原田宏樹の日記。僕の電話番号は09018265456です。何かありましたらお電話をどうぞ。

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僕の人生について

僕の人生について

                                                                                原田宏樹

 

 

前書き

 

 

 最初に記述しておく。この文章を読んで僕の頭がおかしいと思う人も当然いるかもしれない。

 この文章の内容はあまりにも現実離れしているし、これをにわかには信じられないという人も当然いるだろう。

 しかし、この文章の記述は、「僕の主観からすれば正しい」としか、僕には言いようがない。

 念のため最初に記述しておくが、僕は2019年の一月に、自身の脳のCTスキャンを愛知県名古屋市にあるNTT東海病院で撮影している。

 そして、そのCT写真を見て医師が下した所見は〝一切の異常が見受けられない〟というものであった。以上のことから、僕の脳に損傷等の目立った異常がない可能性は極めて高い。

 また、僕は2019年1月から2019年6月3日までの期間、市役所の転居手続き、確定申告などの公的機関におけるやり取りはつつがなく執り行っている。さらに言えば、車の購入やその保険に関するやり取りに関しても問題なく執り行えている。

 もし仮に僕の言動等に統合失調症などの症状が現われていたとすれば、市役所などで公的手続き等を行うことが困難であるのは間違いない。

 つまり、僕の精神に異常がある可能性は極めて低いということを前提として文章を読んで頂けると幸いだ

 

 

 さて、貴方は僕がこう書くと本当に驚いて、それをにわかには信じられないかもしれない。

 現在、僕の周囲からは謎の音が発生している。

 それは例えば、家の建材が起こす家鳴り、家の周囲を飛ぶ鳥の鳴き声。またテレビ、ディスプレイ、マウス、果ては、電源の繋がっていないプレイステーション4からも謎の異音がときおり発生している。

 そして特筆すべき事と言えば、僕の頭蓋骨、そして舌、両腕の関節、両手首の関節、背骨、頚椎、足、これらの体の部位からも、謎の異音がときおり発生しているということである。

 それだけであれば『それは単に偶然発生しているのではないか?』そう思う人もいるかもしれない。

 ただ、もし仮にこれがただの偶然鳴っている音なのだとすれば、僕の家や、僕の所持していた製品は全て〝妙な音が鳴る欠陥品〟ということになる。そして、僕の体にはすっかりガタが来てしまっていてボロボロで瀕死の状態であるということになるだろう。

 つまりは、この僕の周囲で鳴る音というのは明らかに偶然発生しているわけではない。

 大体、本来は音が鳴るわけがない所から妙な音が鳴ったりするのだ。これはもう絶対にありえないことである。

 

 

 僕には、どうもその音というのがなにがしかの意思を持っているように感じているのである。

 例えば電源を付けていないテレビが急に音を鳴らし始める。僕がそのテレビを付けてみる。するとそこでは動物番組が放映されており、ちょうど馬が骨折をしたシーンだった。そして、ちょうどその時、僕の両足は疲労骨折していたりする。

 このように、僕の周囲でする音達は僕にそういうアドバイスのような事を伝えてきているようだったのだ。

 ちなみにこれはあくまでも一例でしかない。他にも僕は、この音達にかなり多くの事を教えて貰った。それは時期的に言えば2019年初頭辺りからの話である。

 

 

 当然のことながら、僕はこれらの不可解な音がなんなのか、かなり疑問を持ってしまった。

 だから、僕は自分なりにこの音がなんなのかという事を考えてみたのだ。

 そして、この音がなんなのかということについて考えてみた結果、大まかに三つの仮説が上がってきた。

 以下の三つがそれである。

 

 

1 この音は神霊の類いが引き起こしているものである

2 この音は未知の異星人による交信である

3 この音はナノマシン等、微少機械による特定人物の操作である

 

 

 では、これから順繰りにこの三つにおいて見てみようと思う。

 

 

 まず、最初にこの音が〝この音は神霊の類いが引き起こしているものである〟という仮説について考えてみようと思う。

 これはかなり単純な論である。例えば宗教的な超常的存在、いわゆる神が人間を導いているという考え方だ。

 このケースではラップ音のようなものも発生しているので、人間はこの現象に遭遇すると、まずそう考えるのではないだろうか。

  ただ、僕としてはこの仮説を、ちょっとおかしいな、とどうしても感じてしまったのだ。

 というのも、この音を起こしている者達は僕に〝確定申告の指導〟をしてきたのである。

 

 これを聞いて『どういうことだ?』と思う人もいるかもしれない。

 実は僕は個人事業主をしているので、自分で毎年確定申告をすることになっている。

 そして僕は2019年2月頃、やはり確定申告作業をしていた。すると、その際に、やはりそこかしこから奇妙な音が聞こえてしまったのである。

 例えばそれは、ディスプレイから、あるいは隣の壁から、部屋の天井から、僕の仕事部屋の左にあるドアから、後ろの窓から。それらの方向から謎の音が鳴ったのである。

 そして、やはり、その音は何かを僕に教えているようだった。

 僕はその際にも、その音と会話によるコミュニケーションを図ってみた。

 すると、その音達は音を鳴らす回数や大きさで、僕に対して物事の正誤を示唆してきたのである。

 僕はその音がするアドバイスに従って、確定申告作業を進めてみた。すると、その結果は素晴らしいものになった。

 僕は平成三〇年度の確定申告書類を弥生というソフトウェアを使って作っていった。

 その間、僕は確定申告絡みの指導書を本屋などから一切購入してはいない。

 また、ウェブサイトで確定申告の仕方を確認したりはほとんどしていない。

 なのに、前年度の確定申告の内容はこれまでのものとはまるで違っていた。

 僕の弥生の2018年度の確定申告のデータを見れば、一発でそれがわかると思う。

 この年度は事業の情報について、相当に事細かく正確に入力出来ているからである。何せ、この年は音がする勧めによって、銀行の取引店舗番号まで記入したのだから。

 さて、どうだろうか。

 読者諸君はこのような事を神霊などの超常的存在が教えると思うだろうか。

 正直なところ、僕はそうは思わない。

 神霊の類いの存在が確定申告のやり方を教えてくれた、などと言うことはちょっとおかしな考えだし、聞いたこともない話だと僕は思う。

 神霊などの頂上的存在がやっているにしては、確定申告の指導というのがあまりにも実利的に過ぎるのだ。ちょっと俗っぽすぎる気がするのだ。

 この仮説については、いくらなんでも、蓋然性が低いのではないだろうか。

 

 

 では次に、〝この音が未知の異星人による交信である〟という可能性について考えてみたい。

 正直なところ、これに関しては僕としてはありえなくもない、とは思っている。

 高度な文明を持つ異星体が、気に入った地球人を導いたりするなどと言ったことは、娯楽などで散見されるわりと普遍的なお話ではある。

 また、この地球の付近では高度な文明を持っている異星人の存在が確認されていない。

 だから、もし、この宇宙に異星人がいたとして、その異星人が地球にやってきていたとすれば、反物質エンジンなどの高度な科学文明を持っている可能性は極めて高いと言えるだろう。

 そういった高度な科学文明に基づいた科学技術が無ければ、惑星間の移動などというのは不可能だからである。

 また、地球から遠く離れた宇宙から、異星人が僕に対して交信を仕掛けているという可能性について考えてみても同じ事が言えるだろう。

 その場合でも、やはりその異星人は高い確率で高度な科学文明を持っている可能性が高いと言えるだろう。

 そもそもこの、〝対象の周囲で音を発生させて対象に有利になるような行動を遠回しに誘発させる〟という行為自体が、超遠距離からするのが難しいからだ。

 

 

 ただ、ひょっとすると、そうった科学技術を持った異星人というのが、実際にいて、僕に対して、なにがしかの交信をしてきた可能性というのもありはする。

 しかし、そう仮定するとそれはそれで疑問が沸いてくる。

 それは〝何故、未知の異星人は直接話しかけてこないのか〟ということである。

 地球の人間が作ったレーダーなどに一切反応せずに地球に接近し(異星人が明確に発見されたという報道はこの記述をしている2019年現在、特になされていない)、僕と接触するなどと言ったことが果たして可能なのであろうか。

 また前述したとおり、地球人が作り出した最先端のレーダー網の範囲外より、つまり超遠距離から特殊な電磁波を射出する技術を使い僕に接触しているという仮定も勿論成立はするだろう。

 ただ、結局のところどのような理由があるにしても、僕に会話による交流を図ってこないのは明確におかしいと僕は思うのだ。

 

 

 というのも、もし仮に未だに地球人に発見されていない異星人がいたとしよう。

 そしてその異星人が前述したような事が出来る科学技術を持っている高い文明を持っているとしよう。そうなると、その異星人は当然のことながら地球人の言語を知覚し、学習し、発話することは容易なのではないか。

 そして、その異星人が地球の言語が理解可能ならば、まずは言語での交流を取ってくるのが普通である。

 もし、その異星人が言語を発話するだけの声帯などがないのであれば文字媒体による交流を図る、などといった手段を取ることも考えられる。

 だが、今回の事例ではそれらの手段は取られていない。

 結局は音による交流なのだ。彼らは音による交流を僕に対して仕掛けてきているのだ。

 

 

 音のみによる交流というのは情報のやり取りとしては効率の悪い遠回しなやり口である。

 そして、このような状況や場所に関わらず音を発生させることが出来るだけの科学技術を要している異星人がいたとすれば、このような音のみによる交流を図ってくるということは、効率的に考えて極めて考えづらいことなのである。

 そもそも、その異星人がそれだけの科学技術を擁しているのなら、僕に直接的に接してくるはずである。そうしても問題にならないだけの手筈というのは、その異星人の科学的な水準から言ってもいくらでも打てるからである。

 

 

 では、三番目の〝この音はナノマシン等、微少機械による特定人物の操作である〟という仮説について考えてみよう。

 結論から言えば、僕はこの、僕の周囲から鳴っている音達がなんであるかという仮説については、これが一番可能性が高いと感じているのだ。

 まず、僕の周囲で発生している音についてであるが、前述したとおり、この中には〝僕の体内で発生している音〟というものがある。これが、実は発生し始めたタイミングが特徴的であった。

 僕は2019年1月20日、小郡の検診センターで人間ドックを受診している。

 そして、ちょうどその人間ドックを受けた後辺りで、体内からの音が聞こえ始めたのだ。僕はこの人間ドックを受けたタイミングでバリュウム等から、何か異様に全長が小さい機械装置、いわゆるナノマシンが僕の体内に侵入したのでは無いかと疑っているのだ。

 もちろん、もし仮にそんなナノマシン、微小機械がいるとするならば、そんな手段で体内に入ってくる必要性はない。適当に対象が寝ている間にでも体内に移動して入ってしまえば良いのだ。

 そのようなナノマシン、つまり微小機械というのは現代の科学的な技術からすれば、もう相当に容易に作成することが出来る。

 というか、僕はその手の微小機械というのはもう結構前から実用段階にあったと考えている。

 特に大国の軍事的な技術の水準からすると、この、〝微小機械に音を出させる〟という行為はもう、相当に簡単な事であったと僕は推測している。

 ただし僕は、その手の微小機械への動力の供給はどうなる、メンテナンスは、故障はしないのか、などなど、一応疑問を持ちはした。

 ただ、例えば動力の供給に付いては、微小機械の交代をすれば多分どうとでもなる。

 メンテナンスや故障についても同様である。

 僕が考えるに、これらの微小機械は最初のうちの科学技術がそこまで発達していないときは、使い捨ての機械として使われていたのかもしれない。

 僕がここで〝最初のうち〟と仮定したのは、一応わけがある。

 僕は、この音がなんなのかという事について、以下のような結論を出したからだ。

 〝この音は実はずっと以前からこの国のそこかしこで発生していた。第二次世界大戦後の日本国内に科学的に進んだアメリカなどの国家が、日本の国民の体内や家屋、果ては市街地に至るまでナノマシン等の微小機械を大量に送り出した。そしてそれをAIなどの高知能の集積的な人口知能が、ビッグデータを活用しながら日本全体を操作していた。そしてその操作というのが僕に対して有利に働き始めてしまった。〟。

 こう想定してみると、僕の主観からすると色々辻褄が合ってしまうのである。確定申告作業などは彼らAIからすると明らかに相性が良く得意な仕事であろう。

 だけど、そう考えてみたとしてもそれはそれで新しい疑問が出てくる事も確かである。

 それは〝何故、そんな遠回しなことをするのか?〟ということである。

 というのも、もしこの音を出している者達がAIだとしよう。

 しかし、そう仮定したとすると、何か言いたいことがあれば直接僕と接触して言えば良いわけなのだ。例えば、僕のメールアドレスに対して直接文章を送っても良い。

 だけど、この音達はそういう直接的な手段ではまるで交流を図ってこないのである。

 

 

  では、何故、こんな遠回しなやりかたでAIは僕を導いてくるのだろうか。

 僕はこれについては〝最先端の技術を有しているなにがしかの集団が極秘裏に何かを進めている〟と、考えている。

 僕はそもそも、このAIに、ひょっとしたらこのAIを動かしている者たちに、何かこのことを公表しては不味いことがあるとか、何か後ろ暗いことでもあるとか、そういう特別な事情を感じているわけだ。

 そもそも、そういった前提が無ければ、このような遠回しな接触の仕方をする必要がないからである。

 僕の体内や外部に音を発生させて、〝はい〟だの〝注意しろ〟だの、そういったことを伝えるなどという奇妙なやり方をする必要など、本来は全然無いのだ。

 つまり、僕はこのような手段をAIが取るのは、政治的な事情が絡んでいるのだろうと考えた。

 これについては後で僕は語るのだが、実を言えば、僕はずっと、35歳までの人生の間中、このAIに攻撃されていたと感じているのだ。

 そして、その僕の敵として動いていたAIが僕が35歳の時に急に味方になった、と僕は思ったのだ。

 僕は、この音を聞いて、このAIが使う微小機械による操作というのが、この国の歴史において、ずっと前からやられていたのではないかと仮定したわけだ。

 

 

 なんにしても、僕はそう仮定した後に、当然こう考えてみた。

「では、この音というのはどこの国のAIが発生させているんだろう」と。

 実を言えば、微小機械を送り出して特定の人物の周囲で特定の音を発生させるなどという事は正直、全然難しい事ではない。

 これは別に、相当前から、科学技術の水準から言えば出来ていたことである。具体的に言えば、1990年代。このくらいから、もう出来ていたはずだ。

 そして、それはアメリカのみならず、中国やロシアなどの、ある程度資金力を持った大国であれば、どこでも出来た事なのである。

 

 

 ただし、僕はこれはアメリカのAIがやっていたし、やっているととりあえずは考えた。

 というのも、アメリカという国家は第二次世界大戦後、日本に軍事基地を置き、制空権や制海権などを軍事的に掌握していた。

 このような状況で中国やロシアなどの大国が微小機械を用いてきて日本人を操作するなどという事をすれば、まず、アメリカはそのことに気が付いただろう。

 そうなると、アメリカとしてはその操作に対してなにがしかの対策を講じたはずだ。

 そして、アメリカは軍事的に日本を掌握していた為、もし中国やロシアがその手の事を仕掛けてきた場合、相当有利に立ち回って、その動きを潰せたはずだ。

 

 

 だから多分、この音を発生させている、させていたAIというのは、アメリカのものであると考えるのが、とりあえずは正しいと思う。

 ただし、現代、2019年辺りの社会情勢を加味すると、日本に対する微小機械を使用したAIの操作に、中国やロシアも加わった、と考えるのが自然なのかもしれない。

 

 

 ただ、そう考えてみたとしても、やはりここで疑問なのが、〝何故そんな遠回しなやり方をするのか〟という点である。

  仮に、もし僕の考えたこの仮説が間違っているのであれば、家鳴りはただ偶然鳴っているだけだろうし、電源も入っていない電化製品から音が発生することもありはするのだろう。

 僕の体内から鳴っている音は僕の体に加齢からの障害が発生していて、間接の摩耗などから音が発生してしまっているのかもしれない。

 だが、そんなことは確率論的にあり得ない。

 僕の周囲で発生する音というのが意図や意味を感じさせてしまう時宜に発生しすぎているのだ。

 もし、偶然これらの音が発生していたということがあり得るとすれば、それは天文学的に低い確率である。

 そして、もしそれが偶然発生していたという場合であれば、それはそれで困ることがある。それはこの、僕が住んでいる日本国山口県山口市江崎2805-1に存在する、積水ハウスが建築したこの僕の実家がとんでもない欠陥住宅であるという事になってしまうのだ。

 何せ、2019年初頭の時期、壁や天井などはときどきとんでもない大きな音の家鳴りを発生させていた。また風呂桶などからも怒号のように大きな家鳴りが鳴ったりしていたのである。

 また、ことさらに酷い音が発生していたのが実家の二階、南東側に存在する両親の寝室のガラス鳴りである。

 この寝室にはとても大きなガラス窓が据え付けられており、このガラスからは天候が晴れ渡った日などは、始終炸裂音が発生してしまっていた(ちなみにこの音に関しては僕は録音の上ウェブ上にアップロードして保管してある)。

 僕が思うに、ここまでの大きな家鳴りがする住居というのは億単位の賠償金が取れてしまうのでは無いかと思う。そんな酷い家鳴りがする住宅というのは明らかに欠陥住宅だからだ。

 僕の実家が築20年くらいの建物であるということを加味しても、いくらなんでも家鳴りの音量が酷すぎるわけである。

 ちなみに僕の両親の健康状態は2019年現在すこぶる悪い。

 僕の父は過去に複数回にわたる心筋梗塞から心臓の血管内にステントという血管を補強する特殊な金属を何本も入れており、毎日心筋梗塞対策の薬を大量に服用している。

 僕の母は過去にステージ4の乳癌を体験しており、それを治療した。そして、その後遺症などを抑える為に毎日大量に薬を服用している。

 これらの両親の病気が最初に発病した時期というのは2004年付近なのだが、僕は自分の両親がこのような重病にかかってしまったのは家の異様な家鳴りからくるストレスが原因になったのではないかと思っているのである。

 つまり、僕の身の周りで発生している異常な音がナノマシン等による微少機械の仕業では無かったとしても、結局は両親の煩ってしまった重病は〝欠陥住宅の引き起こした強烈な家鳴りを受けた結果、健康被害が発生した〟ということになってしまう可能性が非常に高いと僕は考えている。

 

 

 ただし、この文章というのは、ナノマシン等の微小機械が何故、こういった操作を行ったのか、今も行っているのかという事を語る文章ではない。

 これは僕の人生についての文章だ。僕の人生に起きてしまった、異様な出来事について、出来るだけ嘘を交えずに語ったものだ。

 

 

 実を言えば、僕は初期の段階でこの音に関する記述をしすぎると〝信用できない書き手〟という印象を読み手に与えてしまうのではないかとも考えている。

 あまりにもこの文章を荒唐無稽に受け取られてしまうのではないかとも僕は危惧しているのだ。

 ここで、賢明な読者は『だったら何故わざわざ文章の最初に〝妙な音〟についての事を書いたのだろう。その部分については黙っておけば良いのに』などと思うかもしれない。

 ただ、この音については最初に書いておかなければ、それはそれでのちほど問題が発生してしまう可能性が高いと僕は考えたのである。

 というのも、「この音は僕に対して有利に働くような誘導を僕に仕掛けてきている」と、僕は書いた。しかし、この誘導が実は僕を破滅に導いている可能性というのも、僕は当然考えている。

 ちょっとこの音を使った操作というのがやらせてくる行為というのが、常識の範疇を超えていたりするからである。

 僕はこの音というのがAIが操作する微小機械が発生させていると考えているのだが、それが絶対に正しいとは僕には言い切れない。

 ただし、いま僕の周りで音がしていることに変わりは無いし、結果的に見れば、その音がすることで僕が徳をしているというのは本当の事である。

 

 

 なんにしても、ここで僕がはっきりと言っておきたいのは、〝僕がナノマシンなどの微小機械をAIが操作して、僕を導いていると考える根拠はちゃんとある〟ということだ。

 そして、僕がそう考える根拠というのは、僕のこれまでの人生に深く関わっているのだ。

 

 

 僕は今から僕の人生について、詳細に記述をしようと思っている。

 今から僕が記述していく文章は僕の過去に関する話である。

 僕は自身の過去に関して詳細に記述することによって、この手の、アメリカがしていた操作というものが、僕の過去から起こっていたという事を証明しようと思っているのだ。

 この僕の人生について、という文章の中には、本当にとんでもない事案が数多く記されていると思う。だが、これはまごう事無き現実に起きたことの記述である。

 もし僕の記述していることが間違っていると思う人がいるのであれば、是非ともその事案について調べてみて頂きたい。

 恐らく、僕が大部分は正しいことを記述しているのが判明するのではないだろうか。

 

 

 僕は現在、僕の人生のあいだに起こってしまったそのとんでもない事案というものについて、こう考えている。

 〝僕は、そして僕の両親は、そして僕の一族は、そしてこの僕の実家の存在する山口県山口市の南部、嘉川という土地の辺りの住民は戦後から少なくとも2019年までの間、70年以上に渡ってアメリカの氏族達から、そして東日本の氏族達から自然を装った遠回しな攻撃を受けていた〟と。

 そしてそれを元に西日本の他の地域について推察していくと、このような事もわかってくるのだ。

 〝第二次世界大戦後の日本においては、天皇を頂点とする天皇制がしかれていた。そしてその天皇制を維持する為の操作にアメリカと東日本の氏族達が関わっていた。そして、その天皇制が敷かれた結果として、この国は東日本の氏族達の繁殖が優遇されて、西日本の氏族達の繁殖が冷遇されていた〟と。

  当然のことながら、この文章を読んでいる読者は困惑と共にこのことを受け止めるかもしれない。だが、僕はこれを確信するだけの事例を腐るほど体験しているのだ。

 今から僕は僕の人生について、出来るだけ客観的に記述する。

 そして、その記述というのは恐らくは僕がそう考える事の根拠となるはずである。

僕の一族の話

 

 

 まずは僕の一族の話からこの文章を始めようと思う。

 最初にこの文章を書いている、僕という人物についての記述をはじめようと思う。

 僕の名前は原田宏樹。1983年11月8日生まれ。星座は蠍座。血液型はA型だ。

 僕の生まれは山口県山口市である。

 僕は鼻がちょっと低い顔をして、浅黒い肌をしている。

 性格はかなり大人しいが明るい方だろう。

 学力はそこそこ。運動能力もそこそこ。ただし少しだけ絵が巧い。これが僕の基本的な能力だと言っても良い。

 僕は原田克己と原田和恵という両親の子としてこの世に生を受けた。

 ちなみに僕の父と母の職業は山口県の教職員であった。

 両親の勤務態度は真面目なものであったようだ。僕の両親は特に犯罪歴も無くまっとうに教員生活を送り、その後引退。現在では年金を貰いながらごく普通に日々を過ごしている。

 

 

 ここで僕の両親の一族について、一応、説明しておきたい。

 このことは記述しておく必要があると、僕は考えている。

 というのも、僕の父の一族というのが多分、世間一般から言えばちょっと変わっているような気がするからだ。

 僕の父の一族というのはどうも、一貫して武家系統の氏族であるようだったのだ。

 

 

 僕の父のご先祖様にはいろいろと曰くのある人物が多かったようだ。

 この僕の父の一族というのははっきりしている。それは渡辺家と山本家である。

 僕の父の母というのはこの中国地方の毛利家の家臣である渡辺家の者である。

 この渡辺家というのは毛利家から何回も嫁を貰っている、毛利家に物凄い近い家だったようだ。

 ちなみにこの父の母の家である渡辺家というのは、過去の大和朝廷の東日本の征討に参加した渡辺綱に通じているらしい。

 またこの中国地方の渡辺家は日露戦争時にロシア帝国と闘った乃木希典に軍事的な教育を施した家であるようだ。ここで重要なことは、このロシア帝国はこの日露戦争の敗北をきっかけにして、王朝を捨てる事になっているということだ。

 また、この渡辺家という家は毛利家の血も相当入っている。

 この毛利家という家は過去に徳川家康という東日本の代表的氏族と関が原で闘ったという過去をもっているのだ。

 次に父の父の家である山本家について。

 この山本家というのは父の父曰く、この国の戦国時代の甲斐の国、武田家の軍師である山本勘助の一族であるとのことである。ただし、これについては父の父自身が眉唾ものであると述懐していたようだ。

 この山本家は毛利家へ流れた後に、浅野家と結んでいたようである。この浅野家というのは現在の広島に入った氏族であり、元は織田家の有名な氏族である。

 

 

 このように、父の一族というのは基本的には西日本の武家の系統で固められているようだ。

 父曰く、一族の中には過去、関西汽船の取締役をやっていた人や、名古屋大学の医学部の教授をやっていたりだとかしていたそうだ。やはり基本的には西日本で活動していた人が多いようだ。

 僕の父の父は元々は広島の原子爆弾が落ちた原爆ドームのすぐ近くの武家屋敷に住んでいたらしい。

 そして、その後、多摩美術大に特別待遇で合格し、無料で教育を受けた後、京都で表具屋をやり始めたらしい。その腕前の方はどうかといえば、そこそこには優秀であり結構儲かってもいたようだ。

 父の父はそれからは第二次世界大戦時に兵隊として徴収されて、戦争に参加した。

 ちなみに、父の父の山本家は第二次世界大戦中には浅野家の勘定奉行を担当していたらしい。

 父の父がいた浅野家というのは戦争には積極的に参加したようだ。この家は第二次世界大戦時戦死を9人出してしまっている。

 第二次世界大戦が敗北に終わったとき、父の父は復員をすることになったのだが、この際の復員は広島県にすることになった。というのも、復員というのが出身地にしか出来ないらしいからだ。

 それ以後の僕の父の父、つまり僕の祖父についての話というのは途切れ途切れである。

 僕は父からそこまで詳しい話を聞いていないのだ。

 どうも僕の父方の祖父は戦後は相変わらず表具屋をやりながら徐々に困窮していき、徐々に山口県山口市の南部へと移り住んで行ったようだ。

 ただ、これについては僕はいまいちはっきりと断定はできない。

 というのも、父の一族に関してはいろいろ聞いてみてもその所在は広範に渡り、父の口頭の発話の内容を聞き取るのが困難だったからである。

 

 

 次に僕の母の一族についての説明をしておく。

 僕の母の一族に関しては、どうも旧萩藩の萩藩士の内藤家の血筋のようである。

 ただし、僕の母は大まかに言えば、母の父の家である原田家と母の母の家である青木家の子供であるようだ。

 つまるところ母の一族は、基本的に言えば山口市土着の士族に関わった一族であるようだ。

 例えばいま現在僕が住んでいる、山口県山口市江崎2805-1という住所は母の一族が上田というこの下高根地区の庄屋さんから譲り受けた土地らしい。

 僕の母方の曾祖父は原田坂一という。この曾祖父は第二次世界大戦中は上中野という地区にある川西中学という中学校があった辺り軍事教官をやっていたらしい。

 つまり、僕の母方の曾祖父は第二次世界大戦下でこの山口市南部一帯の軍人を育てていた人物のようである。

 この人の妻は原田ちえ。軍人に嫁入りするという事で、養子に入って姓を一旦変えてから原田坂一の嫁になったそうだ。

 この二人の子供は原田昭男。これは僕の母方の祖父に当たる人物である。

 話しを原田坂一について戻すが、この曾祖父は第二次世界大戦において、部隊を率いて戦ったそうである。しかし、中国の支那山西省太原付近で撃たれて戦死したそうだ。

 それからこの原田坂一の妻である原田ちえは未亡人となり、かなり生活に苦労したようだ。

 僕の祖父である原田昭男は原田ちえと二人で戦後を生きたそうだ。

 祖父は第二次世界大戦後を困窮の中で生きたそうだ。

 というのも、戦争で家族を失った者に対する恩赦というのはそれなりに手厚かったようなのだが、何故か僕の母方の家である原田家に対しては恩赦が一時的に打ち切られるという事があり、学校に対して支払う学費が足りなかったりしたようなのだ。

 だから祖父は結局、満足に学校教育を受けられなかったようである。

 また、一応ここで書いておくが、この戦後のこの辺りの土地分与の話でも、この手の奇妙な話があったらしい。

 戦後にこの辺りの土地で持ち主がいなくなった土地などを無料でこの辺りの住民に渡すという事があったらしい。

 その際に祖父は何故かその話を聞かされておらず、教師から後になってその話を聞かされて、あまり使い物にはならない山の土地などを貰った事があるそうだ。

 また、この原田昭男という人物はのちに嫁を貰っている。

 それが僕の母方の祖母である原田千枝子だ。

 この原田千恵子という人物はこの山口市南部の阿知須に住む青木という一族から原田の家に嫁いで来た女性である。

 この原田千恵子という人物は青木家の次女だったそうだ。

 この青木家という家はこの山口市の南部、阿知須辺りの地主の家系だそうだ。

 この青木家の本家筋の人間である、僕の大叔父と大叔母はその昔、山口県下でも屈指の入学難易度を誇っていた、宇部工業高等学校に夫婦共に入学したという優秀な頭脳を持つ家系であったそうだ。

 この青木家というのは恐らくは元々は山口市阿知須辺りの大地主の一族であったようなのだが、僕の大叔父は年老いるまではその頭脳を駆使して土地の売買や維持に成功していたようである。

 ただ、僕が思うにこの青木家という家には少し奇妙なところがあったと思う。

 というのも、その大叔父さんには娘さんがいた。そしてその娘さんは一人娘だったようだ。

 しかし、その娘さんは子供の頃に森永製の粉ミルクを飲んだせいでヒ素中毒になり脳性麻痺になってしまっていたのだ。そして結果として、障碍者となってしまっていた。

 この事案については森永ヒ素粉乳中毒事件という名称で明確に記録に残っているので恐らくは間違いの無い案件だと思う。

 結局のところ、この青木家はこの事案が発生したせいで一族の跡継ぎが出来なかったようである。

 ちなみにこの青木家はその後、河村という家から養子を迎えている。その河村という人はブリジストンに勤務しているようだ。

 ちなみにこの青木家について2010年(推定)の辺りの話を述べておくと僕の大叔父の死後、遺産相続などの話で散々に一族内で揉めた上に、最終的には直接的な血のつながりのある僕の母にはほとんどお金を寄越さなかったということらしい。

 

 

 最後に僕の兄についても述べておく。

 僕の兄の名前は原田和樹という。

 これは僕の三歳年上の兄であり、この原田家の長男であった。

 どうも昔の話を聞いた所、兄は近所の町医者のところに預けられていたそうである。また通う幼稚園なども僕とはちょっとだけ違っていたようだ。

 兄は僕と比べてとても頭が良く運動も出来、容姿も僕より優れていたように思う。

 兄は背が高く、肌が白かったのだ。

 

 

 僕の一族史についてはこのくらいでとどめておくのが良いと思う。

 この文章を読む人は、僕はこういう家柄で育った人間であるという事を心にとどめておいて貰えると幸いである。

幼少時代

 

 

 さて、僕の人生についての話に入ろうと思う。

 先に書いた通り、僕の名前は原田宏樹。

 ただし、ここで言っておきたいのは、僕の幼少時の氏名はそうでは無かったという事だ。

 僕の氏名はもともとは山本宏樹だったのだ。僕は子供の頃は父方の家の姓を名乗っていた。

 

 僕は幼少時代は山口県山口市江崎2805-1にあった原田の家に預けられる形で育っている。

 僕は幼少時代、祖父母の家に預けられながら、近所にある嘉川保育園という所に通っていたのだ。

 僕の幼少の頃の夢はパイロットだった。これについては何故そう思ったか定かではない。

 母方の祖父、原田昭男に肩車されながら、空を飛ぶ航空機を見ながらそう言った記憶がある。

 そして、その僕の空の下には磯山さんの麦畑が広がっていた。

 僕は幼少の時の記憶が結構あって、四つん這いで這いまわりながら手を叩く母方の曾祖母や祖母の元に駆け寄ったりしたことを憶えている。

 また、4~5歳の時、僕は母方の祖母に「人は死んだら無になるの? 死ぬのが怖い」と言った記憶がはっきりとある。その際の祖母の何故だか歪んだ顔も今もまだ覚えている。

 祖母はそれを聞いて、僕に対して「この子はおかしな子だ」と、はっきり言っていた。

 なんにしても、僕は少し早熟な子供だったようで、あまり泣かない、手のかからない子供だったそうだ。

 

 

 ここで一応語っておくと、僕が幼少時に過ごした祖父母の家の環境がどうだったか、と言えば、これはあまり良くなかったと言えるだろう。

 例えば、僕の母方の原田の家には奇妙な風習があったのだ。

 僕の母方の祖母は僕の母方の祖父と会話をした際に、会話の末尾を「よいよ好かん」という言葉で締めていた。これは山口弁であり、標準語に直してみると「本当に嫌い」というものである。

 いかに僕の祖父母が異常な事をしていたかというのがこのことからわかっていただけると思う。

 

 

 また、この祖父母の家は周辺の交通環境も恐ろしく悪かった。

 僕の祖父母の家の住所、山口県山口市江崎2805-1の住所の西側には大きなバイパスが通っていた。

 この道路は正式には国道二号線と呼ぶ。そして、その国道二号線からは「パァン!」という、銃声のような炸裂音がいつも聞こえていた。

 この国道二号線の道路は路面がろくに舗装されていないことから、小石がアスファルトの隙間に挟まり、それを巨大なトラックの車輪が踏みつけて、非常に大きな騒音が発生してしまっていた。

 また、トラックを動かしているディーゼルエンジンの機構上の問題から炸裂音がすることだってあったようだ。

 さらに言えば、この原田の家のすぐ東側には山陽本線が通っていた。

 この辺りは夜になると、その山陽本線の上を巨大な貨物列車がおおよそ1時間ごとという感覚で走り続けるのだ。しかも、もともとはこの原田の家は木造住宅だったので、その貨物列車が走行する振動で家自体が揺れたりもしていたのだ。

 だから、僕はこの祖父母の夜で泊まる際にはろくに睡眠を取れていなかったのだろう。

 つまるところは僕が幼少時に育ったこの土地は大騒音地帯だったののである。

 この環境というのは、ストレスが多く溜まる環境である。

 だからだろうか、僕はおねしょの回数は多かったようだ。

 

 

