の人は北海道の人とは仲が良いんだよ」などと不思議な話をし始めてしまった。

 僕は「そのことと、佐々木の女癖が変なこと、何の関係あるんだよ。確かに佐々木は北海道出身だけどさ」とかなり奇妙に感じてしまった。

 

 

・これは僕が付き合った都留文科大学の同級生である藤田美里という人物についての話である。 僕が大学時代に付き合った藤田という女性は、高校時代はかなり遊んでいたようだった。

 僕は藤田から高校時代に遊んでいる際に撮影したプリクラを見せて貰った事があるのだが、藤田は髪を茶髪に染めており、かなり短いミニスカートを履いていた。

 そして、藤田は僕に対して「高校時代、痴漢にあっていた」ということを話したことがある。

 僕はそれを聞いて、ちょっとだけ奇妙な印象を受けてしまった。

 というのも、この藤田は山形県出身の女性だったのだが、僕からすると山形県というのは田舎であるような印象を受けていたのだ。 

 そして、田舎というのは電車などの交通機関は基本的には乗客でいっぱいにならないことが多いはずである。

 また、地方特有の閉鎖性から、痴漢という犯罪行為は露見をしてしまうとすぐにその情報が拡散してしまう為、地方では本来は痴漢自体が発生しにくいはずなのだ。

 僕は藤田からその話を聞いて「山形県はどうして、痴漢なんて起きるんだろう」と相当に不思議に思ってしまったのだ。

 ちなみに、藤田は正直なところを言えば、物凄い容姿が整っていた。

 だから、藤田が痴漢に遭ったというのは、その辺りの事情が関係しているのかもしれない。

 

 

・これは僕が付き合った都留文科大学の同級生である藤田美里という人物についての話である。 僕が大学時代に付き合った藤田という女性は、どうやら都留文科大学という大学に不満を持っていたらしい。

 藤田はもともとは東京の早稲田大学に行きたかったそうであり、大学受験に失敗してしまったことを僕に仄めかしていた。

 どうも僕が見たところでは、藤田は高校時代に満足に勉強が出来なかったという思いがあるようだったのだ。

 藤田はときおり、奇妙な愚痴を僕に言った。

 藤田は「アナウンサーになりたかった」「心理学者になりたかった」などなど、現在の自身の進路が希望とは違うことをたびたび口にしていたのだ。

 僕は藤田があんまりそういう事を言うものだから「だったら、今から都留文科大学を退学して早稲田大学を受ければ良いだろ。俺を捨ててでも、それはやるべきだよ」と藤田に言った。

 僕には藤田画心理学者という進路を選ぶのであれば、そうした方が良いように本当に思えたのだ。

 しかし、僕は後年になって、「なぜ、藤田は高校時代、満足に勉強が出来なかったのか」ということをよく考えもしてしまった。

 僕が見たところ、藤田は勉強に関してはかなり後悔の念を抱いているようだったからだ。

 

 

・これは僕が付き合った都留文科大学の同級生である藤田美里という人物についての話である。

 僕は大学二年生の夏休みは付き合っている藤田美里には悪かったのだが、絵の勉強をすることにした。だから、藤田は地元である山形県に帰省をしていたようである。

 藤田は地元の友人皆で集まってよく海に行くことがあったらしい。

 しかし、藤田はこの大学二年の夏休みに海に行った際、同級生から付き合わないかと告白をされたそうである。

 藤田はそのことを夏休み明けに僕に伝えてきたのだ。

 僕はそのことにかなり動揺をしてしまい、夏休みに絵の勉強をしたことを少し後悔してしまった。

 ただ、僕はこの際、藤田が海に行っていたということがちょっと気になり、藤田に対して「海に行って、水着になって泳ぐの?」と聞いてみた。

 藤田は「泳がないよ」と答えた。

 僕はなんとなく藤田のその答えに納得をした。

 僕は藤田のへその下に出来物があるのを知っていたからだ。

 僕はその出来物を見たときに「この位置に出来物があるのは不味いかもな。これは放っておくと子宮がんなどに繋がるかもしれない」と不安になってしまったことがある。それだけその出来物は大きかったのだ。

 ともかく僕は、藤田がその出来物を人に見られてしまうのを気にして水着になれなかったのだろうと推測したのだ。

 ただ、僕はこの出来事を振り返って、ちょっとだけ奇妙にも思うのだ。

 男性とすでに付き合っている女性に対して告白をするということはそんなに一般的な事なのだろうか、と僕は少しだけ疑問に思ってしまったわけだ。

 少なくとも僕の友人にはそういう事をする男性というのは全然いなかったのだが、これは山形県では案外一般的なことだったのだろうか。

 そのことが僕は後になって結構引っかかってしまっていた。

 

 

・これは僕が付き合った都留文科大学の同級生である藤田美里という人物についての話である。 僕が大学時代に付き合った藤田という女性は、どうも、僕が絵を描いていること自体、あまり好きでもなかったらしい。

 藤田はときおり、僕が絵を練習するのを邪魔するように動きもした。

 例えば藤田は僕が自分の部屋で絵の練習をすると言うと、自分の部屋に泊まって行くように勧めたりした。

 また藤田は、僕がパソコンで絵を描くためのタブレットを買う為にバイトをして貯金をすると、「私、旅行好きなんだよね」などと突然僕に言ってきたりしていた。

 ただし、大学時代の僕はまだまだ相当に絵が下手だったので、藤田が僕に絵を描くのを辞めさせようとしていたことは理解が出来るのだ。

 僕はその当時から漫画家になろうと思っていたのだが、なかなかそれは難しそうだった。

 それは僕自身がわかっていたことであったし、藤田にもそれがわかっていたのだろう。

 ただし、僕は当時のことを振り返って思うのだ。

 「このとき普通に就職をするのは絶対にやめておいた方が良かったし、これで正解だったな」と。

 なんとなく僕はもう、この辺りの時期には自分の人生にあまりにも酷い事がたくさん起きすぎていて「これは社会に普通に参加をして生きていくのは不可能だな」と感じていたのだ。

 

 

・これは僕が付き合った都留文科大学の同級生である藤田美里という人物についての話である。 僕は大学時代に付き合った藤田に対して「何か料理を作ってくれないかな」と頼んでみたことがある。

 すると、藤田は後日、僕に料理を作ってくれた。

 藤田が作ってくれた料理はラザニア単品であった。

 僕は藤田が作ってくれたラザニアを見て、相当の違和感を覚えてしまった。

 というのも、僕が料理と言っていたのは、ごはんに味噌汁におかずが一品というごく普通の料理であったからだ。

 僕は藤田が作ってくれたラザニアを口に運んだ。それは普通に旨かった。

 当然だろう。このラザニアという料理はチーズなどを材料に作るものであり、不味く作る方が難しい簡単な料理だからだ。

 藤田は僕に料理の味がどうかということを聞いてきた。

 僕は「うん。普通に旨いよ」などと答えた。

 すると、藤田は僕に驚くべきことを言ってきたのだ。

 「不味いって言ったら、怒っちゃうところだったよ!」と。

 藤田は顔を真っ赤にして頬を膨らませていた。

 僕はそんな藤田の顔を見たのが初めてだったので、相当に驚いてしまった。

 ちなみに、ラザニアという料理はイタリア発祥の料理であり、この料理はヨーロッパに広まった後に、アメリカなどでも作られるようになったようである。

 

 

・これは僕が付き合った都留文科大学の同級生である藤田美里という人物についての話である。 僕は大学時代に藤田と付き合ったわけなのだが、藤田は付き合ってすぐの時期に山梨県都留市のすぐ近くにあった富士急ハイランドに行こうと言ってきた。

 僕は喜んでそのことに同意した。これが僕たちの初めてのデートとなったわけだ。

 僕はそのとき、兄から貰った高いフランス製の赤いジャケットを着てデートに行った。

 藤田はピンク色のカーディガンにデニムスカートという恰好をしていたと思う。

 藤田は遊園地が好きらしく、特にジェットコースターが好きということだった。

 僕は正直、高い所がそこまで好きではなかったのだが、藤田に付き合ってジェットコースターに乗ったりもした。

 僕たちはこの富士急ハイランドでは結構楽しく遊ぶことが出来た。

 そして、僕たちはちょことちょこと遊具に乗った後で、大学の下宿に帰ることにした。

 その帰り際、僕たちは富士急線に乗って富士急ハイランドから帰ったのだが、そこで奇妙な事が起きた。

 僕たちは電車の二人掛けの席に座っていたのだが、僕たちが座っていた席の前の席に座っていた初老の老人が喋りかけてきたのである。

 その老人はいきなり僕に対して「天狗だ。天狗がいる。知っているか? 天狗のチンポというのはな、天狗の鼻と同じで赤いのよ」と言ってきた。

 僕は「天狗? 俺が?」と困惑してしまい、わけがわからなくなってしまった。

 僕はこの老人が言った事に対して怒るべきかとも思ったのだが、この老人が何を言っているのか微妙にわからなかったので、押し黙ってしまった。

 すると、老人は笑いながら電車の外に出て行き、別の車両に乗り込んでいった。

 僕はその老人が酒にでも酔っているのかと思った。

 藤田はこのよくわからない展開を受けて俯いていた。僕は「なんだあれ。もうちょっと何かされたらキレる所だったわ」と言った。藤田は「そうなの?」と不安げに呟いた。

 結局、僕たちの最初のデートは物凄く嫌な雰囲気で終わってしまった。

 

・これは僕が付き合った都留文科大学の同級生である藤田美里という人物についての話である。 僕は大学時代に藤田と付き合ったわけなのだが、僕は藤田と一緒に適当に日帰りで東京に遊びに行ったことがある。

 その際に、藤田は「フランフランで家具を揃えたい」などということで一緒にフランフランの店を探したりしたのだが、その時は残念ながらフランフランの店舗が見つからなかった。

 その後、僕たちは六本木にあった森ビルの中にあった美術展などを見て回った。

 そして、そこでは現代芸術展がやられており、そこにはなぜか真っ白い何も描いていないキャンバスが飾られていたりした。

 僕はそれを見て「なんだこりゃ、誰でも出来るじゃねーか」と言った。藤田は「ふーん」と言いながら笑っていた。

 僕はこの日、最後に六本木にある森ビルから夕焼けを見て、二人で満足して帰ったのをよく覚えている。

 

 

・これは僕が付き合った都留文科大学の同級生である藤田美里という人物についての話である。 僕は大学時代に藤田と付き合いだしてしばらくしたときに、山本崇弘という同級生と遊ぶ機会があった。ちなみにこの山本崇弘という同級生は皆から「タカさん」というあだ名で呼ばれていた。

 山本は大阪出身の男であり、僕に対して、なぜか結構好意的な発言をしてくれる男であった。

 僕は山本に対して藤田と付き合い始めたことを報告して、「藤田、滅茶苦茶可愛いんだ」と少し惚気た。

 すると山本は藤田があまり可愛くないと言い出したのだ。

 僕はそれを聞いてギョッとしてしまった。僕は藤田よりも可愛いと思う女性をほとんど見たことが無かったからだ。

 それから山本は不思議な事を言い出した。「藤田さんはさぁ、高校生のときに撮ったっていう写真の中では物凄い可愛いかったんだけどなぁ」と。

 僕はそれを聞いて「まぁ、そりゃあそうかもしれないけどさぁ」と少し唸ってしまった。

 しかし、僕は何かこの山本の発言を聞いて妙な雰囲気を得てしまった。

 というのも、彼はそもそも温厚な男であり、他人に対してなにか強烈な否定をしてくること自体、あまり無かったからだ。

 