 また、家の対人関係はどうだったかと言えば、こちらの方も劣悪であった。

 これは、そもそも僕の母方の家の原田家と父方の家の山本家というのが、あまり仲が良くなかったからだ。

 例えば、僕にその記憶は無いのだが、僕は渡辺家から来たという父方の祖母にお菓子を餌に誘拐されたことがあるらしい。

 その父方の祖母はよく僕の母をなじったそうであり、母はそのせいで山本家の人間を苦手としているようだった。

 僕の両親は普段からよくケンカをしていたが、家の事でもいつも揉めていたと思う。

 

 

 さて、僕は幼少時、この原田の家から近所にある嘉川保育園という教育機関に通っている。

 これは正法寺という浄土真宗のお寺に隣接した形で建立された保育園であり、仏教系の教育も児童教育に取り入れていた。

 よって、この嘉川保育園は時折隣接する正法寺の僧などと共にお経を読む機会などが設けられていた。そこに通う児童達はそのお経をそれなりに暗唱していたと思う。

 ちなみに僕は、この嘉川保育園に通っていたとき、ときどき途方も無い恐怖感に襲われる時があり、よく保育園を脱走して、すぐ近くにある祖父母の家に逃げ帰っていた。

 今となっては、僕が何故保育園を脱走していたのかという事は容易に検討が付く。

 単純に言えば、この嘉川保育園の環境が悪かったからだろう。

 

 

 例えば、この嘉川保育園には非常に危険な遊具があった。

 僕はそれについて明確に覚えている。

 その遊具は南側の木造校舎の西側の脇辺りに存在していた。

 それは大きな一本の丸太を横たえて、その両端を上から紐で吊り下げているだけの遊具であった。そして、その丸太の両端の先には、大きな丸太が地面に打ち立てられていたのだ。

 その遊具というものは、その紐で吊り下げられている丸太の両端に保育園児複数人が乗って、紐を持った状態で乗っている皆で腰を振ることで吊り下げられている丸太を動かすのだ。

 すると、その吊り下げられた丸太は動き、その丸太の前に打ち立てられている大きな丸太に対して、まるで鐘を木で打つように打ち付けることになっていた。

 いまにして思うと、この遊具は年端もいかない幼児複数人が遊ぶには危険すぎる遊具である。

 この遊具は丸太同士の接触により下手をすれば死亡事故が発生する可能性がごく普通に存在していたからだ。

 そして、この遊具を使用して遊んだ場合には大きな音と強い衝撃が発生することから、多大なストレスが幼児達に襲いかかるわけだ。

 しかも不味いのが、その遊具で遊んでいる園児達の股間が丸太によっていつも摩擦されているのである。これは非常に問題がある仕様であったと言わざるを得ない。

 言うまでも無いが、年齢によらず、人間という生き物は強いストレスがかかると繁殖欲を刺激されて性欲が強くなってしまうのだ。

 例えば強烈なストレスがかかったときに、股間部分に刺激を与えられると、例えばそれが保育園児という凄まじく性的に未熟な段階でも性について目覚めてしまうという異常事態が発生する可能性があるわけだ。

 この遊具については、僕が保育園年長組の時、保育園側が〝さすがに危険だから遊具を撤去しよう〟という話をしだし、実際に撤去されたと思う。

 それからこの嘉川保育園には大きなクヌギの樹が立っていた。そのクヌギの樹はいつも樹液を垂らしており、その樹液にはよく巨大なスズメバチが群れ集っていた。

 僕はよく保育園に置いてある虫取り網を使ってはその巨大なスズメバチを捕まえて殺していた。それが危険だと祖父から教えて貰っていたからだ。

 

 そして、この保育園がそんな劣悪な環境だったせいだろうか。

 やはりというべきか、この保育園の対人環境もまた劣悪であった。

 例えば、この保育園では突然泣き崩れて小便を漏らす同級生の少女がいたり、家庭環境に問題のある子供が多かった気がする。

 それからこの保育園は勤務している保母さん達もなかなか凄い人が多かったと思う。

 例えば、田中公貴という僕の幼馴染みが虫歯になってしまった事がある。

 その際に、アリヒサという音の姓の保母さんが田中公貴の口の中に手を突っ込んで、突然虫歯となった乳歯を引っこ抜いたのだ。

 そしてアリヒサという音の姓をした保母さんは僕たちにこう宣言したのだ。

 「皆さん、虫歯になったら私がその歯を引き抜きますからね」と。

 これは僕が年長組の頃の話だと思う。

 というのも、確かこれが嘉川保育園の南側にある一階建ての木造校舎で起きたことだったからだ。

 嘉川保育園では一番年長の子供たちはこの南側の木造校舎に通うことになっていたのだ。

 

 

 また、僕が保育園に通っているときに起こったことで、よく覚えている事がある。

 それはかけっこである。

 僕は走るのが結構早かったのだが、突然、知りもしない保育園の少し下の学年の男の子に「足早いんだって?僕と競争しようよ」と言われ、競争するはめになって、僅差で負けた。

 それ以来、僕は運動するのが嫌いになったような気がする。

 

 

 また、僕が嘉川保育園に通っていた時は、帰宅パターンが二種類存在した。

 まず一つ目は、保育園が終わった後は、祖父母の原田の家に帰宅して、そこで父か母が車で迎えに来るのを待ち、父か母が迎えにきたら上渡りという地域にあった両親の家に帰るというパターン。

 この際に、一応書いておかなければいけないのが、父や母が迎えに来る時間というのがまちまちであり、しばしば酷く遅れてしまっていた、という事であった。

 そして二つ目は、父や母が直接保育園まで僕を車で迎えに来て、上渡りにある両親の家まで僕を連れて行くというパターン。

 こちらのパターンはそこまでたくさんはなかったと記憶している。

 ちなみにこれは余談ではあるのだが、母が僕を保育園まで迎えに来ていた際、母が駐車場に止めていた車が何者かの車に接触事故を起こされてしまったことがあるらしい。

 この際は保育園の先生が現場を目撃していた為、母が車の修理費用を払う必要は無かったそうである。

 僕は基本的には祖父母の原田の家に預けられていたのだが、いつも夜寝るのは僕の両親の家だった。

 この家は上渡りという地域にあったのだが、実はこの家のすぐ近くにも山陽本線が通っていた。

 恐らくは僕はそのせいで、幼少時から常に睡眠不足だったのだろう。

 しかも、当時の僕は両親が住んでいた上渡りの洋風の家と、祖父母が住んでいた下高根の和風の家、どちらが自分の家なのかいまいち認識できていなかった節があった。

 こうしてまとめてみると、僕の幼少時代の人生は最悪だったと言えるだろう。

 周辺環境と対人環境、いつだって凄まじいストレスに晒されていたのは間違いがない。

 生きていて全然楽しくなかったのではないだろうか。

 

 

 ここで語っておかなければならない事がある。

 これは当たり前なのだが、人間はストレスが多い環境で生活すると生存本能が刺激されてしまい、性欲が強くなってしまうのだ。これは成長が未熟な段階でも言える事である。

 ここではっきり言っておくと、僕が初めて自慰行為を行ったのは保育園年長組の6歳辺りの頃である。

 僕は祖父母の家のコタツの中で床に陰茎を押しつけると、気持ち良くなることに気が付いたのだ。 僕は6歳くらいの時にその自慰行為に目覚めてから、床で自慰をするのが癖となった。

 そして恐らくはそのおかげで僕は仮性包茎となった。

 ちなみに僕の家系の男というのは性器が全員包茎ではなかったし、陰茎は巨大であった。

 そのせいで、僕は自身が仮性包茎であるということに対して、物凄いコンプレックスを抱えてしまっていた。

 

 

3 小学生時代

 

 僕は嘉川保育園を卒園後、近所にあった興進小学校に進学した。

 そして、僕の記憶というのはこの辺りから上渡りにある家の事が多くなってくる。

 これは、つまりこちらの家から興進小学校に通うという機会が多くなったせいだろう。

 当時、僕が住んでいた上渡りの家には、二階の廊下に大きなピアノが設置されていた。

 母はよくそのピアノを弾いて階下まで西洋音楽を鳴り響かせていた。

 僕と兄は幼少時から常盤公園の辺りで教室を開いている、荻野先生の所にピアノを習いに行っていた。その荻野先生という人は母のピアノの師匠だったのだ。

 そして、父はと言えば、パーソナルコンピューター(以下パソコン、pcと表記)に凝っており、pc88シリーズ等、初期のパソコンが父の書斎にはいつも複数個転がっていたのをよく覚えている。

 ただし、この時のPCのシリーズについての記述については正しいかどうかはわからない。

 それがpc88だったのか、pc98だったのかという事はいまいち記憶があいまいなのだ。

 例えば僕は、この上渡りの家で子供の頃、父と兄と僕で三国志をPCでやった事がある。

 その際に戦争ばかりやりにいく僕に対して父と兄が「内政をしない奴は馬鹿だ」とひたすら説教をしていたのを僕はよく憶えている。

 そして、この三国志はpc98シリーズのものだったと僕は記憶している。だから、どちらかと言えば家の中に転がっていたpcはpc98シリーズのものが多かった可能性が高いと思う。

 

 

 ちなみにこれは余談なのだが、父の話だと、当時この辺りの地区の教育現場にマッキントッシュのPCを導入したことがあったそうだ。

 だけど、マッキントッシュPCの爆発が頻発した結果、結局の所、導入されたのはウィンドウズPCとなったらしい。

 今にして思うと、父はウィンドウズよりもマッキントッシュの方が好きだったのではないだろうかと僕は考えている。

 僕が子供の頃から、僕の父はPCのパーツを買ってきてはPCを改造していた。

 そして、PCを新しくすると決まって僕に海外製のフライトシミュレーターなどやらせるのだ。

 僕は父が買ってきた操縦桿のコントローラーなどを使って僕はそのフライトシミュレーターをやった。そして僕はいつもそれをプレイしてこういうのだ。「このゲームさぁ、駄目だよ。フライトシミュレーターって糞つまんねぇ。駄目だよ、父さん、これ」と。

 僕の父はそれを聞いて「そうか」と笑っていたと思う。

 

 

 これらの事から、子供の頃の僕からすると、僕の両親というのはヨーロッパ主義一辺倒に見えていた。

 両親は実際に洋風のレストランなどに僕と兄を連れて行っていたし、その上渡りの家の前にも洋風の植物が植えられていたりした。

 また、父は僕が小学校に通っている頃に、ヨーロッパに山口市の教員らと共に研修旅行に行ったりもしていた。子供の頃の僕にはそれが先進的な事のように感じられ、その辺りは少しだけ誇らしかった。

 また僕は子供の頃から両親にテレビゲームをよく買って貰っていた。そしてそのテレビゲームを上渡りに住む近所の子供達と一緒によくやっていたと思う。

 

 

 この小学校時代における僕の交友関係について、少しだけ触れておこうと思う。

 僕が子供の頃に親しかったのは中村悠という少年である。

 この子は北海道出身のデザイナーを父に持ち、小郡辺りの不動産系列の家系である母を持っていた。

 この子とは家族ぐるみで仲が良く、僕はこの子の家に学校帰りの夕方になるとこの子の家に寄り夕食の時間まで一緒に遊ぶ事が多かった。

 そして日曜などは朝から遊びに行くことも多かった。

 中村の家は少しだけ変わっていた。物凄くグラマーな女の人のヌードの絵が壁にいっぱい貼られていたのだ。これは多分、中村悠の父が描いたものだったのだろう。

 僕は朝方八時に家に遊びに行くと、中村悠とその弟のシュン(漢字はわからず)と一緒にテレビで戦隊モノを見るのが常であった。

 中村悠の父親はデザイナーという職業のせいだろうか。生活リズムが不規則で昼過ぎに起きてくることがほとんどだった。中村悠のお父さんは家の三階部分で仕事をしていた。

 僕は一度だけ、この中村悠の父親に迷路などの簡単な絵を描いて貰って、遊んで貰ったりしたのをよく覚えている。中村悠のお父さんはとても良い迷路を作っていた。

 僕は今にして思うと、僕が中村悠の家に訪問していたのは迷惑だったのかな、と思わなくもない。

 だが、のちに高校時代、小郡に引っ越した中村悠のお母さんと会ったときの話からすると、そこまででもなかったようである。

 中村悠のお母さんに「また遊びに来てくれないですか。息子の部屋が不良の溜まり場になって困っているの」と言われたのだ。

 だから多分、僕が家に行っていたのは、不良が家に来るよりはマシだった可能性は高い。

 

 

 もう一人、僕の小学生当時の友人について記述をしておく。

 それは原田拓という人物についてである。

 この人物は僕が幼稚園年長(ひまわり組)の時に、東京から転校してきたのだ。これは母方の祖父と同じ姓を持つ人物だった。

 この原田拓という人物は明らかに問題児であった。彼は明らかにやんちゃな性格をしており、よく周囲の人間をいじめたりしていたのだ。僕の同級生は大体の人間がこの原田拓にいじめられた憶えがあるのではないだろうか。そして僕もその例外ではない。

 彼は引っ越してくるなり、僕たちの学年のガキ大将になっていた。

 僕はそれを見て「なんか、祖父母の家の姓の奴がガキ大将になったよな」と妙な感覚を得てしまっていた。

 僕はこの原田拓という人物に当時飼っていたコナンという名前の犬を橋の上から橋の下の川まで放り投げられしていた。また僕が所有しているゲームソフトを無理やり貸し出されたりもした。

 ただ、僕はこの原田拓という人物がそんなに嫌いでも無かった。

 この原田拓という人物は東京から来たせいか、いかにも都会慣れした悪ガキ、という性質を持っており憎めない所もあったのだ。

 それに彼は、ファイナルファンタジー女神転生など、東京にあるゲーム会社のソフトを色々教えてくれたのだ。僕は「東京から来た原田拓は凄い。本当に色々凄いゲームを知っているな」とちょっと感激していた。

 それに、この原田拓という人物はいまいち家庭環境が良いとは言えなかった。

 僕は彼の家に遊びに行った際、彼の両親がケンカをしているのを何度も目撃していた為、いまいち彼を嫌うことが出来なかった。

 

 

 僕が通っていた興進小学校について、ここで少しだけ語っておく。

 この興進小学校という小学校は山口県山口市江崎2284にあったようだ。

 この小学校は裏山にある遊具がかなり特徴的であったと思う。

 ロケット滑り台、ジャンボ滑り台など、あまりにも巨大過ぎる滑り台が二つも設置されていた。

 そのうちのジャンボ滑り台は滑り台の中腹辺りが壊れてしまったまま放置されており、滑ると足を切り刻まれた。だから、この遊具を使用する際にはかなり注意をしながら滑りおりなければならなかった。

 また、裏山の中に設置されていた、一人ロープウェイは相当に凄かった。

 これは縄を木と木の間に結んで、その縄に取っ手を取り付けた、非常に簡単な遊具である。

 この遊具で遊ぶ者はこの取っ手を掴んで縄を滑り降りるわけなのだが、ここで問題が発生していた。

 この遊具、実は速度の計算がなされていないのである。

 だから、何も考えずにこの遊具を使用し縄の終着点にたどり着くと、勢いがありすぎて体が回転してしまうのだ。

 この遊具に慣れている人間は終着点で頑張って足を出して、摩擦によって勢いを殺すのだが、それが出来ない生徒達はしばしば空中に放り出されたり、回転して樹に激突してしまっていた。

 この興進小学校はどうも裏山の遊具に強烈なストレスがあったようである。

 

 さて、興進小学校の授業の方はどうかと言えば、これもなかなか酷かった。

 僕たちの学年には新たに榎田兄弟という双子が転入してきていた。

 そして、この二人が筆頭になり担当教師などを攻撃したりして、ときおり授業が崩壊していたのだ。

 ちなみに僕の小学校の頃の成績はかなり上の方だったと思う。

 テストをやると、たいていは満点だった。

 ただし、僕の父は僕がテストで100点以外を取ると途端に不機嫌になった。

 だから、僕はテストで80点以下を取ってしまったときは、テスト用紙を机の中に隠してしまっていた。

 また、小学校低学年の時には僕は習字がちょっと上手かった。

 何故か『水』とか『氷』という字が極端に上手く描けたりしていたのだ。

 ただし、それについて周囲から「真似てるだけ」と言われたような記憶がある。僕にはそれが非常に理不尽な指摘であるように思えた。

 というのは、この小学生当時の習字というのは見本を見ながら書くのが一般的だったからだ。

 そもそも授業で見本を見ながら字を書いていたのだ。だから、僕はその指摘はわけがわからないと感じてしまった。

 

 

 そして、ここからが僕の小学生時代の核心部分になるかもしれない。

 これは僕が小学校5~6年の時の話である。

 この当時の僕の学年の担当の先生は、江頭啓之という先生だった。

 父から後程聞いたところによると、この江頭という先生はどうも共産党系の人だったらしい。

 この先生はギターを学校に持ってきては、授業中にも関わらずそれを弾いたりしていた。弾いていた曲目は怪獣のバラードである。

 それからこの先生は社会の時間に金印のレプリカを持ってきて、「金印の本物を持ってきた。僕は偉い人と仲が良いから特別にだ」等の嘘を付いていた。僕は純粋だったため、それに騙されたりしたのをよく覚えている。

 それからこの先生は〝パーフェクト〟、という英単語と〝完璧〟、という日本語を組み合わせて〝パーペキ〟などという、よくわからない造語を作った。

 そして「僕が好きだから、みんなこの造語を使っていこう」などと、よくわからないことを言っていた。

 またこの江頭という先生が機嫌が悪くなるとすぐに授業放棄する人で、田中公貴という僕の同級生がよく泣きながら「お願いだから授業をしてください」と言っていたのも憶えている。

 僕はこの先生と仲が良かったような気もするし、仲が悪かったような気もしている。

 僕はこの先生に通信簿の生活面に『歩き方が偉そう』と書かれたりしたのだ。

 僕は小学生のとき、その記述を見た時は「何言ってんだ、この人、歩き方が偉そうって言われてもな」と思ってしまった。

 ただ、現在の僕からすると、「ああ、これは実は相当に重要なアドバイスだったのかもな」と思っている。

 この先生には実は2人の娘さんがいたと思う。

 そして、この辺りは記憶が定かではないのだが、僕がこの先生に教えて貰っている間に、どちらの娘も脳腫瘍などの大きな病気にかかってしまった。

 そのせいで、江頭先生は学校を休みがちになった。その結果として僕たちの授業の進行も大幅に遅れていった。

 その代理の先生として磯崎信子という教師が僕たちのクラスの担当として赴任した時期もあった。

 しかし、この磯崎という先生は問題児が多すぎる僕たちのクラスをまともに受け持つことが出来なかった。

 結果としてはこの先生は学校に来なくなってしまい、僕たちの学年は誰も担当の先生がいないということになってしまっていた。それは期間にして半年程度だっただろうか。その間の僕たちの学年の授業は自習になってしまっていた。

 そのことについて、当時の僕の同級生である田中公貴という同級生が「大丈夫なのかな、俺たち、全然勉強してないけど」と、よく不安がっていたのをよく憶えている。

 後々、中学校に上がったあたりで、利重貴浩や田中公貴という、興進小学校時代の友人と一緒に、「あの小学校5年、6年が不味かったよな。あれで俺たちみんな落ちこぼれになった」と話したのをよく憶えている。

 

 

 この辺りで、僕の小学校時代に家に起きていた奇妙な事に付いての記述をしておこうと思う。

 僕の父は僕が小学生の時、小学校の教諭を辞めて、一時的に社会党員として活動をしていた事がある。

 そしてその時期に物凄い奇妙な事が僕の家では連続して起こっていた。もう滅茶苦茶であったと言っても良い。

 例えば僕の家にはやけに電話がかかっていたと僕は記憶している。

 そして、その電話というのがいざ取ってみると無言電話だったなど、妙な事が多かった。

 父はそのうち、電話がかかってくるだけで機嫌が悪くなった。父は最後には家に僕が友人達を呼ぶだけでうるさいと不機嫌になるようになった。

 それから家族でレストランなどに食事に行くと、いつまで経っても僕の家族の所には食事が運ばれて来ないことなどもあった。

 そもそも父などが僕たち子供を乗せて車を運転している際に、妙な運転を仕掛けてくる車も多かった。父はよくそういう危険な運転に遭遇しては、車のハンドルを殴って「くそっ!」などときつい悪態を付いていたのだ。

 ちなみにこの辺りでこの僕たち家族が住んでいた上渡りの家に空き巣が入り金を盗まれた、という事件があったそうだ。

 また、この上渡りの家には砂場があったのだが、その砂場が凄まじい量の猫の糞まみれになってしまったことがあった。

 僕は父にそれを知らせたのだが、父は「ニッキーがしたのにしては量がちょっとな」と神妙な顔で呟いていた。

 

 

 そしてそんなことがあったせいだろうか。この辺りの父は相当に苛立ちを募らせていたと思う。

 父はよくタバコを吸っていた。煙草の銘柄はキャビン。一日に二箱。

 そして、僕はそのタバコの副流煙が原因でよく鼻炎を起こして正常に呼吸が出来なくなっていた。

 

 

 昔の事を思い出してみると、父はいつも怒っていたような気がする。

 僕は僕の兄がいつも父に怒られていたような気がするのだ。

 例えば兄は学校行事の行進の際、歩く動作が右手と右足が同時に出るなどして普通に出来なくなっていた。これは典型的な強迫症の症状である。

 そしてそれを見た父はさらに兄を叱るのだ。僕の家の家庭環境はいつも最悪だったと言っても良い。

 

 

 ここで重要な事を書いておかなければならないと思う。

 前述したとおり、僕の父はどうも、僕が小学生の辺りの時期に教師を休職し、社会党員をやっていた。

 そして、これは後で聞いた話なのだが、父は社会党の研修か何かの折に、朝鮮半島の38℃線に土井たか子と共に行ったこともあるそうなのだ。

 僕がこういう風にちょっと曖昧に記述をするのには一応理由がある。

 なんというか、父にこの辺の所を聞いてみても、どうも話を誤魔化されてしまい、微妙に情報が定かでは無くなってしまうのだ。

 ちなみに僕が25歳くらいの時に、兄と共にその件について問い詰めると、父は「土井さんは可哀想な人なんだよ」とはっきりと擁護していた。「朝鮮人の血が流れる自身の事を肯定できないというのは可哀そうだ」と、父ははっきりと言っていた。

 しかし、僕が35歳の時にその件に関して聞いてみると、「俺は社会党員では無かった」とまで父は言ったのだ。これはかなり意味不明であると言っても良い。

 僕が父の感情を察するに、父はどうやらこの辺りの事を語るのが、怖いとか後ろめたいとか、そのように思っているようだった。

 この父の持つ後ろめたさとか恐怖感については僕もなんとなく理由を察してしまう。

 この父が社会党員として働いていた当時は、アメリカが日本の社会党のことをコミュニストの政党が日本の主権を握った、という見方をしていたのだ。

 しかし実際の所、父が目指していたのはただの教育改革であり、日本の教育制度をドイツ型の教育制度に変える、ということであった。

 父は決して共産主義思想を体現しようとしていたわけではなく、政治的には右派社会党を当時は自認していたと思う。

 しかし、父の思想を当時のアメリカ合衆国がどう見ていたのかという点は僕にはわからない。父の恐怖感がその辺りの事情に絡んでいるのではないかと僕はなんとなく推測している。

 ちなみに、この社会党時代には父の親友が若くして癌で死んだそうだ。

 僕はその辺りのタイミングで家族旅行に行ったのだが、その旅行先で父が夜に泣いていたのを見たことがあるのだ。

 

 また、ちょうどこの辺り、僕の母方の祖父は鬱病になっている。

 それはだいたい祖父が50歳くらいの時だそうだ。

 僕の母方の祖父である原田昭男は、もともとは農林水産省出先機関の公務員として、この辺の稲の検査等していた。

 だが、この辺りの時期に山口県の中央の方の機関に出向することになったらしい。

 そして、そこで僕の祖父が一緒に仕事をすることになったのが、いわゆる高学歴の公務員ということだったようだ。

 結局、祖父は能力が足りなかったのかもしれない。その新しい職場で、祖父は窓際の部署に追いやられたということのようである。

 それから祖父は鬱になってしまいしばらく寝たきりになってしまったそうだ。

 家に引きこもってろくに仕事にも行かなくなってしまったらしい。

 これについては多分、祖父の学歴コンプレックスが刺激されたせいだろうと僕は思っている。

 前述したとおり、実を言えば祖父は昔、戦争の恩赦をなぜか貰えない事があったせいで、学校に通う事が出来なかった。つまり祖父はそのせいで、学歴に対してコンプレックスを持っていたのかもしれないのだ。

 もちろん、祖父が本当の所、何故鬱病になってしまったのかは僕にはわからない。

 だが、僕は祖父は学歴へのコンプレックスが原因で、鬱病になってしまったのではないかとどうしても考えてしまうのだ。

 

 

 そしてこれは、僕の小学校時代の最後の方の話である。具体的に言えば、1995年辺りの話だ。

 この辺りの時期に、僕たち一家は上渡りに建てていた家を売り払い、下高根に新しく家を建てて引っ越しをする事になった。これは下高根にあった祖父母の家を取り壊してその上に新築の洋風の家を建てるという事だった。父がそれを希望していた。

 下高根に新築した家は積水ハウスによって建てられた家だった。

 父は積水ハウスの営業である山根という人と一緒に家の設計等をして家を建てていったようだ。

 それは、とても大きくてとても高額な家で、当時の価格として借金の利子込みで五千万円程度の金額がしたそうだ。

 新しい家は洋風の二階建ての大きな家だった。

 僕は、僕と兄にそれぞれ個室が出来たということは喜んでいた。

 だけど、兄はこの引っ越しを全然喜んではいなかった。

 兄は「あの百年続いた和式の家を潰すなんて」というようなことを言っていた。

 下高根にあった祖父母の和式の家は明治時代に建てられた家であり、歴史がある家だったのだ。

 

 そして、この新築の家に引っ越した辺りで僕の名字は山本から原田になった。

 これは僕たち家族が祖父母の世帯と同居することになるので、原田の家に父が婿入りという形になるから、という事だった。

 何故そういう事になったのか、その理由はわからない。

 これまでに僕が書いた通り、この辺りでは相当に妙な事が僕の家族の周囲では起きまくっていたので、その辺りが原因ではないかと僕は思っている。だが本当の所はよくわからないのだ。

 僕は父が住所と姓を変えることで、何か家族に妙な事が起こらなくなるかもしれないと期待したのかもしれないと考えている。

 だがしかし、父はこのとき逆の事を考えていた可能性もあるなとも僕は今では思っているのだ。

「これって、姓が山本から原田になったら、もっとひどい事が起こるのかな?」

 この時の父は、そういう事を考えて、わざわざ姓を変えたのではないか。

 僕は後になってこの時の事を振り返って、そう思ったりもするのだ。

 

 さて、下高根の住所に新しい洋風の家は完成した。僕たち家族はその家に引っ越した。

 そこで、いきなり問題が起きた。

 父はこの家の建築時に母方の祖父母に和室を用意していたのだが、祖父母はその和室に住むことを拒み、まだ潰されていなかった和風の長屋に住み始めてしまったのだ。

 僕は少しだけこの展開については思う事がある。

 実を言えば、僕のこの新しい家はちょっと和室辺りの仕組みに妙なところがあったのだ。

 というのも、この家は二階が僕の両親と子供達の寝室になっていた。そして、そのせいで二階部分にトイレがあったのだが、そこの水を流すと一階の和室の脇辺りにある排水管が大き目の異音を鳴らす仕様になっていたのだ。

 つまり、例えばここで祖父母が和室に住んだとしよう。そして僕の両親と子供達が二階で睡眠などを取ったとしよう。

 それで、僕たちが夜中に起きて、トイレを使用して水を流してしまうとする。そうすると、和室で寝ている祖父母を起こすような仕組みになってしまっていたのである。

 もちろん、この事を祖父母が分かったうえで同居を断ったのかどうかということはわからない。

 ただ、僕はどうもこの家の仕組みのそこかしこに、こういった悪意を感じたのである。

 なんにしても、それから祖父母と両親は食事の時のみ一緒に過ごすようになった。

 ただし、食事の際、祖父母の口数は異様に少なく食事の席では両親ばかりが会話をしていた。

 それが子供の頃の僕にはとても奇妙な事に感じられた。

 

 実を言えば、この新しい家には他にもいろいろ問題があった。

 その問題の筆頭が大量のゴキブリだろう。

 この下高根に新しく建てた家は、大きなゴキブリが大量に出たのだ。

 そして、それにつられてアシダカグモという不気味な巨大クモも大発生した。

 この二匹は動きがとても早く相当に生理的な嫌悪感を煽られた。

 僕は特にゴキブリの方が苦手だった。高校時代、朝起きると瞼の上にゴキブリが乗っていたとか、そういった事も起きてしまっていたからだ。そのせいで僕は今でもゴキブリに対して生理的嫌悪感がある。

 ただ今にして思うと、そもそも、何故あんなに新築の家にゴキブリが出ていたのか、その理由はわからない。

 夜になると1階のほとんどの部分で見かけるという悲惨な有様だった。特に台所がもう本当に酷くて、夜行くと、ごく普通に最低でも10匹程度は這いまわっている状態だった。

 僕はいまでも思うのだ。「なんでこのとき、母さんはゴキブリを駆除しなかったんだろう」と。

 ブラックキャップなど、ゴキブリをまとめて殺してしまう手段なんて、その当時にはたくさんあったのだ。でも、母はそういうゴキブリ対策をあまりしていなかった。

 母はあのゴキブリまみれの台所で、夕食を食べ終わった後の皿などを洗っていたのだろう。

 僕は母がこのとき、何故わざわざそんなことをしていたのか、ときどき不思議に思うのだ。

 

 

 ちなみに、2019年3月に僕は父にこの家のゴキブリの大量発生について聞いてみた事がある。

 すると父は、この下高根に建てた家には施工時にゴキブリ対策の溶剤をしっかりと撒いて欲しいと積水ハウスに要望していたらしい。

 しかし、現実にはこの家はゴキブリまみれになってしまっていたのである。

 僕はもしかして積水ハウスが適当な仕事をしたのかもしれないと、今では思っている。

 実を言うと、父はこれまでに住んでいた上渡りの家にもゴキブリ対策の薬を撒いていて、それがちゃんと効果を発揮していたからである。僕は上渡りにあった家ではゴキブリを全然見たことがなかったのだ。ちなみにこの上渡りの家を建てたのも積水ハウスである。

 この辺りの事から、僕は「ゴキブリ対策の薬を蒔いたけど、それが利きませんでした」という理屈は通らないと考えている。確かにこの下高根の家のすぐ近くには古ぼけた長屋が建っていた。そしてそこに少しはゴキブリもいたのだろう。

 だが、積水ハウスがゴキブリ対策の溶剤を本当にこの家に撒いていたのだとするならば、この家でゴキブリが大量発生してしまうのは流石におかしなことなのだ。

 

 

 また、父曰く、この家の仕様というのは明らかにおかしかったそうだ。

 そもそも、この家のデザインというのは僕の父がやったらしい。というのも、僕の父は家のデザインを自分でしてしまう人だったのだ。

 それで、父はデザインをする過程で、家の中の電源の配置や個数については、いろいろと積水ハウス側に注文をしていたそうだ。

 しかし、実際に家が出来上がってみると、その電源の数や位置が提出したデザインとは全然違ってしまっていたそうだ。

 このように、この家は、そもそも最初から、かなりおかしな造りをしていたようだ。

 この家に関しておかしなところはこれだけというわけでもなく、本当に色々とあったと思う。

 まず、この新しく出来た家はとにかく防音性能が極端に低かった。

 先に述べた通り、この下高根の家の辺りは大騒音地帯である。山陽本線の貨物列車、それから国道二号線を通る巨大なトラック、これらが引き起こす騒音というのは常識の範疇を超えていた。

 それなのに、この下高根の家はとにかく防音性能が低かった。異様に低かった。

 そもそも、この家は出来たときからドアの様子がおかしかった。

 この家は、ドアを締めきってみた際にそのドアの上下左右には隙間が大きく空く仕様になっていたのだ。

 そして、そこからは本当によく音が漏れていた。例えば二階で誰かが寝ているときにさせるいびきが一階の和室まで聞こえてしまったりするのである。

 それに、この家のドアはすぐに壊れた。二階のトイレのドア、それから食堂と風呂のドア、この辺りは家を使い始めてから、すぐに下の床部分とドアの下部が接触するようになってしまい、まともにドアが開かなくなってしまっていた。

 さらに二階の洗面所の引き戸は、一見しただけでおかしいのがわかってしまう仕様になっていた。

 この洗面所のドアの引き戸というのは寸法の計算が狂っているのか、引き戸を締めても引き戸と壁の間に1cmも隙間が空いてしまっていたのだ。

 また、この家はドアだけで鳴く、窓の防音性能も極端に低かった。夜、山陽本線の貨物列車がこの家の付近を通過すると、怒号のような騒音が家中に鳴り響いていた。

 しかも、そういった状況なのに、部屋にはやたらと窓が付けられていたのだ。

 その窓はまるで、外の音を取り込むために設置されているようだった。

 さらに言えば、この家の窓というのは特殊な規格のサイズをしているようだった。そのせいで、積水ハウスの業者を呼ばなければまともに窓も拭けない設計になっている部屋もいくつか出来てしまっていた。

 それから部屋のドアノブ方向もおかしかった。ドアノブが右側についているのか左側についているのか、相当に適当に作られているような感じだった。

 またクローゼットの中にある棚などは、その配置が左右対称ではなかったりした。

  それから、特筆すべきはこの家の二階に備え付けられているベランダだろう。このベランダの手すりはもう相当におかしなことになっていた。

 例えば雨が降ったりすると、すぐに雨粒がベランダの手すりにたっぷり溜まってしまうのだ。

 これはもう明らかに欠陥住宅の証明だろう。雨が手すりに溜まるように設計されてしまっているのだ。

 このせいで、この家はベランダで布団を干すことが相当に困難になっていた。

 

 

 

 

 僕はこの小学生の頃に建てられた家というのが欠陥住宅であると考えている。

 そのため、これらの問題に関する録音や録画などの物的証拠はもう作ってあり、それをウェブ上にアップロードもしている。

 僕がここで書いている事は決して妄想の話ではないのだ。

 

4 中学校時代

 