 

・これは僕が付き合った都留文科大学の同級生である藤田美里という人物についての話である。 僕は大学時代に藤田と付き合いだしてしばらくしたときに、セブンイレブンのアルバイト達が集まる飲み会に誘われて、そこに行ったことがある。

 その席では僕と入れ替わりで新しく入った一学年上の女性のアルバイトの人が、なぜかいきなり僕に対して藤田が佐々木と付き合っていたということをちらつかせてきて嫌味を言ってきた。

 すると、その飲み会の席にいた田中直矢がキレてしまった。

 田中は「もう辞めろよ」と言った後に「こいつ、藤田から名前で呼んで貰ってないんだぞ」などとこぼしてしまった。

 その後、田中は「あの先輩、性格悪いから嫌いだわ」などと言った後に、僕に対して「あーあ、原田はテニスサークル入ってたら可愛い彼女出来てたのにな」と言ってきた。

 僕はそれを聞いて「そうかぁ? テニスサークルで?」と田中の発言をそのときは不思議に思った。

 一応ここでも書いておくが、田中はテニスサークルに所属していた。

 ちなみに、このテニスサークルというものは、名称の全てが英語で出来ているようだ。

 またテニスというのはフランス貴族の間で行われることで定着したスポーツのようである。

 

・これは僕が付き合った都留文科大学の同級生である藤田美里という人物についての話である。 僕は大学時代に藤田を連れて、都留文科大学前の坂を登り切った所にある施設の二階に、学生映画を見に行った事がある。

 その学生映画というのは、僕の知り合いが多く所属をしていたシネマファクトリーという映画製作サークルが撮影し上映をしていたものだった。

 僕が藤田と一緒に二階の劇場に入り席に座ると、僕の背後から何かが落ちたような物音がした。

 僕と藤田がその音を受けて背後を振り返ってみると、劇場の背後の二階にあった踊り場から清水哲平と三島慶太の二人が笑いながらこちらを見ていた。

 僕はなんだかこの辺りで、藤田と付き合っていると周囲から攻撃をされているような感じがしてきていた。

 ちなみに、そのとき見た学生映画は厳密に言えば、映画でも無かった。

 それは、水邊匡志という先輩が作ったシュールギャグショートショートという感じの映像集だった。

 そしてその映像の中で、僕はふざけて妙な踊りをやっている所を撮影されて使われていた。

 それは許可なしに僕を遠くから盗撮した映像を編集して使ったもののようだった。

 藤田はそれを観て、かなり呆れた感じで「なにこれ」などと言って戸惑っていた。何か藤田は僕がこのシネマファクトリーでこういう風に弄られて、虐められてでもいると思ったようだった。

 僕はその映像を見て「水邊さんにも困ったもんだ」と少し笑ってしまった。

 しかし、僕は藤田に何か失望をされてしまったような感触も得ていた。

 ちなみに、僕はこのシネマファクトリーで普段、そこまで酷い扱いを受けていたわけでもなかった。

 別に清水も三島さんも水邊さんも、普段はこんなことをしてきてはいなかったのだ。

 ただ、なぜか僕が藤田を連れていったときに限って、偶然こういう展開が発生してしまったのだ。

 

 

・これは僕が付き合った都留文科大学の同級生である藤田美里という人物についての話である。 僕は大学二年の2月14日、その日がバレンタインデーと知りつつも、絵の練習をしていた。

 そのときも藤田と付き合ってはいたものの、なにか僕はもういいかなと思ってしまったのだ。

 すると、藤田がいつの間にやら僕の住んでいたアパートの部屋に来て、ドアノブに手紙入りの手作りチョコレートが入った小さな紙袋を引っかけて帰っていた。

 僕はそのチョコレートを何のかんのでありがたく食べた。

 その後、藤田が地元に帰り、3月14日に大学側に帰ってくる際、僕は東京まで藤田を迎えに行った。

 そして、僕は東京のレストランで藤田にちょっとだけ高めの値段の夕食を奢った。

 僕は藤田に「ホワイトデーだから奢るよ」などとそのとき言ったのだが、藤田は憮然とした顔で「ホワイトデーを大切にするのは当たり前だよ」などと返してきた。

 僕は「なんか藤田怒っているな。大体、なんで当たり前なんだ?」と、少し疑問に思ってしまった。

 ちなみに、バレンタインデーやホワイトデーというのはキリスト教圏の文化風習であり、第二次世界大戦後にその商業的な価値を見込まれて日本に持ち込まれたものであるようだ。

 また、ホワイトデーという名称のうち、〝ホワイト〟という英単語は白色という意味があるようだ。そして、第二次世界大戦後に日本を西欧化した白色人種達の肌の色は白色であった。

 また、大学時代の藤田の肌の色は完璧な白色であったこともここに記述しておく。

 

 

・これは僕が付き合った都留文科大学の同級生である藤田美里という人物についての話である。 僕は大学時代、藤田と付き合っていたのだが、藤田は髪をいつも綺麗な赤系の茶髪に染めていた。

 藤田はときどきその茶髪を弄りながら「私、髪を染めてるせいで髪がすぐ痛んじゃうの」などと愚痴を言っていた。

 僕は藤田に一度だけ「黒髪にしろよ。お前肌白いから黒髪似合うと思うよ」などと言った事がある。

 すると、藤田は「絶対やだ! 絶対やだ! 絶対やだ!」と首をブンブン振りながらそれを拒絶した。

 僕は藤田がなぜ、そんなに黒髪にするのを嫌がるのかがその時は不思議でしょうがなかった。

 そもそも髪を染めることで髪が痛んでいるということなら、髪を染めるのは辞めた方がいいはずなのだ。

 実を言うと、僕や僕の大学時代の友人達は皆、入学時には茶髪に髪を染めていた。

 しかし、入学から時が経つに連れて、僕は髪の色を黒色にしていったし、僕の友人達も髪の色は黒髪になっていっていたのである。

 僕は藤田がなぜそんなに自身の髪を執拗に赤系の茶髪に染め上げているのか、不思議でしょうがなかったのだ。

 また、僕の兄も実を言えば昔、自身の髪の色を赤系の茶髪に染め上げていたようである。

 ちなみにここで書いておくが、金髪や茶髪という髪の色は、一般的には高緯度、高標高地域に住む白色人種の髪の色に似通った色のようである。

 

 

・これは僕が付き合った都留文科大学の同級生である藤田美里という人物についての話である。 僕は大学時代、藤田と付き合っていたのだが、一週間のうち会うのは2回や3回に留めていた。というのも絵の勉強をしたりするのが忙しかったからだ。

 しかし、それが藤田は不満だったようだった。

 そして、そのせいかは知らないが、藤田はときどき精神的におかしくなっていた。

 藤田はmr.childrenというバンドの音楽を一人で聞く癖があったようであり、ときには一日中ヘッドホンを付けて聞いたりしているという事だった。

 僕はそれを聞いて「ええ?」と思ってしまった。

 僕はこのmr.childrenというバンドのボーカルの桜井という人物が、売れない間に支えてくれた糟糠の妻を捨て、若い女と不倫の末くっついたという話を井手という友人から〝ちょうど〟聞いていたのだ。

 僕は藤田に対して「いや、お前、そのバンドのボーカルって、不倫して嫁さん捨てた奴だぞ? それ聞いて面白いわけ?」などと言ってしまった。

 すると、藤田は涙を流して「なんでそんなこと言うの?」と僕に返してきた。

 僕は藤田がなぜそんなにmr.childrenを聞くのが好きなのか、その当時は理解が出来なかった。

 ちなみに、このmr.childrenというバンドのボーカルである桜井という人物の姓については新撰姓氏録という嵯峨天皇が編纂を命じた新撰姓氏録に記載がある姓である。

 これによれば、桜井は皇別氏族という扱いのようであり、天皇に近しい氏族であるようだった。

 

 

・これは僕が付き合った都留文科大学の同級生である藤田美里という人物についての話である。 僕の大学時代の同級生に常盤という男がいた。この常盤はバドミントンサークルに所属している茶髪の男であり、なかなか顔立ちが整っている気安いノリの男であった。

 僕はこの常盤の住んでいるアパートの部屋に遊びに行ったことがあるのだが、この常盤は驚くべきことに部屋の中に大きめの神棚を設置していた。

 また、常盤は意外にもPCを弄るようでもあり、その手の雑誌が室内にはあった。

 そして、ある日、藤田が僕に対して奇妙な事を言ってきた。

 常盤の事が好きな女性がいるので、常盤を読んで合コンでもやってくれないかと僕に頼んできたのだ。

 僕は一応気になって「その女の子って可愛いのか?」と聞いた。すると藤田は「可愛い」と答えた。

 僕はそれだったら、合コンを開いても常盤も悪い気はしないだろうと踏んで井手という友人を呼んで飲み屋で合コンを開催した。

 いざ、合コンは始まった。面子としては女子三人、男子三人の六人であった。

 男子の面子は僕が呼んだ常盤と井手、女子の面子は藤田が呼んだ女子二人という感じだった(女子の名前、興味が無かったので憶えておらず)。

 僕は、合コンが始まるやいなや、常盤の事が好きな女性と藤田がいった女性を見た。すると、その女の子は可愛いとかいう以前に結構太ってしまっていた。

 僕は常盤と一緒にトイレに立った。

 常盤はトイレに入るなり「原田さん、あの女って、俺のバイトしているファミレスに来ている俺のストーカーなんですけどー」などと敬語で抗議してきた。

 僕はそれを聞いて常盤に平謝りした。あり得ない展開だと思った。お詫びに僕はこの日の常盤の飲み会の代金を全て持つことにした。

 その後、僕は机の下で藤田の足をグリグリと踏みつけていたのだが、その飲み会の最中、奇妙な事が起きたのだ。

 この合コンには実を言えば、藤田とそのちょっと太った女性と、もう一人ウェーブがかかった黒髪の女性も来ていた。

 そして、その女性が山形県出身の須藤靖広という男性が授業中に非常に気持ちが悪い言動や素振りをしていたという話をし始めたのだ。

 僕はその須藤靖広という人物を知っていたので、なんとも言い難かった。確かにその話の中の須藤は気持ちが悪いと受け取られるような動きをしていたのだ。

 そして、藤田はその話を聞いて表情を硬くしていた。

 ちなみに、この常盤という姓については神奈川県に起源を持っている可能性があるようである。

 

 

・これは僕が付き合った都留文科大学の同級生である藤田美里という人物についての話である。 僕は大学時代、藤田と付き合っていたのだが、僕は藤田に誘われて、藤田と一緒に都留文科大学付近で行われていた夏祭りにデートで行ったことがある。

 藤田はその夏祭りに普通に私服でやってきて「浴衣、着てこられなくてごめんね」と謝ってきた。僕は「別にいいよ」と藤田に返した。僕も別に着ていなかったからだ。

 僕たちが適当に祭りの屋台を見て回っていると、空に花火が上がり始めた。

 藤田はそれを観て「花火、綺麗だねー」などと言った。

 僕は藤田を見て「俺は花火よりも、お前を見てる方が良いや」などと言った。

 すると、藤田は突然立ち止まり涙ぐんで膨れっ面をした。

 僕はそれを見てギョッとしてしまった。

 ちなみに、ここで一応記述しておくと、まず浴衣というものは日本の伝統的な服装のようである。

 また、花火、というのは江戸時代、江戸で発達した文化であるようだ。

 つまり、花火というものは東日本の伝統的な文化であると言うことが出来そうだ。

 そして、花火は標高の高い地点に上がり、そこで爆発をして大きな音をさせながら発光するもののようである。

 さらに言えば、このときの藤田は僕と同じ標高の高さに立っていたわけだ。

 僕のこのときの発言というものは、〝標高の高い所に見える東日本の伝統的な文化である花火を否定して、同じ標高の高さに立っている女を肯定した〟ということになるだろう。

 ただし、僕はなぜこのとき藤田が不機嫌になってしまったのか、その理由は結局あとになってもわからなかった。

 