 さて、興進小学校を卒業して、いよいよ中学校へと進学である。

 僕は家から一番近い市立の中学校である川西中学校に進学した。こちらの住所は山口県山口市嘉川4352-2。

 まず、この川西中学校で特筆すべきことと言えば、通学の為の交通手段であろう。

 僕の家というのはこの川西中学校から何故かギリギリ自転車通学を許されない距離に建っていた。だから、僕は毎日30分程度歩いて学校に通う事になった。

 川西中学校は道路の前に建っていた。また、教室には当然のことながらクーラーなどは付いていなかった。だから夏場などは窓が開け放しになっていた。窓の外からは車の走行音やクラクションなどがいつも聞こえる状態になっていた。

 川西中学校での授業などに関しては特筆すべきことはそこまでない。

 ただ、僕はこの辺りで父からある指導を受けている。

 父は僕が授業中に取っていたノートを見ながら、こう言ったのだ。「これ、ノートさぁ、お前見直してないだろう。見直してないなら、ノートを付ける必要なくないか?」と。

 僕はそれに納得してしまった。僕はノートをまったく見直していなかったからだ。

 だから僕は、それからの授業中は出来るだけノートは取らずに、黒板の板書や教科書を見ながら、内容を憶えるようになっていった。

 で、肝心の勉強の方はと言えば、僕は中学校の最初の方は成績が悪かった。

 これは興進小学校の高学年時の先生の不在が効いていたのだろう。単純に僕たち興進小学校出身の生徒達は勉強が遅れていたのだ。確か中学校の最初の中間試験の順位が30番とかその辺りだったと思う。

 ただ、その後、僕は試験前に勉強するようになったのだ。具体的には教科書を流し見するようになった。これはとても大きかった。これまで家で勉強をしたことがなかったからだ。恐らくはこの勉強方法を世間一般的には一夜漬けと言うのだろう。

 僕は中学校時代、試験の前には一夜漬けをするようになったのだ。

 すると、試験の結果が大体上の方の順位で安定するようになった。

 基本的に中学校で定期開催されていた中間試験、期末試験共に学年で14番から2番の間の順位だったと思う。

 ただし、正直なところ、僕は勉強には全然興味が無かった。

 中学時代の僕はPCやゲームに夢中だった。僕はもうこのときには将来、ゲームクリエイターにでもなろうと思っていたのだ。

 

 一応、ここで学校の生活はどうだったのかという事も書いておく。

 僕の通っていた川西中学校は正直なところ荒れていた。

 基本的には不良グループが学内で幅を利かせており、風紀の乱れは凄まじかった。

 一例をあげるとすれば、中学近くのセブンイレブンの二階で、藤井恵という女生徒がコンビニの店長と援助交際をしているという噂が流れたりした。

 また、僕の中学校では高額の恐喝事件なども起きてしまっていた。

 例えば、僕の当時の友人に、春日純一というバスケットボールが得意な男がいた。

 その男は上の学年の不良グループ(この不良グループには野球部部員が多かったように記憶している)に恐喝をされて金銭を巻き上げられていた。

 春日は先輩たちからカツアゲをされていくうちに小遣いがなくなってしまい、最終的に友人である僕に「金を貸してくれ、借金をさせてくれ」と頼んできた。

 僕はその時は「もう額がでかすぎるから教師に言え」と、春日にはっきり言った。

 しかし、春日は最終的に親の金に手を出したりし始めて、結局そのことを教師にも言うことが出来ずズルズルと金をたかられていったようだった。

 春日は最終的には100万円くらい先輩たちに取られたとのことだった。

 そういう話が学内で噂になってしまっていたのだ。

 そして、その恐喝事件自体も有耶無耶のままに放置されてしまっていた。

 

 

 当時、僕の中学校では野球部がどうも不良の集まりになっていたようだ。

 野球部の部員は僕たちの一学年下の教室に突然乗り込んで来て、矢儀卓史という僕の幼馴染を一方的に殴って去っていったりしていた。

 それから僕の友人に梶田裕二という男がいたのだが、この男もこの不良グループに因縁を付けられて絡まれていた。

 どうも思い返してみると、この不良グループは僕の友人によく絡んでいたようだ。

 例えば僕と親しい友人であった飯田聖人、岡村智明などにもこの不良グループは絡んできていたのだ。

 しかし奇妙な事に、これらの不良集団の面々は僕には直接絡んでは来ないのである。

 僕は自分の周りの友人がこの不良集団に狙われていたような奇妙な感覚があったのだ。

 これは一体何だったのだろうか。

 ちなみに、この不良グループには他にも妙なところがあった。

 山口高校の推薦入学に、この不良集団の中の人が受かってしまったのだ。

 僕の同級生達はそれを知ってこんな風に噂をしていた。

 『あんな酷いことやる不良が山口高校に推薦入学で受かるって、勉強するの馬鹿みたいだよな』と。

 というのも山口高校というのは、この山口市においては一番学力のレベルが高い進学校だったのだ。

 そこに不良グループにいた、とんでもない悪さをした人間が人柄を認められて推薦入学で入ってしまったのだ。

 やはり、真面目に勉強をしている学生からすると、推薦入学であそこまで酷い事をしていた不良グループの人が受かってしまうということは衝撃的な事だったのだろう。

 

 次に僕の中学校時代、印象に残った先生についてここで書いておく。

 まずは国語と英語の教師である刀禰美智枝先生について。

 僕はどうも、英語の教師、というのが苦手だったように思う。

 この刀禰美智枝という教師は僕を授業中名指しして「こいつも男だからな、どうせ常に性的なことを考えているんだぞ」と言ってきた。それでクラスの連中から大笑いされたりしたのをよく憶えている。僕は男子はともかく、女子からどんどん嫌われていったという感覚をそれで植え付けられたのだ。

 ただし、僕はこの先生に対して「あのー、授業中、ノートを取らなくても良いですか?」と聞いた事がある。ひょっとするとこの先生はそれに対して怒っていた可能性というのはある。

 僕は、国語とか英語はノートを取る意味を特に感じなかったので、思わずそう言ってしまったのだ。

 ちなみに、この先生は勉強の教え方が凄く上手かった。だから本当はノートを取る重要性も知っていたのかもしれない。

 次に英語の教師として印象に残ったのは岡崎英和という名の先生だ。

 この先生はディズニーが好きな、まだ年若い男の先生だった。

 この先生は生徒を自分の部屋に連れて行ってディズニーを見させるということをやる先生だったようだ。

 この人は女子からは人気があったけど男子からものすごい嫌われていた。

 僕はこの教師の気安い雰囲気は好きだった。ただし、この先生はフェミニストっぽい雰囲気なんだけど、女癖は悪そうだなとは思っていた。

 ちなみに、この教師は過労でのちに死んでしまったそうである。

 それから数学の教師について。

 数学の教師について印象に残っているのは那須正博という教師である。

 この教師は確か、途中で川西中学校に赴任してきたと記憶している。

 そして、この教師は赴任してきて早々、最初の数学のテストで滅茶苦茶をやってきていたのだ。

 確かあれば、中間試験か期末試験の問題だったと思うのだが、この教師が用意した試験問題にいきなり問題があったのだ。

 問題の量に対して、問題を解く時間が明らかに足りないという試験を作成してきて生徒にやらせてきたのだ。

 僕たちはこの時、全員数学の点数が低かった。それで、僕たちはそれに対してかなり文句を言った。流石に無理だ、と。

 するとこの教師は何食わぬ顔で「そうかなー。簡単だと思うけどなぁ」と言って話を終えた。

 ちなみにこの教師は結構背が高くスマートな体系をしていて顔が良かった。そして奥さんが物凄い美人だと評判だった。

 この教師は女生徒からは人気があった。

 それから化学の教師について。

 化学の教師について印象に残っているのは田中勇という教師である。

 この人は、先に挙げた不良グループが所属していた野球部の顧問をしていた。

 この先生は怖いと評判の先生であった。それは多分野球部の厳しい指導の仕方にもその理由があったのだと思う。

 僕は不良グループの問題が関係してか、どうもこの先生が苦手であった。

 そのちに僕は化学という教科自体が苦手になっていっていた。単純に不良集団に狙われているかもしれない、という強烈な苦手意識がこの化学教師にまで及んでしまっていたのだろう。

 ただし、この教師の授業は問題があったか、と問われれば僕は首を傾げてしまう。まるで問題は無かったと記憶している。印象が単純に悪かったのだろう。

 

 

 中学校の部活動の方はどうだったと言えば、これもなかなか酷かった。

 僕はソフトテニス部に入部したのだが、これは兄の影響だった。僕の兄もソフトテニス部だったのだ。

 だから僕は、テニスの道具を兄のお下がりのテニス用品を使っていた。この辺りは金銭的に楽でなかなかに良かった。僕はもうこの辺りでちょっと家のお金を気にするようになっていた。

 僕が入部した当初の川西中学校のソフトテニス部は強豪だった。

 市の大会で上位を占めている先輩方がいる状況だった。

 僕と一緒にソフトテニス部に入った一年生は基本的に小学校時代の同級生達が多かった。

 だけど、同級生達は基本的に何故かソフトテニスが出来なかった。

 学年で一番上手かったのは僕だと思う。僕は一緒に球を打ちあう相手が同学年にいなくなっていた。何故か同学年の男子とはそのくらいの差があった。

 その後、強かった3年生が卒業した。

 そしてその辺りの時期に、僕は一学年上の先輩達からいじめにあった。

 原因は多分、兄だった。

 どうやら僕の兄がこの一学年上の先輩達をからかって遊んでいたそうで、その復讐という意味合いが強かったのだと思う。

 また兄から「お前さ、あいつ(これはよく憶えてはいないのだが、恐らくは室井先輩である)の昔のラケット振るフォームを見せてもらえよ。笑えるからさ」と言われて、僕は「それ、どんなフォームなんだろう」と思ってしまい、その先輩にやってもらったりした。

 やってもらった結果としては確かに酷いフォームだった。

 でも僕はそれを見てもあまり笑いはせずに「こんなに酷いフォームを直したのは結構凄いな」などと冷静に受け止めていた。ただ、それをやった途端酷いいじめがはじまった。

 ただ、僕としては「ああ、あれが不味かったか」という感じだった。

  例えば僕が球出し係をやっていると、一学年上の先輩たちから、僕が出した球を打ち返す形で僕の体を狙い撃たれた。

 また、帰り際のすれ違い様に「豚!」と先輩達に罵られたりもした。

 それから、この川西中学のソフトテニス部ではテニスラケットをテニスコートの横の倉庫に置いておくという習慣があったのだが、僕が倉庫に置いてあった兄のラケットをへし折られたりもした。 それで、僕は倉庫にテニスラケットを迂闊に置いておくことができなくなり、部活が終わった後にラケットを家まで持ち帰ったりする羽目になった。

 そして、さらに不味い事に、僕はこのいじめの件を新しく入ってきた一学年下の後輩に見られていた。

 だからその後、僕がソフトテニス部の部長になった際などには物凄い苦労をした。一学年下の後輩に散々になめられて、部をまとめることが出来なくなったのだ。

 また、この部というのは僕が部長をやりだすと、森先輩という先輩がやたらと部活動を引っ掻き回すようになり、僕はそれに相当苦労させられてしまった。

 ちなみにこの僕をいじめていた一学年上の先輩達の中に、河村という男がいた。

 この男は実を言えば、僕とソフトテニスの試合でペアを組んだことがある。

 何故そういう事になっていたのかと言えば、一時期は僕と同じレベルの選手が同学年にいなかったから一学年上の先輩とペアを組もうという話にいつもなっていたのだ。

 そしてその結果としてこの河村という先輩が選ばれたのだ。

 実を言えば、この人は僕に対するいじめに積極的に参加していたわけでも無いし悪い人ではなさそうだった。ちょっとぼんやりした人だなとは思ったが。

 ただ後にこの人は、何故か引きこもりになってしまったようだ。何があったのかはわからない。それからはそれなりに更生に苦労したようである。

 しかし、最終的にこの河村という人は僕の母である青木家の養子になっている。

 その辺りに何か奇妙な因縁を僕は感じてしまっている。

 

 

 ここで、僕の中学校時代の交友関係についても記しておこうと思う。

 先に述べたように僕の下高根の家はとにかく酷い有様だった。夜まともに眠れない、家の設計がおかしい、ゴキブリとアシダカグモが徘徊する、両親はいつも言い争いをしている、などなど、とにかく家にいること自体に強烈な嫌悪感があった。

 だから僕は外に遊びに出るようになってしまった。

 

 

 まず僕が行っていたのが東今津に家がある伊藤浩平という男の家である。

 この男は僕の幼馴染であり、小学校の頃から遊んではいたのだが、引っ越したことで家がちょっと近くなった。だから僕はよくこの男の家に行っていた。

 伊藤浩平は漫画とパソコンが趣味の男で、よくその手の話を一緒にしていた。

 ただ、ちょっと不思議だったのが、伊藤浩平が何故かディアブロ2を持っていた事である。これについては物凄い不思議である。というのも伊藤浩平はあまり英語が出来なかったからだ。

 彼はどこでこのディアブロ2というゲームについて知ったのだろう。

 それからこの伊藤浩平の家には梶田裕二という男も来たりしていた。

 この男は宮崎駿が好きで、風の谷のナウシカの全編の台詞の暗唱などをしていた。

 何かちょっと変わった男であった。

 

 

 また、僕は中学校で知り合った伊藤丈治という佐山地区の友人の家でも遊ぶようになった。

 後で聞いたのだが、この家は、実は僕の母方の親戚の家系だということだった。つまるところ彼は、単なる親戚だったわけだ。

 伊藤丈治は不思議な男だった。彼は学校の成績こそふるわないものの、シューディングゲームや卓球や麻雀などに異様な才能を発揮していた。

 彼は特に、麻雀に関しては中学生時点でいきなり盲牌をやっていたり、一緒に打っている奴の手牌を全て読んでいたりしていた。僕はそれを見て、素直に「こりゃやべえわ」と感じていた。

 また、この中学校時代に、伊藤丈治と共に吉村和弘とか福田幸記とか岡村智章などといった、佐山地区の友人達とも僕は遊ぶようになっていった。

 ただ今にして思うと、僕は明らかに伊藤の家に通い過ぎていた。学校から帰ると家に行くのが日課になっていたくらいだ。その事は本当に悪かったな、と今では思っている。

 どうも僕はこのパターンが非常に多いのだ。これは単純に家の環境がいつも悪すぎたせいだろう。

 それからこれは本当に不思議な話なのだが、僕の中学二年辺りで伊藤の名字が重本に変わってしまった。

 そして、彼は苗字が変わってから、急に不良のようになっていった。彼は何か粗暴な雰囲気を身に纏うようになっていったのだ。

 結局のところ、あれはなんだったんだろうか。僕はなんとなく「これは俺が家に通ったせいかな」と思ってしまい、それ以後はなんとなく疎遠になっていってしまった。

 ちなみに、この重本という男は将来的にアメリカで働くことになったそうだ。そして、その後は大阪に帰り職人をしているらしい。彼は本当になんだかよくわからない男である。

 

 

 それから、別のコミュニティーでの友人について。

 僕は実を言うと、小学校高学年辺りから格闘ゲームというゲームジャンルに熱中していた。

 特に僕の小学校や中学校辺りというのは、ゲームセンターという遊戯施設が日本に大普及していたのだ。

 そしてそのゲームセンターの中にある筐体型の遊戯である、格闘ゲームというのは子供たちの間で大流行りしていた。

 しまいにはその格闘ゲームというものはスーパーマーケットや駄菓子屋などにさえ筐体が置かれるようになっていった。僕の子供の頃というのは、子供たちがこぞって格闘ゲームをやっていたのだ。

 そして、それは僕の家の近くのスーパーマーケットや駄菓子屋も例外ではなかった。

 僕は中学校辺りから深溝の駄菓子屋によく通うようになった。

 そこにはキングオブファイターズという格闘ゲームシリーズの筐体が置かれていたのだ。

 僕はその深溝の駄菓子屋では矢儀卓史や村田好信、河村亘朗など、小学時代の友人達と集まって一緒に遊んでいた気がする。

 ここで特筆すべきことは、そのゲームセンターには深溝のゲームセンターに飯田聖人という格闘ゲームが非常に上手い男がいたということである。

 僕は中学時代はこの男と仲良くなり、よく格闘ゲームを対戦した。しかし飯田はとても強く、全然勝てない日々が続いた。

 彼と親しくなっていくうちに、彼の家にも遊びに行くようになった。

 しかし、彼の家は凄い所だった。彼の家は国道の脇の小さなプレハブ小屋の一室だったのだ。

 部屋は四畳半であり、トイレは剥き出しの部屋だった。僕は彼とそこで一緒に格闘ゲームをやっていた。どうやら彼の家は母子家庭ということらしかった。

 飯田に詳しく話を聞いてみると「母は借金で逃げ回っていて家には大抵いない」とのことだった。

 僕は結局、飯田には格闘ゲームで中学時代は全然勝てなかった。僕が飯田に格闘ゲームでようやく勝てたのは僕が高校時代の時である。

 しかし、すでにその時は飯田は格闘ゲームではなくボクシングに専念していた。彼はボクシングで身を立てるつもりだったのだ。

 

 

 この辺で、重要な事について書いておく。

 これは僕が中学生の頃の話である。

 この辺りの時期に、当時大歳小学校で教師をしていた母が受け持っていたクラスに李という姓をした中国人の子供が転校して入ってきたらしい。 

 そして、その李という子供の中国人のご家族は家計が苦しい上に慣れない日本の生活に戸惑っているということだった。なので、それを見かねた母がその中国人のご家族をうちに招いたりしていたのだ。

 僕は僕の兄と、その家の子供と一緒にゲームなどをして遊んだことがある。

 その時は確か、プレイステーションのソフト、キングオブファイターズ95を一緒にプレイしたと思う。

 僕はこの李家の子供を見ながら、「中国人って頭が良いんだな」と思っていた。というのも、この子供がキングオブファイターズ95の戦略をすぐに理解していたからだ。

 ちなみに僕は少し気になったので、2019年3月付近に僕の父にこの中国人の家族について聞いている。

 すると父曰く、この中国人の家庭の父親は中国共産党工作員の可能性があった、とのことだった。

 父が考えるに、「この李という家はその当時は中国の貧困家庭という感じであった。それなのに、この李という家のお父さんは下関の大学や新潟の大学に行こうとしていたのが大変怪しい」ということだった。

 僕はそれを聞いて「なんでそれだけで中国共産党工作員という疑いが出てくるんだ?」と、思ってしまった。

 

 

 中学校の最後は当たり前だが受験の話になる。

 ちなみに僕は受験勉強を一切していなかった。ひたすら岡村智明などの友人と会ってはcivilizationなどをして遊んでいた。

 ただ、僕はかなり悠長に構えていたのだが、この辺りでまず僕の兄がおかしくなっていった。

 僕の兄は僕の三歳上であり、大学受験をひかえていたのだ。

 兄はセンター試験に成功していた。確か得点がかなり良かったのだ。

 すると、それまでそこまで進路等にあまり関心が無かった父がわりと熱心に兄にアドバイスなどをし始めた。

 父は兄に九州大学に行こうだとか、京都大学に行こうだとか、色々な事を言っていたと思う。

 結果として兄の進路はコロコロ変わった。そしてそのせいで、兄は九州大学京都大学で迷いながら二次試験の勉強をする羽目になっていた。

 結局兄は前期の二次試験には失敗した。そして後期の二次試験で岡山大学法学部に合格した。

 ただし、兄はこの受験の際のストレスでちょっとおかしくなってしまっていた。自室でもの凄い音量でmr.childrenなどの音楽を聴くようになってしまったのだ。

 僕は兄がちょっと精神的に不安定になっているように感じていた。

 

 

 僕はそれを傍目に見ながら高校受験を受けることになっていた。

 正直なところ「いやー、これ、大学受験ってこんな感じなんだ、きっちぃなー」と思っていた。僕はますます勉強はしなくなった。

 僕が受験を予定していたのは、山口県でそこそこの難易度であった山口高校である。

 ここは成績的に言えば、余裕で合格ラインの高校だった。

 実を言うと僕は、この高校で画を学びたい美術の先生がいた。だから山口高校に受かったら美術部に入ろうと思っていた。

 さて、そんなこんなで、いよいよ高校受験ははじまった。

 山口高校の入試試験は山口高校の教室で執り行われたと記憶している。 

 僕はその受験の際の光景をまだ憶えている。あれは酷く肌寒い日だった。

 親に早めに車で高校に送ってもらった僕は手を擦りながら教室に入り席に座った。前から3~4番目の席だったと思う。

 試験が始まると、問題用紙と答案用紙が前の席に配られて、それを上から取って、後ろに回すということになった。

 僕は紙を広げて答案用紙を見てみた。するとそこには受験番号を書く小さな記入欄があった。

 そして驚くべきことにそこには名前を書く名前欄は無かった。

 僕はちょっと驚いて、直ぐに答案用紙の裏側も見た。すると当たり前だが、そこにもやはり名前を書く所は無かった。僕はもう一度紙を裏返して名前欄の確認をした。しかし、やはり名前を書く為の名前欄は存在しなかった。

 僕は「ああ、これ、受験番号だけ書くのかな」と思って、受験番号だけを記入して、それで試験の問題を解いていった。

 ちなみに僕は不自然に思って、最初の教科の後の次の教科の試験でも名前欄の確認をした。しかし結局、名前欄は見当たらなかった。だから僕は、そのまま試験をこなしていった。

 僕が何故、ここで執拗に何度も名前欄の有無を確認したのかというと、それには理由がある。

 というのも、僕はこの受験以前に川西中学校の試験の際にうっかり試験用紙に名前を書き忘れて、0点を取った事があったからである。

 それは、憶えている限りでは社会科のテストの際の事だったと思う。

 確かその時は吉安司という社会科教師が授業を休み、そこで試験形式のプリントを生徒に解かせるという自習授業があったのだ。

 そして僕は完全に適当にそのプリントをこなして、名前欄に名前を書き忘れてしまっていた。そしてその結果として、僕は人生で初めて0点を取っていたのだ。

 僕は、それ以来、名前の書き忘れにはかなり注意していたわけだ。

 

 

 さて、山口高校の試験が終わって帰って来て、受験番号を書く欄はあったが、名前を書く欄が無かったということを両親に告げた。

 すると両親は驚いて、「そんなはずはない、友人に確認してみろ」と無理矢理僕に友人に電話をさせた。

 両親が勧めるので僕は中村吉希という同級生に確認を取った。

 すると彼は名前を書く欄が普通にあったという事を告げてきた。僕にはそれが信じられなかった。僕の試験用紙にはどう見ても名前欄が無かったからだ。

 僕はそれから一応、試験の自己採点をした。少しだけ点は低かったけど、合格のボーダーラインはしっかりと超えていた。

 そして迎えた合格発表当日。僕はなんとなく「これ、落ちてるんだろうな」と思ってた。

 それでもう自分で合格発表を見に言う気にもなれなくて、父に発表を見に行って貰った。

 するとやっぱり僕は山口高校に落ちていた。僕は流石に相当に落胆した。意味がわからなかったからだ。

 僕が落ち込んでいると、僕の中学三年生時の担任である白根秀治先生から電話がかかってきた。

 白根先生は「原田が落ちるわけはない。合格の名前を見落としたのでは無いか」と言ってきた。

 白根先生はかなり混乱しており、どうも本気でそう聞いてきているようだった。

 僕は今となっては、白根先生が混乱していたのも無理もないと思ってしまう。

 実は当時の山口高校というのはそこまで難易度の高い高校でも無く、うちの中学からは上から20番くらいまでの人が受かっていたのである。

 

 

 僕は、この山口高校の入学試験を振り返ってみていつもおかしいと思うことがある。

 あれだけ僕が執拗に記名欄を探して見つからなかったのに、他の生徒が名前を書き洩らしたという話を一切聞かなかったからだ。

 中村にそれを僕が聞いた時も明らかにびっくりしたような口調で「え!?いや、あっただろ!」と彼は言っていた。

 まぁつまりは本来は相当分かりやすい形で名前欄が試験用紙に存在していたのだろう。そして、僕の試験用紙にはその分かりやすい形の名前欄が無かった可能性が極めて高いということになる。

 

 

 結局、僕はそれから、前もって滑り止めで受験して受かっていた私立の高校、野田学園高校の普通科に入学することになった。

 僕は、この高校の特別進学コース(通称、特進科)というのも実は滑り止めで受験していた。だが、そこには落第していた。

 実を言えば、この野田学園高校の特別進学コースには妙な噂があった。それは「野田学園の特進科に進むのは山口高校に受かるよりも難しい」というものだった。

 結局のところ、僕もその野田学園高校の特別進学コースは受験をしても受かってはいなかった。だから僕は普通科に進むことになっていた。

 僕は流石にそのことにちょっと落胆していた。僕の本来の学力とは行く学校の学力がいくらなんでも違い過ぎると思ったからだ。

 父などは「これは浪人をした方が絶対良い」と言っていたくらいである。

 しかし、僕が山口高校に落ちたのち、しばらくしてから状況が変わった。

 野田学園の特別進学コースに僕が補欠合格したという情報が入ってきたのだ。

 僕はそれで浪人はやめて、野田学園高校の特進科に進むことになった。

 

5 高校時代

 

 

 僕は高校時代を野田学園高校の特別進学コースで過ごすことになった。

 この野田学園高校という高校は山口市の市内に建っていた。

 だから基本的には僕はこの高校に電車通学することになった。

 電車通学はかなり困難だった。通学の為には電車に一時間くらい乗らなければならなかったのだ。

 僕は時々、山口市に勤務している母の車に乗って通学をすることになった。

 しかし僕はあまり両親の車に乗るのが好きではなかった。

 というのも、これは僕が子供の頃からずっとそうだったのだが、僕の両親が車を運転していると、危険運転を仕掛けてくる車がかなりの頻度でやってきていたからだ。

 危険運転を他の車に仕掛けられるたびに、父は酷い悪態を付いたりした。また母などは父ほどは運転が上手くなかった為、危険運転を仕掛けてきた車に対して、よく急ブレーキを踏む羽目になっていた。

 そしてそれは高校の通学時でも一緒だった。

 僕はこの辺りでもう「ああ、これ、なんだかよくわからないけど社会全体から攻撃されまくっているな」と感じていた。僕はもう、いっさい社会を信じないようになっていた。

 

 

 では、この野田学園高校の特別進学コースはどうだったかと言えば、ここはちょっと変わったクラスだった。まずこのクラスは男女比がおかしかった。女子が極端に少なかったのだ。

 それから、この野田学園高校の特別進学コースは学費がべらぼうに高かったようだ。これは私立の高校だったからだろう。僕はそのことにすっかりゲンナリしていた。

 この野田学園高校の特別進学コースでは最初にクラスの人間の学力を図る為の総合テストが実施されていた。この辺は進学に力を入れたコースだったのだろう。

 父はその総合テストの実地を受けて、僕に「お前、このレベルの低い高校で順位が低かったらもう駄目だからな」と言ってきた。

 僕はそれを聞いて、「流石にちょっと頑張るかな」と思って、この時、人生で初めてテスト対策として3日くらい勉強した。

 テストの結果を見てみると、特別進学コースのクラスで2番だった。

 すると父はその試験結果を見て妙なこと言い出した。

「そう、お前は学力が高いんだよ。このくらいが普通なんだ。山口高校だってこの成績なら本来は……」と。

 

 

 一応高校の教師についてもここで書いておこうと思う。

 野田学園高校の特別進学コースの教師陣については特に語るべきことはない。

 皆、しっかりと授業をしていたし、授業内容も悪いとは思わなかった。

 この高校、変な先生はほとんどいなかったと思う。ただし、印象に残った教師が二人ほどいたので、その教師たちについては記述しておく。

 

 

 まず一人目は平田みどりという教師について。この教師は僕の高校一年次の担当の先生だった。

 この平田みどり先生は若い美人の英語の先生であったのをよく憶えている。

 この教師はわりとまだ教師としては新米だった為か、クラスで担当している生徒の学習に対しては熱心な所があった。

 この野田学園高校の特別進学コースは進学コースと謳っているだけあって、学習指導が熱心だった。

 例えば、この特別進学コースでは学習時間に関するアンケートというものが設けられており、それに毎日の学習時間を記入させて提出させたりしていた。

 僕はそのアンケートに対して家での学習時間が0分だという風に記入して提出した。

 結局、僕は高校に入ってしばらくすると、試験の前の一夜漬けすらしなくなったからだ。

 また、僕は最初の方の試験こそ頑張ったものの、それであっさり学年上位の順位が取れてしまった為、「もういいだろ、勉強なんてさ。どうせやっても何にもならないんだし」と思い、それからは真面目にやらなくなっていた。

 すると、そこで奇妙な事が起こった。

 なぜか僕が所属していた柔道部の顧問である宮原健太郎先生が僕に説教をしてきたのだ。

 宮原先生は僕に「原田、お前、頭が良いのに家で全然勉強していないらしいじゃないか。この所、成績が落ちているとお前の担任の先生が言ってきたぞ。柔道をやっているから成績が落ちたのではないか、と。俺としてはお前は柔道よりも勉強を専念するべきだと思っている。人にはそれぞれ向き不向きがある。勉強が向いている奴は勉強をすれば良いんだ」などと言ってきた。

 僕は宮原先生の言っていることはもっともだと思った。だけど「試験に名前欄無かったら勉強なんてしても意味無いんじゃないですかね。また無いかもしれないしさ」とも思った。だから笑ってそれを受け流しておいた。

 ただ、僕はちょっとだけ不思議だった。何故平田先生は僕に直接言って来ずに宮原先生経由で言ってきたのだろうと。

 ただ今にして思うと、この平田先生の指導自体は至極当然のものだったと思う。学校は勉強する為の場所である。

 またこの平田みどり先生はクラスの女子達と、物凄い仲が良かった。そしてクラスの女子達は僕の事を虐めてた。

 だからだろうか、僕にはこの平田みどり先生はどうもそのいじめに加担しているようにも見えていた。ただし、これは単なる僕の被害妄想である可能性がある、と付け加えておきたい。

 それから、この平田みどりという教師はその後、産休で学校に来なくなってしまった。

 そしてそのせいで、英語の授業の進行が僕たちの学年は少し遅れてしまったと僕は記憶している。

 そのせいかはわからないが、結局、僕は高校に入ってから、なぜか英語がちょっとずつ苦手になっていった。

 

 それからもう一人印象に残っている教師と言えば生物を教えていた川手敦夫である。

 この教師はとても優秀な教師であったと記憶している。この人はよく黒い革のジャンパーを着ていた。

 授業の話が面白い上に要点をまとめるのが巧いので授業がよく頭に入ってくるのだ。

 ただ、その授業の話というのが結構変わった話が多かった。

「昔、環境について調査をする団体に入っていた。その団体の調査の過程で、山の中を行列を作って歩いていたことがあるのだが、その行列の先頭を歩く人がスズメバチの巣を踏んでしまい、スズメバチに群がられて死んだことがある」

「僕は、絶対に妻と子供は作らない。この世界は将来、地球環境の悪化や国家の体制の腐敗などで本当にろくでもないことになる」

 などなど、川手先生は何か非常に興味深い話をよくしていたのだ。

 

 この辺りで僕の高校時代の交友関係について記しておく。

 僕はこの野田学園高校の特別進学コースにおいては、在籍していた男子生徒大体と仲が良かった。 ただし、僕は女子からは蛇蝎のように嫌われていて一切交流をしていない。女子からは常に陰口を叩かれていじめられていたからだ。

 僕が高校時代に特に仲が良かったのが前田新太郎、という男であった。

 この前田という男は東京の前田建築の家の子であると自称していた。

 また彼は珍しいことに学外で音楽バンドを組んでいた。ちなみに担当はボーカルだったそうだ。

 そのせいか彼は僕や鈴木景太、竹重義之、田中健也などと言った山口市在住の友人を誘い、高校が終わった後はカラオケに行くようになったのである。

 音楽バンドのボーカルの練習をしたいと前田はしきりに言っていた。

 彼のこのカラオケの誘いは本当にしつこくて、僕は高校時代は年がら年中カラオケに行っていた気がする。

 ただ、僕は彼と一緒にカラオケをやっていて不思議にも思ったのだ。

 というのも、この前田という男が正直そこまでボーカルが上手くはなかったからである。

 正直なところを言えば、僕の方が前田よりもカラオケは上手かったと思う。

 そのせいで、僕には彼が何故バンドのボーカルをやれていたのか、というのがちょっとだけ疑問であった。

 また、この前田という男はちょっとだけモテたようだ。

 彼はよく女とセックスをした等の話を僕に振ってきたりしていた。僕はどうにもその話を聞く限りでは、彼に不誠実でいい加減な印象を抱いていた。

 ただ、僕はこの男の胡散臭い所が面白く、どうにも嫌いにはなれなかった。それに彼は女に対してそこまで酷い事もやっていないように見えたからだ。

 とにかくも、僕は前田や他の友人たちと放課後、カラオケなどに行くようになった。

 

 なんにしても、僕は学校の友人たちと遊んでいるうちに、とうとうテスト前の一夜漬けさえしなくなっていった。

 僕は山口高校の入学試験時に名前欄が無かったことがずっと引っかかっていたのだ。まともに勉強して何になるんだと、完全に斜に構えていたのだと思う。

 また僕は、この時点では名前欄が無かった事に付いて、騒ごうとも思っていなかった。

 僕の人生では無言電話や危険運転等、異様な事が起こりまくっていたので、「そもそもそれだけの話なのか? 試験欄に名前が無かったのは凄いけど、他にも何か変な事がいっぱい起きているぞ」と思っていたのだ。

 だから、僕はこの当時、何を言ったらいいのかすらよくわからなかった。

 

 

 この僕の学校の期末試験等の成績が落ち始めた時期に父が妙な事を言い出した。

 「別に学校のテストなんて低くてもいいから、全国の実力テストは頑張れ」と。

 それで僕は、学校のテストは無視して、実力テストの時だけはちょっと勉強するようになった。

 その結果としてか、僕は実力テストについてはそこそこ点数が取れていて、高校二年の末辺りまでは偏差値が60くらいあったと思う。

 

 

 高校の部活の方はというと、僕はもともとは山口高校に進学して美術部に入り本格的に絵を描くつもりであった。

 僕の兄が「山口高校には良い美術の先生がいる」と言っていたので、僕はその先生に是非絵を習いたいと思っていたのである。

 だが前述したとおり、僕は山口高校に落第をしてしまい野田学園高校に進学した。結局のところ、僕は兄が言うところの良い美術の先生とやらに本格的に絵を指導してもらいたかったのだ。

 そのせいか僕は野田学園の美術部にはいまいち入る気にはなれなかった。なんとなく出鼻を挫かれたような感覚を持っていた。

 