 

・これは僕が付き合った都留文科大学の同級生である藤田美里という人物についての話である。 僕は大学時代、藤田と付き合っていたのだが、どうにも上手くいかないなと感じていた。

 そもそも僕の将来目指していたものが漫画家ということもあり、藤田とこのまま付き合っていてはいけないのではないかと僕は思うようになっていった。

 僕は単純にまだまだ漫画で生計を立てて行く自信が無かったのだ。そして、そうなると、藤田と付き合っていても藤田に迷惑をかけるだろうと僕は予測をしていたのだ。

 そんなある日、僕は藤田の部屋に珍しく昼間から遊びに行った。いつもは僕は夕方くらいに藤田の部屋に遊びに行っていたのである。

 すると、藤田の部屋に来客が来たようで、部屋のチャイムが鳴らされた。

 藤田は部屋の玄関に行き、その来客の対応をした。

 どうやら、それは藤田が昔付き合っていた佐々木寛章のようだった。

 佐々木はどうも藤田に自転車を借りたのを返しにきて、そのついでに藤田の部屋にお邪魔しようとしているようだった。 

 ただし、ここで二人がしていた会話の内容ついては実はちょっとだけ信憑性が薄い。

 二人は玄関の辺りで会話をしていた為、僕はその会話の全てをきっちり聞きとれたわけではなかったのだ。

 そのとき、僕はなんとなく二人の会話が長く、佐々木が藤田の部屋に入ろうとしているような会話をしていたのがなんとなくわかったのだ。

 そして、その佐々木の要求を藤田は「いま、原田が来ているから」と言いながら断っていたようだった。

 藤田は佐々木を追い返してから酷くオロオロしはじめた。

 僕はそれから、流石に藤田と話す気もなくなって、藤田の部屋を早めに出て帰ってしまった。

 その後、僕は藤田とこの件に関して話をした。

 僕は佐々木と浮気していたのか、と藤田に聞いてみた。

 藤田はそれを否定した。

 藤田本人は佐々木に頼まれて自転車を貸していただけであり、他には何もしていないと主張したのである。

 僕は流石にそれを信用する気にはならなかった。

 それに、そもそも僕は、佐々木が藤田から自転車を定期的に借りていたという話自体、ちょっとよくわからなかったのだ。

 藤田は付き合っていた男に浮気されて捨てられた挙句、実はその後も一方的に良いように使われていたのだ。

 僕はこの異様な展開が嫌になったので、藤田に別れ話を切り出した。

 僕はこうして藤田と別れた。

 ただし、僕は後になって思い返すと、この藤田の行動というものには何か理由があったのだろうとは思っている。

 僕は奇妙な事に、この国の皇族に関連した姓を持った男というのが、ときおり社会集団の中で女を大量に囲い疑似的なハーレムを築いているのをこのあと何度となく見てしまったのだ。

 そして、その疑似的なハーレムが時には社会的な犯罪という風にも扱われていた。

 しかし、それらの犯罪に皇族が関わっている可能性が極めて高いと指摘するものはこの社会には誰一人としていなかった。

 僕は後になってこのことを振り返ってみて、この国は異常な国だと思った。

 僕はその辺りのことから、この日本という国が、民主主義国家というよりは、世界の歴史において中世辺りによくあったような王朝制度を取っている国に見えてしまった。

 

 

・これは僕が通っていた都留文科大学の同級生である〝どさん〟というあだ名をした人物についての話である。

 僕の大学時代の同級生には〝どさん〟というあだ名をした同級生がいた。

 このどさんという人物は北海道出身の男でかなり太った男であった。どさんはどうやらUNIという軽音サークルで音楽をやっていたようだった。

 あるとき、僕はその軽音サークルに入部していた小西庸央という同級生から、このどさんというあだ名をした人物について、奇妙な事を聞いたのだ。

 小西はこのどさんという人物が風俗に行くのが好きだということ、そしてどさんが風俗に行くと風俗嬢がどさんが優しいせいで、抱かれると嬉しくて泣いてしまったりするということを語りだしたのだ。

 僕はそれを聞いて、相当にギョッとしてしまった。

 というのも、このどさんという人物はかなり太っている上に顔には髭などを生やしていたし、しかも体や服には垢などが付いており、かなり不潔な感じだったからだ。

 僕は「ええ? この人、風俗行くの? それで、風俗嬢が泣いて喜ぶ? そんなことってありえるのかな」と相当に違和感を覚えてしまった。

 ちなみに、この小西という男は大阪出身の男であり、これが僕と小西という男がした最初の長い会話だったと僕は記憶している。

 ただし、このどさんという人物は小西の言うとおり、一見温厚な性格をしているようではあった。

 そして、話を聞く限りでは、どうやら彼の実家は農家をしているだった。

 ちなみに、このどさんという人物の出身地である北海道という場所は日本で一番緯度が高く、そのせいで寒さが酷く、白い雪が降り積もる地域のようだ。

 そして、この北海道という地域は、アメリカと同じく開拓された土地である。

 それからこの北海道という土地は第二次世界大戦後に牛肉や小麦粉などといった白色人種が愛好する食材が栽培、育成された土地であるようだ。

 特にパンなどに使われる小麦粉などは第二次世界大戦後の日本において北海道産が8割というシェアを持っていたようである。

 

 

・これは僕が大学時代に体験した山口県での教育実習についての話である。

 僕は大学三年生のとき、山口県山口市の川西中学校で教育実習を体験した。ちなみにこの川西中学校は僕の母校であった。

 この川西中学校で、僕の教育実習の指導をした先生というのは女性の美術教師であった。

 そして、この先生はちょっと変わったことをしていたのだ。

 この人は鋼の錬金術師という漫画が好きなことを公言しており、ときおりホームルームなどで話題に出したりしていた。

 また、この先生はこっそりと生徒に鋼の錬金術師という漫画を貸し出しもしており、その普及に努めてもいたようだった。

 僕はそれを見て「うーん、時代も変わったもんだなぁ」と、何やら複雑な印象を受けてしまった。

 また、僕はこの川西中学校で教育実習をしたわけだが、僕の目から見て、僕の母校の山口市に住む生徒たちは酷く元気がないように見えた。

 何か皆、流れ作業のような詰め込むだけの授業に死んだ目で付いてきているような状態になっており、とにかく活力が無かった。

 僕はそれを見て「山口市の子供は物凄い元気がなくなってしまったな」と衝撃を受けてしまった。

 僕は実を言えば、このとき教師になるか、漫画家を目指すか迷ってもいた。

 だが、僕は実際に教育実習をやってみて「この授業の内容で子供に勉強を教えるのは嫌だな」と思ってしまった。

 というのも、この国は休日が増えたせいで、授業日程が圧迫されたようであり、授業はどんどん詰め込むだけのものになっていったようだった。

 僕はその授業での詰め込み具合に軽い衝撃を憶えたくらいだった。子供達に勉強を教えていても「これじゃあ教科書をみんなで読んでるだけだよな」と嫌気がさすくらいだったのだ。

 昔と違って、教師が授業中に入れる遊びの部分が全然なくなってしまっていたわけだ。

 僕はこの教育実習を経て、漫画家を目指そうと思ってしまった。

 ちなみに、ここでも一応書いておくと、この話の中で出て来る鋼の錬金術師を執筆した荒川弘という漫画家は北海道出身のようだった。

 そして、北海道という場所は日本で一番緯度が高く、そのせいで寒さが酷く、白い雪が降り積もる地域のようだ。

 そして、この北海道という地域は、アメリカと同じく開拓された土地である。

 それからこの北海道という土地は第二次世界大戦後に牛肉や小麦粉などといった白色人種が愛好する食材が栽培、育成された土地であるようだ。

 特にパンなどに使われる小麦粉などは第二次世界大戦後の日本において北海道産が8割というシェアを持っていたようである。

 

 

・これは僕が大学時代に所属していた美術部についての話である。

 僕は大学時代、美術部に所属をしていたのだが、その美術部には竹園えり(この人の名前の漢字は憶えておらず)という女性の先輩がいた。

 この竹園さんは僕が美術部に入部してしばらくすると、欧米へ留学へ行ってしまった。

 そして、この先輩は僕が藤田と別れたくらいのときに留学から帰ってきた。

 竹園さんは美術部で「白人の男って凄いのよ。飲み会の帰りとか、部屋まで送ってくれたりするんだ」などと言っていた。

 その後、僕は竹園さんと偶然二人で話す機会があった。

 竹園さんはそこで僕に対して「原田君は、ずいぶんかっこよくなったね」と驚いていた。

 その後、竹園さんは僕に対して「勤めているキャバクラを辞める際に、代わりの人がいることになった。原田君、知り合いの女の子でキャバクラに勤められるような子がいたら紹介してくれないかな」とメールを送ってきた。

 そして、僕の知り合いの女の子の中で、キャバクラで働けそうな子というのは藤田以外いなかった。

 だから、僕はなんとなく藤田をキャバクラで働かせろと言われたような気持になり、そのことに少しだけ怒ってしまった。

 僕はそれで、竹園さんに「無理です」などとそっけないメールを返してしまった。

 ここで、この竹園という姓について書いておくと、この竹園という姓には華族の姓があるようであるが、基本的には地名姓のようである。

 またこの姓の中の竹という漢字については、過去の日本において慶事・吉祥のシンボルとして使われた松竹梅の中に入っているようだ。

 

・これは僕の大学時代の同級生である町田真一という人物についての話である。

 僕は都留文科大学で教員免許を取得するために、養護老人ホームで実習をすることがあった。

 そこで僕はその実習に参加するために、山梨県出身である町田真一の実家に泊めてもらうことになった。

 僕は町田の家に夕方ごろに到着し、翌日の実習に控えて休んでいた。

 すると、そこに町田の弟が帰ってきた。

 町田の弟は野球部だったようであり、野球部の練習から帰ってくるなり、僕の目の前で野球のゲームを初めてしまった。

 僕はそれを観て「おー、野球部って帰ってもやっぱり野球のゲームをするのか」と感心をして、町田の弟さんに「へぇ、君は野球部だから野球のゲームやるんだな。このゲームはパワプロかな?」などと少しだけ聞いてみた。

 すると、町田の弟さんは何かギョッとして、本当に驚いたような顔をして町田に対して「お兄ちゃん、この人凄いね」と聞いた。

 町田は満面の笑みで頷きながら「そうだよ。原田はさ、凄いんだよ」と答えていた。

 僕は二人のやり取りがよくわからなかった。

 しかし、僕はこのとき、昔僕と付き合っていた藤田美里が「原田は凄いね」と僕と一緒にいるときに、なぜか唐突に茫然と呟いたことを思い出してしまった。

 ちなみに、この町田の家で僕は夕食をごちそうになった。

 町田の家のご飯はとても美味しかったのだが、量がとても多かった。僕はご飯を食べ過ぎて太ってしまったくらいである。

 ここで一応書いておくと、僕は「人に質問をする」という行為がこの件に関しては問題だったのだろうと感じている。

 どうも、僕は後になってから、自分が人に質問をすると、自分が質問をしてしまった人に、なぜか騒音が浴びせられるという現象を認識するようになったのだ。

 

 

・これは僕が大学時代に所属していたシネマファクトリーという映画サークルについての話である。

 僕は都留文科大学の三年生になった辺りからシネマファクトリーという映画サークルに所属をして頻繁に出入りをし始めた。

 この映画サークルでは多くの部員が皆で協力して映画を作成していた。

 僕がこの映画サークルに入部したときに部長を勤めていたのは吉田祐一という人だった。

 この吉田さんは、静岡県出身であり、富士山辺りに家があるという人であり、高校時代は登山部に所属していたという、体育会系のノリが強い人であった。

 ただし、この吉田さんはハリウッド映画に相当に精通しており、かなり映像技術について詳しい人であった。

 また、吉田さんはかなりデスクトップPCにも詳しく、このシネマファクトリーではかなり映像ソフトの挙動にも明るい人だった。

 大学時代、吉田さんは三島慶太という先輩の漫画作品を原作に映画を撮ったことがあった。

 僕はその映画を観たことがあったが、脚本からカメラワークまでかなりバランスが良い作品だったと記憶している。

 後になって振り返ってみると、僕は結局はこの吉田さんが作った映画がこのシネマファクトリーというサークルで撮られた作品の中では一番優れた作品だった気がしている。

 ここで、この吉田祐一という氏名について一応考察してみようと思う。

 まず、この吉田という姓に関しては嵯峨天皇が編纂を命じた新撰姓氏録の中にその記載があるようだ。どうやら吉田は皇別氏族という扱いらしい。

 そして、この吉田という姓の名称について考えてみると、吉という漢字については神道のおみくじなどに関連があるように、神道絡みの漢字のようである。

 またこの姓には、東南アジアや中国から伝来した作物の栽培地の名称を示す〝田〟という漢字が使われているようだ。

 次に祐一という名前の中の一という漢字を見てみよう。

 この一という漢字は数字の一を指し示したものである。

 そして、第二次世界大戦後この日本を統治した西洋人の価値観からすると、この一というのは不吉な数字ということになっているそうだ。

 例えばフランスでは一階が無い建物が建てられたりするくらい、一という数字は忌避されてしまっているようだ。

 

 

・これは僕が大学時代に所属していたシネマファクトリーという映画サークルについての話である。

 僕が大学時代に所属していたシネマファクトリーという映画サークルには丸永という姓をした一学年上の先輩がいた。

 この丸永さんという人は、岐阜県出身の人であり、なかなか容姿が整った人であった。

 ただし、この丸永さんは吉田さんと同じく、デスクトップPCを使う人であり、また映像ソフトの挙動にも明るい人だった。

 この丸永さんはシネマファクトリーではアート系の映画を撮影しており、それがセンスが良く上手かった。

 ただし、この映画はどちらかと言えば脚本をみせるものというよりは映像を楽しむ種類のものだったと僕は記憶している。

 この丸永さんは、シネマファクトリーのサークル内で女性と付き合っていた。

 僕はこの丸永さんの彼女と飲み会で会話をしたことがあるのだが、この丸永さんの彼女は僕に対して奇妙な事を言っていたのが印象的だった。

 丸永さんの彼女は丸永さんを指して「この人、もう長いこと付き合っているのに、私に指輪を買ってくれないんですよ、変わっているでしょう」と僕に言ったのだ。

 僕はそのとき、そういう事を言われても、何も言う事が出来なかった。

 というのも、僕はこの当時、確か藤田と付き合っていたのだが、僕も藤田に指輪を渡そうとはどうしても思えなかったからだ。

 僕はなんとなく「指輪なんて渡しても藤田は喜ばないし、自分にはその資格もないだろう」と思っていたのだ。そして、この僕の勘というのは相当に根強いものだった。

 ただし、この丸永という先輩が〝何を思って彼女に対して指輪を買わなかったのか〟ということについては、結局は僕にはわからない。

 ちなみに、この丸永という姓は、山口県熊本県大阪府で見ることが出来る姓ということらしい。つまりは、この丸永という姓は西日本にその起源があるのが確定している姓である。

 また、この姓には源平藤橘などの皇族に近い血統を持っている、全ての著名な氏族の血統が入ってもいないようだ。

 しかし、この姓の末尾にある永という漢字には水という漢字が含まれているようだ。

 そして、この水というのは一般的には川などを流れているものであり、それはしばしば青空を写し込み青色に見えることがある。

 この青色という色は、例えば青白い肌という白色人種の肌の色を暗喩する色として扱われることもあるようだ。

 そして、指輪というのは日本語の装飾品のようである。

 

 

・これは僕が大学時代に所属していたシネマファクトリーという映画サークルについての話である。

 僕が大学時代に所属していたシネマファクトリーという映画サークルには小林という姓をした一学年上の先輩がいた。

 この小林さんは大阪出身の人であり、かなり活動的な性格をしていた。

 僕はこの小林さんが撮った映画を観たことがあるのだが、この人の映画はあまり面白くは無かったと記憶している。

 僕はこの人について、ちょっと奇妙な事を憶えている。

 この人は実は国文学科に所属しており、三島慶太さんや松本光平さんと行った人たちとゼミか何かで飲み会をやったことがあるそうだ。

 そして、のちに三島さんがこの事を教えてくれたのだが、この飲み会の席で、小林さんは松本さんが手の肌荒れの為に付けていた白い手袋について、酒に酔った勢いでからかったことがあるらしい。

 そして、その後、小林さんは松本さんにそのことを土下座して謝ったそうなのだ。

 このように、この人はちょっとだけお調子者のようなところがあったのかもしれない。

 ちなみに、この小林という姓について記述しておくと、まずこの姓には多様な起源があるらしい。

 例えば、この姓は藤原秀郷という天皇に近い位置にある東日本の武家の起源を持っている可能性もある。しかし、長野県の諏訪氏、それから神官の家柄もこの姓にはあるのだ。

 また、この姓の人口分布は東日本に大きく偏っており、この小林という姓の氏族はおおまかには東日本の代表的な氏族であると言えるだろう。

 そして、この話の中で出て来る白色という色は第二次世界大戦後にこの日本を統治した白色人種の肌の色のようである。

 ここで重要な事は、この話の中で松本さんは白い手袋をしていたということである。

 この白い手袋というのは、もちろん体の外側に付けているので、そのまま日々の生活をしていると、そこに何らかの汚れが付いてしまうことがあるだろう。

 つまりは、この話において、松本さんは〝白色人種の肌の色をした手袋が汚れてしまうのにも関わらずそれを装着し活動していた〟わけである。

 そして、そのことについて、わざとかわざとではないかはわからないのだが、小林さんはその松本さんの行動を辞めさせるような動きをしてしまったわけだ。

 これは非常に興味深い出来事であると僕は考えている。

 

 

・これは僕が大学時代に所属していたシネマファクトリーという映画サークルについての話である。

 僕が大学時代に所属していたシネマファクトリーという映画サークルには小池敦という同級生がいた。

 この小池という人物は滋賀県出身の男だったのだが、この男は腰が低い、温和な性格をしていた。

 この小池という人はかなり真面目に映画を作っており、その映画の方もなかなかレベルが高かったと思う。ただし、その内容は暗めのものだったと記憶している。

 ちなみにこの小池という姓については長野県や山梨県や埼玉県などの東日本の地域にその起源を持っている可能性が高いようである。

 また、小池という姓には、まず小という漢字が付いているようだ。これは小さいという事を指し示す漢字である。

 そして、小さいということは、第二次世界大戦後にこの国を統治した体が大きくそのせいか大きな物を好むアメリカ合衆国に住む人間たちがあまり好きではない価値観のようだ。

 それから小池という姓には、池という漢字も付いている。

この池というものは水が溜まった地形を表しているようだ。

 そして、この水というのは一般的には川などを流れているものであり、それはしばしば青空を写し込み青色に見えることがある。

 この青色という色は、例えば青白い肌という白色人種の肌の色を暗喩する色として扱われることもあるようだ。

 

 

・これは僕が大学時代に所属していたシネマファクトリーという映画サークルについての話である。

 僕が大学時代に所属していたシネマファクトリーという映画サークルには関根基道という同級生がいた。

 この関根という人物は茨城県出身の男だったのだが、この男はかなり温和で社交的な性格をしていた。また、この関根は思想面ではかなり左翼的な傾向があったと記憶している。

 この男は国文学科に所属しており、中学生の頃にホルヘ=ルイス=ボルヘスなどを読んでいるような文学青年だったのが印象的であった。

 それと、この男の家庭というのは母子家庭である上に、母が新興宗教をやっており、かなり荒れてもいるようだった。

 この関根が作った映画というのは、正直な所、あまり面白くはなかった。

 ただし、その映画の作中世界には何か難しい理屈があるようではあったし、文学性が中にあるように感じはした。

 この関根という姓について記述しておくと、この姓は栃木県などに起源があるようであり、足利氏流などが主流ではありそうだ。

 また、この姓は人口分布が東日本に偏っており、この姓をした者は代表的な東日本の氏族であると言えそうである。

 では関根という姓の名称についてはどうだろうか。

 まず関という漢字の末尾は天という漢字で終わっており、これは標高が高い位置を示しているようだ。

 またこの天という漢字はこの国の皇族である天皇が愛好した漢字であるようだ。

 そして、根という漢字は根っこという意味があるようである。そして、例えば植物などの根っこというものは、一般的には地面、つまりは標高の低い所にあるようである。

 

 

・これは僕が大学時代に所属していたシネマファクトリーという映画サークルについての話である。

 僕が大学時代に所属していたシネマファクトリーという映画サークルには須藤靖広という同級生がいた。

 この須藤という人間は山形県出身の男だったのだが、この男はかなり神経質で変わった性格をしていた。また、この須藤は思想面ではかなり左翼的な傾向があったと記憶している。

 この須藤は推薦入学で大学に来た者であり、高校にはヤンキーが多かったと言っていた。

 須藤には奇妙な所がたくさんあった。

 例えば彼は山形県から引っ越しをしてきた際に、引っ越しの荷物を片づけられなくなっており、段ボールの山が部屋の中には転がっていたりした。

 それから、彼は女性に対する態度がちょっとおかしかった。

 彼は自身の容姿を全然気にせず整えもしないわりに、女狂いと評して良いくらい女には興味があった。ただし、彼は女性に対して、相当に純粋であり奥手であった。

 そして、彼は自分のことを醜男と考えていたようなのだが、彼はそもそも背が高く、足も長く、顔もそこまで悪くはなかったので、ちゃんと容姿を整えさえすればかなりかっこよかったはずである。

 しかし、本人はそうは思っていないようだった。

 須藤の性格をなんと表現していいのかわからないが、〝変人の芸術家が女に狂っている〟というのが正しいのだろうか。とにかく彼の性格というのは、常人には理解できない所が多いのが特徴であった。

 彼の作った映画というのは、映像美術の方面には相当に秀でていたと記憶している。多分、彼はアート系の映画を撮らせると、シネマファクトリーでは一番上手かったのではないだろうか。ただし、映画の脚本は支離滅裂であった。