 

   結局、僕は高校時代の部活動には柔道を選択した。これは僕の周辺環境に不良が多かったというのが明確に関係していたと思う。僕は単純に身の危険を感じており、護身に柔道が役立つだろうと考えたのだ。

 野田学園高校の柔道部は名門の柔道部のようだった。そのせいか、この柔道部は練習が物凄くきつかった。例えば最初の方は練習の後、筋肉痛の痛みで夜まともに眠れなかったくらいだった。

 僕は中学時代、ソフトテニス部でちょっとだけ筋肉トレーニングはしていたが、それらのトレーニングはまったく役に立たなかった。

 僕は日本の柔道の練習の異様な過酷さというものに、心底驚いていた。

 ちなみに僕がこの柔道部に入部した時は、柔道部の先輩達は何故か不良化していた。

 茶髪とか金髪とか、そういった髪色の人達が先輩たちには多かった。

 では柔道部の同級生はどうかと言えば、それは一人しかいなかった。

 それは上野太詞という男だった。

 この男はとても柔道が強く、また性格もカラっとした感じで好印象だったので、僕はこの男とすぐに仲良くなった。

 肝心の柔道の試合の方はというと先輩達や同級生はとても強かったけど、僕は弱かった。

 僕は普段は眼鏡をかけていたのだが、柔道をやっている間は眼鏡を付けられないのである。

 僕は眼鏡がないせいで相手の動きなどがいまいちわからなくて、試合ではまるで結果を出せなかった。

   ちなみに柔道部の先輩達は基本的には柄の悪い人ばかりだったが僕には親切にしてくれたと思う。

 ただ、その先輩方の中にはデスメタルバンドを結成し、文化祭などで楽曲を披露していた人達もいたのが僕は今では気になっている。

 何故、先輩方は柔道部員なのにデスメタルバンドを結成していたのだろうか。そして、それには先輩達が髪の色を染めていたのも、何か関係があるのだろうか。

 何にしても柔道部顧問の宮原先生がその髪の色について忸怩たる思いをしていたのは明白だった。

 僕が柔道部として活動している間に印象的だった出来事がある。

 それは小郡の辺り出身の伊藤睦彦という野田学園高校の普通科の生徒にいきなり難癖を付けられたことだ。

 彼は僕と面識もないのに、突然「オタクの癖に生意気だ」ということを僕に言ってきた。

 そして電車内で襟首を掴み締め上げてきた。

 僕は「え? 何この展開?」とわけがわからない状態だった。

 ただし、一応僕は柔道部員だったので暴力沙汰を起こすわけにはいかないと思い、何もせず黙っていた。するとこの伊藤は「根性無しが」みたいな事を言ってあざ笑ってから去って行った。

 後からわかったのだが、この男は僕の幼馴染である田中公貴の友人であった。そして、田中公貴がこの事についてちょっと怒ったらしい。

 その後、この伊藤という男は僕に対して「柔道やってたんだね」みたいな事を僕に恐る恐るという感じで言ってきた。

 僕は「こいつはいったい何がしたかったのだろうか。何故まったく面識がないのにいきなりあそこまで滅茶苦茶やってきたんだろうか」とそれを見て相当に疑問に思ってしまった。

 

 とにかく僕の高校生活はカラオケと柔道をやっていた印象だった。

 そのうちに僕は高校三年生になった。

 そしてその辺りで、僕の実力テストの偏差値が急激に落ち始めた。

 これに関しては多分当然の話だったんだと思う。

 偏差値というのはあくまでも周りの平均値から割り出される数値だからだ。

 高校三年生辺りと言えば、全国の高校三年生達が大学受験に向けて一斉に学習をして学力を上げていく時期である。

 そうなっていくと、学習をしていない僕のような人間の偏差値はごく普通に落ちるようになっていくのである。

 僕は高校三年の柔道部を引退した夏休みが終わってから、大学受験の勉強を開始した。

 僕の学習課題は英語だけだった。僕は試験成績の中で特別点数が悪いのがこの英語という科目だったのだ。

 僕は英語という科目に関しては単語を2000個程度覚えたりもしていたが、何故か点数がどうしても上がらないといった感じで、ほとんどお手上げの状態だった。

 そこで僕は予備校というものに行ってみることにした。

 山口市南部に小郡駅(現在の新山口駅)という駅があるのだが、その駅前に北九州予備校という予備校があった。

 僕はその予備校の英語の授業を受けにいってみた。

 この英語の授業は英語の成績がある程度良くないと入れないということで、僕の英語の成績ではとても授業に入れなそうだった。

 しかし、何故かこの際は予備校側が特例として僕を授業に入れてくれることになった。

 この予備校の英語の授業は講師の教え方がとても上手かった。

 けれど、やっぱり僕は英語が苦手になっており、さっぱり頭に入らなかった。

 僕は受験勉強についてはひたすら英語だけやっていた。ほかの教科は全然やっていなかった。

 本当に英語だけいつまで経っても点数が酷かったのだ。

 ただし、僕はセンター試験の直前模試は630点くらいの点数が出ていた。

 父も母もそれを見て「ああ、勉強、間に合ったね」みたいなことを言ってくれた。

 僕もこれは少し期待出来るかもなと思っていた。

 しかし、その年のセンター試験は僕のやっていた過去問題とは範囲が上手く重ならなくて、全然いい点が出なかった。

 確か試験後にやってみた自己採点では536点くらいだったと思う。

 まぁ、この点数に関しては、ただ単に運が悪かった可能性というのが当然ある。

 

 

 僕はセンター試験の点数を見て、山梨の都留文科大学を志望することにした。

 この大学はセンター試験の結果のうち三教科を選択して、その点数の合計点で合否の判定が出るというのが良かった。僕は三教科だけなら数学、社会、生物辺りで、偏差値が57くらいは行っていたのだ。

 また、僕はこの大学については二次試験を受けなくてもいいのが良いなと思った。

 僕は兄が国立大学の二次試験の勉強をする姿を見ていて、「絶対に二次試験がある大学には行かない」と思っていたのだ。

 それから、この大学は山梨県にあり、山口県から離れられるというのも大変魅力的だった。

 僕はもう、この酷い目にしか合わない山口県という場所が大嫌いになっていた。

 僕の友人たちは結構東京に行くという奴らが多かった。それで、僕も東の方に行こうとなんとなく思っていた。

 僕は担任の藤重浩一先生に「この山梨の大学から、東京に行けます?」と聞いてみた。

 先生は「行ける!」と力強く答えた。

 僕は大学なんてもうどうでも良いと考えていたので、何も下調べもせずにこの大学に行くことに決めた。僕はもう、学歴とか将来とか完全にどうでも良くなっていたのだ。

 都留文科大学にはあっさりと合格した。

 僕はこの合格に対して「ああ? これにはあっさり、何にもなく受かるんだな? 何にもなかったな? いつも滅茶苦茶なことが起きるのにな?」と物凄い違和感を憶えていた。

 ちなみにこの都留文科大学という大学について、僕の父がのちにこう供述してくれた。

 本来この大学というのは戦前は東京の教師を育成する為の、第二師範学校という扱いの大学であったらしい。

 つまり、この大学というのは、もともとは東京の学校の為に作られた大学であったそうである。

 

 

6 大学時代

 

 

 大学時代について記述する前の話をここでまず少ししておこうと思う。

 僕は大学に入るちょっと前に兄からあるアドバイスを受けていた。

「お前外見に注意しろ、野暮ったいぞ。まず黒髪を辞めて茶髪にしろ。それからファッションはとりあえずB系で行け。お前は足が短いから黒人風ファッションが似合う」と。僕はそのアドバイスに従った。

 兄はファッションなどの流行に敏感であり、かなりお洒落だったからだ。

 前述したとおり、兄は僕より先に大学に行っていた。その大学とは岡山大学である。

 そして、兄は岡山大学に入学した直後、女関係で苦労をした事があるらしい。

 兄が言うには「入学当初、女関係の事で俺をハメてきた女がいやがった」ということであった。

 兄は恐らく、そのときの苦い経験などから、ファッションなどをしっかりすることの大切さを学んだのだろう。

 ちなみに、これは余談ではあるが、兄は岡山大学在学中に、何故か携帯電話や財布をよく無くしていた。僕は後になって振り返って、あの兄の度重なる失態はなんだったのだろう、と思うことがある。

兄は「飲み屋に飲みに行ったら、尻ポケットの財布が無くなっていた。多分財布をすられたんだ」などと犯罪に巻き込まれたことを示唆するような言動をしていたことすらあるのだ。

 僕はこの件について、2019年初頭に父にあれはなんだったんだろうと聞いてみた事がある。

 しかし父は僕がそれを聞いても「あんまり兄を責めてやるな」と言うだけであった。

 

 

 話を僕の大学進学についての所に戻そうと思う。

 僕は前述したとおり、自分の進学する都留文科大学については何の下調べもしていなかった。だから実際に大学に行ってみてちょっと驚いてしまった。

 都留文科大学というのは山梨県にあったのだが、この大学は中央線から富士急行線に乗り換えて行く、相当辺鄙な場所にあったからだ。

 この大学は山梨県側の富士山から少し離れた場所にあり、ちょっと標高が高い所だった。

 だからこの大学の辺りの気温は相当に低く、冬になると雪もよく降った。

 僕はこの大学の下宿先としては家賃3万6千円とか、そういうちょっと安めの値段のアパートを選んだ。

 僕は私立の高校に進んでしまった事に対して、親に負い目を感じていた。だから、とにかくアパートは安い所に入ろうと思っていた。

 僕が住んだアパートは大きな道路に面した、大学のすぐ近くのアパートだった。

 

 

 さて、いざ都留文科大学に進学してみると、色々と驚くことがあった。

 まずこの大学は敷地に入ってすぐの所に赤の広場、という中央広場が存在していた。

 ロシアの首都であるモスクワに赤の広場という社会主義体制の聖地があるのだが、この大学は入っていきなりその名前の広場があるのだ。

 僕の両親などは、当時そのことを知るやいなや、思わず口を紡いでしまっていたくらいである。

 またこの大学には〝オルグ〟という名称の仕組みがあった。

 これは新しく始まる大学生活について、大学の上級生が新入生にいろいろと教えてくれるという制度であった。

 僕が大学の近くのアパートに引っ越しをすると、直ぐに上級生が現れてそのオルグというシステムに勧誘してきた。だが、僕は「何か胡散臭い勧誘だな」と思いそれを断った。

 ちなみにこのオルグという仕組みについては、本来は左翼が人員拡大の為に使っていたものだったそうである。

 これらのことから、僕は今では「案外この都留文科大学という大学は左派系の大学だったのかもしれない」と思ってしまうのだ。

 

 

 話をこのアパートについて戻すと、このアパートの部屋はちょっと変わったところがあった。

 まず、このアパートの部屋はまともに風呂に入れないという仕組みをしていたのである。

 このアパートの部屋には当然風呂場があり、そこには風呂桶が付いてはいたのだが、風呂場があまりにも小さすぎて、風呂桶をどけて掃除をすることが出来なかったのだ。

 そのせいか、このアパートの大家さんであるおばあさんも風呂ではなくシャワーを浴びることを強く勧めてきてしまうような有様になっていた。

 また、このアパートはどうも奇妙なことも多かった。このアパートでは世間一般的に言えば心霊現象と言われるような現象がたびたび起こっていたのだ。

 例えば、僕がこのアパートに住み初めてから3ヶ月くらいたった頃だろうか。

 僕がこのアパートの朝方に部屋のベッドで眠っていると、奇妙なお経のような声によって起こされる羽目になってしまった。

 僕は目を覚ますなり、「なんだ、この声は。どこから聞こえてくるんだ?」と思ったのだが、驚くべきことにその声は徐々に僕の部屋の方に近づいてきていた。

 そのうち、僕はそのお経のような声は複数人の集団で唱えていることに気が付いた。そして、そのお経を唱えている集団は僕の部屋の目の前を通過しているようだった。

 僕は驚いて部屋のドアの覗き穴から部屋の外を覗いてみた。

 すると、その覗き穴から顔の前に白い布をかけた山伏のような集団がお経のようなものを唱えながら歩いているのが見えたのだ。

 その集団は行列をなしながら、僕の家のドアの目の前を次々と横切っていったのだ。

 それ以来、僕はちょっと部屋にいるのが不安になってしまった。

 

 

 また、例えばこのアパートの部屋ではこんなこともあった。

 僕は大学の同期である長野県出身の宮下善太という友人と、この部屋で怪談話をして盛り上がっていた。

 すると、唐突に僕の部屋の窓の外から手拍子が聞こえた。そしてその手拍子はだんだん僕の部屋まで近づいてきたのだ。僕はそれをおかしいなと思った。

 というのも、部屋の外の道路には砂利が敷き詰められており、砂利を踏み鳴らす音もなしに、僕の部屋に近づいてくるのは相当に難しかったからだ。

 そして、そのまま手拍子は僕の住むアパートの僕のドアの前まで来て、そこでピタリと止まった。

 すると宮下は「やべぇ、帰るわ」と言い、僕の部屋のドアから出た。しかし、そこには誰もいなかった。

 このように、奇妙な心霊現象のようなことがこのアパートの部屋ではたびたび起きていたのである。これはいったい何だったのだろうか。

 

 次にこの都留文科大学の授業はどうだったか、という話に移る。

 結論から言えば、僕はこの都留文科大学の授業はほとんどまともに受けていない。

 これは日本の文系大学の良くないところなのであろう。僕がこの都留文科大学に通っていたときは試験の点を取りさえすれば単位は大体貰えたのだ。

 ただし、ここで書いておかなければならない事がある。

 この山梨県都留文科大学の同級生に町田真一という地元が山梨県の男がいた。

 そして彼はとても真面目に授業を受けていた。だから彼はノートも真面目に付けていた。

 僕はこの町田に何度も講義で取ったそのノートを写させて欲しいと頼んでいたのだ。

 町田は何故か僕に快くノートを見せてくれた。

 試験に関してはノートの持ち込みが大丈夫なことが結構あった。

 つまりは僕は町田からノートを貸してもらったおかげでなんとか試験をやり過ごしていたのだ。

 町田には酒を奢るなどの事はしてはいたが、まぁ、貰った恩に対してあまり釣り合ってもなかったよな、とは感じている。

 

 

 また、僕が大学で参加したサークル活動は美術部とバドミントンサークルとシネマファクトリーであった。

 美術部はなぜか同期の人間が一人もおらず、先輩たちは東北地方の女性達が大勢いた。男の先輩は三島慶太さん、水邊匡志さんなどがいた。

 その先輩たちは皆、絵が凄く上手かったのが印象的であった。

 僕はこの美術部においてはひたすらデジタルアートをやって展示していた。正直なところ、すごい変わったことをやっていたと思う。

 僕は結局、最終的には美術部の部長になった。これは単純に同期が一人もいなかったためだろう。正直なところ、僕としては部長をやるのは時間を取られてしまうので相当に嫌だった。

 

 

 バドミントンサークルの方はと言えば、完全にお遊びだった。

 ただし、僕は昔テニスをやっていたせいか、バドミントンはそこそこ出来た。僕は最初の頃は結構バドミントンをやる気があったのだが、結局は文科系の方に興味が行ってしまったため、どんどんやる気は失せていった。

 

 

 最後のシネマファクトリーについては三年次から入ることになった。

 僕はこのサークルにはすでに知り合いの先輩が何人も入っていた。前述した三島慶太さんや水邊匡志さんなどがこのサークルに所属していたのだ。

 このシネマファクトリーの部長は吉田祐一さんという富士山辺り出身の人であった。

 このサークルの同級生には清水哲平、小西庸央、須藤靖広、関根基道などがいた。

 このサークルの後輩には萩尾悠や中島裕太や佐藤圭都や野路沙織などといった後輩がいた。

 僕はこのサークルにはパソコンを提供していた。だから僕はこのサークルにおける技術部門担当のような扱いだった。

 だからだろうか。ここは映画サークルなのだが、僕は映画をまるで撮っていない。

 そして皆の撮る映画はと言えば、非常にありがちなインディーズ系のちょっと暗めの映画が多かった。僕はここの人間たちから色々と面白い本の話を聞いたりした。

 

 

 ここで一つ言っておくと実を言えば、僕は同級生の藤田美里という女性に興味があったため、彼女が入っていた考古学研究会にお邪魔したことがある。ただ、どうもその部の活動はおかしかった。

 僕がその部の活動に参加してみた際は、部員が集団で自転車に乗り、都留文科大学辺りの遺跡の跡を巡ることになった。

 ただし、その巡る遺跡の趣味はあまりにも渋すぎてただの土の塊などを見る羽目になっていた。どうやらそれはこの部の部長の趣味らしかった。

 僕は流石に面白さがよくわからかったので、この考古学研究会には行かなくなった。

 

 

 この辺りでなんとなく読んでいる人にはわかると思うのだが、僕はつまるところ、大学に進学をしても大学の授業をろくに受けていなかった。

 そしてそれで僕が大学時代に何をしていたかと言えば、ひたすら絵の勉強をしていたのだ。

 僕は高校時代に絵を描かなかったのをちょっとだけ後悔していた。大学時代は本気で絵を描いてみようと思っていた。

 絵は最初からそこそこは上手かった。デッサンがそもそも最初からある程度出来たのが大きかった。

 そして僕は絵を描いているうちに漫画について興味が湧いてきた。

 僕は昔から漫画はたくさん読んでいたので、そちらに興味が行くのは当然だろう。

 前述したとおり、大学の先輩に三島慶太という人がいた。この人は大学時代から出版社の編集が付いていて、大学時代にすでに持ち込みをしていた。

 僕はこの人から藤子不二雄Aの漫画道など、色々と漫画の歴史について教えて貰った。

 しかし、それで僕が単純に漫画を描いたか、と言えばそうでもなかった。

 僕は実を言えば、大学時代はひたすらパソコンのグラフィックソフトを弄っていた。

 僕が主に弄っていたのはpainterphotoshopだった。

 僕はこれらソフトを見ながら「漫画は将来、これで描くようになるだろ」と結構本気で思っていたのだ。

 もちろん大学時代に少しだけ漫画のネームを描いた事はあった。しかし、それを原稿にすることは無かった。そもそもネームの出来が低すぎるのでそれを原稿にしても無駄だと僕は思っていたのだ。

 僕がこのときに思っていたのは、現代における漫画文化というのは既に成熟しきっているということだった。もう日本の漫画というのは相当に全体のレベルが高くなっていた。

 絵は上手くて当たり前。コマは割れて当たり前。さらにキャラ描写は出来て当たり前。そこから脚本の出来の良し悪しが問われる。そういう異常な事になっていたのだ。

 僕は大学時代、これらのことを全て勉強しまくった。

 ただ、勉強内容があまりにも広範に渡っていた為、それが大学時代に身を結ぶことは無かった。

 

 

 ここで、重要なことを書いておく。僕の人生で初めて付き合った女性のことである。

 まず、僕は大学が始まってすぐ、明確に彼女が欲しかった。だから女性にはちょっとだけ積極的に当たってみようと思っていた。

 ただ、そこで一緒に彼女作りを頑張ろうぜ、という風になったのだが井手康平という同級生の男だった(ただし、この男の姓の字については、間違っているかもしれない。僕は彼の姓をイデという音で憶えていたからだ)。

 彼は彼女作りに相当に積極的だった。彼はなにか〝恋愛〟というものを必死こいてやらなければならないような理由のようなものがあるのかもしれないとすら僕には感じられた。

 僕は実を言うと、この井手に散々恋愛方面の話を振られ、煽られ、振り回された憶えがある。

 彼は僕の家に入り浸って、惚気話から始まって、メールのやり取りなどを、やるようになったのだ。

 実を言うと、この男に煽られる形で、大学の同期の女性に対して接し方を失敗してしまったことがある。長野県出身の女性に対して、かなり不自然で不器用なアピールの仕方をしてしまったことが一度だけあるのだ。

 この井手という男はちょっとだけ不思議な男だった。彼は僕にはとにかく甘かった。そしてなぜか彼は、この地元である山梨県出身の同級生からはいまいち評判が良くなかった。

 この井手という男は長崎県出身ということだったが、家がそこまで裕福では無かったらしい。

 彼は奨学金で大学に来ており、その借金の返済についてよく語っていた。将来は手堅く公務員になるしかないな、などと彼は言っていた。

 また、彼は金銭的に余裕がないせいか、いつもアルバイトを朝方までやっており、生活リズムが滅茶苦茶だったのを僕はよく憶えている。

 

 

 そしてそんなことがあった後の大学の二年次辺りの事だったと思う。

 僕は前から一目惚れしていた女性に告白して付き合うことになった。

 その女性の名前は藤田美里という女性であった。僕は大学の一年次にはこの女性にすでに惚れていたのだが、この女性は最初に北海道出身の佐々木寛章という同級生の男と付き合っていたのだ。

 ただ、この佐々木寛章という男は大学一年次に浮気をして藤田を捨てていたのだ。

 それで僕は藤田と少しだけ遊んだりして、告白をしてみると、わりとすんなり付き合うことが出来たのだ。

 この藤田美里という女性と付き合えたのはとても幸福であった。

 特に最初の頃は幸せの絶頂に僕はあったと思う。

 僕はこの女性の見た目が物凄く好きだったが、性格も物凄い好きだった。ちょっと不自然なくらい好みだったと言っても良い。

 だけど、どうもこの子は妙なところがある女性だった。

 まず彼女は佐々木に捨てられたせいだろうか、付き合った初期の段階で精神的に相当に不安定になっていた。彼女はまず、胃が明らかに荒れていたりした。それに彼女は非常に頻繁に僕に会いたがった。彼女は彼氏彼女として付き合えば毎日会うのが普通であるという価値観を持ってしまっていた。

 しかし、僕は大学時代は絵の勉強に専念していたので、あまり会えないという形になってしまっていた。

 彼女はそれが明らかに不満なようで、よく僕を部屋に誘ったりしていた。僕も藤田の事が好きだったので、誘われるとたいていは部屋に行ってしまっていた。

 また彼女は「実は私は早稲田大学に行って心理学者やアナウンサーになりたかった」など、学歴に関する愚痴をときどき僕に言ったりした。何か、高校時代、まともに勉強が出来なかったという後悔が、彼女の言動からは見え隠れしていた。

 

 

 それから、僕たちはときどき二人でデートに行った。しかし、大抵デートは失敗した。二人でどこかに行くたびに、たいてい酷い目にあってしまったのだ。

 例えば所属している映画サークルの映画を二人で見に行くと、座っている席の背後で騒音を鳴らされてからかわれたりした。三島慶太、清水哲平という二人がホールの二階部分後方から物を落としたりしていたのだ。

 また僕たち二人の初めてのデートは富士急ハイランドだったのだが、ここでも妙な事が起きた。 二人で楽しく遊園地で遊んだ帰りの電車で、酔っ払いのおやじに真昼間にもかかわらず、下ネタ込みの意味不明な絡み方をされたのだ。

 僕たち二人はデートに行くたびに、とにかくいつも意味不明な酷い目に遭うことが多かった。

 結果として、僕は藤田とはだんだん会わなくなっていった。

 

 

 すると、藤田はだんだん精神的に病んでいった。

 彼女はMr.Childrenというバンドが作った音楽をヘッドフォンでひたすら聞き続けるなどという行動を僕に見せるようになっていった。

 僕はそれを見てなんとなく「僕の兄と同じだ」と思った。僕の兄も、しんどいことが続くとMr.Childrenというバンドが作った音楽を大音量で聞いていたのだ。

 

 

 そして藤田と付き合い始めてから一年程度が経過した。僕は大学三年生になっていた。

 そのころ、僕は漫画家を志すようになっていた。

 ただし、当時の僕はまるで実力も無かったので、将来的に安定した収入を手に入れられるかわからなかった。

 だから、僕はこのまま藤田と付き合っていると、大学卒業後、藤田のヒモになってしまうのではないかとすっかり恐れてしまっていた。

 また、この辺りで例の佐々木寛章という男が藤田の家にやってきていた。僕は藤田が佐々木と浮気をしたと思ったのだが、本当のところがどうなのかはいまいちわからなかった。

 ただし、僕は「まぁ、もう付き合うのも潮時かな」と思い、藤田とは別れた。

 そもそも僕は、まだまだ藤田の事は好きだったのだが、どうも付き合っていること自体に藤田からも周囲からもストレスがかけられていたのだ。だから別れるのもやむなしという感じだった。

 ただし、今にして思うと、藤田はどうもおかしかった。

 僕は藤田が何かに操作された結果、僕と付き合っていたような不自然さをいつも感じていたのである。

 

 藤田と別れたのちに、僕は少しだけ時間が出来るようになったので、シネマファクトリーという映画サークルに入り浸るようになっていった。

 そして、そこには後ほど、後輩がたくさん入部してきた。その後輩というのは女性が多かった。そして、僕はその女性達から微妙に好意を抱かれていたようだ。

 僕はそのことを不自然に感じていた。

 

 そんなときである。

 僕のアパートの部屋に清水哲平という男が遊びに来た。

 そしてその男は「このトンネルを見たら心霊現象が起きる」という曰くつきの写真を匿名掲示板、当時の2chというウェブサイトで閲覧をしはじめた。僕も清水につられて、その写真を見た。

 そして僕はその写真を見た当日の夜、とても奇妙な体験をした。

 僕が夜、ベッドで眠りにつこうとすると、本棚から何か白い塊が出てきていたのだ。

 翌日、僕は目をさまして「ああ、変な夢を見たな」と思った。

 しかし、その後、僕はしっかりと覚醒している最中に異様なものを見てしまった。

 それは、昼間の明るい時間帯におきた出来事だった。

 僕が住んでいるアパートの風呂場のドアが目の前で勝手に閉まってしまったのだ。

 僕はそれを見て絶句してしまった。

 そもそもその風呂場のドアというのは、風呂場によく設置される、二つ折りになり開くようなタイプのドアだった。

 そしてそのタイプのドアが僕の目の前で動いて勝手に閉じていくのだ。それは本当に異常極まりない光景であった。僕の主観からすると超常現象が起きているように感じられた。

 後になって振り返ってみても、この現象についてだけは上手く説明が付かないと僕は感じている。当時、風などが窓から室内に流れ込んでいたかもしれない。ただ、それだけであのドアが閉まるとは思えないのだ。

 そして、そんな妙なことが起きていた矢先だった。

 僕が深夜、ベッドの中で目をさますと静電気のような感触が背中に走っていた。

 それは、まるで静電気の塊が赤ん坊の形を取って、背中を四つん這いで上下に這っているような感覚だった。

 僕は初めの方はその感触に驚いて怖がっていた。

 だが僕は、その感触にそのうち腹が立ってきた。

 だから僕はその背中を這い回る静電気の塊のようなものを思いっきり手で叩いた。

 するとその感触は消えてしまった。

 ただし、この時のことも妙な夢を見た、という事で説明が付くと僕は考えている。

 寝ぼけ眼の時に起きた妙な事というのはたいてい夢の中の出来事だったりするものである。

 その後、僕は友人の清水哲平を呼んで、「部屋が汚いから精神的に不安定になっているのかも。怖くて部屋に入れないから一緒に部屋を片付けてくれないか」と頼み込み、一緒に部屋を掃除した。

 すると、その際に奇妙なことが起こった。何か動物の腐ったようなにおいが床下あたりから突然匂い始めたのだ。

 そしてその異臭というのは僕だけではなく、清水も嗅ぐ羽目になっていた。僕と清水はその異臭を嗅いで「なんだ、これは」と二人で騒ぐ羽目になった。

 

 

 結局、それらの異常な現象が起きた後、僕は神社でお祓いをしてもらうことにした。

 そしてそのときは、シネマファクトリーに所属する佐々木という男が持つ車で神社まで連れて行って貰った。その神社は山梨県にある諏訪神社というところだったと記憶している。

 僕はこの諏訪神社でお祓いを頼んだ。お祓いの料金は5千円だった。

 僕はこれらの一連の現象については非常に奇妙に感じている。

  そもそも僕は心霊現象などといったオカルトを一切信用していないのだ。

 だから、これらの現象は何か別の要因で起きたのではないかと僕は後になって思うのだ。

 

 また、この異常な現象が起きたということを僕がわざわざ書いたのには一応理由がある。

 僕が自分の身に起こった事についてシネマファクトリーという映画サークルで話し始めると、『原田さん霊感があるんだ』と、いきなりサークルに在籍していた女子達から人気が出始めたのだ。

 この事については僕は本当に怪しいと思っている。

 どうも〝霊感がある〟という女の子や、〝オカルトに興味がある〟という女性が都留文科大学の映画サークルに単純に多かったのだ。

 そして結局は異常な現象が起きたという結果として、回りまわって僕は佐藤圭都という母が北海道出身であるという女性と少しだけ仲良くなった。

 そしてこの女性と一緒に酒を飲むようになり、結果としてこの女性と一晩だけ関係を結ぶことになった。

 しかし、この佐藤という人物もやはりというべきか、何か精神的には不安定だった。

 彼女は高校時代にヤクザであるということを自称する男に付きまとわれたという過去を持っていた。

 僕はそういうこともあってか、佐藤とは付き合わなかった。なにか僕は、彼女に藤田と似たようなものを感じたのだ。

 結局、その後は僕は女性とは付き合わないようになっていった。

 そもそも恋愛という側面で言えば、僕にとっては藤田があまりにも大きすぎたので、「もう女はいいかな」と思うようになっていたのだ。

 

 

 ちなみに僕が大学時代に一番仲が良かった人は一学年上の松本光平という愛知県出身の男の先輩だった。僕は大学時代、この人の家によく通っていたのだ。

 この人はオタクであり、単純に僕とは馬が合ったのだ。

 僕はこの人の家でたわいもないゲームの企画を水邊さんと一緒に作ったりしていた。

 でも、結局それも実ることもなく終わってしまっていた。

 

 

7 持ち込み時代

 

 

 そんなこんなで都留文科大学を卒業した。だけど、やっぱり色々あったせいもあってか、漫画の勉強は足りてなかった。

 僕は両親に頼み込んで、一年ほど仕送りをしてもらいながら、漫画を描くことにした。

 僕が大学卒業後に住所として選んだのは千葉県の習志野市のアパートであった。

 大学時代の友人たちはみんな東京に住んでいたので、僕はあえて友人達と遊ばないために千葉県に住むことにしていたのだ。

 このときの僕はまだ自信が無かったので習作を結構な量描いていた。

 そしてそれを友人に見せたりしていた。

 僕はそもそもネームを描いている量が少ないと感じていたので、とにかく数をこなそうと頑張っていた。

 僕は千葉という土地をいまいち好きになれなかった。

 ここでは、道を歩いているだけで、通りすがりの女連れの男性に「着こなし30点!」などと罵倒され笑われたりしたのだ。

 もうわけがわからない目にこの辺りであっていたのだと僕はこの辺りの事を振り返って思っている。

 また、この習志野市のアパートの部屋は環境が良いとは言えなかった。

 まず、僕の隣りに住んでいた住民がとてもうるさい素行の悪い男だったのだ。

 彼は色々アパートの規約に反した行動を取っていた。

 彼は女性を部屋に連れ込んで同居していたり、猫を部屋の中で無断で飼ったりしていた。

 また、ときおり彼は夜中になると友人達を呼んでパーティーなどを開いていた。そして壁を他の部屋からよく叩かれたりもしていたのだ。

 最終的には、この隣りの部屋で飼われていた猫が子猫を大量に産んでしまった。結果としてこの僕の部屋は年がら年中子猫の鳴き声が聞こえてくるようになってしまった。

 僕はさすがに隣りの部屋からする猫の鳴き声がうるさくてしょうがなくなったので、不動産会社に報告をした。

 すると、この素行の悪い男はいなくなった。

 しかしその後、僕の隣りの部屋には強面の男が入居してきた。

 何か僕はその男の相貌に奇妙な印象を得ていた。

 

 

 僕は、習志野市のアパートの部屋で、ひたすら漫画の勉強をした。

 しかし、それでもまだ勉強が終わりきっていない感じがあった。

 その時点で、ネームに関しては1万枚は書いていたと思うが、僕はいまいち自分の勉強の仕上がりに納得をしていなかった。

 とにかく詰め込んだ脚本の技術などが、いまいち噛み合っていない印象であった。明らかにまだまだこなれていないと僕は明確に自覚をしていた。

 しかし僕はこの千葉の習志野市に住んで一年たった辺りで、人生で初めて原稿を描いた。

 そしてその作品を週刊少年ジャンプに投稿している。

 何故、僕がここで週刊少年ジャンプに投稿したのかと言えば、これは実は大学時代に藤田に遠回しに勧められたからである。

 藤田の地元の友人にジャンプの表紙を塗っているイラストレーターがいるという事を僕は藤田から聞いていたのだ。

 僕はそれでなんとなく縁を感じて、週刊少年ジャンプに投稿したのだ。

 僕が投稿をした作品は出来があまり良くなかった。ただ、一番下の賞には引っかかっていた。

 しかし、このときは単に引っかかった、というだけだった。

 

 

 その後、僕は結局漫画家になることを諦めることも出来なかった。そもそも僕は、あまりにも実家の環境が悪すぎたので、とにかく実家には帰りたくはなかった。

 だから、僕は千葉県の習志野市から東京都の国分寺市のアパートへと移り住んだ。そしてそこで漫画を描こうと考えた。

 だが、引越ししたアパートというのは夜、トラックの騒音があまりにも凄まじすぎて、全然眠ることが出来なかった。

 当たり前の話だが、この辺で両親からの仕送りは打ち切られた。僕は流石に困ってしまった。

 

 

 この辺りで僕の兄が一緒に家に住まないかと誘ってきた。

 僕の兄は岡山大学卒業後、厚生労働省に勤務したのだが、その後、稲城市の市職員になっていたのだ。

 僕は渡りに船とその話に乗った。

 僕は兄と東京都の稲城市のアパートの部屋に一緒に住むことになった。

 このアパートの部屋は和室が二部屋ある部屋で、そこまで良い部屋でもなかった。

 僕たち兄弟が住んでいたのはアパートの一階部分の部屋だったのだが、部屋の上側に住んでいた住民が、ちょっと異常な人間だったのだ。

 僕たちの部屋の上、つまり二階部分の部屋に住んでいた住民は深夜に凄まじい騒音を鳴らすという非常に奇妙な習性を持っていた。

 二階の住民は、深夜、巨大な鉄アレイを何度も何度も床に叩きつけるような音を延々とさせてきたのである。一階に住んでいた僕たち兄弟はその騒音が鳴り出したときは、本当にたまったものではなかった。夜中にそれが起こった時は全然寝られなくなったりしたのだ。

 僕の兄は「なんだよ、これ」と、いつも顔をしかめていた。しまいには二階の住民の問題を不動産会社に相談したりしていた。

 また、このアパートはバイクに乗っている住民が多かった。アパートの前にはいつも大型バイクが置かれており、ときおり激しく音をさせながらバイクが発進していっていた。

 僕はそういった事情から、アパートの部屋にいること自体に凄まじいストレスを抱えることになった。

 結果として僕は部屋を空けがちになり、ろくに眠らずに喫茶店を転々しながら漫画のネームを執筆する羽目になった。そしてそこで大量のネームを書いては没を繰り返した。

 僕はこの生活において、金については治験のバイトでやりくりしていた。

 新薬の実験台になれば、まとまったお金が手に入ったのだ。普通にバイトをしていても、結局は漫画の勉強は出来ないと踏んでいたのだ。そして、恐らくその考えは正解だった。

 

 

 僕はこのとき、集英社に直接持ち込みに行っており、渡辺という編集に作品を見てもらっていた。

 この渡辺という編集はちょっとおかしなところがあった。

 まず、この編集は僕に対して「原稿は持ってこなくも良い、ネームを持ってきて。ネームが良ければ即連載な。絵はこれだけ描ければもういいよ。連載が始まればどうにでもなるよ」と一番最初に言っていたのだ。

 僕はそのことにすさまじい戸惑いを憶えていた。

 なんといっても、僕はそれまでの人生で原稿は百枚程度しか描いていなかったのだ。それで即連載という話は滅茶苦茶なように思ったのだ。

 ただし、この渡辺という編集は僕の担当編集を名乗るわりに、僕に名刺を渡さなかった。

 しかし、それで僕を粗略にしていたか、と言えば、これはもう相当に疑問であった。

 僕は実を言えばこの編集から漫画の印刷についての基礎的な部分を何時間もかけて本当に洗いざらい教えてもらったのだ。そして、それが後の活動において、物凄く役に立つことになったのだ。

 僕は結局、この編集のところに、三回くらいしか行っていないと思う。

 というのも、僕はこの渡辺編集に対して、一度大ポカをやらかしたのだ。

 僕は一時、過去の経験をもとにして柔道漫画のネームを描いた。そしてそれを渡辺編集に一回見てもらったのちに、それを書き直した。

 すると、なかなか出来が良いネームが出来上がった。兄もそれを読んで褒めていた。

 しかし、僕はそれを編集部に持っていく際に、なぜかページに何ページも欠けが出てしまっていた。それでそのネーム自体をお蔵入りにする羽目になったのだ。

 ただし、そんなことがあったとしても、僕の実力が足りていなかったというのは事実だった。

 だから僕はひたすらネームを書き続けていた。

 

 

 そうしているうちに、兄が「お前、ネームを最近編集部に持って行ってないな。だったらバイトでもしろよ。このアパートの家賃でも払え」と言ってきた。

 僕は兄に従って、とりあえずアルバイトをすることにした。

 そこで僕は、東京新宿のデパートの地下街でアルバイトをすることにした。

 そのアルバイトはチェッカーサポートという会社が運営しているレジ打ちのアルバイトであり、時給の方は結構良かった。

 ただ、この職場は女性が多い職場でどうしても上手くいかないことがあった。

 また、後から入ってきたバイトの男に「原田さんってポケモンとかやってそうな顔してますよね」などと馬鹿にされ、ほとほと嫌気が差して結局は辞めてしまった。

 

 

 そしてこれについては重要なので言っておかないといけない。

 僕はこの辺りで警察に補導されたことがあるのだ。その補導の原因というのは自転車泥棒である。

 僕はこの辺りの時期にアパート近くの電車の高架下に捨てて置かれていた自転車を盗んで乗ってしまっていたことがあるのだ。

 ちなみにこれは兄が僕に勧めたのである。「お前にはもう失うものが何も無い。自転車泥棒くらいはやっても問題ないんじゃないか」と。

 僕はこの辺りで自転車を買う金すらなかったので、素直に兄の助言に従って、自転車を盗んで乗ってしまっていた。そして直ぐに神奈川県警に見つかって捕まってしまったのだ。

 結局のところ、僕が盗んだこの自転車はもともと盗難車であった。自転車は埼玉ナンバーであり、埼玉県から盗まれて稲城市辺りまで持ってこられたものだったようだ。

 僕はこの補導によって、神奈川県警に指紋を取られている。

 

 

 それから、僕は最後と思い、集英社に再度持ち込みをした。

 その際に渡辺編集から門司編集へと担当の引継ぎが行われた。

 僕は門司編集と話しあいながら原稿を描きはしたのだが、やはり、この時も僕の漫画のレベルが低かったのでどうにもならなかった。

 ただ、僕はこの辺りでなんとなく思っていた事がある。「俺は週刊少年ジャンプ特有の特殊能力バトルがどうしても苦手だな」と。何か「そんなオカルトを一生懸命説明しても誰も読まないんじゃないか?」という思いが僕にはあったのだ。

 この辺りで僕は、自分の書いている漫画の設定を見ながら、ちょっと素になってしまっていた。

 

 

 僕はこの辺りで結局山口県の実家に帰った。

 流石に東京の環境での執筆に限界を感じたので、実家で作品を書くことにしたのだ。

 しかし、やはりというべきか、実家の環境は最悪だった。

 僕は実家にいることにとにかくストレスばっかり感じてしまい、家に居たくないと強くすぐに思ってしまっていた。

 当時は父も母も、まるで僕の真剣さを汲み取ってはくれず、僕の漫画を適当にあしらっていた。

 例えば僕が部屋で原稿を書いていても、両親はごく普通に部屋に入ってきたりしていた。

 僕はいつも通り実家にいるのがとにかく苦痛になっていた。

 

 

 ちなみに、この僕が漫画を出版社に持ち込みしている時期、僕の両親はいずれも重大な病気にかかってしまっている。

 僕の父は山口大学医学部付属病院の医師の誤診、症状の見逃しから重度の心筋梗塞を発症してしまった。

 そして僕の母も健康診断を定期的に受けていたのにも拘わらず、なぜかいきなりステージ4の乳癌を発病してしまっていた。

 この乳癌は進行性のものだという説明を医師はしていた。だが、僕はこれについても誤診が原因だと見ている。母も「検査を受けていたけれど、なぜか癌が発覚しなかった」と、この件については証言していたのだ。

 つまり僕はこの大学卒業後の時期は、両親の重病についての症状を聞きながら、漫画の持ち込みをする羽目になっていたのだ。

 

 

8 成年向け電子書籍作家時代 1

 

 

 僕は結局実家の環境では漫画を描くことが出来なかった。だから僕は父に家を出て行きたいと告げだ。

 すると父は僕に対して「これでダメならもう諦めろよ」と言って、30万円ほどくれた。

 僕はその金を持って東京に行った。

 そして、杉並区方南にあった妙高荘というアパートを吉田裕一さんという昔の大学の映画サークルの部長だった人に紹介してもらった。

 このアパートは実は以前に吉田さんが下宿として使っていたところだった。僕は吉田さんと遊んだ際に、このアパートに宿泊をしたのだが、ここが案外静かで良いアパートだというのは知っていたのだ。

 ちなみにこの妙高荘というアパートは4畳半で風呂無しの物件だった。しかしその分、家賃は格安だった。

 しかし、僕がこのアパートに引っ越してきた当初、やはり奇妙な事案は発生していた。

 光回線の勧誘を行う勧誘員がアパートの内部に侵入してきて、僕に光回線への加入を勧めてきたのだ。

 僕は今にして思うと、これは本当に異常だったと思っている。僕がこのとき住んでいた妙高荘というアパートは部屋に入るための廊下が屋内にあったのだ。つまり、勧誘員は物件の内部に入り込みながら光回線の勧誘を行ってきたのだ。

 僕はその光回線の勧誘員が非常に若い男性だという事を気にして、思わず光回線に加入した。若い男性の仕事を応援してあげようとも思ったし、どうせ自分の仕事にも必要だと思ったのだ。

 しかし、いざ契約してみると、その契約の手順に不備があったのか、僕のアパートの部屋は一か月ほどインターネットが使えない状況になってしまった。

 僕はそんなひどい状況に陥りながら「東京に来た瞬間これだよ」と、うんざりしてしまったのをよく憶えている。

 

 

 さて、僕はそのアパートに光回線が接続されてから「金はあまりないけどどうしよう。何をすりゃいいんだろうな」と煩悶していた。

 困った僕は大学時代の先輩である松本光平さんに相談を持ち掛けてみた。

 すると松本さんはデジタルの電子書籍があるからやってみないか、という話を持ち掛けてきた。ちなみにこのとき、松本さんがやろうと言っていた電子書籍というのは成年向けであった。

 その当時、僕は日本の一般向けの同人電子書籍市場もちょっとだけ視野に入れてはみたのだが、その当時の一般向けの同人電子書籍市場では基本的にはパロディをやっていてオリジナルというジャンルはまるで流行ってもいなかった。

 それに僕の腕前の方で言っても、そもそも一般向けで売れるほどのレベルに達していなかったので、僕はエロ同人誌を描くことにした。

 ちなみにこれは元ネタありの本物のエロ同人作品であった。ただし、この当時、市場では漫画が全然流行っていなかったので、僕はCG集を描くことになった。

 

 

 僕はしらふでは恥ずかしくてとても描けなかったので、ウォッカをがぶ飲みしながら酩酊状態で原稿を描いていた。

 本来の絵柄を隠す為にトレースもやったりした。

 ただ、この原稿を描いている途中、松本さんが離脱した。仕方なく僕は清水哲平という男にデザインを依頼した。

 僕はこの作品の執筆中、本当に借金まみれになりながらボロボロになりながら作品を描いていた。

 そもそも僕は、金がなすぎてスキャナーを持っていなかったため、線画の取り込みさえまともにできなかったのだ。だから僕は、板タブレットによる、ベジュ曲線制御によって線を引いていくことになった。

 僕は作品が完成するなり、それをdlsiteなどの同人電子書籍市場に流していった。

 すると、僕の作品はサイト側の広告がいきなり入った。僕の作品の売り上げはいきなりトップだった。

 僕は自分の作品が売れたとかそういうことは本当にどうでもよかった。とにかくお金が手に入ったのが本当にうれしかった。それに僕は「絵柄も本来のものとは完全に変えているので、そう簡単には後でばれないだろう」と思っていた。

 僕はそもそも、このとき手に入れたお金を使ってジャンプに投稿する漫画を描こうと思っていたのだ。

 

 

 僕はなんとか儲けを出すことが出来たという事をアパートを紹介してくれた吉田さんに報告した。

 すると、吉田さんはいま金があるというなら、ちょっと仕事をしてみないかという事を僕に告げてきた。吉田さんは電通系の企業でプロデューサー業をやっていたのだ。

 そのとき吉田さんは、ちょうどアマチュアで集まって個人製作の映像作品を作ろうとしており、その作品のコンセプトを伝えるコンセプトアーティストを必要としていたのだ。

 僕は「アマチュアで集まってやるということなら僕が参加しても良いかもしれないな」と思い、その企画に参加してみることにした。

 吉田さんが作ろうとしていた映像作品というのは〝エイリアンが江戸時代の日本に侵略してくる〟という感じのものだった。だから、僕はまずエイリアンのデザインをすることになった。

 吉田さん曰く、エイリアンのデザインは地球に侵略してくる宇宙船と日本に降りてくる兵隊ロボットの二種類が必要ということだった。そして、そのデザインを後から3Dアーティストが3D化するということだった。

 僕は最初のデザイン案では鳥山明みたいな丸っこいロボットを他の人の描いた絵を色々模倣して混ぜながら描いていた。しかしその手の絵は吉田さんから没を食らいまくった。

 どうも吉田さんはエイリアンのデザインとして、深海魚とかBeksinskiとか、ちょっとグロテスクな方向性を希望しているようだった。

 僕は「え? でもそのデザインって、凄い大変じゃないですか? それを3Dモデルにして動かすと労力ヤバイでしょ?」と吉田さんに質問した。

 しかし吉田さん的には「そんなことはお前が気にすることじゃないんだよ」という感じで取りつく島もなかった。

 僕は吉田さんの希望に応える為に資料を買い集め、それを参考にかなり造形を勉強した。

 そして、最終的には造形をしっかり飲み込んでエイリアンのデザインを大まかにした。

 すると、吉田さんは僕のデザインを気に入ったようだった。

 そして、「そろそろ企画を動かすので一旦企画参加者同士で集まろう」吉田さんは言ってきた。

 

 

 僕は吉田さんの働いている会社に呼び出された。

 吉田さんの働いている会社は電通のデジタル事業部robotという会社であった。

 そこに行ってみると、何故かそこには、プロの3Dクリエイターの方がいた。

 その人は岩橋まさきという兵庫県出身の男性であった。

 僕は「あれ? アマチュアでやるって言ってたよな。なんでいきなりプロの人がいるんだ?」と激しく戸惑いながらも、岩橋さんとコミュニケーションを取っていった。

 ただし、自分がエロをやってたということはこの人にはとても言えなかった。

 そもそも、プロの作家とエロ同人作家みたいなのが絡むのは変だなと単純に思ったのだ。

 ただし、僕はこの企画のプロデューサーである吉田さんには全て事情を話していたし、言わなくてもいいのかなと思っていた。僕の素性をプロの作家の人に言うのはかえって失礼かと思ったのだ。

 そして、いよいよ、このrobotという会社内で会議が始まった。

 しかし、何故かその会議の冒頭、吉田さんの働いている部署のボス(ボス、という風に吉田さんは呼んでいた)という人物が現れた。僕は「あれ? 個人製作じゃないの? なんか会社の偉い人来てない?」と相当に疑問に思った。

 このボスという人は僕に対して「うちで仕事しないか」などと誘ってきたりした。

 しかし、僕はもともと漫画を描く気だったので、その提案にはあまり乗り気ではなかった。

 あくまでも僕は、「大学時代にお世話になった先輩の企画をちょっとだけ手伝うか」という意識で企画に参加をしていたのだ。

 僕はこのとき、なんだか無理矢理取り込まれているような感覚を得て、そのrobotのボスという人物にちょっとだけそっけない態度を取ってしまった。

 

 

 それから、このrobotでの企画が進行していった。

 僕から見ると、この企画は多数の問題を孕んでいるように見えた。

 そもそも、この企画の監督の方(黒沢清の弟子を名乗る人物。名前を覚えていない)とプロデューサーである吉田さんの話がいきなりおかしかったのだ。

 この二人は作った映像をyoutubeに企画として出展し、企画ごとハリウッドの映画会社に買って貰うという話をしていた。しかし、驚くべきことに仕事の報酬に関する契約書は存在しなかった。

 だから、僕はこの企画のコンセプトアートを無給で描いていた。

 ただし、僕はそのこと自体には不満はなかった。というのも、最初の話ではアマチュアのやる個人製作という感じだったからだ。もっとも、それも企画が進行していくにつれて怪しくはなってしまっていたのだが。

 その後、企画はさらに妙な方向に進んでいった。

 デジタルハリウッドという専門学校に通っている専門学生を企画に参加させようということになってきたのだ。

 どうやら二人は専門学生をただ働きさせて、映画内に登場する敵役のロボットを製作させるつもりのようだった。

 僕はそれを聞いて、この密度のデザインのクリーチャーを学生に作らせるということに相当に戸惑いを憶えた。流石に滅茶苦茶だと思ったのだ。

 ただし、僕も吉田さんが考えていることは嫌というほどわかった。

 日本の3Dモデルを使った映画にありがちな〝3Dモデルの密度不足〟。そしてそこからくる現実感の不足。この問題というのはいつも日本映画には付きまとっていたからだ。

 そして、ハリウッドはその当時、とにかく3Dモデルのデザイン自体の密度を上げることでリアリティの問題を解決していた。

 吉田さんはその手法を日本映画に持ち込もうとしていたのだ。

 ただし、それをする負担は直接的に3Dモデルを制作する3Dクリエイターに降りかかる。

 僕は「この企画、3Dクリエイターが無給というのは相当厳しいな」と感じていた。

 

 

 僕はこの企画に参加している間に、監督の方と吉田、それから出演する役者さん(名前を覚えておらず)とでステーキハウスにステーキを食べに行ったことがある。

 その際に、吉田さんは「もし、いま作っている企画がアメリカの映画会社に売れたら、このステーキを食べに来ているメンツで山分けをしよう」などと言い出した。

 僕は、「ええ? 3D作ってる人は?」とそれを聞いて絶句してしまった。

 また吉田さんや監督は「世の中、悪い奴が成功するようになっているんだよ」ともその場では言っていた。僕は「それはどうなんだろうな、悪い奴ってみんなにバレていると無理じゃないかな」と思ってしまった。

 

 

 それから企画は数多くの問題を孕みながら進行していった。。

 吉田さんには悪気がなかったのかもしれないが、吉田さんのプロデューサーとしての仕事にはおかしなところも多かった。

 例えば、吉田さんは僕にデザインを依頼していたのだが、そのデザインの締め切り日が何故か縮んだりしていたのだ。

 それから吉田さんはもっと妙な事もやってきた。僕がデザイン案を見せた際に、一旦OKを出しておいて、後になってそれを勝手に修正したのだ。そしてその上で「原田さー、ここのデザイン甘いんじゃない」などと言ってきた。僕はこれに関しては、先に言ってくれれば直したのになと思ってしまった。

 またこの企画では参加するメンバー内でしばしば会議を行っていた。

 吉田さんはその会議の待ち合わせに一時間も遅れてきたりしていた。

 

 

 そして、その会議の様子はどうだったと言えば、別にやらなくても良いのではないか、という感じだった。その会議にいざ参加をしてみても、ただただ時間を浪費するだけで何も企画は進展しなかったからだ。

 僕からしてみるとこの企画というのは、3Dクリエイターだけが頑張って3Dモデルを制作しており、実写班は全然動いてないように見えた。

 例えば、この企画において、監督はロケハンに行くと言って、富士の樹海などにカメラマンと一緒に撮影に行っていた。しかし、そのカメラマンと一緒に撮った映像というのはまるで見せてはもらえなかった。監督がなぜか「映像が撮れなかった」などと意味不明な事を言っていたのだ。

 結果として3D班の人たちは現地の資料無しで3Dモデルを制作することになっていた。

 それから、絵コンテを監督が書けないということで役者の人が何故か作品の絵コンテを描いてきた。

 そして、何故か最終的には僕が絵コンテを描くことになったのだ。

 僕は「絵コンテは描いたことがないからよくわからない。色々と資料を見たい。家で描かせて欲しい」と言った。でも吉田さんたちは「会社に来て、俺たちの前で描け」、と言ってきた。

 僕は「え? 絵コンテってそうやって描くもんなの? つーか、そんなに短時間で描き終わるの?」と物凄い不安になった。

 

 

 極めつけは、その絵コンテを描く際の日程だった。

 吉田さんと監督は僕と打ち合わせをしながら絵コンテを描く日取りを決めようと言ってきた。

 候補日が何個かあり、僕がそこから都合の良い日を選ぶという形だった。

 僕は「絵コンテを描くのはいいですが、コミケ前日のこの辺りの日取りは絶対に無理ですからね」とあらかじめ吉田さんと監督には言っておいた。それは僕が運営していたアマゾネスというサークルのコミックマーケットの初参加の前日の日取りであった。

 実はこの初参加の日は、僕の同人活動のアドバイスをしてくれていた松本光平さんが名古屋から応援にいらっしゃるということだったのだ。

 僕はこの人とコミックマーケットの前日に会い、色々とコミケ当日の予定などを話し合いながら、久しぶりに遊ぼうと思っていたのだ。

 

 

 だけど、絵コンテを描く日取りというのは、よりにもよってそのコミケ前日に決定した。

 僕はその日、会社に呼び出されて、会社の一室で絵コンテを描く羽目になった。

 僕の目の前で、監督が身振り手振りで役者やクリーチャーの演技について語った。僕はそれを聞きながら絵コンテを描いていった。

 僕は絵コンテ用紙を一応作って持参していたのだが、その絵コンテのコマがあまりにも小さすぎて上手く絵も描けなかった。僕はこのわけのわからない作業に異様にストレスを感じてしまった。

 僕は当時、煙草を吸っていたのだが、この日吸う本数は異様だった。

 そのうち、灰皿の配置が家の配置とは違うせいだろうか、煙草を机に乗せて焦がしてしまった。僕はなんだか悪い事をしたなと思って、本当に意気消沈してしまった。

 この前日の絵コンテ作業のおかげで翌日のコミックマーケットは散々だった。

 僕はもうすっかりやる気を失っていた。

 僕は売り子に売り場を任せてしまい、適当に広場の方でずっと煙草を吸っていた。

 ただ、後でびっくりしたのだが、僕のサークルには結構お客さんが来ていたようだった。

 しかもそれが、ダウンロード版を買ったというお客さんだった。

 僕はそれはまったく予想していなかったので、それを聞いて本当にびっくりしてしまった。

 僕はこの初参加のコミックマーケットでCDーROMに焼いた作品を結構売りさばいた(ちなみに大阪の会社にCDーROMは焼いて貰った)。ちなみに、この作品、値段は1000円と極めて高かった。これはCDーROMを摺るのが高すぎたのが原因だった。

 このとき僕はショップに委託した分を含めると千本ほど売ったと思う。だが、僕の心は晴れなかった。

 僕は「もう二度とコミックマーケットには参加しない。ダウンロード版を買ったという人が、わざわざ高額になった商品を買いに来るのは本当に意味がわからない。非効率的だよ」と心の底から思ってしまったのだ。

 

 

 そして僕がこういう活動をしていた2011年3月11日、東日本大震災が発生した。

 僕が当時住んでいたのは妙高荘の二階であった。ここは古い木造アパートであり、地震によってこのアパートは波のように揺れた。僕はその揺れで酔ってしまったくらいだった。

 僕はこの地震で発生した放射能漏れが怖くなり、一時的に山口県山口市の実家に帰った。

 そして僕は、小郡駅前にあったコンフォートホテルの一室で引き続き映画の企画の宇宙船のデザインをする羽目になった。しかし、慣れない環境だったからか、デザインは上手くできなかった。

 僕は結局この妙高荘の一室に戻ることになった。

 そして僕は、地震で波のように揺れる木造家屋の中で宇宙船のデザインをした。

 気が付くと三日ほど経っていた。なんとなくイメージで描いたデザインは完成していた。

 手前味噌だが、宇宙船のデザインは良い出来だったと思う。

 

 

 僕はその後、宇宙船のデザインを吉田さんと監督に提出した。

 そしてそれからは映画の企画の会議には出なくなった。

 コンセプトアーティストとしての僕の仕事は終わったと思ったのだ。

 そして、僕はその辺りで気がついた。エロ同人を描いて稼いだお金が全然無くなってしまったということを。

 僕は最初の作品で400万円くらい稼いだ。だけど映画の企画の参加を辞めたころには、もう100万円程度しか持っていなかった。

 そして、ちょうどその辺り、門司編集という、当時は僕の担当だったジャンプの編集の人が「もう漫画描かないの?最近来てないけど」という風に連絡をしてきた。

 僕は「もう、お金が無いからやれないな」と思って適当に対応してもう漫画は持っていかなかった。

 そもそも、僕は東日本大震災後に発生していた、度重なる余震の影響もあってか、本当に東京が嫌になっていた。

 そこで、僕は愛知県名古屋市に行くことにした。そこには同人活動の相談役をやってくれていた松本さんが住んでいたのでちょうど良いかなと思ったのだ。

 そうして僕が愛知県名古屋市に発つ直前、吉田さんが僕の住む妙高荘を訪れてきた。

 吉田さんは驚くべきことに、例の企画の監督にならないかということを言ってきた。

 僕はその話に本当に驚いた。監督はどうしたんだろうと思ったのだ。

 僕は結局、その話は断った。僕はそもそも映画監督をするだけのお金なんて持ってなかったし、もともと映画監督になりたいわけでもなかったからだ。

 僕が話を断ると吉田さんは僕にこう告げてきた。「お前元気なのは良いけどさ、電通に逆らって生きていけると思うなよ」と。

 僕はそれを聞いて、「そもそも俺、全然逆らってなくない?」と思ってしまった。

 

 

9 成年向け電子書籍作家時代 2

 

 

 そんなこんなで愛知県名古屋市に僕は移り住んだ。

 僕は名古屋市で住む物件を探す際に、松本さんに少しだけ相談をした。

 松本さんは東建コーポレーションで働いており、物件等の情報に詳しかったのだ。

 僕は松本さんと共に東建コーポレーション系列の不動産会社に行き、大須のシャンポール大須という物件を紹介してもらった。ここは松本さんの実家のすぐ近くの物件という事もあり、相当に環境は良かった。

 僕がシャンポール大須で住んだのは303号室だった。

 このアパートは正直なところ、これまでの人生の間で一番環境が良い住所だったと僕は記憶している。

 このアパートは光回線の勧誘が非常にしつこかったのが印象的ではあったのだが、とにかく夜は静かだったからだ。僕はこの名古屋市でようやく夜、眠れることに成功したのだ。

 ただし、僕の部屋に隣接する部屋に住んでいる住民というのは非常に強面の男だった。

 僕はときどき挨拶をしていたのだが、何かこの隣人が異様な雰囲気を纏っていたのをよく覚えている。

 

 僕はとりあえずこちらに来た当初、いきなり金に困っていた。

 だから、仕方がなしに作品を描くことにした。

 僕は東京で過去にあった、プチエンジェル事件に目を付けていた。僕は東京で本当に酷い目にあったので、「東京を舞台にした酷い作品でも作ろーぜ」と考えたのだ。

 しかし、引っ越しをしたせいで作品の予算は70万円程度しかなかった。

 僕は、この予算でなんとか売れる物を作ることを必死こいて考えた。

 僕はそして「大きな画像サイズのCG集の決定版を作る」と決意した。

 僕は、以前に集英社で教えて貰った主線の圧縮比率に従って、A3二枚重ねによる、フルHD比率向けの原稿を作っていった。それはコマの配置を厳密に計算しながら考案していったものだった。

 しかし、実際に原稿を描き始めるといきなり問題が発生した。あまりにもサイズが大きすぎて絵が安定しないのだ。僕が作成した原稿のサイズはF8のキャンバス程度になっていた。

 僕は当時、アニメ塗りを採用していた。それは松本さんに勧められたスタイルだった。僕はこのアニメ塗りに目をつけて、この作品ではそのアニメ塗りにデフュージョンフィルターやハレーションフィルターを入れることを思いついた。そうすると、巨大な画面での画面密度が比較的少ない作業量で維持出来たのだ。

 

 作品の制作は至難を極めた。

 それというのも、僕はこの作品制作の最中、大学時代の先輩である原野厚さんのTRPGのグループに参加をしていたからだ。

 僕はそのTRPGのグループにD&DというアメリカのTRPGのセッションに参加をしながら、絵をひたすら描いており、そこでグラフィックソフトの技法を片っ端から試していたのだ。

 ただ、このTRPGのプレイの方はどうだったのかと言えば、最悪の一言だった。

 なんといっても、僕はTRPGをまったくプレイしたことが無かった。さらに言えばD&Dの本は翻訳が明らかにおかしくて、まともな日本語で文章が記述されていなかった。

 しかも、何故か松本さんは僕にTRPGのやり方やタブーについては教えてくれなかった。

 松本さんは僕に1対1でやるチャットプレイのようなものを教えてくれただけであり、僕に対してTRPGの原則的なルールを教えてはくれなかった。

 だから僕はほとんどまともにTRPGをプレイできなかった。よく仕組みがわからなかったのだ。

 結果として、僕は「なんっか上手くプレイが出来ないな」と不満を憶えながらセッションに参加することになった。TRPGは面白いというよりもひたすら時間がかかってプレイすることにもプレッシャーがあった。

 セッションに居た他のメンバーの関係もぎくしゃくしまくり、僕は原野さんにとても悪いことをしたと後ろめたい気持ちでいっぱいになっていた。

 

 

 僕はそんなことをしながらも、相当苦労しながら作品を制作していった。

 そもそもアニメ塗りで画面密度を維持するのは相当に困難だったし、僕が当時使用していたclipstudioというグラフィックソフトは開発されたばかりでフリーズも多かった。

 しかし苦労をしながらも、最終的には、僕は100万円程度の借金をしながら作品を完成させた。

 

 

 ただし、やはりというべきか、予算の少なさが聞いたのだろう。

 作品はそこそこの完成度にはなったのだが、完結しなかった。

 僕は仕方がないので、適当に続編の予定を入れて前編として作品を出した。

 作品はやっていることがあまりにも滅茶苦茶すぎたせいで、悪目立ちした。

 僕の作品はまたしても売れた。当時の市場にあった作品の中ではトップの売上だったと思う。

 

 

 しかし、売上が多かった半面、僕の生活はそこからドンドン荒れていった。

 僕は、その作品を描いたことで、なにか一線を越えてしまった感じが確かにあった。

「なんだか、俺の人生って、ろくでもないことが意味がわからないレベルで図ったように起きまくるよな」僕はそういうことを時々考えたりした。

 その辺りから僕の喫煙は酷くなった。そしてコーヒーも毎日大量に飲むようになっていった。

 そして、そのせいで睡眠時間が毎日2~3時間づつズレるようになっていった。

 僕は名古屋市では昼に眠ったり夜に眠ったりしていた。

 だけど、僕はそれが本当に幸せだった。僕はこの名古屋市ではたくさん眠れる事が出来たのだ。僕は人生で初めて安らかに眠ったような気がしていた。

  

 僕はそれから作品の続編を描き始めた。

 しかし、作品の内容というのはドンドン暗くなっていった。これは多分、僕が感じていた自身の未来の暗さというのを反映していたのだろう。

 何かが間違っているように僕は感じ始めた。作品の内容は刺激ばっかりが強くて、救いがなかった。

 そして、僕の人生ではプライベートでもいつもの通り妙な事が起きまくっていた。

 例えば、僕は雨の日に、家の近所の道を自転車で走っていた。すると視界が非常に悪い交差点でほかの自転車と接触事故を起こしてしまったのだ。自転車にはおばさんが乗っていた。

 僕はその際に交差点である程度減速をしていたので、そこまで酷い事故にはならなかった。しかし、その接触をしてしまったおばさんは烈火のごとく怒り始めた。

 僕はそれを変だなと思ってしまった。そのおばさんは交差点に入る際、まるで減速をしていなかったからだ。僕は「なぜ、このシチュエーションで俺が怒られることになるんだろう」と本当に嫌になってしまった。

 僕はその事件以来、もう自転車が嫌になってしまい、自転車に乗ること自体を辞めてしまったくらいだ。

 それから、この辺りで僕の母がオレオレ詐欺の電話に引っかかってしまった。

 母は「和樹(僕の実兄)が不倫をしてお金が足りなくて困っていると電話で言ってきた」と僕に告げてきた。

 僕は「それは本当に兄貴なのか? 本人か?」と聞いた。母は本人だと答えた。

 母は「どっちみち和樹の口座に金は送るから大丈夫。100万円ほど足りないから送って欲しい」と僕に言った。

 僕はこのとき、ちょうど金をたくさん持っていたので、言われるままに母に100万円を送金した。

 その後、結局、母がオレオレ詐欺に引っかかっていることが判明した。

 そして、母は僕が送金したお金を返してきた。

 

 

 僕はこの辺りで、どうやら僕の実家の両親が金銭的に困窮していることがわかってきた。

 それから、母は僕に仕送りを頼むようになり、僕はときどき母に仕送りをした。

 母はまた、乳癌の治療の後遺症から精神的に限界が来ているようであり、僕に家に帰ってくるように催促もするようになってきた。

 しかし、僕は実家の環境の悪さがわかっていたので、それを全部無視していた。

 僕は僕の実家の環境というのが、とても人が住めるレベルのものではないというのがなんとなくはわかっていたのだ。

 そして、この辺りで僕は〝漫画を描こうとすると強烈なストレスにさらされる〟という奇妙な現象に遭遇していることに漠然と気が付いてきていた。

 

 

 そして、こういった奇妙な現象は僕の同人活動に対するアドバイスをしていた松本さんの身にも起こっていたようだった。

 松本さんは実家から自転車に乗って通勤をしていたのだが、その自転車が盗まれたのだ。

 ちなみに松本さんは実家のガレージに自転車を置いていた。それが盗まれるというのはちょっと異常なことのように僕には思えた。

 また、松本さんが使用しているamazonのクレジットカードが第三者に勝手に使用されてしまうという事案も発生した。

 そのうち、松本さんのお母さんが更年期障害になってしまったらしく、松本さんは心痛から体調を崩したりするようになっていった。

 松本さんはまだ若いのに、白髪を生やすようになっていった。

 

 

 そのうち松本さんも、少しだけ様子がおかしくなっていった。

 僕と松本さんは毎週土曜日に昼飯と夕飯を一緒に食べていたのだが、その店が固定されるようになっていったのだ。

 僕たちは昼食には北海道で開発されたというスープカレーを出すマジックスパイスという店でカレーを食べるようになっていった。

 そして夕食にはわさびや月姫という居酒屋に行くようになっていったのだ。

 そして、その居酒屋ではときどき注文した料理が来なかったりするのだ。

 そんなとき、僕たち二人は「なんだかもう、しょうがないな」という雰囲気となり、店を出るのが常だった(僕は「あれ? マジックスパイスでは何も起きなかったのか?」と、今ではちょっと不思議に思っている)。

 

 僕はそんな状況の中で萩尾悠という大学時代の後輩に手伝って貰いながら、続編の原稿を描いていた。

 この時、僕は3Dレイアウトに目を付けており、poserを経由してメタセコイアとdazを使うようになっていた。

 3Dレイアウトはデッサンの正確な補助にはなったのだが、扱いは非常に難しかった。

 僕はその3Dレイアウトを使用したコマ割りに慣れるのに、ずいぶん時間をかけてしまった。

 しかし、僕はその3Dレイアウトを使って描いた原稿を200Pほど描いた。その原稿は主線と背景線を入れて下塗りを終える段階まで行っていた。

 しかし、僕はもうその辺りで漫画を描くこと自体が嫌になっていた。

 僕はこれが2016年の終わりごろの状況だったと記憶している。

 

 

10 成年向け電子書籍作家時代 3

 

 