 そして、映画を撮影していた際の彼は、やはり相当に態度などがおかしかったらしい。

 須藤はシネマファクトリーの人間に当たり散らしながら映画を撮影することになっていたようだ。

 ちなみにこの須藤の家というのは、江戸時代にエレキテルなどを発明した平賀源内の家ということらしい。そして彼曰く、彼の生家は昔、山形県で金貸しを営んでいたそうだ。

 須藤本人は先祖がその金貸しで地域の人達に酷い事をし過ぎたせいで、自分の人生が滅茶苦茶になっているという被害妄想に囚われてしまっていたようだった。

 この須藤という姓について記述をしておくと、藤原秀郷流の那須氏の一族が称するに始めったようである。

 また、この須藤という姓をした氏族の人口分布は東日本に大きく偏っており、須藤は東日本の代表的氏族であると言えそうである。

 

 

・これは僕が大学時代に所属していたシネマファクトリーという映画サークルについての話である。

 僕が大学時代に所属していたシネマファクトリーという映画サークルには小西庸央という同級生がいた。

 この小西という人間は大阪府出身の男だったのだが、この男は明るいのか暗いのかよくわからない性格をしていた。

 この小西は大学では軽音楽をやっており、バンド活動に熱心だったようである。

 この小西の実家は高品質な金型の制作をしている工場ということだった。

 僕は大学時代に彼とはほとんど会話をしていない。彼は後述する岐阜県出身の深尾という女性と結婚をしたようだ。

 この小西は映画は上手くなかった。

 何かこの小西の作った映画は英語のタイトルをした作品であり、音楽のロックをテーマにしたものであったと記憶している。

 この小西という姓について記述をしておくと、これは地名姓が大本になっているようで、西の小さな土地がその語源のようだ。

 ただし、この小西には戦国大名の姓などもあり、その血統であれば藤原秀郷などの東日本の天皇に近い系統の武家などが遠祖に当たるようである。

 しかし、この小西という姓の起源と人口分布は西日本、特に近畿地方に偏ってしまっているようである。

 ちなみに、この小西という姓には小という漢字が付いている。これは小さいということを指し示す漢字である。

 そして、小さいということは、第二次世界大戦後にこの国を統治した体が大きくそのせいか大きな物を好むアメリカ合衆国に住む人間たちがあまり好きではない価値観のようだ。

 また、この国においては、この小西という姓の中の西という漢字については明確に弱い印象を得るようになっているようだ。

 というのも、この国では第二次世界大戦後、なぜかデパートの駐車場や、駅などで、西側という場所にストレスが設定されていたからである。

 そして、これは実を言えば南という方角についても同じであるようだ。

 

 

・これは僕が大学時代に所属していたシネマファクトリーという映画サークルについての話である。

 僕が大学時代に所属していたシネマファクトリーという映画サークルには深尾という一学年下の下級生がいた。

 この深尾という人間は岐阜県出身の女だったのだが、この深尾は明るくて大雑把な性格をしていた。僕はこの深尾がいつも茶色に髪の毛を染め上げているのが印象的だった。

 また、この深尾はどうも部屋の整理整頓が苦手なようであり、そのことをよく部員に弄られていた。

 この深尾には変わった所があり、僕にしきりに接触をしてきては、自分の作った映画の評価を聞きたがったのだ。

 僕は「いや、俺は映画撮ってないし、そんなの聞いてもしょうがないぞ。映画に詳しくもないんだし」と言ったのだが、深尾は聞かなかった。

 僕は深尾の作った映画を見てみた。深尾の映画は面白くはなかった。

 深尾の映画は、女なら理解が出来そうな内容だとは思ったのだが、男にはいまいち理解が難しい感じだったのだ。

 僕が深尾にそう伝えると、深尾はショックを受けて泣き始めてしまった。

 僕はその様子を見て「そんなに気にしなくても良いだろ」と深尾に言うことになった。

 ただ、僕はなぜ深尾がここまで僕からの評価を気にしていたのかはよくわからなかったのだ。

 このときの深尾は別に小西と付き合っていたらしいから、彼女が僕に好意があったとかそういうことでもないとは思うのだが。

 ちなみに、この深尾という姓について記述をしておくと、この姓は岐阜県滋賀県、愛知県、三重県大阪府高知県などにその起源があるようであり、西日本に起源があることが確定している姓のようである。

 次にこの深尾という姓の名称について考えてみようと思う。

 この深尾という姓の中の深という漢字は深いという意味を持っており、それは標高が低いことを示しているようである。

 また、この姓の中の尾という漢字は姓に使われると、尾根という意味と小さな土地という意味の二種類の意味があるようだ。

 この深尾という姓の中の尾は小さな土地という意味を持っているようである。

 

・これは僕が大学時代に所属していたシネマファクトリーという映画サークルについての話である。

 僕が大学時代に所属していたシネマファクトリーという映画サークルには萩尾悠という一学年下の下級生がいた。

 この萩尾という人間は長崎県出身の女だったのだが、この萩尾は明るくて穏やかな性格をしていた。

 僕はこの萩尾という女は相当に頭が良いと感じていた。僕からすると、何か行動の節々に計算があるように見えていたのだ。

 また、この萩尾は僕に対しては相当に甘いというか、態度が柔らかかったのが印象的であった。

 この萩尾はアトピーが酷く、薬を塗るため風呂の時間がとても長く一日の活動時間が短くなっているようだった。また、その割に彼女は酒が好きなようであり、いつも酒に酔っぱらっていたのが印象的であった。

 萩尾の父親は京都大学を出ていたそうであり、相当に頭が良いようであった。

 萩尾は高校時代に放送部に所属していたそうなのだが、そこでは色々と面倒ごとを押し付けられていたそうで、なかなかに苦労が多そうであった。

 彼女が作った映画というのはかなりレベルが高かったと記憶をしている。

 萩尾の作った映画は暗い内容ではあったのだが、自主製作映画としてはトップクラスの出来であったと思う。

 ここで、この萩尾悠という女性の氏名について考えてみようと思う。

 まず萩尾という姓は福岡県が起源であることがほぼ確定してしまっている姓のようである。もし福岡県が起源ではないにしても、起源の候補となる土地は全て西日本に固まってしまっている。

 次に、この萩尾という名称について考えてみよう。

 まず、この萩という漢字は火という漢字がその末尾にきてしまっている。そして、火という漢字は赤く燃えることを指し示したものである。

 ちなみに、ここで一応書いておくと、この日本という国は第二次世界大戦後、イギリスやアメリカといった資本主義国家によって統治された。

 そして、その資本主義国家が敵として標ぼうしたのが中国やロシアなどといった共産主義国家であったようだ。ここで大切な事は、共産主義国家は赤色をその象徴色としていた事である。

 つまり、この火という漢字は遠回しに共産主義国家の象徴色を表してしまっているわけである。

 また、この姓の中の尾という漢字は姓に使われると、尾根という意味と小さな土地という意味の二種類の意味があるようだ。

 この萩尾という姓の中の尾は小さな土地という意味を持っているようである。

 それから、この萩尾悠という氏名の中の、悠という名の読みは〝はるか〟というものであった。

 このはるかという読みは末尾がルカというもので終わってしまっている。

 そして、ルカというのは新約聖書、つまりはキリスト教における聖人の名称であるようだ。

 

 

・これは僕が大学時代に所属していたシネマファクトリーという映画サークルについての話である。

 僕が大学時代に所属していたシネマファクトリーという映画サークルには中島裕太という一学年下の下級生がいた。

 この中島という人間は大分県出身の男だったのだが、この中島はおおらかで男らしい性格をしていた。

 中島はどうやら父親が野球好きのようであり、弟と共に野球を本格的に教えて貰ったようであった。

 しかし、どうも野球については弟の方が彼よりも上手かったようであり、彼には野球について父親の期待に応えられなかったという後悔の念があったようである。

 また、彼はどうも僕に対して酷く甘い所があった。そのことが僕にはかなり不思議であった。

 それから、中島が作った映画は上手くはなかった。

 ただし、彼にはいろいろ映画について勉強しようという意思があったようで、彼は撮影における技術的なことには詳しかったようであった。

 ちなみに、中島という姓については皇族絡みの氏族の色々な起源があるようだ。

 ただし、この中島という人物の姓はその読みが〝なかしま〟であった。

 この中島という姓はなかじまという読みだと東日本に起源がある氏族であり、読みがなかしまだと西日本に起源がある氏族のようだ。

 姓の読みに濁音が混ざる事が多いのはどうやら東日本の氏族の特徴らしい。

 つまりは、この中島という人物は西日本に起源があることがほとんど確定していた氏族のようだった。

 

 

・これは僕が大学時代に所属していたシネマファクトリーという映画サークルについての話である。

 僕が大学時代に所属していたシネマファクトリーという映画サークルには横山という三学年下の下級生がいた。

 この横山という人間は福島県出身の男だったのだが、この横山はサバサバとした皮肉屋な性格をしていた。

 また、この横山はかなり容姿が整っていたと思う。ただし、そこまで女性と遊んでいたかといえば、そうでもなかったように見える。

 この横山という人間については、僕は奇妙な出来事があったのをよく憶えている。

 僕は大学の映画製作サークルで「俺の兄は岡山大学の法学部に入っている」などという事を言ったことがあった。

 すると、少ししてから、僕の兄が僕に電話をしてきて、僕に対して兄が「お前、俺のことを大学でベラベラ喋っているだろう。もう、言うなよ」と言ってきたのだ。

 僕は「なにこれ? なんで兄貴まで伝わっているんだ?」とかなり疑問に思ってしまった。

 そして、そういうことがあったしばらく後にシネマファクトリーに新入生が入部してきた。

 その新入生の中には横山もいた。横山は入部してくるなり、僕に対して「原田さんのお兄さんって東大に行ったんでしょう。凄いですね」などと言ってきたのだ。

 僕は「あれ? なんで、そうなっているんだ?」と思った。

 ただし、僕は兄に釘を刺されていた為「兄の事をまともに語ると不味いな」と考えた。

 だから、僕は適当に「そうだよ」と答えておいた。

 ただし、この件に関しては横山が情報をねじ曲げたかと言えば、それはわからない。

 僕は、僕の言ったことがシネマファクトリーの間で伝播するうちにねじ曲がっていった可能性の方が高いと思っている。

 ちなみに、この横山はお兄さんの頭が良いらしく、東京大学に行ったという事だった。

 そして、彼自身は何浪かして都留文科大学に来たという事で、それがかなり負い目になっているようだった。

 彼は「進学の際に親にたくさん苦労をかけたので、申し訳ない」と、よく口にしていた。

 では、この横山の撮った映画がどうだったかと言えば、僕はかなり出来が良いと思った。

 彼は脚本がちゃんと出来ており、しっかりと内容がまとまっていた。カメラワークなども普通に出来ており、映像もなかなか良かった。

 彼の撮った映画は自主製作映画特有の独りよがりな感じがしなかったのだ。

 この横山という姓については元東京都、埼玉県広域、神奈川県北部の辺りに起源を持っている可能性があるようだ。

 また、この横山という姓の末尾は山という標高の高い地域の名称を指し示す漢字で終わっている。 

 

 

・これは僕が大学時代に所属していたシネマファクトリーという映画サークルについての話である。

 僕が大学時代に所属していたシネマファクトリーという映画サークルには石井まゆという三学年下の下級生がいた。ちなみにこの石井の性別は女である。

 まず、僕はこの石井という女の出身地を憶えていない。恐らくは関東だったと記憶はしているがそれが正しいかはわからない。

 この石井はとても明るい華やかな性格をしており、茶髪をお団子にまとめているのが印象的な子であった。

 僕はこの石井に、なぜかよく「原田さん、すっごーい!」などと言われながら、まとわりつかれていた。結局、僕は後になって振り返ってみても、石井が何について凄いと言っていたのかがわからないのだが。