 僕がそうして漫画の制作にまごついていると、小西庸央という大阪出身の男が接触をしてきた。

 この男は前述したとおり都留文科大学の同期であり、シネマファクトリーという映画サークルで一緒だった人物である。

 この小西という男はamazonで古本屋をやっていた。

 僕は大学卒業後、この小西という男や関根という男など、過去に大学の映画サークルで付き合いがあった男たちと共に、スカイプで通話をしながら酒を飲んだりしていたのだ。

 ただし、大学卒業から日が経つにつれて、その通話というのもあまり行われなくなっていった。

 僕の大学時代の友人達は皆、小説や映画など創作方面の道に進んでいたのだが、ほとんどの人が上手くいっていなかった。彼らは時を経るにつれて、そういう活動をあまりしなくなっていった。

 そして、これはよくある話だとは思うのだが、僕たち大学時代の友人達は現実の仕事に追われるうちに自然に距離を取るようになっていったのだ。

 そんな中、小西は「みんなで久しぶりに話でもしないか」と持ちかけてきたのだ。

 僕はその話を快く受けた。

 

 

 それから、僕達シネマファクトリーの面々は久しぶりにスカイプをやった。

 そのときのメンバーは僕と小西庸央と関根基道そして須藤靖広の四人だった。

 話を始めるなり、唐突に小西が切り出してきた。

 「俺がお前をプロデュースしてやる」

 僕はそれを聞いて随分驚いてしまった。僕はそのあまりにも唐突な申し出に思わずしばらく黙り込んでしまったのをよく憶えている。

 そして考えに考えた結果として、僕はなんとか彼を傷つけないようにしようとも思っていた。

 というのも、僕は彼の仕事であるamazonの古本屋の仕事というものについて、あらかじめかなり知っていたからだ。

 この小西という男の仕事はamazonの古本屋である。そしてそれは一般的にはせどり屋と呼ばれたりもする。

 このamazonの古本屋というのは実を言えば、現実の古本屋とはちょっと違っているのである。

 例えば、このamazonの古本屋は実際に街にある古本屋とは違い、価値のある古本を保存しておく機能というのが薄い。

 また、このamazonの古本屋というものは、amazonで古本を販売すればするほど、amazonに日本の金が流れていってしまうのだ。

 そして、このamazonの古本屋にはさらに大きな問題もあった。

 このamazonの古本屋では、在庫を抱えるリスクを抑える為に、売れない本を1円という非常に安価な値段に売ってしまうことがあるのだ。僕はこれが本当に不味いだろうなと思っていた。

 その一円で売られる本というものも、出版社の編集や作家が寝る間も惜しんで作った物ではあるわけである。

 商売だから仕方がないとは言え、他人の本を1円で販売してしまった者が電子書籍のプロデュースをすることは非常に難しいだろう、と僕はすぐに思ったのだ。

 だから僕は「いい。いらない」と小西に答えた。

 ただし僕はそこで理由を説明することが出来なかった。

 そのスカイプの場には小西の他に関根と須藤という二人の人物もいたのだ。

 そして、この二人は小西が何をやっているのか、いまいちわかっていなかったのだ。

 ちなみにこの関根と須藤は反米思想を少しだけ持っていた。だから僕が小西がやっている事について正確に説明をしてしまうと、小西が二人から嫌われてしまう可能性があったのだ。

 僕は「なんだよ、この状況、すっげーキツイな」と思っていた。

 

 

 僕がそう言うと、小西は見事にキレてしまった。

 小西は勢いのままに「俺は金を持っているんだぞ、結局、世の中、金を持っている奴が強いんだ」などと言い出した。

 僕はそう言われてもう本当に困ってしまった。

 僕から見ると、小西のやっている事というのは、僕の作品をネット上で違法アップロードして儲けを出すことと、厳密に言えばあまり変わりがなかったのだ。当時の法規制というのはそこまで同人作品の違法アップロードに対して厳しくもなかったからだ。

 僕はなんとなく、小西に対して悪感情を抱いてしまった。

 ただし僕は、小西が僕を心配してこの提案をしたというのも流石にわかってはいた。だから、どうすれば良いのかいまいちわからなくなっていた。

 小西はそのうち「まずお前は須藤を雇え。うちの古本屋で働いている漫画家志望の人間をスタッフとして雇ってもいいぞ。とにかくカラー漫画を大量生産するんだ」などと滅茶苦茶なことを言い出した。

 僕は最初のうちはのらりくらりと馬鹿のふりをしながら、小西の提案を退けようとはしていた。

 そのうちに僕は「よし、大量生産とか言うんなら技術的に無理だという路線に話を切り替えよう」と思った。ただ、僕は正直な事を言えば「うん。その大量生産をする為に3Dレイアウトを作ってたんだけどな」とも思っていた。

 僕はそれからpainterの風量や紙の傾きなどを計算するエンジンを利用した水彩で描いた絵を見せながら「こういうの、他の人が描くの無理だと思うよ。だから量産だって難しんだ」と言った。

 そして、自分がこれから、積み重ねてきた技術を使ってフルカラーの一般向けの漫画を描くつもりだということも告げた。

 すると、小西は急に元気がなくなってしまった。

 小西はぐったりとした様子でぼそりぼそりとこのような事を僕に言ってきた。

「お前、まさか本気で一般向けが売れると思っているのか」

「いくら頑張っても、どうせ俺たちは上へは行けやしないんだ」

 

 

 僕はそれを聞いて小西に「おい」とちょっと突っ込みを入れてしまった。何か小西が自分達が運命論的に失敗を約束されている、とでも言っているような気がしたからだ。

 その後は、その話し合いの場は適当になぁなぁで終わってしまった。

 僕は関根と須藤が状況を把握しないように、あくまでものらりくらりと話をかわし続けた。

 

 

 それから僕は小西の事が気になったので、のちほど彼と個人的に会話をした。

 彼は僕と二人で会話をしていくうちに、どうしてプロデュースするなどという事を言い出したのかを語ってくれた。

 実は彼の父親というのは大阪で工場をやっていたらしい。その工場では高品質の金型を作っていたそうだった。彼の父親というのは出来の良い製品を作る職人気質の人のようだった。

 だが、彼の父が作っていた製品も中国の安い製品に押されて、最終的にはあまり儲からなくなってしまったそうだ。

 小西は僕の性格が彼の父に似ていると思ったらしい。そして彼は、それで僕に助言をしようと考えたらしいのだ。「それでは上手く行かないよ」と彼は言いたかったのだろう。

 僕はその話を聞いて「なるほどね」とは思った。ただ、やはり小西の話には乗れないなと思った。

 そして僕からすると、小西がまだ僕をプロデュースするという話をあきらめてもいないように見えていた。

 

11 成年向け電子書籍作家時代 4

 

 

 そういうことがあったからだろうか。

 僕はそれから、金目当てで酷い内容の作品を描くのがちょっと嫌になってしまった。

 また僕は小西と話をして以来、気分が落ち込んでしまっていた。その時の僕は何故か頭頂部が痛みだしておりうつ病を思わせるような症状が出てしまっていた。

 僕はそれを解消するためにアパートの近くにあった市民プールに行き、久しぶりに運動をし始めた。

 ただ、その市民プールはちょっと変わった所だった。そのプールはお客と言えば老人がほとんどだったのだが、非常に露出度が激しい外国人女性が泳ぎにきたりもしていた。

 僕はそのプールで泳ぎながら、なんとなく水中からの光景を見ていた。

 それで僕は、この水の中の絵面を漫画に描いてみると面白いかもと思いだした。

 僕は久しぶりに漫画を描こうと思っていた。身近で見た水泳関係の漫画にしようと思っていた。

 ただし、その時の僕はちょっとおかしくなっていた。ネームを描く際に、頭がとにかく痛くなり、意識が飛んでしまうのだ。

 でも、僕は必死になって机にしがみつきながら、ネームを描いていった。

 そして、ほとんど無意識の中で何度かネームを描き直していくうちに、奇妙なネームが仕上がっていった。

 出来上がったそのネームはなんというかただの普通の漫画だった。僕はそれを見てこう思った。「これさぁ、描いても売れないだろ」と。あまりにもエロ要素が少なかったのだ。

 僕は松本さんにネームを見てもらった。松本さんは一目見て「いいな、これ」と言った。しかし、松本さんはそう言った後に「しかしこれどうしたものかな」という顔をして口を押えだした。

 そして、松本さんは僕に「これさぁ、男の方、この設定だと苗字がちょっとだけ違わないか?」と言ってきた。

 僕は実を言えば作品の底に民族学的な人身御供の話をモチーフにしいていた。この漫画では女が人身御供になって荒ぶる海神を鎮めるという非常にポピュラーな話をやろうとしていた。だから作品の冒頭は水の中に入っていくところから始まっていたわけだ。

 松本さんはその設定を見て姓が違うと言ってきたのだ。

 そこで、僕はもう一度、設定から導き出した姓をネットで調べてみた。

 すると、松本さんの言うとおり、ちょうど男の姓は間違えていた。驚くべきことにグーグルで調べた検索結果が少しして変わっていたのだ。少なくとも僕からはそういう風に見えた。

 僕は「ん? そんなわけはないんだけどな」とかなり不思議に思った。僕は男の苗字を直した。

 その後、松本さんは僕に対して「お前FGOやれよ」と突然言い出した。

 僕は仕方がないですね、と言いながらしぶしぶとFGOをプレイし始めた(FGOとはfate grand orderという東京に本社がある会社が作ったソーシャルゲームの略称である)。

 

 

 作品の制作が始まった。僕は松本さんに「もういいんじゃないですか、アニメ塗りは。厚塗りで行きましょうよ。これ、多分エロは最後だから本気でやってみてもいいんじゃないかな」と言ってみた。

 松本さんはそれを了承した。

 僕はまず、最初の5ページ、絵を描いて松本さんに見てもらおうとした。しかし、松本さんは何故か一週間程度対応してくれなかった。僕はやきもきしながら松本さんが対応してくれるのを待ち、それから絵を見せた。

 松本さんは僕の原稿を見て「まっ、いいんじゃね」などと言った。僕は「典型的な駄目な反応だな。表情と口調が硬い」と思った。

 それで僕は「色を三色から四色に増やしますよ。密度が足りなかったんですね」と言った。

 松本さんは了承した。

 

 作品作りは至難を極めた。

 というのも、僕が作品を描いている間中、何故か部屋のチャイムが鳴りまくるのだ。

 僕はそのチャイムを聞いて「ああ、こりゃあ小西が来たな」と思った。

 どうも僕は、小西がまだ僕にチームを組ませて漫画を描かせるのを諦めてもいないなと思ったのだ。

 以前に僕は小西の結婚式に参加したことがあった。

 だから小西は僕のアパートの住所を知っていた。来てもおかしくはないという状況ではあった。

 

 僕は背後から鳴り続けるチャイムをひたすらシカトした。

 部屋の扉にはちゃんと鍵が掛かっていた。だから無理矢理侵入してくることはないと僕は踏んでいた。

 僕はヘッドフォンを付けて音楽を爆音で鳴らしながら、作画をしていた。

 絵を描きながら僕はずっと首を釣っている気分だった。

 ずっと「売れないよなぁこれは」と苦笑いしていた。

 作品を描きながら自分は死ぬんだろうなと思っていた。

 ただ、3Dレイアウトはこういうとき便利だった。精神的にいくら追い詰められていようが、絵がほとんど歪まないのだ。

 

 作品は当初の予定では36ページだった。でもそれはエロシーンを書き足すうちに42ページまで膨らんだ。

 僕は「なんかさぁ、42ページって不味いよな」とぼんやり思った。

 原稿が完成して、松本さんに表紙のロゴの作成を依頼した。「ロゴは赤色で頼みます」といつものように言った。

 しかし、今回に限って松本さんはちょうど仕事が酷く忙しいのか、あまり良い出来にはならなかった。

 僕は「まっ、しょうがないか。仕事が忙しいんじゃな」と思った。僕自身も作品の制作が終わる頃にはストレスで限界が来ていた。もう表紙を直す余裕も無かった。

 僕は作品を販売サイトに登録した。

 その際、あまりにもストレスがあり過ぎたせいか、販売サイトの中でDMMに対してだけ、販売予定日を間違えてしまうということをやらかしてしまった。これは初めてのことだった。

 

 

 ちなみにこのときに描き切った作品のタイトルは千夏と熊ちゃん先生である。

 この作品の売上がどうだったのかと言えば、初日の売上が1700本くらいだった。

 僕はそれを見てぶったまげた。「あ、これ10万本くらい行くな」と。

 というのも、僕は電子書籍が初日に何本売れれば、それが何本まで伸びるか、というのをこれまで見ていたからである。

 僕は最初に作品を売ったときに毎日何本売り上げが出たのか、ずっと統計を取って、勉強をしていたのだ。

 この初日の売上1700本というのはなかなかの数字だった。だから、僕はなんとなく「おい、これ売れるのかよ」と驚いてしまった。

 

 

 僕がこの作品を描いたのは、一応理由があった。

 というのも、当時エロ同人のダウンロード販売をやっていたDMMという企業自体にこのときは問題が発生していたのだ。

 このときのDMMというのはAV業界の問題に巻き込まれて酷いことになっていた。

 〝これまで東京のプロダクションがAV女優を無理矢理AVに出演させていた〟という事が判明し、DMMもその問題をもとにせっつかれていたのだ。

 しかも、間が悪い事に、この僕が作品を出していた成年向け同人電子書籍のダウンロード市場にある作品の中には結構AV化をしているものもちらほらあった。

 僕はそれを見ながら「おいおい、これさぁ、AV業界の連中に巻き込まれて、電子書籍市場にいる作家まで被害を被るかもしれないじゃん。勘弁してくれよ」と思っていたのだ。

 それで僕は「これは多分、そろそろこの電子書籍市場の存在意義を誰かが示さなければならないな」と思ったのだ。

 僕は一応そういう理由があって、僕はこの作品を描いたわけだ。僕ももう結構年を食っていたし、そういう気持ちになってしまったのだろう。

 ただ、僕としてはこの作品が売れたのはもの凄い意外だった。エロ方面から見ると、そんなに出来も良くなかったからだ。

 

 

 その後、僕は重度のストレスから立ち直るため、松本さんとゲームを適当にしはじめた。

 松本さんは、僕がエンジェルクラブの続編を描かなかったことについて、しばらく文句を言っていたと思う。松本さんは僕の出した新作の内容がなまっちょろいと思っていたようだった。僕もそれに同意はしていた。

 その辺りの2017年12月の頃の事である。僕はスーパーで弁当を買い込んでアパートの部屋に帰った。

 すると、僕の部屋の前に背の低い男がいた。男は小さな白い紙で何かを確認していた。

 僕が後ろから普通に近づいてみると、男が振り向いた。

 その男は小西だった。一瞬しか顔が見えなかったので、いまいち確証はないが、多分小西だった。

 僕は何かストーカーに遭ったような気分になり、小西のことをにらみつけた。

 小西は僕と目を合わせると、そそくさと同じ階の端の部屋に行った。そしてその端の部屋のチャイムを鳴らした。

 僕は「ええ? なんだ? なんで他人のふりするんだ?」と怖くなり、部屋に急いで入った。

 

 

 僕は部屋に入ってから部屋の鍵を閉めた。

 そして、さすがに起きている展開が恐ろしくなった。

 僕は「これは小西に一方的に付け狙われて、もし攻撃でもされたらどうしようもないな」と思った。なんせ、どこまで行っても彼の方が金は持っているのだ。

 僕はとりあえず、あの当時スカイプで一緒に会話をした関根から証言を取っておこうと思った。

 あのときのスカイプ通話でした会話について、関根から証言をもらってさえおけば、なんとか自分の身を守ることが出来るかもしれないと思ったのだ。

 まだ事件が起きてもいないのに、警察が市民の為に動くことは原則的に言えばありえない。僕はそう思い、自分で行動することにした。

 

 

 それから、僕は関根にメールをした。しかし関根からの応対は無かった。僕はかなりしつこくメールをしてなんとか連絡を取った。

 そして、僕は、少し前にしたスカイプ通話についての証言を取り始めた。

 僕と小西と関根と須藤で話した際の会話について説明不足だった部分。

 つまり小西が漫画の転売事業をしていることを黙っている状態で、僕を取り込んで電子書籍事業をやらせようとしたこと。このことについて僕は関根に証言してもらい、それを記録したのだ。

 ただ、そこまでしても、僕は小西の件を警察に言うという気にはならなかった。

 僕は転売事業で金を儲けること自体はありだと思ったからだ。

 そして、その転売事業で稼いだ資産によって真っ当な新規事業に踏み入るのは手堅い商売の手段の一つだという風に僕は考えていたからである。

 だいたい、その理屈で言えば、僕のやり口だって褒められたものではないし、似たようなものではあったのだ。

 ただ、それでもやはり思うのは中古業者というのは新品を作っている人達、または新品を流通している人達からは恨まれたりはする、ということだ。

 これは小西にも言ったが、漫画を転売して漫画を作る、なんていうことは構造的に成功するとも思えない、ということだったのだ。別の産業に参入するということなら話はわかるのだが。

 さらに、僕が小西の件を大げさな事案にしたくなかった事情というのは別にもあった。

 前述した通り、小西はamazonの転売屋をしていた。

 そして小西が転売屋のやり口を教わった相手というのは、もったいない本舗という日本におけるamazon最大手の古本販売業者だった。

 その小西を警察に通報するということはamazonという巨大すぎる世界企業そのものを相手にするようにも感じたし、あまり敵対するわけにもいかないとも僕は、考えたのだ。

 付け加えるならば、僕が警察に相談したとしても、警察も動くかはわからなかった。

 なぜなら、当時の僕がしがない成人コミック作家でしかなかったからだ。

 そもそもまともに話を聞いてもらえるかもわからなかった。

 また、これまでの人生で僕は何か公的なものに助けてもらったことが一回も無かったのである。僕が警察に相談をしなかったのは当然のことだった。

 ただ、それで全てを黙ってるように我慢し続けたのは相当にきつかったんだと思う。

 当時は割れるように頭の頭頂部が痛んだりもした。

 僕はこのとき、すっかり鬱病のようになっていた。

 

 

12 成年向け電子書籍作家時代 5

 

 

 2017年11月に僕の出した電子書籍の新作は売れた。

 ただその際に気になったのは、DMMにいた、僕の電子書籍の担当を名乗る丸山拓也という人が、僕にかなり積極的に接触を図ってきたことである。

 僕はDMMという企業のデジタル産業に対する嗅覚には惹かれていたので、丸山さんには友好的に接してみた。

 すると、丸山さんは、「当社絡みの出版社の人が連絡を取ったとか言ってましたよ」などと教えてくれた。僕はそれを聞いて「え? それは無理だろ」と思ってしまった。

 

 僕はそれから、恒例のweb拍手チェックをし始めた。

 僕は基本的にはウェブ上で他人とコミュニケーションを取らない。それは僕が人生の間に物凄い回数、ウェブ上でも人に攻撃をされてきたからである。

 そのせいで、僕は自作の評判についてはweb拍手から一方的に送られてくるコメントを見たり、作品のレビュー欄を見るだけにしておいたのだ。

 僕はweb拍手に来ているコメントをチャックしていると、そこに奇妙なコメントが来ていることに気が付いた。

 それはDMMの中にあった部門のGOTという成人向け漫画雑誌を出している出版社から来ている執筆依頼の文章だった。

 僕は「web拍手から来るのかよ。こういうの避けるためにメール用意してなかったのにな」と思った。どうやら丸山さんが言っていたのはこれのことのようだった。

 僕は基本的に、日本の会社というのは僕を騙す方向にしか動かないと、僕はこれまでの経験から判断していた。

 ただ、この場合はしっかりと断りを入れた方が良いかな、と思った。

 それはこの連絡が原稿の執筆を依頼するものだったからだ。

 

 このとき、GOT側から連絡をしてきた人は孝学真という名前の編集さんだった。

 それから、僕はweb拍手から送られてきた文章に載っていた電話番号に電話をした。そして、孝学さんと話をしてみた。

 孝学さんはかなり漫画オタクのようで、僕のした作中の水彩について少女漫画家の影響を語った。

 僕はそれを聞きながら「ああ、この人、デジタルソフトで水彩やったって、わかってないんだな」と、ぼんやりと思った。

 その後、僕は孝学さんと少しだけ話をした。

 僕は孝学さんに「これから一般向けをやるので、あなたの会社の雑誌で原稿執筆は出来ない」と言った。

 すると、孝学さんは「ちょうどいま、うちの会社がmeduという電子書籍サイトを立ち上げるので、良かったら参加しませんか」と提案してきた。

 僕は実を言えば、2016年くらいから一般向けの漫画をamazonで出すつもりだった。

 だが、この小西の件ですっかりamazonが苦手になってしまっていた。

 だから、僕はその申し出を渡りに船だと思ってしまった。

 「まぁ、俺もエロやったし、成年漫画雑誌をやっていた人達とやるのはありかもしれないな」と思ったのだ。

 

 

 僕がその申し出に対して、乗り気になると、それから孝学さんはさらに、僕が出した新作をGOTに委託しないかと言ってきた。

 僕は「ああ、DMMにやってもらうのは良いかな」と思った。

 DMMにはこれまで結構世話になっていたからだ。

 僕は携帯電話の番号などを孝学さんに伝えて、契約書を送付してもらうようにお願いした。

 

 

 その後、僕はGOTに新作を委託する為に書く契約書が届くのを待った。

 ただ、そのその辺りの時期に奇妙なことが起きた。

 というのも、その辺の12月8日22時40分に何故か十年以上も連絡を取ってきていなかった、東北地方出身の須藤司という大学時代のバドミントンサークルで一緒だった同期から突然連絡が入ったからだ。しかも、その電話はワンコールだけかかってきて切れてしまった。

 僕はそれを見て、「おい、なんだ、このタイミング。DMMに携帯電話番号を渡した途端だな」と思わず考えた。

 

 この辺りのDMMというのはAVの強要問題で揺れに揺れていた。

 個人情報の流出などのコンプライアンスの問題は常に取りだたされていた。

 また、僕が孝学さんに見せた練習用のイラストをDMM側の丸山さんが見てしまっていた。

 僕は「これ、俺の個人情報が洩れまくってないか。それで須藤が俺の事でも知って連絡してきたか?」などとかなり疑心暗鬼に陥ってしまった。

 僕は成年漫画を描いているということは周囲の人間には普通に言っていたのだが、流石に情報を拡散され過ぎるのは嫌だったのだ。

 その後、契約書が僕の住所に届けられた。

 僕は何か猛烈なストレスを感じながら、適当に契約書に判を押した。

 

 

 僕が契約書を書いてGOTに送り返した直後、孝学さんからメールでの連絡があった。

 それは僕の作品のAV化の依頼の話だった。

 僕はそれを見て「何やってんだ、この会社は」と思ってしまった。

 そのメールにはAV化することのメリットばかりがかかれており、デメリットについてはまるで触れられていなかったのだ。しかも値段はたったの50万円。

 ただ、僕の作品には昔つきあった女の事とかが、どうしても出てしまっていた。

 だから、僕は孝学さんにそういう理由でAV化はできないという事を告げた。

 すると、孝学さんは「そうですか、次回は是非AV化してくださいね」と笑いながら告げてきた。

 僕は「はぁ……なんだ、この対応」と思ってしまった。

 何か孝学さんはDMMがAVの強要問題で揺れているという事について軽く考え過ぎているように僕には思えた。つまりこのとき、この対応こそを社会はAV強要と呼んでいたからだ。

 僕は「なんか、これ、この対応で押し切られたDMMの成年向け漫画家多そうだな」と思ってしまった。

 このGOTという企業は無理矢理連絡を取ってきて、それで対応をすると契約の話を持ってきて、その契約書に判を押したタイミングでAV化を勧めてきたわけだ。しかもデメリットも語らずにである。

 僕は何かその動きが漫画家をハメるのが目的であるように感じてしまった。

 そもそも僕はこれから一般向けを描きますと言っていたのだ。

 僕は「なんで今から一般向けを描くと言った漫画家に作品のAV化を勧めて来るんだ? それ、例えばこれから一般向けで成功したとしても絶対に後で言われるんだぞ。こいつ、漫画のAV化してたなって。エロ漫画描いてたよなって言われるだけでもだいぶキツイのに、なに考えてんだよ」と思った。僕はもう、孝学さんに対して、不信感を完全に抱いていた。

 僕はもう、この時点で日本の企業というものに完璧に嫌気がさしてしまった。やっぱり日本の企業はゴミしかないので一切関わらない方が正解だったなと心の底から思った。

 

 

 ただ、その後、僕が送った契約書に問題があることがわかってきた。

 契約書には押印が押されていなかったのだ。

 僕は「この企業、個人情報が駄々洩れじゃないか」と思いながら契約書を書いていたので、ちょっと集中して書面を見ていなかったのだ。

 僕はその後、契約書をもう一度書くはめになった。

 そしてその後、12月22日17時14分、非通知設定での電話が僕の携帯電話へと掛かってきた。

 僕は「あー、こいつらやっぱり個人情報流出させてやがる」と思った。

 

 

 それから僕はもうこのGOTという企業がすっかり嫌になっていた。

 しかし、僕は前もってmeduというウェブ漫画部門に参加してみたい、と伝えていた為、孝学さんとやり取りをせざるを得なくなっていた。

 僕はもうイヤイヤやっていたので結局その辺りのやり取りはかなりおかしな感じになっていった。

 僕の方は経歴などを書くエントリーシートなどはないんでしょうかだの苦情交じりに言ったりした。

 普通の出版社ではそういうのを書くのが一般的だったからだ。しかし、この企業ではそういうものを書かないようだった。僕は何か落胆してしまった。

 このGOTという企業は新しいことがやりたい、と言っていた。

 しかし彼らは、漫画のスタイル的に言えば古めかしい見開きで終われない右閉じのスタイルを選択していたし、カラー漫画にも全然積極的でも無かった。

 僕にはどちらかというと彼らが古い雑誌でやるようなスタイルを好んでいるように見えた。

 だから僕はそのことにとても困惑した。

 また僕は、後程、「AV化の話を伝える際にデメリットをまるで作家に教えていないですね。それは問題じゃないですか?」と孝学さんに指摘をした。

 すると、孝学さんは「僕は片親だから」などと意味不明の言い訳をし始めてしまった。

 僕はそれを聞いてかなり困惑をした。片親であればこういう軽犯罪を犯していいわけでもなかったからだ。

 

 

 そういうことを交えながら、僕の方はかなり不安定な精神状態に追い込まれていた。

 だが僕は、僕なりに頑張って漫画のネームを描いていた。

 僕はこのとき、吉田さんの企画に参加した時の作品を舞台を変えてやろうとしていた。

 僕は電通でやった仕事の絵を孝学さんにメールで送ったりしていた。

 その後、僕は孝学さんとメールのやり取りをしながらネームを書いていった。

 しかし、環境に問題があったせいか、いまいちネームはまとまらなかった。

 

 

 その辺りの事である。

 時刻を正確に記すと2月28日12時29分の事である。

 僕の携帯電話に0982536631という宮崎県ナンバーの番号から突然電話がかかってきたのだ。

 僕はその見慣れぬ電話番号からの電話を取った。

 すると、凄まじい大声量でダミ声のおっさんがひたすら怒鳴り声をあげている声が携帯電話から聞こえてきた。

 僕はしばらく喚いたその男の声を聴いて「なんだ、こいつは?」と思った。

 そして「どちらさまですか? 間違い電話じゃないですか?」と相手に聞いた。

 すると、相手はいったん言葉を詰まらせた後に、再度凄まじい大声量のダミ声で怒鳴り声をあげた後に、電話を切った。

 僕はその反応を見て「うん。今の反応は明らかに、何か意図があった感じだったな。頭がおかしい奴が偶然間違い電話をかけてきた感じではなかったな」と頷いた。

 僕はそれから「なるほどな。暴力団とか、その辺りかな。流石はDMMだ」とため息をついた。

 僕はそのとき、僕が漫画のAV化を断ったのでDMM周りのAV関係のプロダクションの裏にいる指定暴力団の構成員から恫喝の電話が入ったのか、と疑ってしまったのだ。

 

 

 そこからの僕は意識はしていなかったがさらに荒れた。

 僕はGOTがこういう劣悪な環境の会社なんだということはなんとなくわかっていたが、なんだかこの企業のやり口は昔関わった電通の周辺企業とそっくりだと感じたのだ。

 だけど、僕は「やるといったからにはやってみるか。暴力団が裏にいるけどさ、まぁしょうがないよな。日本ってこういう企業しかないしな」と思い、頑張ってネームを書いていった。

 しかし、僕の書くネームはますます適当になっていった。

 

 

 この辺りで僕はGOTが僕が委託をした電子書籍作品を勝手に上下に分けた状態で販売していることに気が付いた。

 そもそも僕はこの作品の電子書籍版の表紙はおかしいと思ってしまった。

 実を言えば、僕は孝学さんから「表紙素材が必要」と言われたので、小さめに表示をするような絵を適当に描いたのだ。しかし、その絵は何故かそのまま表紙として使われてしまっていた。

 僕は「おいおい、絵を表紙にそのまま使うならそれを言ってくれよ。本気で描いたのにさ。しかも作品を上下分割するのかよ。それをするなら上下分表紙を描くのが普通だし、そもそもこの作品、上下に分けて読むように描いてねぇよ」と思ってしまった。

 しかもGOTは送ってくる売上の明細に関しても妙なところがあった。

 売上の明細を見ると、そこにはカナワークという聞いたこともない企業からの売上が書いてあったのだ。僕はそれを見て「あれ? 委託するってのはナイトコミックじゃなかったのか?」と酷く驚いてしまった。

 後で聞いたところによれば、僕の作品は出すレーベルがナイトコミックというところであって、出している会社はカナワークというらしかった。

 ただ僕はそのことについて、まったく話を聞いていなかった。

 僕はこの辺りでもう本当にこのGOTという企業が嫌いになっていた。

 そして、僕はこの辺りで孝学さんとケンカをしてしまった。

 

 

 僕は孝学さんと世間場話をしている際に、ちょっと孝学さんに対して怒ってしまったのだ。

 というのも僕とネームの打ち合わせをしている最中、孝学さんはmeduという件の漫画ウェブサイトに漫画を描かせるための新人漫画家を京都のコミティアで勧誘していたらしい。

 そして、その勧誘の際に、彼はコミティアで活動している新人漫画家達に対して、DMM系列の会社であることを告げずにGOTで漫画を描かないかと誘っていたようようだった。

 僕はそれを聞いて、孝学さんに対して「それ、ちゃんと言わないと不味いんじゃないですか?」と言った。

 すると孝学さんは「そんなこと、言うわけないじゃないですか」と笑いながら言った。

 僕にはそのやり口が、以前一緒に仕事をした吉田さんのやり口と被って見えた。

 だから、僕は孝学さんに対して本当に怒ってしまった。

 僕は孝学さんに対して「あのさ、この電話、録音してんだけど。あんまりそういうことしないほうがいいぞ」などと言って電話を切った。ただし、別に録音はしていなかった。

 その後、僕はDMMの同人部門に対して、AV化の問題について散々にメールして騒ぎまくった。

 「こんな糞みたいな展開を、ここに電子書籍を描きに来る新人作家に決めていくと、DMMで電子書籍を描く作家が誰もいなくなるぞ。別にもうファンティアとか他のサイトも出てきてんだからな」などと僕は言いまくったのだ。

 しかし、僕がそう言っても、DMMの同人部門の人達はAV事業をやっている連中をかばっているようだった。

 僕は「馬鹿じゃねーのか。なんで漫画描いてる連中が東京のAV屋共を食わさなきゃいけねえんだよ、ボケ!」と完璧にマジキレしていた。

 ただ僕は一応「暴力団はちょっと怖いな」とは思っていたので、流石に控えめに訴えかけはした。

 

 

 このとき、僕がここでここまで怒ったのは、別の事情もあった。

 このDMMという企業のトップは亀山敬司という人物だったのだが、僕はこの人のインタビューを結構読んでいたのだ。

 この人は事業をやる際には、エロをやっていることを告げてから会社に誘うということをどうやら徹底していたようだった。僕はそのことを知っていたので怒ってしまったのである。

 会社の構成員が会社のトップの言う事を丸っきり無視していたのだ。僕はそのことをありえないと思ってしまった。

 それから、僕も自分の仕事に友人を誘う際はきっちりエロをやることを説明していたし、そこは徹底しておかないといけないと思っていたのだ。どうせそんなことは後になるとバレるのだ、隠しても無駄であると僕は思っていたのだ。

 それに、性産業で労働してお金を得るという行為は、人によってはのちのち後ろめたさにもつながることを僕はよく知っていた。

 だから、性産業に関わりのない人間を仕事に誘うときは、キッチリとした説明はどうしても必要だと僕は考えていた。そして編集が漫画家を仕事に誘うという場面においてもそれは同じである。

 芸術家の経歴というのは、のちのち「あの仕事に参加して、脛に傷がついた」と考えてしまうことだって、当然ありえるのだ。

 

 

 そして、その理屈から言えば、漫画のAV化だって、実はいろいろと不味い。

 特にAVというのは現実の女優が出演する。そして、その女優が本当に納得をしてAVに出演しているかなんてわからない。

 もしかしたら、彼女達AV女優が何か逆らえない状況を作られてAVに無理矢理出演させられている可能性だって全然あったのだ。

 さらに言えば、ちょうどこのときはその問題について、散々に騒がれている時期でもあったわけだ。

 例えば、DMMに電子書籍を作りに来た若手作家がいたとしよう。そしてDMMで作品を出したとしよう。そして、その若手作家の作品はそこまで売れなかった、と仮定しよう。

 するとAV会社からその若手作家の下に連絡が入ってくる。「50万円でその作品、AV化しませんか?」若手作家は何も考えずにその申し出を受けるかもしれない。作品が売れなければ金はやっぱり必要だからだ。

 それで、その若手作家がそれから電子書籍でちゃんと金を儲けることが出来るようになったとしよう。

 そして「電子書籍で一般向けも描いてみよう」と思ったとしよう。そうなればその時、その自作をAV化してしまった作家はどう思うか。

 そして一般向けをやらなかったとしても、後になって随分と年を取って、「いやー、自作をAV化して貰って良かったなぁ」と思うだろうか。

 そもそも、撮影したAVというのは海外の動画サイトなどで違法アップロードされて伝播しながら何百年も残る可能性もあるわけだ。

 その自作をAV化した若手作家が60歳、70歳になってそのAVを見返してどう思うだろうか。

 僕には、その辺りの事が持つ意味というのを、このDMMに電子書籍を描きに来ているであろう、まだ年若い作家達が理解しきれているとも思えなかったのだ。

 