 そういう意味では、石井はちょっと良くわからない所があった後輩と言えるだろう。

 そして、この石井は映画を撮影したのだが、この映画が物凄い面白かった。

 石井の作った映画は奇抜なアイデアを物凄い短時間でまとめているうえに、演出が巧妙であり、素晴らしいの一言だった。

 石井の映画は雰囲気も明るくて相当に好印象を持ったのを僕はよく憶えている。

 それから、これは石井には直接的に関係はないのだが、石井には妙な所があったのだ。

 というのも、僕たちシネマファクトリーの面々は都留文科大学の目の前にあった、石井といううどん屋によく通っていた。この石井という店のうどんにみんなハマっていたからである。

 そして、シネマファクトリーの面々はみんな「石井のうどんは旨い」と言いまくっていた。

 つまるところ、石井は常に間接的に褒められる環境にいたわけである。

 もちろん、この事についてはこの石井はまったく関係がない。

 ただし僕は、この事について、なんだか妙な印象を憶えるのだ。

 ちなみに、この石井という姓については皇室の定めた堂上家という公家のくくりの中にあるようだ。ただし、石井はその公家のくくりの中では半家という最低の身分であるようだ。

 また、この際の石井という氏族は〝いわい〟と読むらしい。しかし、この石井は読みが〝いしい〟となっていた。

 そして、この石井という姓は主には関東にその人口分布が広がっているようだ。

 それから石井という姓の中の井という漢字については一般的には井戸を指し示しており、その井戸とは水をため込むものである。

 そして、水というのはしばしば青空を反射して写し込み青色に見えることがある。

 さらに言えば、この青色という色は、しばしば青白い肌という白色人種の肌の色を暗喩する色として扱われるようだ。

 

 

・これは僕が大学時代に所属していたシネマファクトリーという映画サークルについての話である。

 僕が大学時代に所属していたシネマファクトリーという映画サークルには大木美和という三学年下の下級生がいた。ちなみにこの大木の性別は女である。

 まず、僕はこの大木という人間の出身地を憶えていない。恐らくは関東だったと記憶はしているがそれが正しいかはわからない。

 この大木はちょっと不思議な性格をしていたと思う。口数は少ないのだが、何かときどきハっとすることを言ったりする子だったのだ。

 この大木は父が芸術家であったようだ。

 この大木は映画を撮ったのだが、それはあまり面白くはなかった。

 僕は石井と大木の映画について、横山と語ったことがある。

 僕が横山に「大木さんの映画はそこまで好みでもなかったけど、石井さんの映画は面白かった」という話をすると、横山は「だからまぁ、かわいそうですよね。石井が上手くて、大木がそうでもないのが。同情しますよ」と意味深なことを言っていた。

 ここで、この大木美和という氏名について記述しておく。

 まず、この大木という姓については、福岡県などに起源がある可能性もあるようだが、この氏族の人口分布は関東に集中しているようである。

 また、この大木という姓の中にある大という漢字は大きなことを指し示すものであり、戦後、この日本を統治したアメリカ人は体が大きいせいか、とにかく大きなものが好きな民族だったようである。

 次に大木美和という氏名のうちの美和という名について見てみると、これは和という漢字で終わってしまっているようだ。

 

・これは僕が大学時代に所属していたシネマファクトリーという映画サークルについての話である。

 僕が大学時代に所属していたシネマファクトリーという映画サークルには佐藤圭都という三学年下の下級生がいた。

 この佐藤という人間は高知県出身の女だったのだが、佐藤は勢いがある積極的な性格をしていた。ただし、僕はときどきこの佐藤という女が言っていることがわからないときがあった。

 彼女は「原田さんの原って漢字、腹に変えた方が良くないですかぁ?」などと言う事を言ってきたことがあるのだ。

 佐藤には他にも不思議な所があった。彼女はときどき眼鏡をかけてみたり、化粧を濃くしてみたりだとか、体重が増えたり減ったりだとか、外観がコロコロと変わってしまうのである。

 佐藤は本体は物凄い美人なのだが、そのせいでいまいちその美人さも一見よくわからなくなってしまっていた。

 ちなみに佐藤は、僕に対して地元である高知県の事を語った際に奇妙なことを言っていた。

 佐藤は高校生のときに、ヤクザを自称する男から付け回されていたらしいのだ。

 ここで、一応佐藤についての情報を付け加えておくと、佐藤の実家は高知県でお寺をやっているということだった。

 そして、佐藤のお父さんは翻訳家をやっていたそうであり、佐藤のお母さんは北海道出身ということだった。

 佐藤が言うには佐藤のお父さんはよくギターなどを弾いていたそうなのだが、あまり佐藤には構ってくれなかったということだった。

 そして、佐藤曰く、僕は佐藤の父に雰囲気が似ているという事だった。

 佐藤は大学卒業後は都留文科大学のさらに上に登ったところにあった富士吉田の町に行き、その町の本屋でアルバイトをしていた。

 どうも彼女は地元には帰りたくないようだった。

 ここで佐藤圭都という氏名について記述しておく。

 まず、この佐藤という姓については基本的には東日本にその起源がある氏族のもののようである。

 そして、佐という漢字の末尾は左で終わっており、この左という漢字はこの国においてはしばしば共産主義を暗喩する文字である。藤というワードは、天皇と共に大きくなった藤原氏を象徴しているそうである。

 次に圭都という名について記述しておくと、この名の読みは〝ケイト〟である。

 僕は、このケイトという名の読みはアメリカ人の名前のような雰囲気があると思う。

 僕はこの佐藤について思い返してみると、ちょっと奇妙な感じがするのだ。

 僕は佐藤の実家がお寺であるということが何か佐藤に対して悪影響を及ぼしていたような気がしているのだ。

 もちろん、これは佐藤の実家が佐藤に対して攻撃的なことをしていたとか、そういうことではない。

 なにか僕は第二次世界大戦後のこの日本という国において、寺に生まれたというだけで、酷い目に合う人間がいたのではないか、と考えてしまうのだ。

 寺というのは基本的には仏教寺院の事であり、この文化はインドや中国から渡ってきたものである。

 そして、寺というのは大昔から地域の檀家の住民の戸籍を管理していたところでもある。

 僕はアメリカ合衆国がその辺りの所に目を付けて、なにがしかの工作を仕掛けた可能性があると疑っているのである。

 

 

・これは僕が大学時代に所属していたシネマファクトリーという映画サークルについての話である。

 僕が大学時代に所属していたシネマファクトリーという映画サークルには野路沙織という三学年下の下級生がいた。

 この野路という人間は長野県出身の女だったのだが、この野路はあっけらかんとした性格をしていた。

 野路はかなり変わった女だったと思う。

 彼女はBL漫画などを酷く愛好していた。本人曰く、そのせいで自室も物凄い散らかっているということだった。しかし、野路はそういう趣味を持っているわりには容姿がかなり整っていた。

 また、彼女はパズルゲームが異様に上手く、僕が得意なパズルゲームで僕と対戦して勝ってしまっていたのだ。そのことに僕はそうとう驚いてしまった。

 僕はその辺りのことから野路に興味を持ち、色々と彼女から話を聞いていたのだが、彼女の父はどうやら技術者をやっていたらしい。

 しかし、その技術者の父は中国企業に渡ってしまい、そちらで仕事をするようになり、家に居なくなってしまったらしいのだ。

 そして、ここからがちょっと異常なのだが、野路はその後、中学生辺りからネット上のチャットにハマるようになり、そのチャットで一回りも二回りも上の年齢のおじさんと知り合い、高校時代にその人と付き合うようになってしまったそうである。

 そして野路曰く、そのおじさんはどこかの会社の社長ということだった。

 大学時代、野路は「その社長さんから結婚を迫られて困っている」という事を言っており、僕は「野路は凄い世界に生きているな」と仰天をしてしまった。

 この野路は大学卒業後は印刷会社で物凄いハードな仕事を体験したのちに、青森県の家に嫁いでいった。しかし、その後、旦那の家とそりが合わず、東京へ帰ってきてしまっていた。

 ちなみに、ここでこの野路という姓について記述をしておく。

 まず、この野路という姓は  滋賀県や神奈川県や大阪府などにその起源があるようだ。

 そして、この姓は地名姓の可能性もあるが、清原氏の系統の氏族の子孫である可能性もあるようだ。

 ただし、野という漢字は標高の低い野原のような場所を指したものである。

 僕はこの野路という人物について振り返ってみて、どうしてもこんなことを考えるのだ。「父親が中国に技術を持って渡ったら、娘が酷い目に遭ったな」と。

 

・これは僕が山梨県都留文科大学に通っていた時に出来た先輩についての話である。

 前述した通り、僕の先輩には松本光平という人がいた。

 この人は国文学科に所属していたのだが、三島由紀夫などを愛好し、それらの文学家に対する論文などを執筆していた。

 しかし、この松本さんは卒業の際に異様な事をやってしまっていたのである。

 実はこの松本さんは大学を卒業していないのだ。

 というのも、松本さんは卒論をきちんと制作したのに、それを提出しなかったらしい。

 だから松本さんはそのせいで大学を卒業出来なかったようなのだ。

 僕は当時「なんで卒論出さなかったんですか?」と強い口調で松本さんに聞いたことがある。

 しかし、松本さんはあいまいにそれをはぐらかすだけだった。

 このとき松本さんの身にいったい何が起きていたのだろうか。

 僕は本当に当時、意味がわからないと思ってしまったのだ。

 ちなみに、都留文科大学という大学の名称には〝留〟という漢字が付いているようだ。そして、この漢字の末尾は田である。

 僕はなにかこの出来事について、一時期この国ではなぜか〝早稲田大学中退〟という学歴が高く評価されていた事を考えてしまうのだ。

 

 

・これは僕が通っていた都留文科大学の卒業式についての話である。

 僕たちの学年の卒業式の際、卒業生代表を務めたのは佐々木寛章であった。

 彼は何か都留市の中にあった施設を利用してボランティア活動をやったので、それを表彰されていたのだ。

 僕はそれを観て「なんで、地元の山梨県の奴らが表彰されてないんだ」とちょっとびっくりとしてしまった。

 そもそも、この都留文科大学というのは山梨県の代表的な公立大学なのである。そして、この大学には山梨県の高校からたくさん学生が進学してきているのだ。

 その大学で卒業生代表が北海道出身の生徒なのである。僕にはこの卒業式がかなり異常なものに見えてしまった。

 ちなみに、ここで一応書いておくと、ボランティアというものは英語の名称をしたもののようである。

 

 

・これは僕が祖父母に飼ってもらった四国犬についての話である。

 僕は昔、祖父母にコナンという名前の四国犬を飼って貰っていた。

 この犬はどうも僕が大学生のときに、人を噛んでしまったことがあるらしく、そのせいでこの犬は保健所に送られて殺されてしまったらしい。

 コナンはこの時点で13年程度生きており、相当に体も弱っていたので、僕はその当時は「仕方がないな」と納得をした。

 しかし、僕の母方の祖母である原田千枝子はそんなに簡単に納得も出来なかったらしい。

 この祖母はその後、すっかり元気がなくなってしまったようだ。

 それから祖母は同窓会の旅行に行った後に、血圧の薬を飲み忘れて死亡してしまった。

 

 