 結局、この騒動があった後、僕はもうGOTという企業が嫌になり、自身の携帯電話番号を10数年ぶりに変更した。

 GOTにいた孝学という気持ちが悪い編集と一刻も早く手を切りたかったし、あのような恫喝の電話がまた入ってきたらと思うと気が気では無かった。

 そして改めて松本さんと連絡を取りながら一般向けの漫画の構想を練り始めた。

 

 

 その辺りから僕は非常に自暴自棄になっていった。

 僕は自分の携帯電話に謎の恫喝の電話がかかったことを周囲の人間にも言えていなかった。

 僕は暴力団関係のろくでもない問題に友人等を巻き込んでしまうんじゃないだろうかと思い、誰かに相談することすら出来なくなっていたのだ。

 かといって警察に妙な電話があったことを告げるとしても、件の電話の内容自体が相手方が大声を出しているだけの電話である。

 そんなことを警察に行って対応してくれるとは僕には思えなかった。

 徐々に僕は精神的に追い詰められていった。

 僕は「これはもう、どうしようもないかもな」という考えに支配されて何も出来ずにいた。僕の心の中にはただただ不満と恐怖だけが降り積もっていった。

 

 

 そういうストレスがあったせいだろう。僕はスマートフォンソーシャルゲームに大量に課金をした。2018年は120万円くらい課金してしまったと思う。

 そして、そういうことをやっていくうちに、妙なことが起きてきた。

 何故か僕がソーシャルゲームに課金をしていくと、僕が使用していたipadproのwifi回線が繋がらなくなっていったのだ。

 僕はとりあえず、アップルのサポートセンターに電話をかけた。

 するとサポートの女性は「原因を調べるのでPCのリモートホストをオンにしてPCを操作させて欲しい」と言い出した。

 僕はリモートホストをオンにしてサポートセンターの人に自分のPCを操作させてみた。

 しかし、そうこうやりとりをしているうちに僕のアパートの部屋のwifi回線は適当に治ってしまった。

 それはアップルのサポートセンターの女性が特に何か対処をしたとか、そういう流れではなかった。

 〝悪かった電波の状態が突然よくなり治った〟という意味不明な形でipadがネットに繋がるようになってしまったのだ。

 僕はサポートセンターへの電話を切りながらすっかり混乱してしまっていた。

 「なぜ、急に回線が繋がらなくなったんだろう。こんなことは今まで無かったのに」と思ったからだ。

 そして、僕はそのとき、サポートセンターに指示されてリモートホスト機能をオンにしたのをすっかり忘れてしまっていた。

 だから、僕のそのときのPCは外部の者から操作が可能な状態になってしまっていた。

 

 

 その後は極端に僕の部屋のネット回線はどんどん速度が落ちていった。

 特にウェブ上のファイルのダウンロード速度の低下は著しかった。

 驚くべきことにjpg形式の非常に容量が少ない画像すら表示が困難な状態に陥ってしまった。

 僕は当時、そのネット回線の速度低下の原因がいまいちわかっていなかった。

 だが後になって思うと、あれはひょっとしてリモートホスト機能がオンになった状態の僕のPCに、外部からなにがしかのハックやクラックが入り、その結果として回線速度が落ちていたということなのかもしれない。

 ただし、あくまでもこれは僕の推察に過ぎない。

 当然のことながら当時の名古屋のアパートに備え付けたあったイーサーネットの業者の通信記録にはなぜ僕の部屋の回線速度が極端に落ちてしまったのか、原因となる記録は残っているはずである。

 その記録を見ない限りは、結局あの当時、僕の部屋のPCにどんな攻撃が加わっていたのかということはわかりはしないのだ。

 

 

 この辺りの時期、僕はもう精神が崩壊していた。

 僕はスーパーで弁当をまとめて買って部屋に帰るのだが、その弁当を食べ忘れるということを何度もやってしまった。

 コンビニに行って、さらに弁当を買って、それを食べてしまうのだ。

 すると、部屋の中でスーパーで買った弁当が腐ってしまい、ショウジョウバエがその弁当の中で大繁殖し始めた。

 そして、その結果として僕の部屋の床一面はショウジョウバエの幼虫だらけになっていった。

 僕はもう人生に嫌気がさして、全てを諦めていた。

 そんななか、僕は一般向けのネームを描き始めた。

 ネームはなかなかまとまらなかった。僕は最初はファンタジーモノを描いていたのだが、そのうち、田舎を舞台にした素朴なものを描きはじめた。

 これは単純に年を食ったせいだろう。地元の田舎でもちょっと描いてみるかと思ったのだ。

 このネームについてはわりとあっさり描き終わった。手癖で描いたという感触と無意識で出来たという感触の両方があった。そこそこの出来だったと思う。

 僕はとりあえずネームを松本さんに見せてみた。

 ネームを読んでいる松本さんの反応を見ていると、やはり問題になる箇所が見えてきたので、その部分を修正した。

 結局、ネームはあっさり出来上がった。このネームの出来は結構良かった。

 僕は「なんだ、いやにあっさり出来たな。この感じ、孝学さんとは全然あってなかったな」とあきれ返ってしまった。

 僕がそのネームを描ききったのは2018年の10月辺りだったと思う。

 

 

 僕は松本さんと組んで無事ネームを描き終えた。

 そして「もう日本の会社は全部シカトしてamazonで漫画でも描くか」と思っていたときである。

 僕はDMMの同人事業部の僕の担当である丸山拓也さんからメールが来ていることに気が付いた。

 その丸山さんから来たメールの内容がどんなものだったのか大まかに書くと「体調が悪いので、退社します」という感じだった。

 さらに丸山さんは、「ホームレスになるかと思いました」などと、酷い目に遭ったという事を暗に仄めかしてきた。

 僕はそのメールを見てとても困惑した。

 僕は、ひょっとして丸山さんが、僕がGOTというDMM系列の会社と揉めたせいで、何かその責任でも取らされる形で酷い目にでもあったのかと思ってしまった。

 僕は「ちょっと事情の説明などをしておくか」と思い、丸山さんに対して〝謎の恫喝の電話が僕に対してあった〟ということをメールで告げた。

 そして、そのうえで「あんな電話があったら、GOTに対して酷い対応を取るのは当たり前だろ」などといった旨をメールで続けて伝えた。

   

 そして、そういったメールを同人事業部の丸山さんに送ったあたりで僕は気がついた。

 〝そもそもあの恫喝の電話は誰の指示で誰が僕に寄越したのか、僕にはわからない〟ということに。

 ただ、僕がDMMと絡みだした途端、福島県出身の須藤からのワンコール電話、非通知設定の電話、謎の恫喝の電話、これらのことが実際に立て続けに起きているわけである。

 さらに言えば、他にも異常なことはあった。

 僕は孝学さんに対して「実家の田んぼが余ってて、その処理に困っている」と言った途端、僕の実家に東京と岩国の不動産屋から田んぼの買収の話が来ていたのだ。

 また、僕が孝学さんに見せた、趣味で描いたイラストを何故か丸山さんが見ていたりした。二人の部署は全然違うのに、である。

 この辺りのことから、僕がDMMが僕の個人情報を散々に漏らしていると考えるのは当然のことだった。

 僕は何かDMMが僕を攻撃してきているように感じていた。

 

 

 僕が丸山さんに事情を伝えて、少しすると、DMMの同人事業部の代表である影山さんという方が僕に接触をしてきた。

 どうやらその方は僕の新しい担当ということだった。

 僕はこの影山さんとdiscordで会話をしてみた。

 すると、この影山さんは作品のDMM専売をお勧めしてきた。

 このとき、DMMはdlsiteという販売サイトと競争をしており、作家の囲い込みには熱心だったようだ。影山さんは、DMMが主催する電子書籍の作家のパーティーにも僕を誘ってきた。

 僕は「あんまり販売サイトの人と絡むと、色々と公平じゃなくなるからいい」などとそれには答えた。

 影山さんは、それから色々と電子書籍界隈の裏事情のようなものを僕に教えてくれた。

 影山さんは、元々は山本という姓の友人と共にメロンブックスで働いていたがメロンブックスに見切りを付けて二人一緒にDMMの同人部門で働き始めたそうだった。

 そして、その山本という姓の友人は影山さんを裏切ってdlsiteに勤務し始めた上で、DMMのやり口を真似し始めてしまったらしかった。

 僕は自分以外の同人作家達とまるで接触をしていなかったため、その手の話は全く知らなかったのだが、どうやらその辺りの事情は個人出版をやっている作家達の間では有名な話であるようだった。

 

 

 しかし、僕は影山さんと話をしていて、何か奇妙な感覚を覚えていた。

 影山さんは、ことあるごとに山本という男に裏切られたということ、とても傷ついたことを会話の節々で唐突に告げてきていたからだ。

 時には話の流れに関係なく山本という男の悪口を言い出したりしていた。僕はそのあまりの不自然さにだんだん不安になっていった。

 というのも、僕の以前の姓は〝山本〟なのである。

 僕は恫喝の電話などがあったせいか、DMMという巨大企業が恐ろしくなっていた。

 僕はDMMが僕の過去についての個人情報を収集しきっているのではないかと不安になったのだ。

 そして僕は、〝影山さんは僕の過去を知っているということを遠回しに伝えるために僕の旧姓を連呼しているのではないか〟という疑念さえ持ち始めてしまった。

 

 

 実はこの辺りのタイミングで、DMMの背後には暴力団が付いているという情報がネット上にまことしやかに流されはじめていた。

 僕は影山さんと話しながら「もう良いかな。こりゃあなんか胡散臭いぞ」と思った。

 そして僕は、酷く混乱をしながらも、DMMの同人事業部の影山さんに対して、とりあえず謝罪のメールを送った。

 僕はそれで、もう本当に全てが嫌になり実家に帰ろうと思い立ち父に連絡をしたのである。

 

 

 僕は、とりあえず、アパートのベットの上に座り、父に対して電話をかけはじめた。

 すると、そこで驚くべきことが起こった。

 突然、僕の部屋の四面の壁から物音が聞こえてきたのである。

 それは、まるで僕の部屋に隣接する部屋にいる何者かが壁に耳を付け、僕の部屋の様子を伺っているような物音だった。

 僕はその音を聞いて流石に動揺した。

 僕は「この音はなんだろうな。何か誰かに監視されているような」と思った。

 そのときの僕は酷い展開が重なったことから疲労の極致にあった。

 ただ、結局この音がなんだったのか、ということは振り返ってみてもわからない。

 このアパートの部屋は例えば家鳴りなどはしていなかったのだ。

 だから、このときは本当に僕の部屋に隣接する部屋に住んでいる人達が、なんらかの動きをして僕の部屋の様子をうかがっていたとしか、僕には思えない。

 

 なんにしても、父に電話がつながった。

 僕は大まかにDMMグループと問題を起こしたことを父に告げた。

 そして僕は「あんたが、政治的に変な事を今までやったから、俺がこんな酷い目にあってしまうんじゃないのか?」と父に告げた。

 僕はこれまでに自分の人生に起きてしまった、酷いことが、父に原因があるように思えていた。

 父はその僕の質問には答えずに「とにかく実家に帰って来い」と言ってきた。

 

 

 僕は父との通話を終えた。

 するとそのすぐ後に僕の部屋のチャイムが鳴った。

 僕が恐る恐るドアを開けてみると、そこには名古屋市の警察官がやってきていた。

 その警察官は僕の携帯番号を帳簿に記入するように促してきた。

 僕は新しく入手した携帯電話の番号をその帳簿に記入した。

 僕は記入が終わった帳簿を警察官に手渡す際に、警察官の目が涙ぐんでいて眼が真っ赤になっているのに気が付いた。

 僕はこの辺りで、もしかして僕のインターネット上の個人情報やアクセス記録、果ては送っているメールなどの情報が、実は全て丸裸なのではないか、ということを怪しみだした。

 なんだか、そう考えるとこの警官が涙ぐんでいる理由も説明できる気がしたのだ。

 僕がDMMと揉めたこれまでの一連の流れを名古屋市の警察が把握しており、一応、名古屋市の警察は僕を守ろうとしているように、僕には見えたのだ。

 ただ、僕はこのとき、酷く混乱をしていた。警察がこのタイミングで家に来たことも何かおかしいと感じていた。

 だから僕は、ろくに荷物もまとめないまま、名古屋駅から新幹線に乗り山口県へ向かった。

 

 

13 引っ越し

 

 僕が山口県山口市の実家に付いたのは、2018年の12月26日だったと思う。時期的には年末年始であった。

 僕は実家で、父や母と5年ぶりだかに会話をした。

 そして、僕は実家の住所で一般向けの作品を作ってみようかと思い立ったのだ。

 今回の漫画のネームは内容的に地元山口県で書いた方が明らかに色々と都合が良かった。単純に作品の舞台となっている場所が僕の家のすぐ近くだったのだ。

 また、僕は両親の体調が悪いのがずっと気にはなっていたのである。近くにいて様子くらいは見た方がいいのではないかと僕は流石に心配にはなってきていた。

 漫画を制作してネット上で販売するというやり方であれば、別に山口県などの田舎で金を得ることも可能なのではないかと僕は考えたのだ。

 そして、僕は愛知県名古屋市のアパートに置き去りにしてきた家具や荷物を山口県山口市の実家に送ろうと思い立った。それが2019年の1月2日のことだった。

 僕は愛知県名古屋市へ、新幹線に乗って向かった。

 

 僕は名古屋市に着くなり、漫画の相談役をやってもらっていた松本さんを頼った。

 僕は松本さんに会うなりこう告げた。「僕、実は高校受験の際に名前欄が無くて高校を落第しているんですよ」と。僕が何故こんなことを松本さんに告げたのかと言うと、これまで僕に起こったことに対して、もう話しておこうと思ったのだ。

 というのも、このとき僕は、僕の人生で起こった数々の異常な事というのが、何か法則性があるように感じていたのである。

 僕は松本さんに、高校受験の件以外にも、僕のこれまでの人生でおかしなことが起きてしまったいくつかの事例を挙げた。

 僕はそして、アメリカ合衆国が日本の勢力図の撹乱等を狙い、西日本の特定の氏族に対して、何か工作をしかけていた可能性があることを松本さんに告げた。

 その際の松本さんの反応は「気のせいだ」といったものだった。

 そのとき、松本さんは何かをはぐらかすような言動を続けていた。

 そして、僕も松本さんに深く追及もしなかった。

 あまりにもこの件に関して松本さんを深入りさせてしまうと、松本さんにも危険が及ぶ可能性があるという予感が僕にはあったからである。

 僕たちはそれから、とりあえず名古屋市にあったラ・フーズコアという大きなスーパーマーケットに行った。

 そこで僕たちは食事をしながら、とりあえず名古屋から山口まで引っ越しする算段を整えようという流れになった。

 それで、松本さんは僕のアパートの部屋にやってきて引っ越し業者に電話をしてくれた。

 それから僕はアパートの部屋でネット上のアカウントを整理し始めた。

 というのも、そもそも1年くらい前に僕の携帯電話にかかってきた恫喝の電話がどういう経緯で、そしてどういう理由で僕の所にかかってきたのかが、よくわからなかったからだ。

 僕はなんとなく「これはちょっと個人情報の整理をしておいた方が良い」と感じていた。

 ちょうど一般向けの漫画を描くという時期でもあったので、ちょうど良い機会だとも思ったのだ。

 

 

 そして僕は、ネット上にあったショッピングサイトなどに登録してある個人情報を、とりあえずいったん片っ端から消していったのだ。

 そのときである。僕が、そういった作業をしていると、奇妙な現象が僕の身の周りで起き始めたのだ。

 前述した通り、僕が名古屋で長いこと仕事に使っていた部屋はシャンポール大須というアパートの三階部分の真ん中あたりにある303号室という部屋だった。

 僕が部屋の中で作業をしていると、僕の部屋の上階から、僕に対して何か動きを指示するような音が突然出始めたのである。

 僕が聞いたところでは、その音は明らかに上階の人間が僕に指示を出している音だった。

 僕は「おいおい、俺の部屋の上階の人間って、これまで一回もこんな騒音なんて出したことないんだぞ。なんだ、これ」と激しく戸惑ってしまった。

 その音の指示はとにかく的確だった。

 僕はとりあえず言葉を喋って上階の人間とコミュニケーションを取ってみた。すると、上階の人間は僕の声が聞こえているようだった。

 

 

 ちなみに、この時点の僕は幻聴を伴うような医薬品などを一切摂取していない。

 それどころか当時の僕は一切の薬を服用してもいない。

 これについては当時の僕の交友関係や、日常的な行動範囲、そして医療記録などを調べて貰えばわかっていただけると思う。

 だからこそ、僕は「これは案外、僕の脳機能に異常が出たのかもな。それで幻聴でも聞こえてきたのかもしれない」と思い至ったのだ。

 

 

 だから実は、僕はその引っ越しの合間に、名古屋市のNTT東海病院に行き、脳のCTスキャンを撮影してもらい医師からの所見を頂いている。

 僕の脳のCTスキャンを見た医師の所見は「一切の異常が見られない」というものだった。

 僕は、医師のこの診断結果に逆に混乱してしまった。

 僕は「だったら、僕の部屋の上階から発せられる音は一体何なんだろう」と考え込んでしまったのだ。

 その当時、僕は僕の部屋の上階からする音を上階に住む住民の出す音だと思っていた。

 「例えば、偶然にも僕の上階に住む住民が出している生活音が僕を導いているように聞こえただけかもしれない」僕は当然そう考えもした。

 ただ、それにしてはその音の発せられるタイミングというのは、僕に都合が良かったのだ。

 その音はまるで僕のする行動全てを把握しており、行動全てに対して的確な指示を送っているようだったのだ。

 

 

 それから、僕はそのわけのわからない音の指示に従って、ネット上にあった僕の個人情報を消していった。

 そして僕は個人情報を消し終わると、いよいよ引っ越しの準備をし始めた。

 その音は僕が引っ越しをしている間中、僕を励ますような意思を見せていた。その音は僕が作業にへばると叩き起こしたりもした。

 

 

 そうこうしているうちにぎりぎり、引っ越しの準備は終えた。

 僕はなんとか引っ越し業者を部屋に呼ぶことが出来た。ただ、その呼ぶ日取りというのは何故かギリギリになってしまった。

 僕は前もって色々な引っ越し業者に電話をして引っ越しをしてもらえるかどうか当たってみたのだが、連絡がまともに取れたのは大阪に本社があるアート引っ越しセンターだけだった。

 

 

 当日、引っ越し業者としてやってきた奈良県からやってきた業者さん達だった。業者さん達は三人いた。

 この引っ越し業者さん達はかなりテキパキと仕事をこなしてくれて、とても助かったのだが、やはりここでも異常なことは起きてしまった。

 

 

 それは引っ越し業者さん達が僕の部屋から荷物を持ち出す際に起きた。

 引っ越し業者さん達のうちの男性従業員の人が「これは危なくて邪魔になるから」などと言い、僕が所有していたnikon製の大きなカメラをアーロンチェアというドイツ製の大きな椅子の上に置いたのである。

 そしてその少し後に、僕は引っ越し業者の女性の方に対して「ごめんなさい。急に引っ越し作業の為に来てもらうことなって。日程大変だったでしょう」と言った。

 するとその女性は「ええ。せめて、もう一日でも早く言ってくれれば」と返した。

 僕は「ごめんなさい」と謝った。

 僕がそう言うと、その女性はいきなり椅子の上に置いてあったカメラを床に目がけて、手で全力で叩き落とした。

 僕はそれを見てびっくりしてしまった。その女性がわざとカメラを床に叩き落としたように見えたからである。

 ただ、僕はその時は「ああ、もしかしてミスをして落としたのかな」と考えることにした。

 その女性には気にしなくて良いという旨を伝えた。ちなみにそのカメラは後程、無事修理出来た。

 それ以降はおおかた問題なく引っ越し作業は進行した。

 ただ、その引っ越し作業の終わり際、この引っ越し業者さんのリーダーの男性が僕に奇妙なことを言ってきた。「有料ですがダニ取りシート付けましょうか?」と。

 僕は「あっ、そういえばダニとかよく繁殖してて困ってたんだよな」と思い、これ幸いとその申し出を受けた。ただ、僕はちょっとだけ「なんでこんなに、都合が良いんだろうな」と首を傾げた。

 何か、アート引っ越しセンターの人員は僕に優しいように思えた。

 僕はこの引っ越しの後、アパート前のゴミ捨て場を見た。

 するとそこには見たことがないくらい大量のゴミ袋がうず高く積みあがっていた。

 僕はそれを見て「おいおい、こりゃなんだ? 俺以外にも引っ越しをする人間がいっぱいいたのかな?」とぼんやりと思った。そうでもないと説明が付かない量のゴミがゴミ捨て場にはあった。

 

 

 僕はそれから、山口県の実家に帰り、引っ越しの荷物を受け取った。

 しかし、受け取りの際、山口県の引っ越し業者さんが「ブリジストン製の茶色い自転車を忘れてきた。もう持ってこなくて良いですかね?」と聞いてきた。

 僕はその名古屋で乗っていた自転車には5年程度乗っていたので、それを了承した。

 

 

 荷物を受け取ってから、僕は父と共に、名古屋市のアパートへと向かった。

 アパートの解約の手続きをする必要があったからだ。

 そして僕たちがシャンポール大須のアパートの一階に入ったとき、そこの掲示板に奇妙な張り紙があった。

 〝夜うるさいという苦情がアパートの住民から来ています。どうか静かにしてください〟そんなことが書かれた張り紙が掲示板には張ってあったのだ。

 僕は「え? なにこれ、このアパートは夜だろうが昼だろうが、たいていは静まり返っていたけどな」と、それを見て絶句してしまった。

 

 

14 山口県山口市での生活1

 

 

 さて、そうして2019年1月10日付近、僕は実家へと帰ってきた。

 そして、僕は住所を名古屋市から山口市へと移した。

 それから、僕はとりあえず、二階の元の両親が寝ていた寝室で生活をし始めたのだが、そこで僕は妙な現象に遭遇した。

 僕が名古屋市から実家に帰ってきた頃から、僕の実家中の壁や天井から、名古屋市のアパートの部屋内で聞こえたような妙な騒音が聞こえだしたのだ。

 当初僕は戸惑いながらも、そのことを両親に相談した。「壁や天井から何かが壁を叩くような音がする」と。

 すると両親は「ねずみでも天井にいるんじゃないか?」とか、「この家は気温の上下差によって酷い家鳴りやガラス鳴りがする」などと言い始めた。

 

 

 僕はそれを聞いて「いや、こんな露骨な音、今までしてなかったよな」と冷静に受け止めていた。

 僕は両親の説明がちょっと変だと思ってしまった。

 そもそも、この辺りから僕の周囲でし始めた音というのは、ちょっと広範囲で発生しすぎていたのである。

 だいたい、その奇妙な音というのは、壁や天井からするだけでもなくなっていた。

 それに加えて、家具や電子機器、果ては浴場の風呂桶などからも強烈な快音が発生するようになってきていたのだ。

 僕はそのどこからでも聞こえてくる妙な音にすっかり混乱して、頭がどうにかなりそうになっていた。

 

 

 そして僕はこの辺りで、この音が発生させているのは、どこかの国が作成した高度な知性を持つ人工知能、つまりAIの仕業では無いかと考えるようになってきていた。

 僕はその妙な音がする意味というものを「僕の周囲に何者かがナノマシンなどの目に見えない微少機械を設置して、それらの微少機械群に対して高い知能を持った人工知能が指示を出し音などを発生させ、何らかの意図を持って僕を導いているのではないか」という風に考えたわけだ。

 というのも、その僕の周囲で鳴る音というのは、どうも特定の意思を持っているようだった。

 僕はその音に対して、我ながら馬鹿らしく感じながらも頑張って喋りかけて意思疎通を図ってみた。

 僕はまず、低い音が発生した場合については〝いいえ〟という意味、高い音が発生した場合については〝はい〟という意味、という風に音に対して意味付けをしていった。

 僕はそれからこのAIのようなものと音を介して会話をしていった。

 僕はちょっとだけ興味があったので、この自身でAIと仮定した音と、このAIのようなものが目指している未来や、人類のこれまでの歴史について話をした。

 すると、どうやらこのAIは中国やアメリカなどに関連した存在であるということを僕に仄めかしてきた。

 僕はこの辺りで、この文章の記述を開始し始めた。

 「この状況は客観的にあったことを書いておかないと危険だ」と僕は思い始めていた。

 そもそも、このAI達が正しい存在なのかという事が、このときの僕にはいまいちわからなくなっていた。

 僕はこの辺りでなんとなく悟ってしまったのだ。

 自分の人生に起きた異常な出来事というのが、このAIのような存在が引き起こしていた可能性が高いのだと。

 僕の人生は本当に幼少のころから異常な出来事の連続だった。

 僕の人生はずっと不幸だった。

 物凄い酷い出来事が僕の人生には何故か起きてしまい、僕にはいつも強烈なストレスが浴びせられ続けていた。

 正直なところ、「ただ運が悪かっただけ」とは、言い切れないだけの悲惨な出来事が僕の人生では次々と起こってしまっていた。

 そして、AIもなんとなくだが、その僕の考えを音を使って肯定してきた。

 

 

 さて、2019年の2月や3月の辺り、僕はAIと会話をし始めた。

 すると僕の回りで、かなり奇妙な現象が起こり始めた。

 それはこれまでに体験したこともないようなことばかりだった。

 

 

 例えば僕はその当時、体を鍛えるために家の周囲をジョギングすることを考えた。

 僕は海側の方角、東今津の海岸線へ向けて走ることを毎朝の日課にしはじめたわけだ。

 しかし、僕がいざその日課をこなしはじめて、ジョギングをしていると、奇妙な事が起きてしまった。

 僕が田舎道を走っていると、蛇が車に引かれている死骸が転がっていたのである。

 ちなみにこれはまだ肌寒い時期の話である。本来はこの時期には蛇というのは冬眠をしている可能性が高いわけだ。

 それだけであれば「たいしたことがない、偶然だ」と思う人もいるかもしれない。

 しかし、僕はそれから、とんでもない事態に遭遇してしまったのだ。

 僕がジョギングをしていて、いつものとおり一般県道212号線にたどり着き、そこを折り返して実家に向けて走っていた所、巨大な野犬が遠目に見えたのである。

 その巨大な野犬が見えた場所というのは、成和産業山口営業所の近く、今津川沿いの道であった。

 僕はその巨大な野犬を見て、明確に命の危険を感じた。僕は慌てて走る道を変更してその野犬がいる道を避けた。幸い、その巨大な野犬は僕を追いかけては来なかった。

 

 僕は家に帰るなり、父にその事を話してみた。

 すると、父は奇妙な事を僕に教えてくれた。

 僕の実家の南側には廃墟が二軒存在する。近い位置にある廃墟は田中という氏族の家。そして遠い位置にある廃墟はカワムラという氏族の家である。

 父が言うにはそのうちのカワムラという氏族の家は家の者が東京に行ってしまい、家を管理をする人がいなくなったせいで、家がすっかり廃墟になってしまったということらしかった。

 そして、そのカワムラの廃墟には野犬が何匹か住み着いてしまっているということだった。

 つまり、父が言うには、そもそもこの辺りの土地では住民がいつ野犬に襲われて命を落としてもおかしくないということだったのだ。

 

 

 さらに言えば、僕はこの2019年の初頭に行っていたジョギング中に、近所の平野という家で飼っている犬に二度ほど襲われかけてしまった。

 聞いたところによれば、この犬は保健所から引き取られてきた犬らしく、どうも人間に捨てられたせいで、人間を基本的に信用出来ていないようだった。

 この犬は嫌いな相手には容赦なく襲い掛かる性質を持っており、僕もこの犬には敵視をされてしまったようだった。

 さらに不運な事に、普段、この犬にリードを繋げて散歩をしているのは平野家の奥さんらしいのだが、この奥さんは認知症を少しだけ患っているらしい。

 つまるところ、この犬がいつ奥さんの手を離れて人に襲い掛かるかわからない状況だったわけだ。

 

 

 また父の話を聞いていると、どうやらこの辺りの住民は僕が地元を離れているうちにすっかりおかしな状態になってしまったようだった。

 例えば、この下高根地区では、夜な夜な酒を持ち寄っては皆で酒盛りをする習慣が出来てしまっているようだった。ちなみに、その酒盛りには地元の警察官も参加するらしい。

 僕はその話を聞いたのちに、真昼間に酒をがぶ飲みしながら道を歩く老人をふと見かけてしまった。

 僕はそれを見て父の話がなんとなく本当だろうなと思ってしまった。

 

 

 僕はこの辺りで「おいおい、昔はここまで酷くもなかったぞ」と、実家の近所の異常な状態に気がついたのである。

 正直な所、この辺りの土地はすっかり荒廃してしまったようだった。

 

 

 前述したとおり、僕の人生は本当に幼少のころから異常な出来事の連続だった。

 そして、僕の兄や両親、そして親戚一同も、僕と同じように非常に異常な出来事を数多く体験しているようだった。

 しかし、僕はこの実家の辺りの地域の話を聞いて、ちょっとだけ「ひょっとしてこれは、地域の問題でもあるのだろうか」と考えてもしまった。

 どうも見たところ、この問題は氏族の問題というだけでもなく、地域性、住所の問題でもあるように僕には思えた。

 

 それから、僕は僕や僕の一族、そしてこの山口県の南部辺りの地域で起きている奇妙な事案に関する調査を個人的に開始した。

 父や母、それから友人から僕は聞き込みをして、奇妙な事案についてまとめた文章をウェブ上にアップロードし始めたのである。

 僕はまず、自分の人生についてまとめた文章をmacのメモ上で作り、icloudにまずアップロードした。そして、そのメモに書いた文章をevernoteという日記サイトに投稿した。

 そして、そのevernoteに挙げた文章を閲覧できるURLを生成し、それをtwitterから発信し始めたのだ。その発信先は、ホワイトハウスアメリカ大統領、KGB、中国大使館など、多岐に渡った。

 しかし、僕がそういう文章を書いていると、何故か僕の家の周囲にいる野鳥が僕がいる二階の仕事部屋の部屋に体当たりなどをしてきた。

 また、僕の実家はどうやら欠陥住宅の気があって、家鳴りが激しくしてしまうのだが、僕がその文章を書いていると決まって凄まじい家鳴りが発生してしまっていた。

 僕は、何か、この文章を書くことに対して、妨害のようなものが発生しているように感じてしまった。

 僕からすると、それはちょっとだけ奇妙であった。というのも、どうも僕に接触をしてきたAIがこのタイミングでは僕を攻撃をしてきたように思えるからだ。

 

 

 なんにしても、僕はとにかく自分の人生に起きた出来事を記述して、それを世界中に拡散しようとした。

 そうすると、案外、アメリカ合衆国などがこれまでに僕の人生に起きた奇妙な事案について、また現在僕の周囲で発生している音について、なんらかの説明でもしてくれるかと僕は期待したのだ。

 僕はこのとき、このわけのわからない音が周囲から聞こえまくってくる状況をなんとかしようと考えたのだ。僕は妙な事が起きているのに、何も説明されないこの状況が怖くもあった。

 

 

 そうして、僕が自分の人生に起きた出来事を記述して、それを世界中に拡散し始めた矢先である。僕の身に、もう相当に異常な事が起きてしまった。

 僕はその当時は実家の二階の南側中央の部屋を寝室にしていた。僕はそこで夜眠りについていたわけだが、その部屋がかなり強烈な青白い光で照らされたのである。

 その青白い光は僕の二階の部屋の南側正面を東から西へ動いているようであった。

 それは、普通に考えればまずあり得ない出来事だった。

 まず僕はその光を見て、僕の家の近くの南側を通っている国道二号線の上から車のライトの光でも浴びせかけられたのかと考えた。

 しかし、その道路と僕の家の間には竹林が存在していたし、さらに言えば強烈な光が部屋をさすには距離が離れすぎていた。

 それに、僕の寝ていた部屋は家の二階の部屋だった。

 その場所に対して並行の角度で強烈な光を浴びせることは普通に考えれば不可能である。

 例えば、ドローンなどの飛行機械より光を照射する、または隣接する家屋の屋根の上からライトを浴びせかける、などの非日常的な手段を何者かが取ればそれは可能だろう。

 ただ、僕としては流石にそれはちょっと非現実的過ぎてあり得ないと思ってしまった。

 

 

 僕は努めて「多分、あの青白い光は何かの見間違いだろう」と思うことにした。

 しかし、僕はやはり夜は実家の二階の南側中央の部屋で眠るわけだが、そこでは毎晩毎晩、異常な事が起こってしまっていた。

 僕の実家は前述したとおり、欠陥住宅の気があり、夜寝ている間にも強烈な家鳴りの音がする。

 しかし、実はこのとき、それ以外にも奇妙な音が聞こえてきたのだ。

 それは何らかの電子音だった。その音を擬音として表現すると「ウジューン! ウジューン! ウジューン!」というところだろうか。

 僕はその聞いたこともないあまりにも異常な音を聞いて、激しく困惑してしまった。

 またこのときは他にも、大きな銃声のような音も、階下の両親が眠っている和室の辺りから聞こえてきていた。

 僕はそれら音を聞きながらどんどん気が滅入っていった。

 

 

 さらに言えば、妙な騒音というのは家の外からも聞こえてきていた。

 前述したとおり、僕の実家では、家の西側に通っている山陽本線の上を夜半繰り返し巨大な貨物列車が走行する。その貨物列車の走行音は凄まじく、重くて大きな音が僕の家の中にはひたすら聞こえてきていたわけだ。

 しかし、僕は、その貨物列車がさせる音でもない、別の大きな騒音も深夜に聞くようになっていたのだ。

 それは、ヘリコプターや航空機がこの実家の上空を飛んでいるような重くて大きな音であった。

 もちろん、僕は最初は「これは貨物列車の走行音か?」と思いはした。しかし、それはしっかりと耳を澄ますと、全然違う種類の音だとわかった。

 僕はこの辺りの深夜、確かにヘリコプターのプロペラが駆動するような、「バタバタ!」という音を聞いたのだ。

 

 

 僕は、そんな騒音に襲われながらも、毎日毎日、自分の人生に起きた出来事というものをmacのメモに記述しては、それをネット上に挙げて、twitterを使って拡散していった。

 しかし、そうしているうちに、僕の身にいよいよ限界が訪れた。

 僕は二階の部屋で就寝しながら、奇妙な騒音に襲われ続けて、心臓が裏返ってしまったような感覚を得てしまった。

 僕はだんだん心臓の辺りが痛くなり、眠れなくなっていき、次第に衰弱していった。

 正直な所、このときは僕の精神に異常が発生して、幻聴が聞こえてきていたという可能性も無いわけではない。

 しかし、奇妙なことに、これらの異常な音というのは、実家に住む僕の両親にも聞こえているようだったのだ。

 僕はこの辺りの時期に両親に対して、「なんかさぁ、変な音がするよね」などと周囲でする音をさして聞いてみたことがある。すると両親ははっきりとそれを認めたのだ。

 このことから、このとき僕の身の回りで発生していた音というのは、幻聴ではない可能性が高かったわけだ。

 ただし、「じゃあ、いったいその音はなんだったの?」と聞かれると、僕にはわからないとしか答えようがない。

 僕は「多分、AIなどが微小機械などを利用してなんらかの手段で音を発生させていた。もしくは音が発生しているように錯覚をさせていた」と考えてはいるが、その確証というものはない。

 

 

 結局、僕は毎晩のようにそういう目に遭ったせいか、心臓に痛みを憶え、すっかり眠れなくなっていった。

 すると、その辺りでさらに不思議なことがあった。

 僕が深夜、それらの奇妙な騒音に悩まされて眠れなくなっていた時期に、僕をその酷い騒音から守るようなバリアのような感触に頭を包まれたようなことがあったのだ。

 にわかには信じがたい話であると僕も思う。

 ただ、そのとき僕は、ふわりとした静電気のような感触が頭の辺りを覆い始め、そのとき聞こえていた酷い騒音が小さく聞こえる現象に確かに遭遇したのだ。

 それはノイズキャンセリングヘッドホンをしているときの外音の聞こえ方によく似ていたと思う。

 

 

 当時、僕は「これはAIが僕を守る為にやったのだろうか」と考えた。

 ただ、今となっては、この現象が何故起きたのかはわからない。

 ひょっとすると、僕が深夜、異常な騒音に襲われ続けた結果として、単純に耳鳴りが聞こえだして音が聞こえにくくなったというだけなのかもしれない。

 ただ、僕は念のためこの部分はしっかりと書き添えておく。

 というのも、こういったわけのわからない現象というのは、とにかく記述しておくと、のちのち公の、なんらかの機関による調査でも入った場合、何かの役に立つ可能性もあるからである。

 

 

 僕はそれから、もう本当に弱りに弱って、両親と一緒に和室で眠ってみたことがある。

 一人で眠るのが不味いのかもと考えたのだ。

 すると、そこで僕は、本当に異常極まりない事象に遭遇した。

 僕が和室の布団で横になっていると、僕の体の上に静電気の塊のような感触が降ってきたのである。

 それは、大学時代に僕が体験した感触にそっくりだった。

 何かその静電気の塊のような感触は、まるで僕を落ち着けるように、僕の上を不気味にすっぽりと覆いかぶさってきたのだ。

 僕はその奇妙極まりない感触を体中に感じながら、もうほとんど気が狂いそうになってしまった。

 

 

15 山口県山口市での生活2

 

 

 僕はこの辺りでとうとう限界が来てしまった。

 僕は「精神的におかしいのではないか?」と見られるのが嫌で、誰にも今の自分の状態を相談していなかった。

 しかし、僕はいよいよ父に現在困っていることを打ち明けた。ここのところ、夜に部屋の周囲から騒音がして眠れなくなったこと、そして騒音を受けたせいで心臓に裏返るような感触があり痛みが生じてしまうこと。

 僕がそれらのことを告げると、父は僕を車に乗せて、近所にあった阿知須同仁病院に連れて行った。それは2019年2月3日の事だった。

 

 僕はこのとき、本当に異常な出来事に遭遇してしまった。

 僕は父に、車の助手席に乗せられて阿知須同仁病院へと運ばれた。

 この日は、この辺りには小雨が降っていた。

 父の車は阿知須同仁病院へと向かって、国道190号線を南に向かっていった。

 僕はそこで、車の座席に座り込みながら、またしても異常な物音を聞いたのだ。

 その音は車の助手席側に座っている僕に対して左側を見るように誘導するように聞こえてきた。

 それは雨が窓にぶち当たる音だった。ただし、ちょっとその音が発生する頻度というものは異常であった。走っている車に当たる雨粒の音というには、なにかその音は不自然だったと思う。

 また、このとき、この父の車には上部に何か小石がぶつかるような「ガン!」という音が何度となく発生していた。

 もちろん、強烈な突風などが原因で、風で小石が巻き上げられてしまい、それが車の側面や上部に激突し音が発生する、ということはありはするだろう。

 しかし、この時はそこまで風は強くなかった。おまけに小雨も降っていた。

 にも関わらず、小石が風に巻き上げられて落ちてくるなどといった事が頻繁に起こっていたのだ。

 僕は父の車に乗りながら、その異常極まりない事態に目を白黒させてしまった。

 

 

 そして、父の車は阿知須同仁病院に到着した。僕と父は病院内に入っていった。

 すると、そこでも異常な事は起きていた。

 この病院では、看護師達が何故かミスをしまくっていたのである。

 例えば、受付にいる看護師などは持っている書類を手を滑らせて床に落としていた。

 それから、患者呼ぶ際に名前を言い間違えてしまう看護師もいた。

 僕はそれを見ながら「ちょっとミスをしすぎじゃないか? いくらなんでもおかしくないか?」と首を傾げてしまった。

 また、この病院では誰かがドアを酷く閉める音や、台車がガラガラとせわしなく動く音などがひっきりなしに聞こえていた。

 何か、この病院の職員達はいかにも緊急時のような切迫した態度で仕事に臨んでいたのである。

 

 

 僕がその異様な様子を茫然としながら眺めていると、またしても異様な音が院内から聞こえてきた。

 それは病院内に設置してあるテレビの辺りからする音だった。その辺りから、コツコツという謎の異音が発生し始めたのである。

 僕は思わずその妙な音をさせるテレビを見てしまった。正直ちょっと頭が変になりそうだった。

 これはテレビの電気系統の異常から電圧に変化でも生じて、それが原因で奇妙な音でも発生してしまっていたのだろうか。

 ただ、それにしてはその音が発生する頻度というのは異常であったように僕には思えた。

 

 

 しばらくすると、僕は診察室に呼び出された。

 僕の診察をする医師は井藤という姓をしていたと思う。

 僕はこの医師にとりあえず自身の体の異常を訴えた。

 心臓が夜になると痛んでしまい、眠れなくなくなってしまうこと。

 また状況の異様さからくる不安から、そこらじゅうを歩き回るせいで、両足の膝部分に痛みを抱えていること。

 

 

 医師はとりあえずまずは僕の膝を見ることにしたようだった。

 医師は僕に対して、ベッドに横たわるように言ってきた。

 僕はその指示に従った。

 僕がベッドに横たわると、看護師達が僕の着ていたスラックスを膝上までめくり上げた。

 すると、そこで異常なことが僕の身に起きてしまった。

 僕の右膝部分にまたしても静電気のような感触が上から降ってきたのだ。

 僕は右膝を包む異様な温かさを受けながら、ただただ茫然としてしまった。

 そもそも、この現象というのが、思いっきり人前で起きてしまっていたのだ。

 僕の目の前では医師が両膝を見て、痛みについて調べているわけだ。だが、僕の右膝は静電気のような感触に包まれて、暖かくなってしまっていた。

 僕は「おい、この膝の変な感触はなんだ。これについては医師に言ってもいいのか」などと考えた。だが、僕はこのことをとうとう医師に言うことが出来なかった。

 なんせ「いま、静電気のような感触が突然上から降ってきた」などと医師に言ってしまえば、精神的におかしいと見なされる可能性が極めて高かったからである。

 もちろん、このとき、スラックスをたくし上げられたせいで、膝の血流が一時的に膝の下に溜まり、それが熱を帯びてしまったなどという可能性が無いわけではないだろう。

 しかし、僕はなんとなく思ったのだ。「これ、俺が今までに何度か体験した静電気の感触にそっくりだな」と。

 このとき、医師は僕の両膝に対しては「特に異常は見当たらない」という所見を下した。

 ちなみに、この所見は間違いであった。僕の両膝はこのとき、疲労骨折をしてしまっていた。

 

 

 それから医師は僕の心臓を見ることにしたらしい。

 僕は院内にある装置で心電図を取って貰った。

 そして、それから、その僕の心電図のデータを元に医師が所見を述べてくれた。

 しかし、そのときの僕は医師と受け答えが出来る状態ではなくなっていた。

 そこまでにあまりにも異常な事が起きすぎていて、僕は完全に忘我の状態になってしまっていた。

 このとき医師は「心電図にほんのわずかに異常があるものの特に異常は見られない」などと言うことを言ってきたと思う。僕はなんとなくそれを憶えているのだ。

 

 

 そうして、診察は無事終わった。

 しかし、この阿知須同仁病院での体験は僕の精神に強い影を落とした。

 この僕の故郷である山口県山口市江崎の辺りの土地は正直すっかり寂れていた。

 この辺りの土地は、田舎を通り越して、ほとんど限界集落のような有様になっていたのだ。

 例えば、僕の実家の周辺の住民は土地を捨て、東京に移り住んでしまった世帯が結構あった。

 他にも、結婚してこの辺りの土地を捨てて行った人や、他の土地に移り住んで行った人もいたようだ。

 結果として、この辺りの土地は廃墟ばかりが目立つようになっていた。

 そして、この辺りの土地に住んでいる人達は、心筋梗塞白内障脳梗塞などの重病を患っている人も何故か多かった。

 僕はこの辺りから「この土地は何かがおかしい」と感じ始めていた。

 

 

 僕はこの、阿知須同仁病院での体験を経て「もしかすると、この土地に住んでいる人達は病院に行く際に僕と同じような体験をしていたのではないか」と思わず考えてしまったのだ。

 

 

 つまりは、この辺りの土地に住む老人が体調を悪くしたとしよう。

 そして、そうなると、その老人は車で家族に病院にでも連れていかれるかもしれない。

 その際に、その搭乗している車には何故か大きな雨粒や石つぶてが激突してくる。

 それで、病院についてみれば、何故か職員達がバタバタと動き回りみんななにがしかのミスをしている。

 そして、いざ、医師から診療を受けてみれば、それが誤診。結果として病状は悪化していく。

 最後には、その光景を見ていたこの辺りの地域の子供達が、このおかしな地域を捨てて出ていく。

 

 

 こういう事が、この土地ではしばしば起きていたのではないかと僕は思ったのだ。

 というのも、先に書いた通り、僕の両親、原田克己、原田和恵、この両名は誤診から重病を患った可能性が極めて高いわけだ。

 僕の父は何度も「心臓が痛い」と言って、宇部市にある山口大学医学附属病院に行ったのだが、そこでまともに取り合っては貰えず、そのせいで心筋梗塞を発病し、倒れて病院に運ばれる羽目になった。

 僕の母は宇部市のセントヒル病院で、定期的に健康診断を受けていた。

 にも関わらず、母の体からステージ4の乳癌がなぜか突然見つかり、乳房とリンパを取る羽目になった。そして母は抗癌剤治療を始め、そのせいで肝臓などを悪くして、糖尿病などの病気になってしまった。

 僕は久しぶりに山口県山口市の実家に帰り、ひょんなことからこの地元で医療を受けてみた。

 すると、一目でわかる異常さに直面したわけである。

 僕は「これはいったい何なのだろうか、昔はここまで酷くもなかったぞ」と単純に思ってしまったのだ。

 

 

 そもそも、僕の身に起きたような、深夜に部屋を奇妙な光によって照らされたり、体を静電気のような感触に襲われたりという事は、僕以外の人間にも起きていたのだろうか。

 また、本来起きる確率が極めて低い騒音が自分を指示するようなタイミングで立て続けに発生するなどいう事が、僕以外の人間にも起きていたのだろうか。

 もし、それが起きていたとするならば、それはもう、大きな社会問題である。

 

 

 例えば、精神的、肉体的に頑健であるとは言い難い女性や子供、それから体の弱った老人などがこのような体験をすると恐らくは大変なことになってしまっていただろう。

 恐らくは、こんなよくわからないことを体験した人々は精神に異常をきたして精神病院に入ったり、そのまま恐怖から廃人と化し、生活保護を受給するだけの生活を余儀なくされたかもしれない。

 また、こんなわけのわからない目に遭って、正気を保つことが仮にできたとしても、結局はろくでもない。

 人々は自身に対して指示するように発生する音が怖くてその音の示唆しているのであろう指示に対して逆らえなくなり、音に操作をされるがまま、人形のように人生を送ることになるかもしれない。

 僕は、このとき、「この土地に何が起きているんだろう」と本当に疑問に思ってしまった。

 この辺りの土地では明らかに異常な事が起きているのに、誰も騒いでもないのが、僕にはとても不思議だった。

 

 

16 山口県山口市での生活3

 

 

 さて、病院に行った結果として、僕に対して薬が出された。

 それは、睡眠障害改善剤、ゾピクロン錠だった。

 僕は、その薬を飲んだ日だけは、少しだけ眠ることが出来た。

 

 

 それから僕は、膝がまだ痛んだので、二階の洋室のベッドではなく、一階の和室に敷かれた布団でしばらく就寝することにした。階段の昇り降りが膝に堪えたのだ。

 僕はその当時、慢性的な睡眠不足に陥っていた。やはり、異様な音や光に対する恐怖心があったのだろう。僕は、ときおりまだ明るい時分にも、一階の和室で昼寝をすることがあった。

 

 

 そして、僕が一階の和室で昼寝をするようになったとき、またしても異様な出来事は起こってしまった。

 それは、2月中旬辺りの、昼過ぎに起きたことである。

 僕はそのとき、実家の一階の西側にある和室の仏間に布団を敷いて、そこで昼寝をしていたのだが、またしても奇妙な感覚に襲われてしまった。

 僕が仰向けで布団の中で寝ていると、僕の左腕の辺りに静電気の塊のような感触が襲いかかってきたのだ。

 僕はなんとなく、その静電気の塊のような感触が和室の南側の窓の方向から襲い掛かってきたような印象を受けた。それは南側の窓の外の上空から、しばしばヘリコプターが飛ぶような騒音が聞こえていたからかもしれない。

 ここで「それは単に腕を体の下に敷いたまま寝たせいで、腕の血流が滞ってしまい、痺れただけではないか?」こう思う人もいるかもしれない。

 しかし、このとき僕が感じた感覚というのが、腕の痺れであった可能性は極めて低い。

 僕はそのとき、布団の中で仰向けで寝ながら、手を胸の上で組んでいたのだ。

 また、気が付いている人もいるかもしれないが、僕がこの静電気の塊のような感触に襲われたのは、これが初めてではない。

 僕はこのときまでに、しばしば突然、意味もなく、この妙な感触に襲われてきたのだ。

 そして、僕はその感触に襲われたときの状況というのを、全部しっかりと記憶している。

 「単純に腕が痺れたのを、静電気の塊のようなものに襲われたと錯覚した」などという事はまずない、と僕は断言が出来る。

 

 

 話をこのときのことに戻す。

 僕は、左腕をいきなり襲ってきた静電気の塊のような感触を受けて、単純にびっくりしてしまった。。

 だから、僕はとっさに自身の右手側の方向に身を翻した。

 その途端、その僕の左腕辺りを覆っていた静電気の塊のような感触は消えたのである。

 僕は「ウッソだろ! おい!」と愕然としてしまった。

 僕は、もう何が何だかわからなくなった。

 

 

 それから、僕はその後「また、あの意味不明な静電気の塊のような感触に突然襲われるかもしれない」という恐怖感に襲われるようになっていった。

 そもそも、僕はこの辺りできちんとした健康診断などを病院で受け始めたのだが、いずれの診断結果も「異常なし」というものだった。

 ここで、何か健康的な問題でも見つかれば、まだ納得も出来たのだ。ただ、こういう現象に襲われるような病気というのは僕の体には見つからなかった。

 そのうち、僕は明確に死の危険を感じ始めた。

 とにかく夜、まともに眠ることが出来ないからだ。

 これは、そもそも僕の実家が騒音地帯に建っていること、そして、意味不明な現象に襲われてしまっていること、二つの原因があるようだった。

 そのうち、僕は睡眠不足から本当の極限状態まで追い込まれていった。

 

 

 そしてその結果として、僕は強い性欲を夜ごと催すようになってしまった。

 これはその当時、単純に僕が死の危険を本当に感じていたからだろう。

 つまり、一般的な生理の話として、僕は生きるか死ぬかの局面に毎日置かれ続けたことで性欲が増しに増してしまったのだと思う。

 僕は、この2019年2月中旬辺りの深夜、しばしば家を出た。

 そして僕は、国道190号線沿いに南に歩いていき、その道沿いにあるファミリーマートを度々訪れた。

 それにしても、そのときの深夜の国道190号線の様子はと言えば、本当に滅茶苦茶だった。

 そこでは、道路の上を時速80kmを優に超すであろう速度で大型トラックが常時走り続けていたのだ。

 また、人気のない交差点では、時速100kmを優に超す勢いで普通乗用車がドリフト走行をしながら右折などをしていた。

 僕はそれを見ながら「なんだ、この滅茶苦茶な運転は」としばしば絶句していた。

 僕は、この辺りの深夜、ファミリーマートに向かうまでの間中、よく死を覚悟していたのを覚えている。それだけ異様な運転をする車がこの江崎という住所の辺りには多かったわけだ。

 

 

 さて、そうして僕がファミリーマートを訪れて何をしていたのかと言えば、コンドームを購入したりした。

 僕はもういっそ、コンドームを購入してから、このまま家を出て、九州にでも行って風俗にでも行こうか、などと煩悶すらしていた。

 

 

 何故、そんな発想に至ったのかと言えば、一応理由がある。

 このとき、僕の周囲で何か妙な音が発生していたということはもう書いたと思う。

 そして、僕がその音と意思疎通を図っていたということも、もう書いたと思う。

 どうもそのとき、僕に対して音によって指示を出していたAIは僕に「女を作れば眠れるぞ」と暗に仄めかしてきていたのだ。

 話をしてみた感じでは、彼らはそういう意思をはっきりと僕に見せていたのだ。

 僕は滅茶苦茶すぎると正直なところ思ってはいたが、もうとにかく眠りたくて、なんとかしようと思うようになっていったのだ。

 

 

 そのうち、AIは僕に一人の人間を指し示してきた。

 それは2019年2月中旬辺りの話だと思う。

 そのとき、僕はパソコン工房から購入したばかりのPCとeizo製のディスプレイでインターネットをしていた。

 すると、その購入したばかりのディスプレイからトントンと音が鳴り、僕を誘導してきたのである。

 その音が僕に接触するように促してきた人物は藤原というハンドルネームをした人物であった。

 僕は半信半疑ながらもその人物に接触を試みてみた。

 当時の僕は正直な所、滅茶苦茶なことが起きすぎたせいで、相当に異常な精神状態に追い込まれており、完璧な錯乱状態になってしまっていた。僕はこの藤原というハンドルネームの女性が自身の知っている女性かと思っていた。

 その藤原という人物は〝pixiv内で活動をしているイラストレーター志望の女性〟という風に一見すると見えた。

 僕はそのとき、この女性が自身の知り合いだと錯覚させられていたので、いきなり彼女が知りもしない過去の話などを思わず振ってしまっていた。

 しかし、実際の所は、その藤原というハンドルネームの人物は僕とはまるで面識のない人物だった。

 僕はあっけに取られながらも、この人物と少しだけ会話をしてみた。

 すると、この人物は「私は女子中学生で、今度高校に進学する」という事を教えてくれた。

 僕はこの展開にあきれ返ってしまった。

 AIは明らかにこの人物を僕に推してきていたのだが、この人物はまだ15歳とか、その辺りの年齢のようだったからだ。

 

 

 もちろん、この藤原というハンドルネームの人物が本当に女子中学生なのかということはわからなかった。

 そもそも、このハンドルネームの人物が女性なのかということだってわかりはしない。

 ただ、僕は彼女の主張を信じることにし、それからは彼女と接触することを避けてしまった。

 というのも、もし仮に彼女が本当に女子中学生であったのならば、僕よりも年齢が近い男性と接するのが普通だろうと僕は思ったからだ。

 僕は「流石に35歳のおっさんが、中学生の女子とあんまり親しく会話をするのは、客観的に見ておかし過ぎるだろ」と普通に考えてしまったのだ。

 

 

 このように、どうもこの僕に接触をしてきているAIは僕に対して滅茶苦茶な事をやらせてきているようだった。

 そして、僕はAIの起こしているそのわけのわからない異様な音にひたすら右往左往するばかりで、どうすればいいのか全然わからなかった。

 また、この妙な音がする状況について、迂闊に誰かに言うわけにもいかなかった。

 例えば、僕が誰かに、「変な音がしてるんだけど」などと言おうものなら、精神病の兆候とでも取られてしまう危険性もあったのだ。

 僕は結局、どうしようもないままに精神的に追い詰められた日々を過ごしていった。

 

 

 僕は2018年度の確定申告作業をこの山口県山口市の実家で行ったのだが、この確定申告作業もAIの発する異様な音に指導されながらやる羽目になってしまった。

 AI達は勘定科目の設定などにかなりうるさく、特に銀行とのやり取りに関して、かなり細かく記帳をするように、僕に指導をしてきた。

 僕はそのことにかなり戸惑いながらこの2019年の確定申告を終えた。

 

 

17 山口県での生活

 

 

 その後、僕は山口県で生活をし始めた。

 ただし、結局、僕は実家で生活していても、毎日毎日、ろくに眠ることが出来なかった。

 そもそも、この山口県山口市江崎にある実家は、前述したとおり酷い騒音地帯に建っている。

 また、この家は建設時に使用された建材に問題があるのか、本当に家鳴りが酷く、夜まともに眠ることがとてもではないが出来ないのだ。

 

 それに、僕はこの家の様子を改めて大人になってから眺めてみて、色々と妙な部分に気が付いてきた。

 僕はもうこの時には「この家は酷い欠陥住宅である可能性が極めて高い」と考えるようになっていたのだが、そもそもこの家は改築をした部分にもいろいろと問題があるようだった。

 

 

 実はこの家は2015年辺りに、玄関のドアの建付けが悪かったので、それを積水ハウスに修理してもらっている。

 しかし、その修理した玄関のドアというのも、まともに閉まらないように修理されてしまったようで、明らかに建付けが悪くなってしまっていた。

 

 

 また、この家の和室の窓の外にはシャッターが備え付けられていた。

 そしてそのシャッターというのが使用をしているうちにまともに閉まらなくなったらしいのだが、両親はそのシャッターについて、修理を依頼したらしい。

 しかし、積水ハウスの業者はこの家に来ると、そのシャッターを修理するどころか、外して持って帰ってしまったそうである。

 

 

 それから、この家の一階にはリビングと食堂の間に扉が何枚も敷かれている部分があるのだが、両親はその扉も変えて貰った事があるらしい。

 その際にこの工事をしたのは上野という建具屋さんだったそうだ。

 しかし、この扉というのがまともに設計されてもいないのか、しきりに家鳴りを起こしまくってしまっているのだ。

 この扉は2019年現在「ポコンポコン」という妙な音を四六時中発する状態になってしまっている。

 

 

 そして、この家は風呂場の給水機なども明らかにおかしくなっていた。

 この2019年の時点で風呂場に取り付けられていた給水機というのは、冬場、まともにお湯が出てこないのだ。だから、この家の風呂場では蛇口やシャワーなどからお湯を使う事が出来なくなってしまっていた。

 ちなみに、この給水機はHITACHI製のエコ仕様のものであった。

 僕の父は前述したとおり、以前、心筋梗塞を患ってしまった。

 そして、心筋梗塞という病気というのは、そもそも体温が下がると血流量が下がってしまい、非常に危険な状態になってしまうらしい。

 僕はこのエコ仕様の給水機を見て、父に対して「これは問題ではないか?」と問いただしてみた。

 父曰く、「以前、panasonic製の給水機を付けて貰ったのだが、一年ですぐに壊れてしまった。それでHITACHI製の給水機を付けて貰った。まぁこれについてはお湯が出なくても使い道はある」という事だった。

 しかし、僕からすると、やはり、この給水機はまともに動いているようにも見えなかった。

 

 

 このように、僕が見たところ、この家は改築によって、物凄く酷い状態に追い込まれていったようだった。

 

 僕はこの山口県山口市に帰ってきて以来、山口市の様子も色々と見て回った。

 しかし、どうやら様子がおかしいのは実家だけでもないようだった。

 山口市もどうやらしばらく見ないうちに、本当に酷いことになってしまったようだった。

 

 

 まず、山口市はもう、道路がどこもかしこもおかしくなってしまっていた。

 特に僕の実家の近くの小郡の街辺りは道路からしてとんでもないことになっていた。

 例えば、昔は小郡の新山口駅からほど近くのところに、県道335号線と国道9号線が交差する交差点があったのだが、そこには新しく高架道路が設置されていた。

 その交差点では県道335号線に高架道路が設置されて、国道9号線が上を通るようになっていたのである。

 しかし、その高架道路の柱というのは随分杜撰に建てられてしまってしまったようだった。

 驚くべきことに、その交差点の高架道路の柱は設置される高さが合っていなかったのだ。

 

 そして、小郡の新山口駅前などはさらに酷いことになっていた(ちなみにこの新山口駅というのはもともとは小郡駅という名称だった)。

 この辺りは2004年くらいから整備事業が始まったらしいのだが、その整備事業の展開が二転三転したせいで、道路の路面標示が滅茶苦茶にされてしまっていた。

 なんでもこの辺りでは、山口市の市役所が小郡に来るという話が途中で反故にされたりしたそうだ。

 そして、整備事業の話がこんがらがったせいか、この新山口駅前の道路は、道路に書いてある左折や右折のマークなどが書かれては消されてということを繰り返されており、路面標示自体が非常に見えず辛く、わかり辛くなってしまっていた。

 また、この辺りは道自体も何度となく形状を変えられており、消された白線の跡が滅茶苦茶についてしまっていた。

 それからこれは、山口市全域に言えることだったのだが、山口市の道路のアスファルトはどこもかしこもひどくひび割れたまま放置されてしまっていた。

 

 では、山口市にある商店の様子はどうかと言えば、これもまたひどいものだった。

 僕は2019年の5月辺り、山口市の商店で結構買い物をしてみた。

 しかし、山口市の商店は、なぜか不良品をたくさん抱えているようだった。

 

 

 僕は山口市でまず眼鏡を買おうとした。

 その際に、小郡アルク内の眼鏡の竹重で購入した鯖江産の眼鏡は、付けるとパキパキと音が鳴る不良品のような出来であった。

 また僕は、その後、山口市ゆめタウン内にあるメガネのたなかで9999の眼鏡を購入したのだが、それも最初からフレームが酷く歪んでいる状態になっており、返品を余儀なくされてしまった。

 

 

 それから僕は、携帯電話を変えて、新しくスマートフォンを買おうとした。

 そして、僕は小郡にあったauショップにて、京セラのURBANOを購入した。

 しかし、そのURBANOを購入して、いざ使用してみると、液晶画面内の色が違っているという初期不良があった。僕はそのせいで商品の交換を余儀なくされてしまい、結局iphonexsを購入することになった。

 

 

 このように、どうも山口市の商店は不良品を扱っていることが多いようであったのだが、その商店の様子というのもかなりおかしかった。

 商店にいる店員達はなぜか皆一様に、物凄い音を出しながら接客をしていたのだ。

 それは明らかにおかしな動きであったと思う。

 例えば僕が商店で洋服を選んでいると、背後にわざわざ店員が来て、ポリ包装を弄り、ガサゴソと不快な音をさせてきたりしたのだ。

 それから、商店で買い物などをしていると無駄に店員から歩かされることが多かった。

 この山口市には足を引きずって歩いている人が多かったのだが、僕は「ひょっとしてこれが原因じゃないか?」と思ってしまった。

 とにかく山口市はどんな施設に行ってみても、酷く歩かされる羽目になることは多かった。

 僕はこの山口市の市民は余りにも歩き過ぎたせいで、足を悪くしたのではないか、と思ったのだ。

 

 

 さて、実は、僕は山口市に帰って来て以来、仕事場を得ようと考えたことがある。

 僕は2019年の3月ごろ、小郡にある積水ハウスに行き、仕事場を作成してもらおうとした。

 僕の仕事場の作成について担当をしてくれたのは、吉岡宏志という人物だった。

  その過程で僕はこの山口県山口市江崎2805-1という土地について調べる羽目になった。

 父曰く、「この山口市南部の辺りは明治時代以来久しぶりに土地の測量等が行われたのだが、そのやり口が適当過ぎて、土地の境界線等が滅茶苦茶にされた」ということだったのだ。

 仕事場を立てる為にはまず、正確な土地の境界線の情報が必要になったのだ。

 まず、僕は市役所に行き。この辺りの土地の情報について洗いざらい資料を手に入れた。

 そして、僕は市役所職員に対して、この山口県山口市江崎2805-1の住所の辺りの土地の境界線がどうなっているのかということを聞いてみた。

 しばらくすると、僕の家に市役所職員達がやってきた。

 そしてこの土地に関して市役所職員は見て行ったのだが、「土地の境界線を示す杭がなくなっていたり、位置が違っていたりする」などということを言ってきたわけである。

 その後、正式にこの辺りの土地について市役所の職員に調べてもらいはしたのだが、結局、何もわからないということだった。

 ちなみに、僕が市役所を訪れたとき、市役所は僕と同じく土地の境界線等が滅茶苦茶にされたという市民が数多く訪れていた。

 どうやら父の言う通り、この山口市南部の土地は、本当に市役所の杜撰な管理によって滅茶苦茶にされてしまったようだった。

 

 

 その後、僕は積水ハウスに仕事場を建ててもらおうかと思ったのだが、その値段というのはかなり奇妙だった。

 僕は自分の家が所有している土地の中に一階建ての仕事場を建てようとしていた。

 そしてその条件で、22.76坪の広さに仕事場を建てようとすると、なんと27984400円もかかってしまうということだった。

 この金額というのは、常識的に言えば、まずありえない金額のようであった。

 僕の父曰く、「お前が家を建てようとし始めた辺りから、急に家を建てるための建材の相場が上がったんだよな」ということだった。

 

 

 そして、極めつけはリフォームである。

 前述した通り、僕の実家というのは凄まじい騒音地帯の中に建っている。

 僕はそのせいで夜、まともに眠れなくなってしまっていた。

 そこで僕は、寝室として使っている部屋の窓をリフォームしてもらい、二重窓にすることによって、外部からの騒音をある程度カットしようと思ったのである。

 僕は積水ハウスリフォーム西日本株式会社に寝室として使っている部屋の窓のリフォームを依頼した。ちなみにこの積水ハウスリフォーム西日本株式会社という会社の所長は孕石真一、営業担当は鷹岡裕子であった。

 リフォームを見積もって貰った結果、窓をペアガラスと内窓による二重窓にしてもらうことになった。

 ただし、その際、見積もり等をしてくれた営業担当の鷹岡さんはかなり奇妙なことをやっていた。

 この人は約束の日取りを何度もずらしたりしてきたのだ。またリフォーム代金を支払う為に僕は銀行支払いの用紙を要求したのだが、コンビニ支払いの用紙を渡してきたりした。

 僕は結局、321300円支払って、寝室として使っている部屋の窓を二重窓にしてもらった。

 それで結果として眠れるようになったのかと言えば、このリフォーム工事は失敗に終わってしまった。

 確かに二重窓にしたことによって外の騒音は聞こえにくくなった。

 しかし、異常な事に、設置してもらった二重窓から酷いガラス鳴りが聞こえてしまい、結局眠れないという状況になってしまったのだ。

 

 僕は山口市に帰ってきてからというものの、このような異常すぎる事態にたびたび遭遇した。

 そして、その異常すぎる事態というのが特にこの山口市南部で顕著に起こっているように感じてしまった。

 僕はこれらの異常すぎる事態について、写真や録音による証拠をしっかりと取り、それを保存することにした。

 僕はこのとき、すでに日本国の内閣府などに対して、この問題を訴えていたので、その問題の証拠となるものを片っ端から集めていたのだ。

 

 

18 明らかになる過去

 

 

 僕はその後、自分の両親からこの県で過去に起きた奇妙な出来事について色々と聞いてみた。

 すると、本当にたくさんの奇妙な出来事が僕の一族、そしてこの山口県では起きていたようだった。

 僕は両親からそれらの話を聞いて、本当に戦慄してしまった。

 それらの出来事についてはこの文章では触れてはいないのだが、起きた出来事の量や異様さというのが、尋常のものではなかったからだ。

 

 それから、僕は両親から聞いた、それらの出来事というのを詳細に記述してリスト化して残しておこうと考えだした。

 前述したとおり、僕はホワイトハウスアメリカ大統領、KGB、中国大使館などに対して、これらの奇妙な出来事がこの国で起きていたということを報告し、調査をするようにtwitterやメールを活用して促している。

 僕がこれらの奇妙な出来事についてしっかりとリスト化しておけば、この件について調査をする組織なり機関が助かるだろうと僕は考えたのだ。

 

 

 次にまとめる文章では、僕が両親から聞いた話を軸に、僕と僕の一族、そして山口県の人間に起こった事例を列挙し、リスト化していく。

 よって、僕が調査を依頼した機関の方々はまずは僕が記述していることを優先的に調査していって欲しい。

 ちなみに僕は2019年の初頭に本当に世界中の機関なり組織に対して、この件について詳細に調査をして欲しいという依頼を出した。ただし、その依頼についての回答というのはその場ではなされなかった。

 もし、この関して調査を開始した、調査した結果を報告したい、という事があれば是非とも、harada5011@gmail.comという僕のメールアドレスまでメールをして頂ければと思う。

 ただ、その手の連絡をする際に気を付けて欲しいことがある。

 それは僕の父と母にはとりあえず何も知らせないで欲しいということである。

 何故なら、この文章の中で記述をしている〝音が聞こえる〟云々の下りに関しては普通の人間であれば頭がおかしくなった、と思ってしまうのが普通であるからだ。

 両親から「実の息子がおかしくなった」と思われてしまうのも、僕はちょっと忍びないと思っているのだ。

 だから、どうかお願いする。この件に関する連絡というのは僕の方にして欲しい。