・これは僕の母方の祖母である原田千枝子の葬式についての話である。

 僕の祖母である原田千枝子は僕が大学生のときに死んでしまった。

 そして地元では祖母の葬式が執り行われることになり、僕と僕の兄である原田和樹も江崎にある実家に帰ってきていた。

 この葬式ではちょくちょく妙な事が起きていた。

 まず、この葬式に出す日本酒を母が倉庫から引っ張りだしてきたのだが、それは完全に腐って駄目になっており、皆で不味い不味いと言っていた。

 そして、この葬式では兄が母に説教をしまくっており、僕はそれを頑張って静止する羽目になってしまっていた。

 祖父である原田昭男はいたく意気消沈してしまっていた。

 祖父は僕が大学から地元に全然帰ってこないことを責めて、「お前が女だったらな」とぼやいていた。

 その後、祖父は祖母の後を追うようにして死んだ。

 祖父は夏の暑い日に畑に出て、夏の日差しで日射病になったのか、実家の脇にある長屋の中で倒れて死んでいた。

 ちなみに僕の母は祖父が倒れているのを発見できなかったのをいたく悔いていたようだった。

 

 

・これは僕の母方の祖父である原田昭男の葬式についての話である。

 僕の母方の祖父である原田昭男は僕が大学生のときに死んでしまった。

 そして地元では祖父の葬式が執り行われることになり、僕と僕の兄である原田和樹も江崎にある実家に帰ってきていた。

 兄はなんだかすっかり意気消沈しており、葬式にはほとんどまともに参加をしなかった。僕の兄は祖父に随分と可愛がられていたので、相当にショックを受けていたようだった。

 この祖父の葬式では妙な事が結構起きていたと僕は記憶している。

 まず祖父の遺体というのは火葬場で焼かれたわけなのだが、当然その火葬場では祖父の骨を親族達が取って、それを骨壺に入れることになった。

 しかし、その際に僕の叔父さんである山本潔隆さんが、祖父の骨壺を床に落としてしまったのだ。

 そして驚くべきことに、叔父さんはその骨壺を落とした後に笑ったのだ。

 しかし、僕はそのとき、「ああ、叔父さんは事故で目が悪いもんな。それで手元が狂って骨壺を落としちゃったんだ」と悟り、それを責める気にもならなかった。

 多分そのときの叔父さんの笑いは、上手く体を動かせない自分への自嘲の笑いだったのだろう。

 その後、祖父が死んだことに対する、法的な手続きを僕の父が進めて行った。

 しかし、その手続きの最中に、父は農協でなにがしかの手続きに失敗してしまった。父は農協の職員に祖父の親族であると認めて貰えず、それを証明する書類を持ってこなければ農協での手続きが出来ないといわれてしまったのだ。

 父はそのとき、珍しく泣いていた。僕はそれを見て、少ししんみりしてしまった。

 というのも、僕の父は婿入りという形で原田の家族と暮らしていたのだ。やはり、そこにはそれなりの気苦労もあっただろう。

 それなのに、父は祖父の家族であるということを公的な機関に認めてもらえなかったのだ。 僕は、それが手続き上のことなので仕方がないということはもちろんわかった。ただし、僕には父のやるせなさもなんとなくわかってしまったのだ。

 しかし、驚くべきことにそんな父を見ながら、親戚の棟久のおばさんと僕の母は「あの人は何をやっているのか。そんなことは無理に決まっている」「本当に情けない」などと凄い剣幕で愚痴をこぼしあっていた。

 僕はそれを見て、「それは酷くないかな」と呆れてしまった。

 結局は、僕の祖父である原田昭男の葬式は多量のストレスをはらみながら進行し、終わってしまった。

 僕はこの祖父母の葬式が相当に衝撃的であり、地元に帰る気がかなり失せてしまった。

 ちなみに、一応書いておくと、葬式というのは日本語をした催し物の名称であるようだ。

 

 

・これは僕が大学時代に山口市にあった実家に帰省したときの話である。

 僕は大学時代、暇を見つけては山口市の実家に帰省していた。

 しかし、その際に僕は実家で異様な体験をしたのだ。

 僕が実家に帰省した際、僕の家には物凄く高い頻度で電話がかかってきてしまっていた。

 それは、マンション購入などを勧めるセールスの電話であった。

 ただし、その電話がかかる頻度は異様そのものであり、僕の実家には色々な業者からそういう電話がひっきりなしにかかってきている状態だった。

 当時の父はこの件に対して「公務員は金を持っていると思われているから名簿が流れていて、それでこういうセールスの電話がかけられる」というようなことを言っていた。

 僕は後でこの事について振り返ってみると、このときのセールスの電話は本当に異様に頻度が多かったと感じてしまう。

 これはいったい何だったのだろうか。

 ちなみに、僕の両親の携帯電話にはいつも迷惑メールが凄まじい量着ていたようである。

 僕はそのことについてもなにか異様なものを感じてしまうのだ。

 

 

・これは僕が大学生のときの行われた野田学園高校の同窓会についての話である。

 僕が大学一年生のとき、長い休みを利用して、野田学園高校の同窓会が執り行われた。

 僕はそのとき、高校時代の同学年の女子達から誘われる形で同窓会に参加することになったのだと記憶している。何か女子達が同窓会をしたがっているということだったのだ。

 その同窓会に行ってみると、福島佳子、安光紀子などが、僕に対して高校時代、いじめをやっていたことを謝ってきた。

 僕はそれに対して適当に「もういいよ」などと適当に答えておいた。

 そもそも、このとき虐めの主犯だった冨金原は来ていなかったのだ。

 そして、謝られたからと言っても、別にそれで僕の何かが良くなったりすることもないのだ。

 僕はこの展開を受けて、単純に「これやる為に誘ってきたのか。うぜーな」と思った。

 僕は同窓会では女子達との会話もそこそこに男子達とひたすら話していた。

 しかし、その同窓会で、僕は奇妙な事を噂で聞いてしまったのだ。

 どうやら安光はキャバレークラブで働いており。その安光に対して同級生の林賢治が付き合ってくれと付きまとっているという話だったのだ。

 僕はそれを聞いてちょっと衝撃を受けてしまった。

 僕は昔の同級生の女子がキャバクラで働いているという事自体に驚かされたのだが、そのキャバクラで働いている女子に同級生の男子がアプローチをかけているということもかなり意外なことであった。

 僕はそれを聞いて「山口県は終わっているな」とそのとき思った。

 僕の中でキャバクラというのは、そのときすでに前時代の遺物でしかなかったのだ。

 僕には何か、そういう終わった場所でそういう喧騒が繰り広げられてしまうという事自体が、山口県が田舎であるという証明のようにも思えてしまった。

 そして、その同窓会の少しあと、冨金原が東京で結婚式をやるという案内が僕の所にやってきた。

 高校時代の同学年の女子達はその案内を僕によこして祝ってあげて欲しいなどと僕に言ってきた。

 僕は「これさ、全部お前らの罪悪感を薄めるためにやってるよな」と呆れてしまった。

 僕は冨金原を頑張って嫌々ながらも祝っておいた。

 そして僕は「もう山口県には帰らないだろうな」となんとなく思った。

 ちなみに、ここで一応書いておくと、安光という姓については、京都府北西部、兵庫県東部にその起源があるようである。

 そして、僕の学年の女子の中で、キャバクラで働いていたのは安光だけだったようだ。

 

 

・これは僕の母である原田和恵についての話である。

 僕が大学三年生のときに、僕の母である原田和恵は山口市で車を運転中に事故を起こしたことがある。

 僕の母は、どうやら山口銀行の銀行員の運転する車と接触事故を起こしてしまったらしいのだ。

 そして、その交通事故というのはどうやら山口銀行の銀行員の側に過失があったようだった。

 その交通事故の事故現場には、道路にはっきりと事故の様子を表すタイヤ痕が残ってしまっていたようで、どうやら母ではなく相手側に過失があるということは明確なようだった。

 しかし、ここで奇妙な事に、山口銀行の銀行員側は母が悪いと主張していたそうなのである。

 この件については、結局は僕の父が「もういいから、こっちが悪いということにしておこう」と言い引いてしまったようだった。

 そして結局、この交通事故は僕の母が運転をしくじったせいで事故が起きた、という扱いになってしまったのだ。

 僕は後からこの交通事故について振り返ってみて、妙な事を考えてしまうのだ。「この交通事故では、タイヤ痕で事故が起きたときの状況が推測出来たのに、なぜ警察は母が悪いということで納得をしてしまったのだろうか」と。

 何か僕はこの件について異様なものを感じてしまうのだ。

 僕は、この国ではある特定の条件を満たすと〝犯罪をしてもなぜか責められない〟という状況が作られていたのではないかとどうしても考えてしまうのである。

 

 

・これは僕の兄である原田和樹についての話である。

 僕の大学三年生のとき、僕の兄である原田和樹は岡山大学法学部を卒業した。

 僕の兄は、大学卒業後はふらふらと気ままに過ごしており、就職をしていなかった。

 あるとき、僕が山口市の実家に帰省すると、珍しく僕の兄が実家にいた。

 僕の兄は両親に対して「俺はどうやって生きて行けばいい? お前ら責任を取れよ」などとよくわからないことを乾いた笑い声を上げながらひたすら言っていた。

 両親はそのとき、僕の兄に官僚になることを勧めた。

 僕の兄はその後、両親の勧めに従って国家公務員の試験を受けたそうだ。

 そして、兄はその際に字が汚いからいって、書面を女性職員に書き直して貰ったことがあるそうだ。

 ちなみに僕はこの話を母から聞いたのだが、母は「多分、あれは可愛い女にでも書面を書き直して貰ったのよ。和樹の機嫌が良かったので多分間違いないわ」と言っていた。

 もちろん、これについては母の推測でしかない。

 しかし、僕の兄は東京の霞が関の官僚になるときに、ちょっとした優遇措置を受けたというのは確かなようである。

 僕はこの話を聞いてなんとなく、「ほら、東日本の、東京の連中の奴隷になりに行くときは、ストレスが取り除かれるだろう?」と思ってしまった。

 

 

・これは僕の兄である原田和樹についての話である。

 僕の兄は国家公務員の試験を受けて、晴れて厚生労働省の職員になった。

 僕の兄が厚生労働省に入って、最初にやった大きな仕事は、小泉純一郎という政治家の郵政民営化などの施策についての仕事だったらしい。

 僕の兄はどうも、厚生労働省に入って、当時の総理大臣であった小泉純一郎の演説の台本を作成していたようなのだ。

 僕の兄は話を聞く限りでは、厚生労働省内で、凄まじい激務を体験したようだった。

 僕の兄は官僚時代、朝4時に仕事を辞めてタクシーで家に帰り、三時間程度仮眠を取って朝8時に仕事に行くというような生活をひたすらやっていたらしい。

 僕の兄はよく、「あまりにも厚生労働省の仕事は非効率的だ」と嘆いていた。どうも、兄は厚生労働省という部署全体の仕事の効率が悪すぎる為、そういう睡眠時間を削るような激務になってしまうと感じていたようだ。

 だから、兄は厚生労働省内の仕事の効率を上げる為、マニュアルなどを頑張って作成をしていたようだったのだが、それもあまりうまくは行かないようだった。

 そして、僕の兄は両親に対して「お前らが官僚になれっていうからなってみたら酷い目にあっているじゃないか」とひたすら責めることになってしまったのだ。

 ちなみにここで書いておくと、官僚という職業は日本語の名称をした職業である。

 また、官僚という名称の僚という漢字の末尾は小という漢字で終わってしまっている。

 この小という漢字は小さいことを表している。

 そして、小さいということは、第二次世界大戦後にこの国を統治した体が大きく大きな物を好むアメリカ合衆国に住む人間たちがあまり好きではない価値観のようだ。

 

 

・これは僕の兄である原田和樹についての話である。

 僕の兄である原田和樹は官僚となり厚生労働省に入ったのだが、そこでもう一つ大きな仕事に参加している。

 それは、個人事業主の確定申告の電子申請、e-taxについての仕事である。

 このe-taxというものは個人事業主がインターネット上から確定申告を行うという仕組みのことである。

 しかし、このe-tax、始めに世に出てきたときは相当に酷い出来栄えであり、まともに使う事がかなり難しかったようだ。

 後年、兄はこのe-taxについて、奇妙な事を述べていた。

 兄曰く、「俺が出したe-taxの草案はもっともっと優れたものだった。でも、上から色々な指示が入るうちに、その形がどんどん捻じ曲げられていって、非常に使いにくいものになっていった」ということだった。

 僕は後から、この兄の仕事についての話を振り返ってみて、非常に奇妙な感覚を憶えた。

 というのも、僕もこの兄の仕事のように〝自分がやろうとしていることが思わぬことで失敗してしまう〟ということを自分の人生において何度も体験しているのである。

 これはいったい何なのだろうか。

 また、兄は日本の官僚機構、それから政治の仕組みについて、異様なことを述べていた。

 兄曰く、「日本というのはアメリカの植民地だ。日本がどんな政策をやるにしても、それはいつもアメリカ側から監視されている。そして、アメリカはときおり、日本の政策について指示を出してくる」ということだった。

 これについては、もし本当だとすると、日本に対するアメリカ合衆国からの明確な内政干渉が行われていたということになる。

 しかし、このような問題はこの日本ではまるで語られたことがない。

 これはいったい何なのだろうか。

 

・これは僕の父である原田克己についての話である。

 僕の父である原田克己は、僕が大学4年生くらいのときに「教頭に出世するかもしれない」と言い出した。

 しかし、なぜかその後、結局その話は立ち消えになり、父は障碍者学級の担当になっていた。

 また、僕の父は山口県で小学校教諭をしていたとき、奇妙な体験をしたことがあるらしいのだ。

 僕の父は若手教員の指導をしていたそうなのだが、その若手教員が金銭関係の手続きの際に不正ととられかねないような処理の仕方をしてしまったことがあるらしい。

 父はその際に若手教員に対してきちんとした適正な処理をするように指導したそうなのだが、その若手教員は自分がやったその不正じみた処理の仕方に対して「あれは原田先生がそうしろと指導してきた」と嘘を付いて、責任逃れをしたそうだ。

 結局、この件に関しては山口県教育委員会はその若手教員の言葉を信用したのか、僕の父に対して責任の追及をしてきたそうだ。

 ちなみに父が言うには、父はこうして若手教員から仕事のミスの責任をなすりつけられることが頻繁にあったらしい。

 そして、父は「山口県はそういう不正を行い、それを嘘でごまかす教員ほど出世をし、管理職になってしまう」とぼやいていた。

 

・これは僕の故郷である山口県についての話である。

 僕が大学四年生くらいのころ、神戸連続児童殺傷事件を引き起こした酒鬼薔薇聖斗山口県に逃げてきたという噂があった。

 確か僕はこの話を、大学四年生の頃に父と母から聞いたのだと記憶している。

 このときの話では酒鬼薔薇聖斗はその時は湯田辺りに来ているということだった。

 僕はこの話を聞いて「山口県で就職するのはないな」と強く思ってしまった。

 しかし、僕は後になってこのことを振り返ると、どうもこの話が出てきた時期に何か恣意的なものを感じるのだ。

 僕が地元に帰らないようにあえて、こういう情報が巻かれていたような気が僕はしているのだ。

 

 

・これは僕の父である原田克己についての話である。

 僕の父である原田克己は僕が大学4年生のときに心臓に不調を感じ。山口大学医学部附属病院に行き、異常を何度も医師に告げたそうである。

 しかし、基本的には医師は父が心臓辺りから発生している痛みについて訴えてもそれに取り合わなかったらしい。

 父が何度か病院に行くにつれて、流石におかしいと思ったのか、山口大学医学部附属病院の医師は父の心臓の検査をしたそうだ。

 しかし、結局検査をしても異状が出なかったらしく、父は何も治療を施されずに帰ることになったそうだ。

 その後、少ししてから深夜、父は心筋梗塞を発病した。

 父は病院に送られて手術する羽目になり、酷い後遺症が残り、薬を毎日たくさん飲むことになってしまった。

 また、父はこの病院での治療中、昔の教え子から背中を強く叩かれることがあり、そのせいで病態が悪化したこともあるそうだ。

 そして、ここからが話の肝なのだが僕は父が心筋梗塞で入院した際に、お見舞いに来て欲しいと母から頼まれたことがある。

 しかし、母が僕にお見舞いを頼んで来た日というのは、ちょうど大学の美術部の先輩達のお別れ会の日だったのだ。

 僕は仕方がなく美術部の先輩たちのお別れ会に参加をして、その後、父のお見舞いに行くことになってしまった。

 なんにしても、僕はこの出来事を振り返ってみて思うのだ。

 「なぜ、父は心臓の痛みを訴えて何度も病院に行ったのに、心筋梗塞を発病してしまったのだろう」と。

 結局のところ、これは山口大学医学部附属病院が医療ミスを起こした可能性が限りなく高いと僕は考えている。

 そして、これは、いくらなんでも異様に杜撰な医療ミスなのだ。何故、これが問題にならなかったのだろうか。僕にはそれがわからないのだ。

 

 

・これは僕の母である原田和恵についての話である。

 僕の母である原田和恵は僕が大学生のときから定期的に健康診断を受けていたようだ。

 そして、僕が大学4年生くらいのときには、宇部市のセントヒル病院で健康診断を受けていたらしい。

 しかし、その後、母の体からステージ4の乳癌がなぜか突然見つかり、乳房とリンパを取る羽目になってしまった。

 そして母は抗癌剤治療を始め、そのせいで肝臓などを悪くして、糖尿病などの病気になってしまった。

 僕はこのときの母の乳癌というのは、〝進行がとても早い種類の癌だった〟という説明を山口大学医学部附属病院の医師から受けた。

 しかし、僕は後になって思うのだ。「母が進行がとても速い種類の癌にかかったのだとしても、母は定期的に健康診断を受けていた。だから、母の体からいきなりステージ4の乳癌が発見されたのはおかしい」と。

 また、母はこの乳癌の治療の際に、山口大学医学部付属病院にて、さらに異様な治療を受けている。

 母はこの乳癌の治療の影響で片目の視力が落ちてしまったらしい。

 そして、母はその片目の視力の回復の治療の為、レーザー手術を受けることになったそうなのだ。

 しかし、その治療の際に医師はそのレーザー治療が痛みを感じる治療であるという説明をしなかったらしい。

 結果として母は、麻酔が効かない眼球をレーザーで焼かれて激痛にのたうち回ることになってしまったそうである。

 これは、ごく普通に考えれば、明確な医療ミスである。

 つまり、母は何度となく医療ミスを受けていた可能性が高いのだ。

 だが、異様なことにこれらの医療ミスはまるで問題にはならなかったようである。

 

 

・これは僕の両親の身に起きた医療ミスについての話である。

 僕はこの大学時代に起きてしまった両親の医療ミスについて、後に山口大学医学部附属病院に対して、当時の診療記録やカルテの開示を要求している。

 しかし、山口大学医学部附属病院は情報の開示は難しいという旨を僕に伝えてきた。

 というのも、2018年6月28日から7月8日にかけて、西日本を中心に起きた西日本大豪雨のせいでこの当時の医療情報が載っていた書類が一部水没してしまったらしいのだ。

 だから、僕の両親の医療ミスに関する書類もその際に駄目になっている可能性が高いという

 山口大学医学部附属病院はそもそもこの情報の開示というものは、医療ミスを受けた当人である僕の両親の許可がいるということを僕に告げてきた。

 しかし、僕の両親は僕が「山口大学医学部附属病院に対して医療ミスの追及をしよう」と言ってもまったく取り合おうとはしなかった。

 だから、僕はこの医療ミスについてそれ以上追及することは出来なかった。

 

 

・これは僕の父である原田克己についての話である。

 僕の父は僕が大学4年生のときトヨタの車であるプリウスに乗っていたようだ。

 父は心筋梗塞を発病して、その治療を終えた後でもこのプリウスに乗っていた。

 そして、とある冬の日に父は家の農具小屋に車を突っ込ませてしまったのだ。

 僕の母はそのことについて父が心筋梗塞の後遺症から意識を一時的に失ってしまい、そのせいでブレーキを踏むことが出来なかった、と言っていた。

 しかし、父はそのことについては「車のブレーキを踏むと車が前進した」などとよくわからないことを言っていた。

 そして、奇妙な事に、その父の証言を裏付けるように、その辺りの時期にアメリカでトヨタ車に欠陥が見つかったことが問題になっていた。

 また、その事故の結果として、農具小屋の壁が壊れてしまったため、両親は壁の修理を嘉川の業者に頼んだらしい。

 しかし、その壁の修理は両親がした発注の内容を修理業者が取り違えてしまい間違った形で修理が行われたらしい。

 そして、その結果として、僕の家の農具小屋は壁の模様が違ってしまったようである。

 

 

 

 

 以上で調査を依頼する出来事についてという文章を締めくくることにする。

 僕は大学時代以降も物凄い大量に酷い目に遭っているのだが、この辺りで十分だろうと感じている。

 この文章には、普通に考えるとまずあり得ないようなよくわからない出来事が大量に書かれている。

 そして、その出来事について分析をしてみると、そこになにがしかの法則性があるように僕には感じられる。

 僕には何か、第二次世界大戦後のこの日本という国が、西欧諸国から特定の情報操作を仕掛けられていたように感じてしまうのだ。

 もちろん、この文章も結局は一個人の視点から見た出来事の羅列に過ぎない。

 そして、当然のことながらこれらの文章の中には僕が間違えて記憶してしまっていることもあるだろう。

 しかし、僕はこれらの出来事が、この第二次世界大戦後の日本という国には凄まじい問題が横たわっていたということを示唆しているように思えるのだ。

 だからこそ僕は、世界の様々な機関や組織にこれらの出来事について調査をお願いしたのである。

 僕には何か、これらの出来事というものが、後に人類の歴史において大問題として扱われる可能性が高いと感じているのである。

 僕が調査を依頼した機関や組織に所属する方々は、もしよろしければこの僕が書いた文章を保存して欲しい。そして、もしよろしければその調査に当たって欲しい。

 僕や僕の両親、そして僕の一族の人生というのは大まかに言えばろくでもないものであったと思う。

 それらの人生は苦しみばかりで彩られており、楽しいことはどうやら全然なかったようだ。

 そして、僕はこれらの出来事を見返しながら、こう推測をしているのだ。

 西日本の氏族の中には僕たちの氏族と同じような体験をした人たちがたくさんいるのだろう、と。

 だから、もし、僕が調査を依頼した機関や組織に所属する方々がこの件について調査をする場合、とても広範囲にわたって調査をするはめになると思う。

 しかし、この文章に書かれている問題について調査をするということは、僕はかなり有意義なことだと感じている。

 もし、この問題について調査をして、その調査結果を報告したいという機関や組織があるようなら、090-1826-5356という僕の電話番号か、harada5011@gmail.comという僕のメールアドレスまで連絡をして欲しい。

 僕はその連絡がくるのを心待ちにしている。

 

 

この文章を書いた人物の住所氏名

住所:日本国山口県山口市江崎2805-1

名前:原田宏樹